高野素十の情報(たかのすじゅう) 俳人(俳句) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
高野 素十さんについて調べます
■名前・氏名 |
高野素十と関係のある人
阿波野青畝: 昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称された。 倉田紘文: 『高野素十 (蝸牛俳句文庫) 』 蝸牛社、1987年 山口青邨: また同年に水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成。 倉田紘文: 『高野素十『初鴉』全評釈』 文学の森、2011年 水原秋桜子: しかしこの頃、虚子は「秋桜子と素十」(『ホトトギス』1928年11月)において、叙情的な調べによって理想美を追求する秋桜子の主観写生と、高野素十の純客観写生の表現とを並べ後者をより高く評価すると宣言していた。 倉田紘文: 『空―高野素十句集』 ふらんす堂、1993年 山口誓子: 昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。 倉田紘文: 1959年、19歳のときに、耶馬渓で行われた「芹」九州俳句大会にて高野素十に出会い師事、「芹」に入会。 山口青邨: この中で「東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」と語ったことで、水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人が「ホトトギス」の「四S」として知られるようになる。 中田瑞穂: 新潟医科大学には一時期、高野素十(与巳)法医学教授、及川周(仙石)衛生学教授、濱口一郎(今夜)内科学教授を含む4人のホトトギス派の俳人が在職していた(括弧内は俳号)。 高橋留美子: 父・高橋光雄(1920年6月19日生まれ、1945年新潟医科大学卒業)は新潟県の医学者で俳人の中田瑞穂(俳号「中田みづほ」)、高野素十に俳句を学んだ「高橋卯木」の俳号を持つ俳人であり、河童を題材にした水墨画を好んで描く画家でもあった。 水原秋桜子: この年、山口青邨の講演で触れられたことにより、誓子、阿波野青畝、高野素十らとともに「ホトトギスの四S(しいエス)」として知られるようになる。 倉田紘文: 『高野素十の世界』 梅里書房、1989年 倉田紘文: 『高野素十研究』 永田書房、1979年 山口誓子: 1928年、山口青邨の講演で触れられたことにより、水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「四S」として知られるようになる。 |
高野素十の情報まとめ
高野 素十(たかの すじゅう)さんの誕生日は1893年3月3日です。茨城出身の俳人(俳句)のようです。
卒業、現在に関する情報もありますね。1976年に亡くなられているようです。
高野素十のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。 1918年大学卒業。法医学教室に入局し、法医学および血清学を専攻する。同じ教室の先輩に水原秋桜子がおり、秋桜子の勧めで1923年より句作を開始。なお医学部教室毎の野球対抗戦では、素十が投手、秋桜子が捕手でバッテリーを組むなどしている。同年より東大俳句会に所属、「ホトトギス」12月号において初投句にして4句が入選。1926年には初巻頭を取り、やがて秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともに「四S」として知られるようになる。 1929年、医学研究に専念するため一時句作を中断。1932年に再開。同年、新潟医科大学(現・新潟大学医学部)助教授となり、ドイツのハイデルベルク大学に留学。帰国後の1935年、新潟医科大学法医学教授に就任、新潟市に住む。1936年、論文「パラチフス腸炎菌属菌種の鑑別用免疫血清(独文) 」 により医学博士。のち新潟医科大学第6代学長も務めた。1953年、新潟医科を定年退官。奈良県立医科大学法医学教授に就任し奈良県高取町に移住。また「桐の葉」雑詠選者となる。1954年、大阪毎日俳壇選者。京都市山科区に移住。1957年、「桐の葉」選者を辞し「芹」創刊・主宰。1960年、奈良県立医科大学を退職。 1970年5月、軽い脳溢血により入院。9月号から翌年5月号まで「芹」を休刊。1972年、神奈川県相模原市に移住。1976年8月、前立腺肥大症のため入院。11月号をもって「芹」を終刊。同年10月4日、自宅にて死去。83歳。千葉県君津市の神野寺に葬られた。戒名は山王院金風素十居士。 代表的な句に、 方丈の大庇より春の蝶(『初鴉』) くもの糸ひとすぢよぎる百合の前 ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 甘草の芽のとびとびのひとならび 翅わつててんたう虫の飛びいづる づかづかと来て踊子にささやける 空をゆく一とかたまりの花吹雪(『雪片』) などがある。虚子の説く「客観写生」の最も忠実な実践者とされ、省略・単純化の技巧を駆使して自然界を即物的に描写した。その写生は「客観写生」を突き詰めた「純客観写生」とも呼ばれる。また特に近景の描写に意を尽くしているのが特徴で、これは大正期の「ホトトギス」の俳人が遠景と近景を組み合わせて句を構成したのと対照的である 高浜虚子は「秋桜子と素十」(『ホトトギス』1928年11月)において、秋桜子の主情的な句と素十の純客観写生的な句を比較し、「厳密なる意味に於ける写生と云ふ言葉はこの素十君の句の如きに当て嵌まるべきものと思ふ」として素十により高い評価を与えた。これらのことは1931年、秋桜子が「客観写生」の理念を「自然の真と文芸上の真」(『馬酔木』1931年10月号)において批判し「ホトトギス」を離脱する原因となり、ひいてはこれに続く新興俳句運動がはじまるきっかけともなった。 「自然の真と文芸上の真」では、上掲の「甘草の芽の」の句が非近代的な句として批判されており、これによって素十のような客観写生派の句に対する「草の芽俳句」という揶揄も生まれた 。しかし山本健吉は、素十の句を「単純化の極致」と評し、「素十の成功した句は他の誰よりも俳句というジャンルの固有の方法をつかんでおり、いわばその俳句そのものというべきであって、現代俳句の大高峰をなしている」とする。 句法的な特徴としては、取り合わせによる句が少ないこと、「や」「かな」などの切れ字をあまり用いず、名詞止めや動詞現在形によって終止する句が多いことなどが挙げられる。後者については四Sの秋桜子、山口誓子とも共通するが、山本健吉はこの二人が意識的に切れ字を避けたのに対し、素十の場合は徹底した写生が切れ字による紋切型を取らせなかったのだろうとしている。このほか健吉は、芭蕉のような境涯性のある俳句とは対照的に、生活と芸術とがはっきり分断されていることをその特徴の一つとして挙げている。 『初鴉 句集』菁柿堂, 1947 『雪片 高野素十句集』新甲鳥, 1952 『野花集 句集』(昭和俳句叢書 新甲鳥, 1953 『山科便り』踏青会, 1969 『素十全集』全4巻 明治書院、1970-71 『素十全句集』永田書房, 1979.12 『高野素十自選句集 改訂新装版』村松紅花[ほか]編. 永田書房, 1992.4 『空 高野素十句集』倉田紘文編. ふらんす堂文庫, 1993.8 『高野素十』倉田紘文 編著. (蝸牛俳句文庫 蝸牛社, 1997.1 『高野素十『初鴉』全評釈』倉田紘文 著. 文學の森, 2011.10 『素十の一句 (365日入門シリーズ 日原傳 著. ふらんす堂, 2013.10 ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)182頁 ^ 『図説俳句』112頁。 ^ 『現代俳句大事典』322-323頁。 ^ 四ツ谷龍「高野素十」 2015年3月8日閲覧。 ^ 『図説俳句』110頁。 ^ 『現代俳句ハンドブック』 186頁。 ^ 『定本現代俳句』 211頁。 ^ 『定本現代俳句』 213頁。 ^ 『定本現代俳句』 212-213頁。 ^ 『定本現代俳句』 218頁。 あらきみほ 『図説俳句』 日東書院、2011年 平井照敏編 『現代の俳句』 講談社学術文庫 1993年 齋藤慎爾、坪内稔典、夏石番矢、復本一郎編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年 稲畑汀子、大岡信、鷹羽狩行監修 『現代俳句大事典』 三省堂、2005年 山本健吉『定本 現代俳句』 角川書店、1998年 倉田紘文 『高野素十研究』 永田書房、1975年 倉田紘文編 『昭和俳句文学アルバム 高野素十の世界』 梅里書房、1989年 村松紅花編 『素十俳句365日』梅里書房、1991年 倉田紘文 『高野素十』 蝸牛俳句文庫、1997年 倉田紘文『高野素十『初鴉』全評釈』 文學の森、2011年 日原傳 『素十の一句』 ふらんす堂、2013年 高野素十 - 新潟市 現代俳句データベース 高野素十の俳句 増殖する俳句歳時記 高野素十の句 表 話 編 歴 初代 橋本喬 1949-1953 第2代 伊藤泰一 1953-1957 第3代 小池敬事 1957-1959 事務取扱 田代秀徳 1959 第4代 伊藤辰治 1959-1967 第5代 山内峻呉 1967-1969 事務取扱 鈴木保正 1969 事務取扱/第6代 長﨑明 1969/1969-1973 第7代 北村四郎 1973-1979 第8代 猪初男 1979-1985 第9代 茂野錄良 1985 事務取扱/第10代 津田禾粒 1985-1986/1986-1992 第11代 武藤輝一 1992-1998 第12代 荒川正昭 1998-2002 第13代 長谷川彰 2002-2008 第14代 下條文武 2008-2014 第15代 髙橋姿 2014-2020 第16代 牛木辰男 2020- 事務取扱/校長 八田三喜 1919-1920/1920-1932 岡上梁 1932-1934 青木存義 1934-1935 事務取扱 藤田猪太郎 1935 岡田恒輔 1935-1937 川瀬光順 1937-1940 事務取扱 藤田猪太郎 1940 中村寅松 1940-1943 日野月明善 1943-1944 松岡慎一郎 1944-1947 松井正夫 1947-1950 事務取扱 野村儀平 1945 丹羽鼎三 1945-1947 伊藤武夫 1947-1949 事務取扱 野坂相如 1949-1951? 福田為造 1923-1939 坪井道三 1939-1944 坪井道三 1944-1945 山本純如 1945-1951 本島一郎 1939-1944 本島一郎 1944 橋本喬 1944-1949 高野与巳 1949-1950 伊藤泰一 1950-1952 事務取扱/校長 池原康造 1910-1911/1911-1916 事務取扱/校長 池田廉一郎 1916-1917/1917-1922 池田廉一郎 1922-1924 池田廉一郎 1922-1925 沢田敬義 1925-1931 富永忠司 1931-1936 本島一郎 1936-1944 橋本喬 1944-1949 高野与巳 1949-1950 学長/事務取扱 伊藤泰一 1950-1953/1953 伊藤辰治 1953-1959 松田勝一 1959-1960 カテゴリ メディア 新潟大学 人物 FAST ISNI VIAF WorldCat イスラエル アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef 20世紀日本の俳人 日本の法医学者 20世紀日本の医師 奈良県立医科大学の教員 新潟大学の教員 日本の大学学長 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 新潟県立長岡高等学校出身の人物 医学博士取得者 茨城県出身の人物 1893年生 1976年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/15 04:05更新
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