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土井たか子の情報 (本名:土井多賀子)
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【5月27日】今日誕生日の芸能人・有名人

土井たか子の情報 (本名:土井多賀子) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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土井 たか子さんについて調べます

■名前・氏名
土井 たか子
(本名:土井 多賀子)
■職業
政治家
■土井たか子の誕生日・生年月日
1928年11月30日 (年齢85歳没)
辰年(たつ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
京都出身

土井たか子と同じ1928年生まれの有名人・芸能人

土井たか子と同じ11月30日生まれの有名人・芸能人

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土井たか子と関係のある人

保坂展人: 1987年の東京都知事選挙で日本社会党が候補者を決めることができずにいた時、保坂は仲間とともに自主的に土井たか子の擁立運動を勝手に仕掛けた(勝手連)。1989年の参院選には、カメラマンを連れた土井たか子の全国遊説にジャーナリストとして同行取材した。


岡田利春: 土井たか子が委員長に就任した86年から90年まで副委員長を務めた。


村山富市: 1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。


勝間田清一: 勝間田や大内秀明らが構想した改革路線は、土井たか子の社民党宣言後、村山富市連立内閣発足時に、新社会党の分裂があったが、欧米の多元的な社会民主主義運動へと軸足を展開する社会民主党内の左派系の潮流として一定の影響力を存続させている。


岩垂寿喜男: 社会党では飛鳥田一雄、石橋政嗣両委員長就任に尽力し、1986年の第38回衆議院議員総選挙での社会党惨敗後、石橋後継に土井たか子を擁立し、委員長に就任させる。


堀之内久男: (日本社会党の)土井たか子委員長は結婚もしていない。


早川勝: 1991年5月、土井たか子日本社会党委員長の辞任により、後任の委員長に就任した田邊誠の下、党政策審議会長、社会党シャドーキャビネット官房長官に就任。


扇千景: 貴族院時代も含めて女性の上院議長就任は憲政史上初めてで、衆参両院でも第68代衆議院議長土井たか子に次ぎ2人目だった。


田畑忍: 土井たか子元衆議院議長の師としても著名。


赤尾敏: 昭和天皇の戦争責任を認めるような発言をしたこともあるが、1989年の参院選政見放送では土井たか子が天皇に戦争責任があると発言したことに対し批判をしている。


福島瑞穂: 野党の女性議員では1994年の土井たか子以来。


花岡信昭: 論壇誌WiLL2006年5月号に寄稿した「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事において花岡は、「土井たか子は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」と社民党の土井元衆議院議員に対する在日認定を行った上で、「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、すべて知った上で政治的演技をしていたのか」と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだと土井を婉曲的に糾弾した。


山花貞夫: 1986年、土井たか子執行部で副書記長に就任し、1991年の田邊誠委員長就任に伴い、党書記長に昇格する。


岩垂寿喜男: 1993年の第40回衆議院議員総選挙では、日本労働組合総連合会会長山岸章らの意向により左派外しの選別推薦が行われ、岩垂や土井たか子、上田哲らは連合から推薦を得られなかった。


加藤めぐみ: 土井たか子


河本敏夫: (自民党からは奥野誠亮が衆議院議長選挙に立候補したが、社会党の元党首土井たか子に敗れた。


ミハイル=ゴルバチョフ: 」、「訪日準備を開始した当時、わが国には熟考された対日政策がなかったため、日本社会のさまざまな分野の代表者との多くの会合を計画し、中曽根康弘首相、土井たか子・日本社会党委員長、宇野宗佑外相、枝村純郎駐ソ連大使、池田大作・創価学会名誉会長、与党・自民党の小沢一郎幹事長や財界人、文化人らとのいくつかの会談を持った。


澤地久枝: 『君、殺したまうことなかれ』(2007年、七つ森書館)共著:香山リカ、姜尚中、斎藤貴男、佐高信、高橋哲哉、土井たか子ほか


花岡信昭: 一審判決に先立って発売された『WiLL』2008年11月号では、295ページで花岡の当該記述を虚偽と認め、「土井たか子氏及び関係各位に深くお詫びいたします」との謝罪文が掲載された。


小渕恵三: この事業に関しては政敵の菅直人や土井たか子からも高い評価を受けるなどし、外相としての評価を高めたことが、次期首相就任へとつながっていった。


小林カツ代: 政治的には日本共産党の支持者であり、元衆議院議長の土井たか子とは親友であった。


辻元清美: 翌9月28日、社会民主党の党首に土井たか子が復帰。10月4日、同党は「土井たか子を支える会」からメンバー3人を擁立することを決定。


樹村みのり: 『土井たか子グラフィティ』 スコラ 〈バーガーSC〉1989年


鈴木善幸: 鈴木の帰国後、国会などで、『同盟』は軍事同盟を意味し個別自衛権から集団的自衛権への逸脱ではないかと問う声が共産党や社会党から起こり、5月11日の外務委員会において伊東正義外相は社会党の土井たか子の「日米軍事同盟、安保条約という意味を含んだ同盟ということを認識せざるを得ない」という質問に対し、


小池百合子: 翌1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で鞍替え立候補し、旧兵庫2区(定数5)において日本社会党元委員長の土井たか子に次ぐ得票数2位で当選した。


駒塚由衣: 全裸監督シーズン2(2021年6月、Netflix) - 土井たか子


岩垂寿喜男: 1986年、土井たか子の社会党委員長就任に伴い党中央委員、総務局長に起用される。


板垣英憲: 『土井たか子の挑戦』(DHC 1993年)


石井登志郎: 前回総選挙まで、民主党は兵庫7区に候補を擁立せず、社会民主党の土井たか子を推薦してきたが、2003年の第43回衆議院議員総選挙での土井の敗北を理由に民主党は選挙協力を打ち切った。


鯨岡兵輔: 1993年に非自民・非共産連立政権が誕生し土井たか子が衆議院議長に選出された際には、衆議院副議長として政治改革に協力した。


土井たか子

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土井 たか子(本名:土井 多賀子)さんの誕生日は1928年11月30日です。京都出身の政治家のようです。

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人物、評価などについてまとめました。父親、母親、卒業、事件、解散、引退、結婚、家族、映画、趣味、テレビに関する情報もありますね。85歳で亡くなられているようです。

土井 たか子(本名:土井 多賀子、どい たかこ、1928年〈昭和3年〉11月30日 - 2014年〈平成26年〉9月20日)は、日本の政治家。

衆議院議員(12期)、日本社会党委員長(第10代)、衆議院議長(第68代)、社会民主党党首(第2代)を歴任し、日本初の女性の衆議院議長、日本初の女性の政党党首を務めた。

兵庫県神戸市林田区(現・長田区)出身。父親は広島県出身の開業医、母親は京都府の出身。1935年、神戸市須磨尋常高等小学校(現・神戸市立西須磨小学校)に入学。父親の友人の家に寄宿しての越境入学で、電車で通学した。

1941年、兵庫県立第三神戸高等女学校に入学。1945年に卒業。同年3月17日の神戸大空襲に見舞われ、焼け出される。1945年、旧制京都女子専門学校支那語科に入学。1949年に卒業。1949年より1954年まで、京都女子専門学校を前身とする京都女子大学で講師。

同志社大学で憲法学者の田畑忍が行なった講演「平和主義と憲法九条」に感動し、1949年に同志社大学法学部3年に編入学、田畑の指導を受ける。1951年、同志社大学卒業。1956年、同志社大学大学院法学研究科修士課程を修了。1958年から1970年まで同志社大学にて、1963年から1969年まで関西学院大学にて、1967年から1969年まで聖和女子大学にて講師を務めた。専攻は憲法学であった。

1965年頃、KBS京都で日曜日の夜15分間、時事問題を取り上げて論評する番組に出演し、京都新聞主筆の加藤茂生とパーソナリティーを務めた。また、毎日放送の『女性の広場―明日へのくらし』のレギュラーとして土曜日を担当した。

1965年、神戸市職員労組の推薦と神戸市議会社会党議員団の提案を受け、神戸市の人事委員会(3人)の委員に選出された。全国で初めての女性委員となった。

1968年12月初め、日本社会党委員長の成田知巳から電話を受け、衆議院議員選挙・旧兵庫2区への出馬を求められる。続いて県議の魚谷時太郎が支部の意向を受けて土井の家を日参するようになった。それまで社会党などから京都市長選挙や参院選への出馬を促されていた田畑忍は、断り続ける一方で、社会党に対し「機会があれば、弟子の中から誰か必ず出す」と約束していた。土井は、その「誰か」がめぐりめぐって自分に回ってきたのだ、と思ったという。

1969年1月、関西学院大学での講義を終え、三宮へ向かう電車の中で隣の人が読んでいる新聞に目をやって、土井は驚く。そこには「立候補決意か?」という見出しの脇に、土井の名前が書いてあった。もとより出馬する意思のなかった土井は新聞社に抗議の電話を入れ、翌日、神戸市人事委員の辞表を出すために市役所へ宮崎辰雄助役を訪ねた。市長の原口忠次郎はこのとき海外主張中であった。「あのような記事が一度出ると、周りの方々に迷惑がかかる」と土井が理由を伝えると、宮崎は「それはあなたらしいが、誰も本当に出るなんて思ってませんよ。それに、勝てっこない。そんなあほなこと、あなたがやるはずがない。辞表をしまったらどうです」と答えた。この返事が土井の心に火をつけた。「宮崎さん、その気のなかった私ですが、たった今、立とうと決めました。辞表を受け取っていただきます」と言って部屋をあとにした。同年2月、社会党は党大会で旧兵庫2区の公認候補に現職の堀昌雄と新人の土井の2人を決定した。

同年12月27日に投票が行われた第32回衆議院議員総選挙は2日間にわたって開票が行われた。旧兵庫2区(定数5)は4人目まで当確が決まったあと、残り1議席をめぐって半日、民社党現職の山下栄二と土井のあいだで、500票差、1000票差のシーソーゲームが続いた。社会党はこの年の選挙で最低の90議席に落ち込むが、土井はその最後の90番目にすべりこみ、初当選を果たした。山下との差は約1400票差であった。

1980年には国会で性差別法に的を絞り、政府を追及。「男女雇用差別」「女性のみ必修の家庭科」「父系しか認めない国籍法」などに関して質問を行う。

社会党新人代議士として初当選同期であった横路孝弘が北海道知事に就任した直後の1983年9月、田中寿美子の後任として日本社会党副委員長に就任する。

1986年、衆参同日選挙の惨敗を受けて石橋政嗣委員長が引責辞任すると、同年9月、副委員長から昇格し第10代社会党委員長に就任。党史上初の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首であった。書記長は山口鶴男。前・石橋体制の末期に階級政党からの脱皮と国民政党への指向をうたう「日本社会党の新宣言」が難航の末に採択されたばかりでそのしこりもあり、従来の社会党委員長同様に党内の左右対立をまとめる党運営が求められた。しかし、土井のはっきりした物言いのキャラクターが主婦層からの好感を獲得し、土井の立場を後押しした。

時の首相は、改憲論者として知られる中曽根康弘であったが、土井は護憲・軍縮を掲げてこれに対抗。しかし中曽根は改憲の動きには出ないものの、社会党が堅持を強く求めていた防衛費1%枠を撤廃している。一方で内閣が提出した売上税法案に対しては社公民および社民連の4党統一組織を構築して抵抗、その間に行われた参議院岩手補選と第11回統一地方選挙で勝利し、廃案に追い込んでいる。中曽根から政権を引き継いだ竹下登は消費税導入を強行するが、土井は消費税導入およびリクルート事件を激しく追及、宮澤喜一大蔵大臣を辞任させ、そして竹下内閣を退陣に追い込む。

1989年の第15回参院選では、消費税・リクルート事件の追及の際に強化された社公民路線を基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制を構築する。結果、社会党が改選議席の倍以上を獲得し、改選分では社会党が第一党、総議席では自民党が過半数割れの比較第一党という結果となる。これは土井の個人的人気に支えられた面が大きく、「土井ブーム(おたかさんブーム)」と評された(新人女性議員の当選が目立った点からは「マドンナブーム〈旋風〉」とも呼ばれた)。この時の土井の「山が動いた」は名文句として有名になった(与謝野晶子の詩「そぞろごと」冒頭「山の動く日来たる」をふまえている)。

選挙後も社公民路線を維持し、与野党が逆転した参議院での主導権を握る。その皮切りとして女性初の参議院内閣首班指名を受けた(衆議院の優越により、首相には衆議院で指名された自民党総裁の海部俊樹が41年ぶりの両院協議会〈不一致〉を経て就任)。また、消費税廃止公約が参院選大勝の要因であったこともあり、消費税廃止法案を社会党・公明党・連合の会・民社党の4党で提出し、12月11日、参議院で可決させた(衆議院で廃案)。

1990年の第39回総選挙で、土井は180人の候補者を擁立する計画を立てたものの、中選挙区制で目標を満たすには複数候補の擁立が必須になることから、2人目を立てる対象になった選挙区の現職候補や、他の野党などから強い反発が起きた。また資金難から勧誘した人物と条件が折り合わないことも多く、実際の候補者は149人に留まった(他に無所属として推薦7、公認漏れ3)。それでも総選挙の結果、社会党は136議席(他、追加公認3で139議席)と51議席増やした。しかし、自民党も275議席(他、追加公認11で286議席)と安定多数を維持した。さらに、野党内での社会党の一人勝ちに公明党と民社党は距離を置き、両党は連合政権協議を打ち切り、自公民路線に舵を切った。そのため、前回の参議院内閣首班指名の際と参議院の構成はほぼ変わっていないにも拘らず、両党が決選投票で棄権したため、今度は海部が参議院でも首班指名を受けることとなった。労働組合などに基盤を持たない土井に対して、選挙後ただちに水曜会の田辺誠を委員長に担ごうとする土井降ろしが始まる。1991年の第12回統一地方選挙で社会党は大敗し、それを口実にした攻撃に土井は委員長を引責辞任した。

1993年に行われた第40回総選挙で社会党は議席半減の惨敗をしたものの、自身は旧兵庫2区で再選。

総選挙後に細川護煕を首班とする非自民・非共産連立政権の枠組みが固まると、両院で過半数を確保している連立与党は土井を衆議院議長に推すことを決定、衆参通じて女性初の議長となることが固まった。しかし、帝国議会時代より議長は比較第一党から出すという伝統が続いていたため、野党に転落した自民党は議長ポストを要求し、通常は全会一致で議長が選出されるところを、異例の競合投票によって選出されることとなった。結局、数に勝る連立与党の票により土井が選出されたものの、当選後の議長挨拶の際に自民党から激しく野次が飛ぶという波乱のスタートとなった。

土井は議員指名には従来慣行の「君付け」に代わり「さん付け」を用いた。しかし後任の議長らはいずれも「君付け」を用い、衆議院でのこの試みは土井一代のものに終わった。また議長席の位置が諸外国の議会と比べても高すぎると主張し、議長席の位置を低くするべきであると述べた。

1994年1月、与党社会党一部議員の造反による政治改革4法案の参議院での否決を受け、細川首相と河野洋平自民党総裁の会談を斡旋する。この席で、造反した社会党議員らのより望まない方向(小選挙区選出議員の比率割増)での合意がなされ、両院協議会を経て両院で可決・成立となった。この顛末について、支持者からは「土井の失策」という声が上がった。

1994年8月27日、中華人民共和国天津の「抗日殉難烈士記念館」を訪問。

1995年6月、自社さ連立政権下で、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(終戦50年決議)案が上程される。従来はこの種の決議は全会一致でなされるところであるが、与野党の右派・左派議員らが正反対の理由でこれに反対し、結局6月9日に、半数近くの議員が退席し、少数の議員が反対する中、在職議員数の半数に満たない数の議員の賛成で可決されるという異例の事態となった。この議事運営に対して野党は土井議長・鯨岡副議長不信任案を提出するが、否決された。

1996年9月、衆議院解散により退任。

1994年に自由民主党と新党さきがけとの連立政権を組んだものの、翌年の第17回参院選で惨敗したことを受け、1996年に社会党は社会民主党に改称する。同年、社民党とさきがけの議員を糾合する新党として旧・民主党が発足するが、いわゆる「排除の論理」によって土井や村山富市党首らは新党への参加を拒否される。半数以上の議員を民主党に引き抜かれた社民党は、党首を村山から土井に交代させて同年の第41回総選挙に臨むが、議席は解散前の30議席から15議席へと半減。しかし選挙敗北の責任は問われず、むしろ土井の党の大黒柱としての地位が強化される形となった。1998年、社民党は連立与党を離脱した。

1999年10月、中国での建国50周年記念の軍事パレードに参加した。

2000年に社会主義インターナショナルの副議長に就任し、2008年まで務める。

2001年に増元照明が当時の荒川区議斎藤裕子に宛てた手紙によると、 土井に拉致問題に協力をお願いするメールを出し、本人に直接会って返事をお願いしたが返事をもらえなかった、としている。

2002年3月に辻元清美秘書給与流用事件で詐欺の指南役をかばったことから、土井事務所の政策秘書・五島昌子(日本革命的共産主義者同盟)の関与が取りざたされる。2003年7月に辻本清美や五島秘書ら4人が詐欺容疑で逮捕された。

2002年10月、北朝鮮による日本人拉致問題が明らかになり、それまで社民党が北朝鮮との友好や「過去の清算」を重視するあまり、拉致事件を追及するどころかこれに目をつむり、北朝鮮側を擁護してきたとの批判が強まる中、土井は北朝鮮から「拉致という事実はない」と言われ続けてきたので、追及を十分にできなかったと釈明し謝罪した。さらに土井は、党の公式サイトで北朝鮮による日本人拉致事件を「拉致は創作された事件」と主張した論文(月刊社会民主1997年7月号)を事件が明るみに出た後も、削除せず掲載し続けていたことについても謝罪した。これを受けて拉致被害者の親族らは、北朝鮮と太いパイプのあった土井に何度か拉致被害を相談に行ったが結局無視された経験があるため(拉致被害者はその後、自民党議員に相談するようになる)、「日本の政治家なのに日本国民の生命より北朝鮮側に気をつかっていたのではないか」「(謝罪は)今さら遅過ぎる」と述べた。

さらに1989年7月、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を求めるという趣旨の要望書が、当時の土井を含めて日本社会党・公明党・社会民主連合・無所属の議員133名の署名とともに韓国政府へ提出された。このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に、辛光洙や拉致共犯者などが複数含まれていたため、2002年10月19日、当時官房副長官であった安倍晋三は土井を名指しで「極めてマヌケな議員」と評した。また日本共産党も土井を激しく批判した。

土井は秘書を介して、慰安婦像設立を目指して活動していた当時の挺対協の代表である尹貞玉に対して頻繁に活動費として金銭授与を行なっていたとされる。

2003年、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている。しかしこれとは反対に、土井の選挙区近くへの建設が計画され、市民団体を中心に反対運動が繰り広げられたものの建設された神戸空港の建設には「地元経済への貢献」などを理由に賛成している。

北朝鮮による日本人拉致問題に対する言動をはじめとする過去の北朝鮮寄りの姿勢や、朝鮮総連との親密な関係など、朝鮮半島政策をめぐって「親北」の立場を貫いてきたことを一因に社民党を孤立させ、没落へと追い込んだ戦犯と評され、2003年の第43回総選挙では自民党の大前繁雄に小選挙区で初めて敗北を喫した。比例復活により辛うじて落選は免れたが、同年11月13日に党勢衰退の責任を取り党首を辞任した。

2005年の第44回総選挙で社民党は比例近畿ブロックに5人擁立。土井は選挙区には立候補せず、比例区の登載順位5位で立候補し、落選した。落選後のインタビューでは引退を強く否定したため、再立候補すると見られていたが、参議院議員転身も取り沙汰された中での2007年7月の第21回通常選挙は不出馬。さらに2008年10月、第45回総選挙にも立候補しない意向を表明し、事実上政界から引退した。ただし、政治活動は続ける意思を示した。

2009年、体調を崩し、郷里の神戸市に移り住んだ。2010年1月末、1990年12月に自らの呼び掛けで設立し代表理事を務めていた「アジア人権基金」が、その役割を終えたとして活動を終了した。

2014年9月20日、肺炎で死去。85歳没。

人物

自衛隊廃止論者であり、「自衛隊は憲法違反だ、即刻廃止せよ」と長年に渡り声高に主張し続け各メディアもそれに追随していたが、自社さ連立政権で政権与党になり「自衛隊合憲、日米安保堅持」と社会党の政策が転換されて以後は、公の場で土井が自衛隊を非難することはなくなった。

選択的夫婦別姓制度導入を支持していた。その理由として、「結婚をするほとんどの女性が改姓をしている現状は、太平洋戦争後、新たに憲法が制定され、民法の家族編の大改正で家制度がなくなったとはいえ、未だに男性血統重視の『イエ』意識が根強くあることの表れ」だからだと述べている。

昭和天皇が崩御され平成が始まると自分の年齢を元号で計算するのがめんどうだとの理由で福島瑞穂、辻元清美と一緒に元号廃止を訴えた。土井、福島、辻元の三人は日本の女性国会議員の代名詞のように三人一組でメディアやニュース映像で頻繁に登場した。

同志社大学在学中に見た映画『若き日のリンカン』に感動し、弁護士になろうと思った時期もあったという。映画『評決』で弁護士を演じたポール・ニューマンのファンだった。

趣味はパチンコとカラオケ。第15回参院選の選挙中に報道関係者をパチンコ屋に集め自身がパチンコをしている姿を撮らせた。メディアはこぞって土井を「おたかさん」、「庶民派」などと褒め称え、パチンコをギャンブルと指摘し非難する声は皆無だった。

歌唱にも秀で、チャリティー合唱団である神楽坂女声合唱団にも所属していた。

テレビ番組の『笑っていいとも』では、横山やすしから紹介されて「テレフォンショッキング」に出演した。同コーナーに政治家が出演したのはこれが初。

土井演じる駄菓子屋の店主が、若い女性客から「このお菓子マズイから他のお菓子に取り替えてくれない?」と理不尽な要求をされたことに対して、「変えさせないよ。憲法9条変えさせないよ」と答えるCMがあった。

当時の女性としては長身で168cmあった。

評価

2001年に増元照明が当時の荒川区議斎藤裕子に宛てた手紙によると、土井、大脇、辻元などの社民党議員たちに拉致問題に協力をお願いするメールを出したが誰からも返事は貰えず、土井本人には直接会って返事をお願いしたが返事をもらえなかったとして、これが国民の声を聞く政党の姿勢か、と批判している。辛光洙や金吉旭らによって宮崎市で拉致された原敕晁の兄も、弟を拉致したことを辛光洙自身が1985年に自供しているのに「社会党の土井たか子さんなどは、北朝鮮は紳士的な国だというような意味の発言をされていました」と述べ、政治家に対する無力感があったと当時を回顧している。

百田尚樹は土井の死後8日後にツイッターで土井について「彼女は拉致などない!と断言したばかりか、拉致被害者の家族の情報を北朝鮮に流した疑惑もある」としたうえで「まさしく売国奴だった」と断じて物議を醸した。そのツイッターに寄せられた批判に対して百田は「政治家は死ねば批判から免れるというのか」と述べた。

鳩山由紀夫は2003年の社民党秘書給与流用について、土井の「秘書がやったこと」との主張に対して、逮捕された4名の社民党関係者内の中心人物で土井党首の秘書である五島昌子が事件発覚で辞職した辻元清美前議員など新人議員の指南役として秘書給与の流用などの詐欺行為も教えてた上に、そもそも秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきだと土井は無責任だと批判している。さらに逮捕された五島秘書は土井党首と同等の力を持っていることは、社民党外でも周知なレベルであったことから無責任な言い訳せずに辞職すべきと批判した。

中曽根康弘は、土井のことを「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」と評価している。

佐藤優によれば象徴天皇制を積極的に支持する立場であったという。土井は「尊皇家」であったとし、「私は共和制論者ではありません」と発言していたとエッセイの中で書いている。

2024/05/22 05:19更新

本名:土井 多賀子


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宮﨑 あおい(みやざき あおい)
11月30日生まれの有名人 東京出身

宮﨑 あおい(みやざき あおい、1985年 〈昭和60年〉11月30日 - )は、日本の女優。旧芸名、宮崎 あおい。 東京都出身。ヒラタインターナショナル所属。実兄は元俳優の宮﨑将。夫は元V6のメン…

三原 珠紀(みはら たまき)
1979年11月30日生まれの有名人 東京出身

三原 珠紀(みはら たまき、1979年11月30日 - )は、東京都出身の女優。身長は153cm、体重は43kg、血液型はO型。趣味は耳かき、特技は水泳/エレクトーン/スキー。劇団スーパー・エキセント…

富永 美沙子(とみなが みさこ)
1933年11月30日生まれの有名人 東京出身

富永 美沙子(とみなが みさこ、1933年11月30日 - 1975年5月2日)は、日本の女優、声優。テアトル・エコーに所属していた。東京市豊島区雑司が谷町(現東京都豊島区雑司が谷)出身。父親は挿絵画…

あさい ゆきの(さかい たえ))
1964年11月30日生まれの有名人 東京出身

あさい ゆきの(本名:酒井 妙(さかい たえ)、1964年11月30日 - )は、日本の女優、タレント。九州生まれ、東京育ち。スリーサイズは88cm、60 cm、85 cm。血液型…

戸崎 貴広(とさき たかひろ)
1962年11月30日生まれの有名人 東京出身

戸崎 貴広(とさき たかひろ、1962年11月30日 - )は、元TBSテレビ(TBS)の社員(アナウンサー→スポーツ局)で、フリーアナウンサー。 東京都葛飾区柴又出身。東京都立墨田川高等学校、立…

田口 トモロヲ(たぐち ともろを)
1957年11月30日生まれの有名人 東京出身

田口 トモロヲ(たぐち トモロヲ、1957年11月30日 - )は、日本の俳優、ナレーター、ミュージシャン、映画監督、元エロ劇画家。本名:田口 智朗(たぐち ともお)。パンク・ファンクバンドばちかぶり…


土井たか子と近い名前の人

土井 敏之(どい としゆき)
1970年8月19日生まれの有名人 東京出身

土井 敏之(どい としゆき、1970年8月19日 - )は、NHKの元アナウンサー、TBSテレビのエグゼクティブアナウンサー。 東京都中野区出身。実家は自転車屋。 東京都立西高等学校、早稲田大学…

土井 美加(どい みか)
1954年8月4日生まれの有名人 宮城出身

土井 美加(どい みか、1954年8月4日 - )は、日本の女優、声優、ナレーター。宮城県仙台市出身。 宮城学院中学校・高等学校、関東学院女子短期大学を卒業。文学座附属演劇研究所、現代演劇協会附属…

土井 裕泰(どい のぶひろ)
1964年4月11日生まれの有名人 広島出身

土井 裕泰(どい のぶひろ、1964年4月11日 - )は、TBSテレビ(旧:TBSエンタテインメント)・コンテンツ制作局ドラマ制作部所属のテレビドラマの演出家。映画監督。広島県広島市、現在の中区鉄砲…

土井 真理(どい まり)
11月11日生まれの有名人 出身

土井 真理(どい まり、11月11日 - )は、日本の女性声優。大分県出身。オフィスPAC所属。 牙狼〈GARO〉-炎の刻印-(オクタビア) 残響のテロル(アナウンサー(女)) 銀魂゜(2015年…

土井 俊明(どい としあき)
1959年10月10日生まれの有名人 神奈川出身

土井 俊明(どい としあき、1959年10月10日 - )は、日本の男性俳優、声優。神奈川県出身。身長171cm。体重82kg。 加川事務所所属。かつては劇団ムーンライトに所属していた。 特技は…

土井 利忠(どい としただ)
1942年2月2日生まれの有名人 神奈川出身

土井 利忠(どい としただ)は、江戸時代後期の大名。越前国大野藩7代藩主。号は欽斉。官位は従五位下・能登守。贈従三位。利房系土井家7代。 藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな実績を挙げ、樺太…

土井 茂(どい しげる)
1928年2月5日生まれの有名人 広島出身

土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5月29日 )は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家である。広島県府中市府中町出身。 第六高等学校を経て1951年、京都大学経済学部卒業。…

土井 晴人(どい はると)
1962年2月16日生まれの有名人 石川出身

土井 晴人(どい はると、1962年2月16日 - )は石川県金沢市出身の歌手である。 後に土井合人と改名した時期もある。 石川県立金沢二水高等学校を卒業し、早稲田大学第一文学部演劇専攻在籍…

土井 里美(どい さとみ)
1970年2月27日生まれの有名人 富山出身

𡈽井 里美(どい さとみ、1970年2月27日 - )は、日本のフリーアナウンサー。神奈川県在住、富山県下新川郡朝日町出身。 「土井」ではなく「𡈽井」であるが、使用漢字の都合上印刷媒…

土井 玲奈(どい れいな)
1990年5月9日生まれの有名人 大阪出身

土井 玲奈(どい れいな、1990年5月9日 - )は、大阪府出身の女優。身長160cm。体重46kg。血液型はA型。舞夢プロ所属。日本大学芸術学部演劇学科卒。2015年8月1日より劇団クロムモリブデ…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「土井たか子」を素材として二次利用しています。

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