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宮本茂
宮本 茂(みやもと しげる)さんの誕生日は1952年11月16日です。京都出身のゲームデザイナーのようです。
人物・制作姿勢、エピソードなどについてまとめました。卒業、現在、映画、趣味、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。宮本茂の現在の年齢は71歳のようです。
宮本 茂(みやもと しげる、1952年11月16日 - )は、日本のゲームプロデューサー。任天堂株式会社の代表取締役フェロー。同社の情報開発本部本部長、専務、クリエイティブフェローなどを歴任。 『マリオシリーズ』、『ゼルダの伝説シリーズ』、『ドンキーコングシリーズ』などの生みの親として知られる。2019年にゲーム関係者としては史上初となる文化功労者に選定された。 京都府船井郡園部町(現:南丹市)に生まれる。中学時代はバスケットボール部に所属していたが、そこに籍を置いたまま漫画クラブを立ち上げようとしたことから上級生とトラブルを起こしてしまった。その後、レギュラーメンバーであったバスケットボール部を辞め、漫画クラブの部員として活動した。赤塚不二夫、手塚治虫、白土三平などの漫画に影響を受け、漫画家を目指したこともあったが、周囲との実力の差を感じ、その夢を断念する。 高校時代は軽音楽クラブに出入りしギターを教わっていたが、あまり上達せず中途半端で止めてしまう。 京都府立園部高等学校卒業後は金沢美術工芸大学に入学し工業デザインを専攻。講義に取り組む宮本の姿勢は独特だったらしく、担当教授からは、卒業後に普通に就職せずにアクセサリーデザイナーになるよう勧められたという。 1977年に金沢美術工芸大学を卒業後、任天堂に入社。マスプロ製品をデザインする仕事に就きたいという考えに加え、ユニークな商品を数多く発売している社風に興味を抱いたことが志望動機であった。当時の任天堂はデザイナーの募集を行っていなかったが、宮本の父が任天堂社長・山内溥と友人だったこともあり、特例で面接の機会を得ることが出来た。当初、山内は乗り気ではなかったものの、宮本は自作のハンガーなどを持ち込んで積極的なプレゼンを行ったことで山内の「ものづくりができる社員が欲しい」という眼鏡に適い、人事との調整後に入社が決まった。なお、宮本は、ユニークな商品が事業的に失敗していることを入社後に知り、唖然としたという。 入社直後は企画部に配属されかるたの版下のデザインや麻雀のラベル作成など小さな仕事をこなしていたが、1979年からアーケードゲーム『シェリフ』『スペースファイアバード』などの筐体デザインや家庭用ゲーム機『ブロック崩し』などの本体デザインを手掛けるようになる。1979年に稼動を開始したアーケードゲーム『スペースフィーバー』では筐体デザインだけでなくキャラクターデザインも担当した。 入社3年目の1980年に、Nintendo of America(任天堂のアメリカ現地法人)でアーケードゲーム基板の在庫を大量に抱える問題が発生したことを受け、同基板を活用して新しいゲームを作るための会議が任天堂本社で行われた。この中で、開発部門の部長を務める横井軍平が、それまでソフトウェア開発に携わっていなかった宮本を抜擢し、宮本を中心としたゲーム制作が行われることになった。開発当初はアメリカン・コミックの『ポパイ』を題材とする予定だったが、版権問題により頓挫。その後、宮本はキャラクターを描き直した上でプログラミング以外の作業をほぼ1人で担当、1981年に『ドンキーコング』を完成させ、これが世界的なヒットを記録した。また、この作品は後に任天堂の看板キャラクターとなる「マリオ」のデビュー作になった。 これ以降、宮本はしばしば横井と共にゲーム開発を行うことになる。横井からさまざまな考え方や作り方を学んでおり、宮本自身も「横井は自分の師匠だと思っている」と語っている。横井の開発理念は、その後の宮本にも受け継がれている。 その後、山内の「100人の凡才より1人の天才」という考えから、任天堂ゲームの中心的開発者となり、1983年に新設された情報開発部の開発課長に就任。部門の実務リーダーになった。 1996年、情報開発部は情報開発本部に格上げされ、宮本は情報開発本部情報開発部長に就任。1998年、情報開発本部長に就任。2000年6月、取締役に就任。岩田聡新社長の体制発足と同時に、2002年5月31日、代表取締役専務に就任。その後、2015年9月16日付で、権限委譲などによる後継者育成のため、君島達己新社長就任などの人事に合わせ、情報開発本部長を退任してクリエイティブフェローに就任。後任のソフトウェア開発部門トップは、高橋伸也取締役企画制作本部長。 役員は経営業務が優先されるため、開発業務は長年連れ添ってきた部下に任せ、開発現場からある程度離れた立場に退く形になった。代表取締役専務に昇格してからは、それが更に顕著となり、日本国内外の支社や取引会社を何度も往復したり、2週間に一度の取締役会の仕事に拘束されることとなる。しかし、代表取締役社長(当時)の岩田聡による「宮本さんは、可能な限り開発の現場にいるべきだ」との方針により、2006年発売の『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』の開発以降、情報開発本部長としてできるだけ開発業務に携われるよう体制が改められた。なお、宮本自身は、取締役の活動も「全体を捉えて単純化したものの見方ができるようになった」として、開発者視点において無駄とはなっていないと語っている。 2019年には文化功労者に選定された。宮本はこの受賞に対して「ゲームというジャンルに光を当ててもらえるのは光栄なことです」と述べたほか、「ゲームは大勢で作り、いろんなチームとも仕事をするので、個人で頂くというのがとてもてれ臭いです」と語っている。 人物・制作姿勢1986年発売の『ゼルダの伝説』など初期のゲーム内では、姓の「本」の字を読み替えた「MIYAHON」と表記されており、ゲーム専門誌『ファミリーコンピュータMagazine』(徳間書店インターメディア)で担当していた読者コーナー「ゼルダの伝説Q&A」でも「MIYAHON」と名乗っていた。この「ミヤホン」という名前は後に愛称として用いられるようになり、稀に本人が使用することもある。 スーパーファミコンにおける「LRボタン」や、NINTENDO64における「アナログスティック」のアイデアは宮本が提案したもので、現在では他社ハードのコントローラにも同様のものが搭載されている。 ゲーム内のムービー(演出による非プレイ時間)はあまり重視していない。元任天堂社長の岩田聡はこの理由を「ムービーを作っちゃったら『もう直せません』というのが、一番許せないようだ」と語っている。他社ハードでプリレンダリングムービーが注目されていた時期に開発が進められた1996年発売の『スーパーマリオ64』当時でも、周囲のスタッフがそれを感じ取り、リアルタイムデモの仕組みを作り上げていった。後に、メディアからのインタビューで「現在の若者を中心としたユーザーに、映画的ゲームの物語で思想的メッセージを送るというスタンスは取らないのか」と質問された際は、「自分のような、ゲームを作り続けている人間(=クリエイターという職業)がいるという姿勢だけが伝わって、そこから何かを感じ取ってくれるユーザーがいれば、という信念で作っている」と答えている。 多人数同時プレイ(マルチプレイ)の要素を組み込んだゲームの制作に力を入れている。宮本の代表作であるアクションゲームの『マリオ』シリーズでは、1983年に制作された『マリオブラザーズ』以降マルチプレイは実装されていなかったが(『スーパーマリオブラザーズ』のように交互プレイのものはある)、長年の試行錯誤の末、『マリオブラザーズ』から約26年後の2009年に発売された『New スーパーマリオブラザーズ Wii』でようやくマルチプレイを実現した。また、レースゲームに関して「いつか順位のないものをつくりたい」という考えを持っており、自身が手掛ける『マリオカート』シリーズについては「レースゲームの顔をしたコミュニケーションゲーム」だとしている。 宮本が制作するゲームでは主人公が喋らないことが多い。ただ、『スターフォックス64』などのように、会話をする(ボイス演技がある)ことがゲーム性に関わる場合は言葉を発する。スターフォックスであれば、説明書を読まずテキスト表示せずとも会話により「世界観」「人間関係」「操作方法」をプレイ中インタラクティブに理解出来る仕様になる。また、全体的な物語を作ることよりも主人公の周りに登場する人々の関係や存在感を描くことに興味があると語っている。 1999年頃、ゲーム業界への参入を目指すマイクロソフトが任天堂を250億ドルで買収する計画があったが、任天堂は難色を示し断っている。一方、マイクロソフトは個別に社員のヘッドハンティングを行ったが、任天堂のゲームソフト開発の中心人物である宮本茂を「現在の給料の10倍」で引き抜こうとしたものの、宮本は「(任天堂には)仲間がいるから」と言って断ったとされている。 2000年代の宮本制作のゲームには、日常生活から着想を得ているものがある。2001年発売の『ピクミン』は自宅での庭いじりが、2005年発売の『nintendogs』は犬を飼い始めたことが、2007年発売の『Wii Fit』は体重測定を趣味にしていたことが制作のきっかけとなった。1989年発売の『MOTHER』を共同開発して以来親交がある糸井重里はそうした姿勢について、町内会やPTAにまめに参加するなど普通の生活者としての完成度が高いために日常生活から面白さを発見するのがうまいのではないかと語り、宮本のことを「生活力の人」と評している。 宮本には「アイデアとは複数の問題を一気に解決するもの」という持論がある。この言葉は元々宮本自身が明確に口にしたものではなかったが、宮本の仕事ぶりを近くで見ていた岩田聡がそうした姿勢を感じ取り、言語化して事あるごとに紹介したため世間に広まることになった。また岩田は、宮本が標準的な消費者の感覚を持っているという点を指して「行動経済学を天然で使いこなしている」と評している。 フェローとなった近年も、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』などのタイトルではコンセプトと操作性・操作感の部分では現場に入って作り込んでおり、それ以降の部分を後進に任せているとのこと。ただしマリオに関しては、「『マリオにこういうことをさせてもいい』という基準を誰かが決めないと話が進まないので、マリオが関係するゲームを作るときは必ずどこかのタイミングで見ています。」と原作者として全て監修を行っている事を明かしている。こうした姿勢は、テーマパークのスーパー・ニンテンドー・ワールド、映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』、モバイルゲーム『Super Mario Run』も同様である。 2010年代以降は、ゲーム以外の映像作品として、『ピクミンシリーズ』の短編映画『ピクミン ショートムービー』や『スターフォックス ゼロ』の短編アニメ作品『スターフォックス ゼロ ザ・バトル・ビギンズ』を宮本が主導して制作、『ピクミン』に関しては、2014年開催の第27回東京国際映画祭で特別上映された。一方で、大規模な映像制作に対しては「自分には向いていない」「映画とゲーム制作は別物である」いう意識があったため、自身は映像制作からは長年距離を置いていた。 後に、2023年公開の映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』では原作者として、イルミネーション・エンターテインメントのクリス・メレダンドリと共にプロデューサーを務める事になる。これは、過去のゲームをバーチャルコンソールなどで配信する場合には都度ハードウェアに合わせた移植作業が必要だが、映画であればそれが必要なく、またゲームを遊ばない多くの人の目に触れる機会が増えるため、「マリオにとっては映画があったほうがいい時代がきたな」と考えたためで、併せて「長年愛されてきたソフトと映像資産を組み合わせ、それらを長期的に活用することができれば、コンテンツビジネスはさらに発展する」と認識した事に依る。ただし、映画の制作行程はゲームとは違いが大きい事から、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』では制作を本職の映画制作者に委ね、素人の自身はあくまでゲームをよく知っている観客としてアイデアを提案し、ゲームを作っている側で知っている情報をできるだけ伝えて監修する役割に徹したと宮本は話している。 1本のゲームソフト開発に注力する立場から任天堂関連ソフトを全体的に監修する立場となった2000年頃、駄目出しの結果「面白くない」と強権を発動してほぼ白紙に戻す「ちゃぶ台返し」(本人命名、英:Upending the Tea Table)を行っていた事があった。これについて開発現場からは「宮本チェック(ミヤホンチェック)」として大いに恐れられていたという。 駄目出しをする行動自体は宮本自身が以前にも語っており、宮本の「作品を面白くしようとする制作姿勢」は広く知られていたものの、実際どれがどのように変わったかという個別の案件は知られていなかった。しかし、2004年3月24日にアメリカで開催されたゲームクリエイターのための会議「Game Developers Conference 2004」において講演した任天堂の青沼英二が宮本茂の「ちゃぶ台返し」について面白おかしく語ったことがきっかけで、世界的に知られるようになった。 ちなみに、宮本が手掛けた『Wii Sports Resort』や『パイロットウイングス リゾート』の舞台となる「ウーフーアイランド」には、ちゃぶ台がひっくり返った形とされる「ダイチャブ岩」が3か所ある。 2000年代後半は役職が上がりプロデューサーや監修するため現場開発から一歩引いた立場で見守る事になったため、ちゃぶ台返しは行ってない。宮本は「ちゃぶ台って、趣味でいつでも返せるわけじゃなく、自分で全体が見えていないと返せないものなんですよ」「『これじゃダメ』というときに、構成などを変えることで、何か見えかたが変わったり、価値が変わったりすることが自分で見えているときに返すのがちゃぶ台です。自分で見えてないときは『ダメ』と言うだけで、その場合は何かを変更するわけじゃない。それはやっぱりすべての要素というのは、ディレクターをやっている人じゃないと見えないものなのでね。」と、ちゃぶ台返しは制作に深く関わっている現場監督たるディレクターだからこそ行えると説明している。 以下、ちゃぶ台返しが行われたと判明しているゲームを記述する。 エピソード左利きだから才能があると言われたこともある。 好きな漫画家に石ノ森章太郎を挙げており、石ノ森が『ゼルダの伝説』の漫画化を引き受けた際は「興奮した」と語っている。 ゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター 赤』『ポケットモンスター ピカチュウ』に登場するライバル名の候補の1つに「シゲル」がある(『緑』『青』では主人公名候補)。これは、プロデューサーを務めた宮本の名前に由来しており、シリーズ制作第一人者の田尻智の名前に由来する「サトシ」と対を成す存在となる。アニメ版でも同様。 2006年5月10日から5月12日にかけて開催されたゲーム見本市「E3 2006」では、家庭用ゲーム機「Wii」のソフト『Wii Sports』に収録されているゲームの1つ「テニス」で映画監督のスティーヴン・スピルバーグと対決した。この出来事をきっかけとして、スピルバーグは後の2008年に発売されたゲームソフト『Boom Blox(英語版)』(発売元:エレクトロニック・アーツ)において自身初のゲーム監修を行った。 2007年開催のゲーム開発者向けイベント「Game Developers Conference 2007」にて上映された、イギリスのテレビ番組「Mega64」撮影によるムービーに宮本茂本人が登場した。ムービーの内容は、マリオとルイージに扮した人が街中を疾走し、通行人にちょっかいをかけるが、突如現れた宮本茂に睨まれ決まりが悪そうに退散、宮本の後ろに居たリソクも驚いて引き帰すと言うものであった。 アメリカのゲーム誌『EDGE』2008年12月号の表紙では、Wiiリモコンとヌンチャクを両手に持って腕を交差させ、タレントDAIGOの決めポーズ「うぃっしゅ」のようなポーズをとる姿が載っている。 2009年に開催された「E3 2009」の質疑応答の中で、「最も影響を受けたゲームは何か」という質問に、ウィル・ライトの『シムシティ』だと答えている。 2015年4月25日に「ニコニコ超会議2015」内で開催されたイベント「スーパーマリオ30周年SPステージ ゲームセンターCX in ニコニコ超会議2015」にゲスト出演し、テレビ番組『ゲームセンターCX』の有野課長(有野晋哉)がWii U用ソフト『スーパーマリオメーカー』で作成したコースを宮本がプレイした。 2016年12月7日に放送されたアメリカのトーク番組『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン』に、米国任天堂のレジナルド・フィサメィ社長とともにゲスト出演し、この中で、ヒップホップバンド「ザ・ルーツ」による『スーパーマリオブラザーズ』の地上BGMの演奏にギターで参加した。 2021年4月8日に日本にて初放送されたアメリカのテレビドラマ『ゾーイの超イケてるプレイリスト』第3話のセリフに「ミスター・ニンテンドーのシゲル・ミヤモト」が登場した。 2024/05/16 03:16更新
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