朝比奈隆の情報 (あさひなたかし) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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朝比奈隆と関係のある人
田中正史: 10歳の時、朝比奈隆の指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲を演奏。 中丸美繪: 『オーケストラ、それは我なり ―朝比奈隆 四つの試練』(文藝春秋 2008年)、中公文庫 2012年 景山誠治: ソリストの活動だけでなく、室内楽の奏者など室内楽の分野としても活動しており、朝比奈隆、大阪フィルハーモニー交響楽団などの国内主要オーケストラと共演しており、東京・春・音楽祭、防府音楽祭、倉敷音楽祭などの音楽祭にソリストとして招かれている。 山田耕筰: 「黒船」を大阪で指揮した際も、実際の指揮を朝比奈隆が執っている。 実相寺昭雄: 1980年代には朝比奈隆指揮のベートーヴェン交響曲全集の映像収録を演出したが、これが2009年にDVDボックスとして発売された際は、この種のソフトでは映像監督の名はライナーノートの隅に載る程度が通例であるにもかかわらず、「朝比奈隆指揮 実相寺昭雄監督」と曲名や作曲者名より遥かに大きくボックス全面に大書される扱いとなった。 大森嘉之: ボクちゃんの戦場(1985年)- 朝比奈隆 役 実相寺昭雄: その姿勢は評価され、前記の通り、日本音楽界の重鎮であった朝比奈隆と親交を持ったほどである。 内藤克俊: ^ 同校出身者は他に渡辺銕蔵、佐々木到一、堀正旗、藤田一暁、阿川弘之、竹西寛子、朝比奈隆 (画家)ら。 伊原直子: CD マーラー:交響曲『大地の歌』大阪フィルハーモニー交響楽団、指揮:朝比奈隆、テノール:林誠、アルト:伊原直子 2010/10/6 King Records 山田一雄: 翌1945年には満州国に渡り、新京やハルビンのオーケストラを指揮した(当時、満州には朝比奈隆もいた)。 中丸美繪: 2009年、『オーケストラそれは我なり 朝比奈隆四つの試練』で第26回織田作之助賞・大賞受賞。 矢野暢: クラシック音楽への造詣が深い一面も持ち、京都大学の先輩に当たる朝比奈隆との対談集もある。 辻久子: 全満合同交響楽団は指揮に朝比奈隆、事務局員に加藤幸四郎(加藤登紀子の父)がいた。 甘粕正彦: また、朝比奈隆が指揮をしていたハルビン交響楽団の充実にも力を尽くした。 村上“ポンタ”秀一: 中学時代に所属していた吹奏楽部に度々指導に来ていた指揮者の朝比奈隆にティンパニを勧められ、打楽器奏者の道を歩む。 大植英次: 2001年に亡くなった朝比奈隆の後任として、2003年4月から大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任。なお、大植はバトンタッチといった言葉を好まず、いまだ生きている朝比奈隆の魂ともども音楽を作ることを強調している。 浪川大輔: こちら葛飾区亀有公園前派出所(白鳥純〈中学時代〉、朝比奈隆) 飯守泰次郎: ドイツでの活動を継続出来るよう朝比奈隆が一度助けてくれたという逸話がある。 深緑夏代: また、朝比奈隆の推薦で、関西オペラ「カルメン」でも同じくカルメン役。 木村俊光: SACDシングルレイヤー3枚組 朝比奈隆/VICTOR原盤ベートーヴェン交響曲全集&ミサ曲集 大阪フィルハーモニー交響楽団 ビクターエンタテインメント 伊原直子: CD マーラー:交響曲『大地の歌』大阪フィルハーモニー交響楽団、指揮:朝比奈隆、テノール:林誠、アルト:伊原直子 2001/1/17 ポニーキャニオン 木村俊光: コンサートでも、フォーレ『レクイエム』、ブラームス『ドイツ・レクイエム』、ベートーヴェン『第九』、バッハ『ミサ曲ロ短調』などで、NHK交響楽団、東京交響楽団、東京都交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団などの主要オーケストラや、ジャン・フルネ、石丸寛、小澤征爾、朝比奈隆、飯守泰次郎、山田一雄などと共演している。 松下真一: 「朝比奈隆指揮「大阪の秋」〜国際現代音楽祭から〜」朝比奈隆指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団/栗山智子(vn) (自主制作/CD) 松下真一: 「交響幻想曲《淀川》」朝比奈隆指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団、他 (大阪青年会議所/LP) 矢部達哉: ソリストとして、これまでに朝比奈隆、小澤征爾、若杉弘、フルネ、クレー、デプリースト、インバル、ベルティーニなどの指揮者と共演している。 伊原直子: ベートーヴェン : 交響曲第9番ニ短調 『合唱』、『ミサ・ソレムニス』新日本フィルハーモニー交響楽団、指揮:朝比奈隆、ソプラノ:岡坊久美子、アルト:伊原直子、西明美、テノール:林誠、市原多朗、バリトン:多田羅迪夫 、バス:高橋啓三 服部良一: ちなみにこのころ、朝比奈隆もメッテルから指導を受けている。 伊原直子: CD2枚組 マーラー:交響曲第2番『復活』大阪フィルハーモニー交響楽団 指揮:朝比奈隆、ソプラノ:豊田喜代美 、アルト:伊原直子、武庫川女子大学音楽学部、関西学院グリークラブ 2010/10/6 King Records 小林研一郎: 朝比奈隆、小澤征爾に次ぐ邦人レコーディングアーティストとしても有名で、オクタヴィアレコード、ポニーキャニオンを中心に、50を超える収録CD、DVDを発表している。 藤岡幸夫: また関西フィルハーモニー管弦楽団との出会いについて「朝比奈隆先生と大阪フィルに憧れていて、東京以外の街のオーケストラと仕事をしたいと思っていたときに、関西フィルと出会った」「天命」と語っている。 |
朝比奈隆
朝比奈 隆(あさひな たかし)さんの誕生日は1908年7月9日です。東京出身の指揮者のようです。
受賞・栄典、「弟子」などについてまとめました。家族、現在、卒業、退社、結婚、映画、引退に関する情報もありますね。93歳で亡くなられているようです。
朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月29日)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本の指揮者。位階は従三位。 左利き(指揮棒は右だが、包丁は左(木之下晃の写真集より))。朝比奈の出生には謎があり、中丸美繪著『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』が詳しい。 著名な家族に、長男の朝比奈千足(指揮者、クラリネット奏者)。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれ、生後まもなく鉄道院技師朝比奈林之助 の養子となり朝比奈姓となる。 虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津町立国府津尋常小学校(現:国府津小)を経て小田原町立第三尋常小学校(現:新玉小)に学ぶ。小学校3年の3学期から東京に呼び戻され、麻布尋常小学校(現:港区立麻布小学校)に転入学。まもなく中学受験に有利ということで東京府青山師範学校附属小学校(現:学芸大附属世田谷小)に転じた。旧制中学校受験では、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大附属中・高)や東京府立・東京市立の有名校にことごとく不合格となり、裏口入学のような形で私立高千穂中学校に進む。1922年(大正11年)3月、7年制高等学校である官立旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)尋常科2年の編入試験に合格して同校に転入学した。中野区南台に通学する。 1923年(大正12年)に養父を亡くし、1925年(大正14年)には養母も病歿したため、朝比奈姓のまま生家の小島家に戻る。この養父母の死によって、朝比奈は実父が渡辺嘉一と知る。また、実母に関しても朝比奈の長男朝比奈千足は、朝比奈隆伝の著者・中丸美繪に「父が、嘉一と小島里との間の子供であること、父が里の三男であることに関しては確証がありません」と証言している。同年9月の関東大震災で焼け出されて朝比奈家で同居していた父方の親戚の岡部左久司(当時、早稲田高等学院在学中。のち内務省技官)の影響でヴァイオリンの魅力に惹かれ、朝比奈家の祖母からヴァイオリンの焼け残りの中古品を買い与えられたことがきっかけで音楽に興味を示すようになった。当初は東京高等学校尋常科の音楽教師田中敬一にヴァイオリンを習っていたが、やがて田中の紹介で橋本国彦に師事するに至る。ヴァイオリンの練習の傍ら、サッカーや登山、スキー、乗馬、陸上競技などのスポーツにも熱中していた。当時の同級生かつヴァイオリン仲間に篠島秀雄がいる。 旧制東京高等学校高等科文科乙類では同級に日向方斎や清水幾太郎、宮城音弥、内田藤雄、平井富三郎、出淵国保がいた。友人と弦楽四重奏団を結成したり、1927年2月20日の新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会を聴いたりもした。 1928年(昭和3年)、旧制東京高等学校高等科を卒業し、京大音楽部の指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテルを目当てとして京都帝国大学法学部に進学。法学部在学中には同大学のオーケストラ(京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当。やがて指揮をメッテルに師事、その他、レオニード・クロイツァーやアレクサンドル・モギレフスキーの影響を受けた。 1931年に京都帝国大学法学部を卒業。鉄道省勤務の実兄の推薦により、月給60円で2年間阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に勤務。電車の運転や車掌、百貨店業務、盗電の摘発 などを行う傍ら、チェリストの伊達三郎の誘いで大阪弦楽四重奏団のヴァイオリン奏者として大阪中央放送局 (JOBK) に出演。1933年(昭和8年)、会社員生活に飽き足らず「もう一度学問をやり直したい」という理由で退社し、改めて京都帝国大学文学部哲学科に学士入学し、1年留年して1937年(昭和12年)に卒業。卒論は中世音楽史を扱った内容だった。この間、1936年(昭和11年)2月12日に初めてオーケストラ(後の大阪フィルハーモニー管弦楽団)を指揮。また、1934年(昭和9年)より月給30円で大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に非常勤講師として勤務し、一般教養課程でドイツ語・英語・音楽史・心理学を教えていたが、卒業後の1937年(昭和12年)より教授となった。 1940年(昭和15年)1月31日、新交響楽団の演奏会でチャイコフスキー交響曲第5番他を指揮し、プロデビューを果たす。1941年(昭和16年)、田辺製薬創始者田辺五兵衛会長の実弟、武四郎の長女で東京音楽学校ピアノ科卒の町子と結婚し、神戸市灘区篠原町に居を定める。同年、日米開戦。1942年(昭和17年)からは月給200円で大阪放送管弦楽団の首席指揮者となり、戦意高揚のため『荒鷲に捧げる歌』『海の英雄』などを演奏。1943年(昭和18年)11月末、中川牧三 の推薦で大陸に渡り、同年12月8日の「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに上海交響楽団(1943年)で指揮。上海滞在中、1944年(昭和19年)1月、タラワ、マキン両島で玉砕した兵士を弔う歌の作曲を海軍省から命じられ、一晩で書き上げる。1944年(昭和19年)、日本に戻ってからは再び大阪中央放送局に戻り、時おり慰問や軍歌放送の仕事をしていたが、同年5月、要請を受けて大木正夫と満洲国に行き、満洲映画社長の甘粕正彦と会い、約1ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団を視察。同年秋に再び要請され、妻と伊達三郎を伴って渡満し、大木の交響曲『蒙古』を指揮。同年12月にも渡満。1945年(昭和20年)には関東軍の嘱託を命ぜられ、満洲全土を演奏旅行。大阪と神戸が空襲で被災した上、満洲での活動が波に乗ったこともあり、関東軍報道部長の誘いで1945年(昭和20年)5月には妻と長男を呼び寄せて本格的に満洲に移住、ハルビン特務機関の指揮下に入りハルビンのヤマトホテルに居住したが、8月に終戦を迎えた。ソ連占領軍進駐後、弟子の林元植(朝鮮語版)(後述)や朝比奈ファンの歯科医、小畑蕃などによって日本人狩りの暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビンに蟄居。この間、国民政府からの依頼で中国人のオーケストラを編成し、アンサンブルの指導を行っている(1945年10月-1946年4月)。1946年(昭和21年)8月から2ヶ月かけて神戸の自宅に引き揚げた。 引き揚げ後は、大阪音楽学校および大阪音楽高等学校に勤務しつつ、1947年(昭和22年)4月、大阪放送管弦楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団を結成する。結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。1950年代からはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団や北ドイツ放送交響楽団などヨーロッパの主要なオーケストラに招かれるようになった。1960年(昭和35年)に関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改称(定期演奏会の回数は、改称時に数え直している)。同楽団の常任指揮者を経て音楽総監督となり、ヨーロッパ公演を3回、北米公演を1回行い、亡くなるまでその地位にあった。1つのオーケストラのトップ指揮者を54年間務めたことになる。 1973年(昭和48年)、大阪フィルが東京公演を行った。この公演で取り上げた曲目の中には、ブルックナーの交響曲第5番も含まれていた。1954年(昭和29年)以来しばしばブルックナーを取り上げていた朝比奈であったが、それまでは納得のできる演奏ができなかった。しかし、この東京公演で取り上げた第5番は、朝比奈も上出来と思うほど出来栄えが素晴らしく、聴衆も大喝采を浴びせた。 その聴衆の中に、渋谷で前衛的なライヴハウス「渋谷ジァン・ジァン」を経営している高嶋進がいた。彼は寺山修司などの前衛演劇に傾倒する一方で、大のブルックナーファンであった。この公演に感動した高嶋は、朝比奈&大阪フィルを起用してブルックナーの交響曲全集を作ろうと思い立ち、1978年(昭和53年)にディスク・ジァン・ジァンから全集LPを発売した。この全集は大評判となり、朝比奈は一躍「巨匠」「日本のブルックナー解釈の第一人者」として注目を集めるようになった。 ブルックナーの交響曲で問題になる楽譜の「版」であるが、朝比奈は基本的にハース版を使用している。1975年(昭和50年)の大阪フィルの欧州公演中、10月12日リンツの聖フローリアン修道院で交響曲第7番を指揮した際、会場にノヴァーク版の校訂者レオポルト・ノヴァークが来ており、終演後朝比奈を訪れた。ノヴァークは演奏を称賛し、ノヴァーク版で演奏しなかったことを詫びた朝比奈に、名演の前に版は大した問題ではない旨答えたという。 ブルックナー全集の件以降、在京の主要オーケストラからの客演依頼が殺到するようになり、また、レコーディング活動も増加するようになった。1980年代以降朝比奈が出演する演奏会の人気は凄まじく、チケットは即売り切れになることもあった。ブルックナーの交響曲の演奏のほかに、もう一つの主要レパートリーであったベートーヴェンの交響曲の連続演奏会や全集の制作も盛んに行った(ベートーヴェンの交響曲連続演奏会は、1951年から2000年の間に9回行っている)。この頃より、朝比奈はしきりに「時間がない」を口癖にするようになり、録音も多くなった。 1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災に遭遇した(朝比奈は1923年の関東大震災にも遭遇している)。また、同年6月には終戦以来50年ぶりにハルビンを訪問し、満洲時代に朝比奈の下で演奏していた元楽員と再会した。1996年(平成8年)にはシカゴ交響楽団に客演。これはピエール・モントゥーの記録を抜く同オーケストラの最高齢の客演であった。 朝比奈は90代以降、「ストコフスキーの最高齢記録を抜く」と公言し、一見では特に大きな身体の故障もなかったため、記録達成は容易と見られていたが、2001年(平成13年)10月24日の名古屋公演におけるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノ:小山実稚恵)、交響曲第5番が最後の舞台となり、演奏会後、体の不調を訴えて入院。そのまま復帰することなく12月29日に死去した。93歳没。「立つことが私の仕事」「立って指揮が出来なくなったら引退」として、練習中でも椅子の類を使わず、最後まで立ったまま指揮をした。生涯現役であった。墓所は神戸市長峰霊園。 長く日本指揮者協会会長も務めた。 没後、大阪フィルハーモニー交響楽団創立名誉指揮者となった。訃報は2001年(平成13年)12月31日付各紙の1面を大きく飾った。朝比奈の棺に納められたものは、指揮棒と2001年(平成13年)11月の大阪フィル定期演奏会で指揮する予定であったブルックナーの交響曲第3番の楽譜であった。燕尾服も荼毘に付された。当のブルックナーの交響曲第3番は2002年(平成14年)7月に東京と大阪で若杉弘が指揮、朝比奈の追悼とした。 2002年(平成14年)2月7日にザ・シンフォニーホールで行われた「お別れの会」では朝比奈千足の指揮で、遺志に従ってベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が演奏され、無宗教で行われた。また参列者は朝比奈千足の発声により拍手で故人を見送った。 2007年(平成19年)12月11日から16日まで、リーガロイヤルホテルにて「永遠のマエストロ 朝比奈隆展」が開催された。これは大阪フィル創立60周年記念行事として行われた。 2008年(平成20年)7月9日、生誕100年の日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルは記念演奏会を行った。指揮は朝比奈の後任の音楽監督大植英次で、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番(ピアノ:伊藤恵)、ブルックナーの交響曲第9番が演奏された。演奏終了後、聴衆は最晩年の朝比奈の多くの演奏会同様にスタンディング・オベーションを行った。 受賞・栄典1969年 - 紫綬褒章 1972年 - モービル音楽賞 1974年 - NHK放送文化賞 1976年 - 日本芸術院賞 1977年 - ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章 1979年 - 朝日賞 1984年 - 毎日芸術賞 1986年 - ザ・シンフォニーホール国際音楽賞クリスタル賞 1987年 - 勲三等旭日中綬章、キワニス大阪賞 1989年 - 文化功労者、オーストリア共和国一等科学芸術名誉十字章、関西大賞大指揮者賞、飛驒古川音楽大賞 1994年 - 文化勲章、神戸市名誉市民 2001年 - 従三位 朝比奈はベートーヴェンを演奏する時はドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章の略綬を、ブルックナーを演奏する時はオーストリア共和国一等科学芸術名誉十字章の略綬をつけて指揮台に上がっていた。 また、文化功労者顕彰に関しては次のような逸話がある。後述のオール日本人キャストによる『ニーベルングの指環』全曲のCDを聴いた中島源太郎文部大臣(当時)が、「日本人もようやくこのレベル(「指環」を全曲演奏できる)まで到達することが出来た」と涙し、顕彰が内定したと言われている。もっとも、当の中島は顕彰前に亡くなった。 「弟子」朝比奈自身、1970年(昭和45年)に発表した文章の中で「私は、いわゆる世間で言う弟子とか門下生とかいうものを、少なくとも今の職業である指揮者としては持ったことがない」と述べている が、朝比奈の影響下にある指揮者として林元植(朝鮮語版)(韓国人指揮者、1919年 - 2002年8月26日)がおり、朝比奈自身も1973年(昭和48年)の『私の履歴書』の中では林を「私の弟子で、私が退いたあとしばらく指揮棒を振っていた韓国人の林元植君」と呼んでいる。彼は朝比奈のハルピン時代、朝比奈の人柄に感服し影響を受け、朝比奈が満洲を脱出する際いろいろ便宜を図った。朝比奈の「お別れの会」にも参加、献奏したが、ほどなく後を追う様に死去した。朝比奈ともどもサッカーの大ファンであり、2002年(平成14年)のワールドカップ日韓大会にちなんだ、2人が出演する演奏会も企画されていたが、朝比奈の死で幻となった。 他に外山雄三が「私は朝比奈先生の弟子だと思っている」と発言したことがあり、これに対し朝比奈は「先輩の顔を立ててくれたものと考えている」と新聞紙上に書いている。また朝比奈の晩年にあたる1997年(平成9年)から1999年(平成11年)まで下野竜也が大阪フィルの指揮研究員になり、朝比奈の指揮ぶりに接している。また、大阪市音楽団名誉指揮者の木村吉宏も、朝比奈の指導を受けている。 50年以上にわたって朝比奈の薫陶を受けた大阪フィルは、現在でも独特の「大フィルサウンド」を身上としている。 2024/05/16 17:21更新
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asahina takashi
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