桑原隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。
現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で16年間にわたりプレーし、現役晩年にはコーチも兼任。PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズでも選手兼任コーチを務め、1989年12月9日の天皇杯一回戦(対TDK戦)では、熊谷義一に代わり41歳という年齢で交代出場を果たしている。1996年に強化育成アドバイザーとしてジュビロ磐田入りした。
1997年にトップチームコーチに就任し、監督のルイス・フェリペ・スコラーリの下で指導を行う。しかしフェリペは第1ステージの途中で突然退団した。その後任に桑原が選ばれるが、当時桑原はトップチームの監督に就任するのに必要なS級ライセンスを持っていなかったため、監督代行として指揮を執ることになった。
しかし、この年は第2ステージに優勝し、さらにサントリーチャンピオンシップも勝ち、ジュビロを初の年間王者に導いた。監督代行としてJリーグの年間王者になったのは桑原だけである。
1998年は強化部長としてフロント入りし、S級ライセンスを取得した。S級ライセンス取得を受けて1999年に正式にトップチームの監督に就任し、第1ステージを制覇。名波浩のSSCヴェネツィア移籍後の第2ステージは低迷するが、セカンドステージ途中に清水エスパルスかから安藤正裕と京都サンガから三浦文丈を獲得しチームの調子を取り戻した。チャンピオンシップで清水エスパルスを破りこの年も年間王者になる。桑原は1年限りで辞任するが、中山雅史を始めタレントが揃ったジュビロはその後数年間黄金時代を迎える。監督辞任については、一説に「名波と心中」とさえ発言するほど名波の重要性を説きながら、フロントが名波の穴埋めとなる補強としてクロアチア代表アリョーシャ・アサノビッチなどの獲得に動いていたものの、桑原が現有戦力で戦うとして拒否。結果として第2ステージの低迷を招いた責任をとったともいわれている。
その後、2004年に柳下正明の辞任を受けて再度監督に就任するが、前回監督時の主力はチームを去ったり高齢化していて戦力は低下していた。それでも第1ステージは優勝争いを演じて2位になったが、第2ステージに入ると敗戦が続き、最下位争いに巻き込まれ、9月13日に解任された。
磐田退団後は浜松大学サッカー部の監督を務めていたが、2008年、早野宏史の後任として横浜F・マリノスの監督に就任、4年ぶりにプロチームを率いることになった。2年契約を結んでの指揮だった。序盤こそ3位になるなど好調だったが、不調なブラジル人選手を頑なに使い続けるコンディションより実績重視で臨んだことが凶に出て、第16節終了時点で降格圏内の16位に低迷し、7月14日に解任された。
所属クラブ
1961年 - 1963年 藤枝市立西益津中学校
1964年 - 1966年 藤枝東高校
1967年 - 1982年 古河電工
1987年 - 1989年 PJMフューチャーズ