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植木等の情報 (うえきひとし)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

植木等の情報(うえきひとし) タレント、俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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植木 等さんについて調べます

■名前・氏名
植木 等
(読み:うえき ひとし)
■職業
タレント、俳優
■植木等の誕生日・生年月日
1927年2月25日 (年齢80歳没)
卯年(うさぎ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
三重出身

(昭和2年)1927年生まれの人の年齢早見表

植木等と同じ1927年生まれの有名人・芸能人

植木等と同じ2月25日生まれの有名人・芸能人

植木等と同じ出身地三重県生まれの有名人・芸能人


植木等と関係のある人

谷啓: NHKドラマ『植木等とのぼせもん』(2017年9月から10月)


香川登志緒: なお、東京及び東京人が嫌いと公言し、基本的に東京では仕事をしなかったが、1967年(昭和42年)にTBSテレビで制作された『植木等ショー』では、渡辺晋からの依頼で番組開始前のブレーン役を務めた。


優香: 植木等とのぼせもん(2017年9月2日 - NHK) - 植木登美子 役


青島幸男: 1960年当時「最初に運転免許を取って美容師の免許を取って、映画も撮って、作詞作曲、監督、主演を全部やり、直木賞を取り、国会議員になる」と豪語し、植木等から正気を疑われたが、8年後までにこれらの大半を実現させた(直木賞の受賞は21年後)。


犬塚弘: 植木等の死去に関して「今どき80歳なんて早すぎます」とコメント。


浜美枝: 『クレージー映画』の常連マドンナとしても知られ、主に植木等の相手役を務めた。


白井晃: 植木等とのぼせもん(2017年、NHK) - 藤本真澄


太田光: 森繁久彌や植木等のファンでもあり、共演した際に両者から「いつも見てるよ」という言葉をかけられている。


ヨシオカサトシ: 植木等 KM REMIX だまって俺について来い (2022 Remix)/イラスト


国井雅比古: スーダラ伝説〜植木等・夢を食べつづけた男(ナレーション、2007年4月8日)


桜井センリ: 植木等ショー(1967年 - 1968年、TBS)


桑田佳祐: また、桑田が考える日本の三大名曲として植木等の「ハイそれまでョ」、笠置シヅ子の「買物ブギー」、藤本二三吉の「祇園小唄」を、世界で一番好きな楽曲としてヒデとロザンナの「愛の奇跡」を挙げている。


田口トモロヲ: シャボン玉の消えた日(1989年12月31日、日本テレビ系) - 植木等


犬塚弘: 植木等ショー(TBS)


坂井真紀: 植木等とのぼせもん(2017年9月2日 - 10月21日、NHK) - ツル子ママ 役


石橋エータロー: パーマ大佐:植木等とのぼせもん(2017年、NHK総合)


加藤茶: そもそもこの禿げヅラ、丸眼鏡、ちょびヒゲはクレイジーキャッツの植木等が演じたキャラクターが元となっており(元祖は大宮デンスケ、または三木のり平か)、実際舞台上で植木等と同じ扮装をして共演したこともあった。


ルーキー新一: ^ 主演の植木等との掛け合いとなっている登場シーンで、ルーキーは当時の持ちギャグをほぼ全て披露しており、その様子は同作の予告編の中でも比較的長く紹介されている。


太田光: 自身の人格形成に影響を与えた人物としてビートたけし、カート・ヴォネガット、立川談志、植木等、桑田佳祐、チャールズ・チャップリンといった6人の名前を挙げている。


芹澤廣明: ひとし&カツヤ(植木等・小林克也)


中川翔子: 植木等とのぼせもん 第2話 - 最終話 (2017年9月9日 - 10月21日、NHK総合) - 伊東ゆかり 役


高橋良明: ドラマ『オヨビでない奴!』の主演が評価され、共演者である植木等・所ジョージとの3ショットがきっかけで、「第二の植木等」「第二の所ジョージ」と評された。


砂田実: 植木等ショー


陣内孝則: ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜(2006年5月26・27日、フジテレビ) - 植木等


比佐芳武: 1965年(昭和40年)東映京都の合理化を進める岡田茂に引退させられたが、1973年(昭和48年)にNET(のちのテレビ朝日)の「長谷川伸シリーズ」で植木等を主演にした『江戸の花和尚』の脚本を書き、これが遺作となった。


山内圭哉: 植木等とのぼせもん(2017年9月 - 10月、NHK) - ハナ肇 役


桜井センリ: 2007年(平成19年)4月27日、植木等の「お別れの会」では谷、犬塚と共に葬儀委員長を務めた。


ハナ肇: 植木等が人気絶頂のころは地方公演で「植木等とクレージーキャット」と誤記されることもあり、リーダーとして内心穏やかでなかったと伝えられるが、そんな扱いにも耐え(もっとも植木が人気に胡坐をかいて増長するような性格では無かったこともあるが)、グループのまとめ役としての役割を全うした。


西川きよし: 「やすし・きよし」を組んで2年目の1967年7月、TBS系全国ネットの公開バラエティー番組『植木等ショー』に、ミヤコ蝶々、平参平、藤田まことと共にゲスト出演した(収録は東京)。当時植木等の付き人を務めていた小松政夫によると、この際に植木が優しくしてくれたことを、今でもきよしは恩義に感じているという。


興津和幸: 2014年時点ではハナ肇とクレージーキャッツ、植木等の映画をCS放送の日本映画専門チャンネルを録画して観ている。昔は植木等の東宝映画『無責任男シリーズ』をオマージュした作品で、初めてビデオを買ったくらいテレビアニメ『無責任艦長タイラー』が好きだった。


植木等の情報まとめ

もしもしロボ

植木 等(うえき ひとし)さんの誕生日は1927年2月25日です。三重出身のタレント、俳優のようです。

もしもしロボ

人物、主なギャグなどについてまとめました。映画、家族、父親、母親、現在、卒業、ドラマ、結婚、解散、テレビ、子役に関する情報もありますね。80歳で亡くなられているようです。

植木等のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

映画『『無責任男』シリーズ』『喜劇 泥棒大家族 天下を盗る』

大衆賞

1966年

特別賞

2008年

植木 等(うえき ひとし、本名同じ、1927年〈昭和2年〉2月25日 - 2007年〈平成19年〉3月27日)は、日本の俳優、コメディアン、歌手、ギタリスト、タレント。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。仲間内での愛称は「ボンさん」「植木屋」「植木やん」。

長男は作曲家の比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎。御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる。

1927年(昭和2年)2月25日 - 父・植木徹誠、母・いさほの三男として愛知県名古屋市に生まれる。父・植木徹誠は、真宗大谷派名古屋別院にて僧侶としての教修中だった。

実際の生年月日は1926年12月25日、大正天皇が崩御した日である。理由として植木本人が『徹子の部屋』で語ったところによると、父が出生時にたまたま体調を崩しており、叔父・保之助に役所への届けを依頼したが叔父がそれを忘れ、翌年ようやく出生届を出したことから、戸籍上の生まれ年が、昭和元年(1926年12月25日 - 12月31日)を飛び越え、昭和2年(1927年)になってしまったという。「3年ぶりに届けが出されたみたいなもの」と笑い飛ばし、後年のタレント活動においては、大正生まれよりというよりも昭和2年のほうが若いイメージになることを幸いとも感じていた。

3歳の頃、父親が浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となり移住。移住先は、母親のいさほ(旧姓:小幡・1903年〜1953年)の実家である真宗大谷派西光寺がある三重県度会郡小俣町(現在の伊勢市の一部)の近く。なお、公式ホームページでは出身地を移住先である三重県としている。また一部の文献では出身地を当時の町名である小俣町や現在の市名である伊勢市としているものもある。

1939年 - 僧侶としての教修をするべく、東京・駒込の真浄寺へ小僧になるため上京。

1944年 - 旧制京北中学校卒業後、東洋大学専門部国漢科に入学。在学中からバンドボーイのアルバイトを始める。

1946年 - テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。

1947年 - 3月に東洋大学専門部国漢科卒業後、東洋大学文学部(旧制)入学。同年秋にはNHKラジオ『お昼の軽音楽』で『ビロードの月』を歌うが、正規に音楽を勉強していないことに加え、進駐軍の影響から巷ではジャズをはじめとするダンス・ミュージックが流行し始めたことから「歌だけでなく、何か楽器を弾けたほうが収入になる」とのアドバイスを受け、「刀根勝美楽団(刀根勝美とブルームードセクション)」のバンドボーイの傍ら、友人から8000円のギターを月賦で譲り受け、教則本を頼りに練習を開始。この時代に知り合ったのが植木よりも3歳年下の若いドラマー、野々山定夫(のちのハナ肇)だった。ハナとはこの時代からの旧友である。

1950年 - 東洋大学文学部国漢科(旧制)卒業。ほどなくして結婚。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。「楽譜が読める」強みがあり、採用となったという。デューク・オクテットのドラマーは野々山で、再び顔を合わせることとなった。

1952年 - 自身のトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を山崎唯(p)、大石康司(b)と結成。植木のバンドが演奏していると、進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホーズがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。

1954年 - オペラ歌手の平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けていた折、ギタリストを探していたフランキー堺に誘われ、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。ここでギタリストとしてではなく、「でたらめスキャット」など、コメディー・リリーフとしての才能を開花させる。当初、「日劇での1ステージだけ」という約束がそのまま残留を請われ、この時点で「ニュー・サウンズ」は解散となる。

1957年3月1日 - 1955年フランキーが俳優に転身し日活に引き抜かれたことで、既に1956年2月、シティ・スリッカーズから移籍していた谷啓らのいるキューバン・キャッツに移籍。その主要メンバーの一人として活躍し、ジャズ喫茶などで人気を博す(のちにバンド名を「ハナ肇とクレージーキャッツ」に改称)。既に知己だったリーダーの野々山定夫(ハナ)は当初からシティ・スリッカーズのような「コメディー路線」を志向していた。

1959年 - クレージーキャッツの一員として、フジテレビのTV番組『おとなの漫画』に出演。

1961年 - クレージーキャッツの一員として、日本テレビの番組『シャボン玉ホリデー』に出演し、コントでの演技や、歌、「お呼びでない?…こりゃまた失礼いたしました!!!」などのギャグで、爆発的な人気を得る。

1962年 - 古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に出演し、大ヒット。以降、「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演。『スーダラ節』『ドント節』をはじめ数々のコミックソングをヒットさせた。

1964年 - 映画『無責任遊侠伝』撮影中の1月、過労が原因によるウイルス性肝炎で約1か月入院。同時期に付き人兼運転手として松崎雅臣(小松政夫)が採用される。

1972年 - 『シャボン玉ホリデー』終了。クレージーキャッツメンバーは個人での活動を主体としていくようになる。

1977年 - 東京宝塚劇場公演『王将』で主演し坂田三吉を演じる。これがきっかけで性格俳優としての評価が高まる。父・徹誠死去。

1984年 - 石井聰亙監督の過激なコメディ映画『逆噴射家族』に出演し、喜劇俳優としても健在ぶりをアピールする。

1987年 - 『新・喜びも悲しみも幾歳月』で、キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞、第10回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。

1989年 - 主演ドラマ『名古屋嫁入り物語』放送。1998年まで計10作作られる人気シリーズとなった。

1990年 - 自身の企画で、ヒット曲をメドレーにして歌った『スーダラ伝説』を発売。話題を呼び、この年のNHK紅白歌合戦に1967年以来2度目の出場を果たし、歌手別最高視聴率56.6%を叩き出す。さらにオリコントップ10入りも果たすという大記録を打ち立てた。その余波で高額納税者番付・芸能人部門でもトップ10入りを果たし、さらに記録を作った。不動産売却以外では還暦を過ぎてのランクインは他に例が無い。

1991年 - 4月7日より毎日放送制作のトークバラエティ番組『植木等デラックス』放送開始(1992年10月4日まで)。

1992年 - 全国12か所でコンサートツアー『今日もやるぞやり抜くぞ!』を開催。

1993年11月3日 - 紫綬褒章受章。

1996年 - 『あした』で、日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞。

1997年 - 連続テレビ小説『甘辛しゃん』に出演中の頃から肺気腫を患う。その影響で「思うように声が出なくなった」とこの年でコンサート活動に終止符を打つ。

1999年4月29日 - 勲四等旭日小綬章受章。

2003年 - 肺気腫の症状が悪化。酸素ボンベを携帯するようになる。俳優活動は続けるものの、体力低下のため舞台公演が出来なくなる。

2005年 - クレージーキャッツ+Yuming (松任谷由実) 名義で発売された『Still Crazy For You』の録音に参加。曲の間奏での松任谷とのセリフのかけ合いを収録する。

2006年12月21日 - 朋友である青島幸男の通夜に、酸素ボンベをつけて車椅子で参列。これが公の場への最後の出席となる。植木本人はこの頃自身の健康状態が深刻なことを理解し、延命治療はしないよう夫人らに告げていた。

2007年 - 1月に食欲不振を訴え入院。一時帰宅するが肺気腫悪化のため再入院。3月27日午前10時41分、肺気腫による呼吸不全のため都内の病院で死去。80歳没。法名は「宝楽院釋等照」。墓所は小平霊園。

2014年 - 2012年、渡辺プロダクション所有の倉庫で、行方不明とされていた1979年製作の主演映画『本日ただいま誕生』 (降旗康男監督、新世映画新社) のフィルムが発見され、渡辺プロ、東京現像所、日本映画専門チャンネルの協力の下、2年がかりでフィルムのデジタル修復が行われ、第27回東京国際映画祭で特別上映された。

人物

父の影響

植木等の父親である徹誠(てつじょう)は、かつて徹之助と名乗っており、若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となる。たいへんな社会的正義感の持ち主で、被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと思うことが、すでに相手を差別していることだ」と述べて、水平運動に参加した。治安維持法違反の罪に問われて何度となく投獄をされても、積極的に反差別と反戦を貫いて運動、戦後は日本共産党に入党し、60年安保のデモ隊にも参加するというような「行動する僧侶」だった。ただし、父は「謹厳実直」なだけの人物ではなく、息子・等から見ると「支離滅裂」で、義太夫語りになろうとしたこともあり、「いわば蕩児でもあった」という。

等の少年時代には、ステテコ一丁の徹誠が等を寺の「仏様」の前に連れて行き、物差しでその頭を叩きながら「この音を聞いてみろ。金ピカだけれども中は木だ。こんなものを拝んでもどうにかなると思ったら大間違いだぞ」と諭したという。「等」という名前は、社会運動家の顔も持っていた父が「平等」にちなんで名づけた。少年時代の等は、投獄された父に代わって僧衣を纏い檀家をまわるという生活を送っている。その経験もあってか、1993年にハナ肇が亡くなった際、その葬儀において自ら読経した。また、代表作『ニッポン無責任時代』でも、植木が演じる主人公は当初「香典泥棒」と設定されていたが、「寺の倅」として耐えられなかったのか、自ら設定を変え、「香典泥棒に限りなく近い人物」という役になっている。

素顔の植木等

植木は自身を、少年時代多くの苦労をした割に、不思議と大変明るい性格であることは認めているが、それ以外はどちらかというと頑固で、こだわりや責任感の強い人間であると述べている。『植木等デラックス』でゲストのさだまさしが、「無責任男」を「植木さんが無理矢理お作りになったキャラクター」と述べたところ、植木は「そうなんだよ、世間はあれが地だと思っているんだ」と笑っていた。黒柳徹子は植木を「有責任男(うせきにんおとこ)」と評した。

植木の人気絶頂期に付き人兼運転手として接した小松政夫の証言によれば、植木は『仕方話』 の達人で場を盛り上げるトークが得意だったが、基本的に物静かで生真面目であり、一度も頭ごなしに怒鳴られたことがなかった。ただ女遊びやギャンブルは嫌い、その点は大変厳しく指導されたという。「貧乏人の倅」を自称しており、貰った給料は小遣い代を除いてすべて夫人に渡す、食事も「どん底でも平気だ」と語っていたことを裏付けるように、毎日同じおかずでも不満を言わないくらいだった。酒も飲まなかったが、これは体質的にアルコールを受け付けず奈良漬でも酩酊しかねないくらいだったためで、本人は酒を飲んで酔える人がうらやましいと漏らしていた。小松を採用したばかりの頃、小松が酒を嗜むと知った植木は、自宅のサイドボードの飾り物と化した、貰い物のウイスキーをさして「好きなものを飲んでいいから」と勧め、小松が好きな銘柄を答えると、封を切るやビールグラスに「カポカポカポ…」と並々と注ぎ、「さぁ飲みなさい」と差し出したという。さすがに困り果て「親父さん、水や氷はありませんか?」と尋ねると、「なんだお前、酒を飲むのにそんなものがいるのか」と、驚いたという。下戸ゆえに酒の飲み方を知らなかった事から起こったエピソードである。

そんな真面目な性格であるから「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだ。父親に相談すると「どんな歌なんだ?」というので植木はスーダラ節を歌ってみた。激しい正義感の持ち主の父の前で歌ったあまりにふざけた歌詞に激怒されると思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動した。唖然とする等が理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と諭され、植木は歌うことを決意した。このエピソードは、植木が歌手として生きていく上で生涯の支えになったという。

ただし、植木には生真面目ながらも独特の雰囲気があった。日常の座談については左記の小松の証言以外にも、交友があった小林信彦が評伝『植木等と藤山寛美』で「無責任男とは別種のおかしさがあった」と述べ、更にあの独特の高笑いは「植木本来のモノ」であったという。また性格の明るさも成功前の貧乏時代からのもので、小林は「私生活がわからなかった」という。小松の紹介で植木と知り合った伊東四朗はゴルフに行った際のエピソードとして「植木さんはずっと世間話をしたままアドレスして打った。あんな人見たことない」、犬塚弘は「植木は基本的に物静かで生真面目だった。でも初対面時は、それこそ無責任男みたいに『よぉっ!』とあらわれて、こっちがあっけにとられているのをしり目に名乗りもしないで自分の気に入った落語の話をオチまでした」とかなり破天荒な面があったことを証言している。

植木自身は「男は道を自分で切り開け」という気持ちから、長男・廣司が「植木浩史」の名で歌手デビューをした時は一切のバックアップをしなかった。その長男は後に作曲家に転向、「比呂公一」名義でCMソングなどを中心に活動している。NHK-BSハイビジョン特集で放送された『スーダラ伝説 植木等 夢を食べつづけた男』では終盤に比呂が、クレージーのメンバー、犬塚弘、谷啓、桜井センリにも参加してもらい、『スーダラ節』のインストゥルメンタル曲を収録し、父・植木に贈呈する場面が登場するが、試聴後には「嬉しいねぇ」と一言呟き、目を潤ませている。

その一方で末娘の植木裕子がバレリーナとなり、ドイツを中心に活動して日本で娘が公演する時は舞台をよく見に行ったり、娘と一緒に舞台を見に行くことを関係者に語ったりしていたという。

学生時代

学生時代は陸上選手で、高校時代には100mを11秒4で走った。大学時代には東洋大学陸上競技部に所属し、関東学生陸上競技対校選手権大会にも出場している。その縁で、後に植木は母校東洋大学陸上部の名誉顧問、「箱根駅伝で優勝させる会」の会長も務めていた。また、東洋大学相撲部の後援会長も引き受けていた。そうした傍らで、この時代には既にバンドボーイのアルバイトに精を出していた。

バンドマン

大学を卒業しバンドマンとして歩み始めると同時に、ソプラノ歌手平山美智子(イタリアに長く在住し、当地の現代音楽の作曲家ジャチント・シェルシとのコラボレーションで知られる)に声楽の発声を学んだ。

ギターを始めた頃に、教則本で必死に独学した努力が功を奏して、どんな楽譜も初見で読めるようになる。当時のジャズギタリストには楽譜を読めない者も多かったといい、この技術が買われ、デューク・オクテットに採用が決まった。左肘でリズムを取りながらの演奏が特徴。

バンドマン時代に、守安祥太郎、穐吉敏子、ジョージ川口、渡辺貞夫といったジャズ・ミュージシャンたちとセッションもしており、横浜ジャズ界で伝説と言われるジャズクラブ『モカンボ』で行われた「モカンボ・ジャム・セッション」(1954年)では守安、渡辺、澤田駿吾、宮沢昭らと共に参加した。

黄金時代

国民的スターとして人気を集めた1960年代、活躍の中心は『植木等ショー』をはじめとするバラエティ番組や、『無責任シリーズ』『日本一の男シリーズ』などの東宝映画であった。高度経済成長時代を象徴するコメディアンとして1960年代に一世を風靡し、ギャグも曲をヒットした。

映画に関しては、最初はスーダラ節の大ヒットを受けて大映で2本の映画が作られたが、こちらでの植木やクレージーキャッツは主役の川崎敬三や川口浩に花を添える脇役、ゲスト出演であり、植木に主役を演じさせたいと熱望する渡辺プロダクション社長の渡辺晋が自らの足で企画を持ち回った結果、東宝からゴー・サインが出される。そして作られた2部作『ニッポン無責任時代』『ニッポン無責任野郎』は、「無責任」という流行語とともに当時社会現象となった。

この無責任男の破天荒なキャラクターについて、植木は後年「『ニッポン無責任時代』の古澤憲吾監督にはまず“笑ってみろ”と言われて何度も笑ってみたがOKが出ず、そのうち怒り出した監督から“植木君、君が演じようとしているこの男は異常なんだよ!”と言われ、それで吹っ切れてキャラが出来上がった」と回想している。

その後、『ニッポン無責任時代』の初期の企画を立てた脚本家・田波靖男のマンネリ化に対する危機感や、当時東宝の製作本部長だった藤本真澄の意向もあって、植木が演じるキャラクターも無責任型から有言実行型のスーパー・サラリーマンへと方針転換していくことになり、「『無責任』シリーズ」は「『日本一の男』シリーズ」へと変化を遂げる。一方、同時進行で製作されていたクレージーキャッツ全体を主人公とした「『クレージー作戦』シリーズ」においては、田波自身が「無責任へのアンチテーゼ」とする『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年)も製作された。

その結果、作品によっては古典的な熱血サラリーマン像も顔を覗かせるようになり、小林信彦ら初期作品の支持者に作品的低迷を批判されるようになる。ただし、小林は1963年から渡辺プロダクションでクレージーキャッツのブレーンを務めるようになり、身内として「とにかく作ればあたる」状態になった植木・クレージー映画を「冷静にみて批評することができない」と書いている。

1960年代後半になると、連戦連勝の爆発的ヒットを受けて「クレージーシリーズ」が大作化していったのに対して、植木主演の「『日本一の男』シリーズ」は、佐々木守や早坂暁などの新進脚本家や須川栄三のような時代性を如実に反映する監督の参加もあり、全共闘時代を反映してシニカルで風刺の効いたものとなっていく。1960年代末には徐々に動員力が低下し、ザ・ドリフターズのブレイクも影響して、植木の東宝映画主演は1971年の『日本一のショック男』で打ち止めとなる。このシリーズ最後の作品は、加藤茶とのコンビ主演作であった。

性格俳優としての開花

性格俳優への転機は、1977年の東京宝塚劇場公演『王将』で坂田三吉を演じたことだった。「役者として年齢的にも経済的にもラクをしたがりそうな時期だったので、これはいかん、それを乗り越えるためには冒険を」 という意気込みで臨んだものだった。

以降は、舞台出演もクレージーキャッツとしての公演・ライブに替わって、単独での演劇主演・助演が増えていく。1970年代から80年代初頭にかけては時代劇コメディ『大江戸三門オペラ』や、悪徳政治家が暗躍する『にぎにぎ』などの喜劇作品に主演したほか、谷啓率いるコミックバンド『スーパーマーケット』とのジョイントショーなど数々の作品に出演した。『シカゴ』日本初演(1983年)でのインチキ弁護士・ビリー役のように、無責任男の延長線上に拓いた新境地も少なくない。

1985年には「東宝撮影所でいつもすれ違っていて、そのたび映画に出て欲しいと思っていたのに機会に恵まれなかった」と語る黒澤明の熱烈なラブコールを受けて、『乱』に助演した。また、木下恵介監督の『新・喜びも悲しみも幾歳月』(1986年)では、日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。ただし、喜劇俳優としてのイメージを捨てたわけではなく、1984年には当時気鋭の若手だった石井聰亙が小林よしのりの原案を映画化した異色コメディ『逆噴射家族』に出演する。この映画ではアナーキーな老人役を演じて、主題歌『逆噴射家族借景』を共演の小林克也と歌う活躍も見せた。晩年の小林製薬のCMでも、クレージー時代を髣髴させる高笑いを披露している。

1990年には長年在籍していた東芝EMIとの契約が切れ、当時実質上の子会社であったファンハウスに移籍したことが転機となり、クレージー時代からのヒット曲をメドレーにしたリバイバルシングル『スーダラ伝説』が大ヒットし、オリコンベスト10入りを果たした。そしてこの年のNHK紅白歌合戦にも久々に出場した(この紅白での歌い方について、「だって歌いながら笑ってたでしょ? あんなものを紅白で…」と、後日自らを戒めていた)。

また、1993年からは明治座での堺正章座長公演への客演も恒例化し(1996年のみ単独主演『大江戸気まぐれ稼業』)、2002年まで出演したほか、中日劇場で『名古屋嫁入り物語』の舞台版を同じく2002年まで続けた。

死去

晩年は肺気腫と前立腺癌を患いながらもテレビドラマ映画を中心に仕事を続けていたが、2007年3月27日に呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳だった。法名「宝楽院釋等照」。

遺作は映画では2007年公開『舞妓Haaaan!!!』での西陣の会長・斉藤老人役、テレビドラマでは2006年日本テレビ放送『ひめゆり隊と同じ戦火を生きた少女の記録 最後のナイチンゲール』となった。

葬儀は植木の意思で身内だけの密葬として執り行われ、クレージーキャッツの一員だった谷啓、犬塚弘、桜井センリや、植木の付き人を経てコメディアンになった小松政夫も参列した。臨終の際、小松は植木の着物を着替えさせるなど、付き人として最後の仕事を務めた。本葬は、お別れの会という形で4月27日に東京都港区の青山葬儀所で「植木等さん 夢をありがとう さよならの会」として執り行われ、2,000人が参列した。葬儀委員長は谷、犬塚、桜井の3人が共同で務め、弔辞は小松、加藤茶、すぎやまこういち、松任谷由実、元内閣総理大臣・森喜朗らが読み上げた。また、渡辺貞夫がサックスを演奏し、ミッキー・カーチスと内田裕也は弔辞の後、松任谷を交えて祭壇の前で『スーダラ節』を即興で歌った。他には浜美枝、伊東四朗、水前寺清子、仲本工事、大山のぶ代、中山秀征、吉田栄作、ケーシー高峰、大竹まこと、大橋巨泉、清水アキラ、付き人だった島崎俊郎などが参列した。

2007年5月14日には母校・東洋大学主催の「植木等さんとお別れする会」が行われ、総長・塩川正十郎を始めとする300名の学校関係者が参列して植木を偲んだ。

植木の最後の愛車であった日産・シーマFY33型は、所ジョージが遺族から譲り受け、「世田谷ベース」にて保管されている。所はドラマ『オヨビでない奴!』では親子役で共演するなど親交が深く、植木のことを「お父さん」と呼び慕っていた。

主なギャグ

「お呼びでない?……お呼びでない、ね。こりゃまた失礼いたしました!」(『シャボン玉ホリデー』より)

「なんである?アイデアル」(「アイデアル傘」のCMで使われたギャグ)

「これでイーヘラ?」(ヴィックスの鼻炎薬「インヘラー」のCMから生まれたギャグ。しかしインヘラーは覚醒剤成分が含まれていたため後年に日本での販売が中止になった。現在は同じ名称の吸入器がある)

「この際カアちゃんと別れよう 」(1971年、大塚食品「ボンシチュー」(ボンカレーのシチュー版)のCMで使われたギャグ。CMのままのフレーズを挿れた楽曲がレコード化。同名のドラマまで制作された)

「ハイ!それまでヨ」

「分かっちゃいるけど、やめられねぇ」(『スーダラ節』より)

2024/06/18 07:32更新

ueki hitoshi


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