熊野輝光の情報 (くまのてるみつ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
熊野 輝光さんについて調べます
■名前・氏名 |
TOPニュース
熊野輝光
熊野 輝光(くまの てるみつ)さんの誕生日は1957年8月28日です。香川出身の野球選手のようです。
詳細情報などについてまとめました。卒業、引退に関する情報もありますね。現在の年齢は66歳のようです。
熊野 輝光(くまの てるみつ、1957年8月28日 - )は、香川県木田郡三木町出身の元プロ野球選手(外野手)。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 志度商業高校では、遊撃手として1975年の春の選抜に出場。志度商としては34年ぶりの選抜出場(甲子園出場は28年ぶり)であり大きな話題となるが、1回戦でエース小林誠二を擁する広島工に敗退。同年夏は北四国大会準決勝で続木敏之、片岡大蔵のいた新居浜商に敗れた。 卒業後は中央大学に進学。東都大学リーグでは1979年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。リーグ通算103試合に出場し、390打数90安打、打率.231、5本塁打、31打点。在学中は全試合に出場した。1979年には第8回日米大学野球選手権日本代表に選出される。大学同期に小川淳司、香坂英典がいる。 1979年のドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名されたが入団を拒否し、社会人野球の日本楽器(現:ヤマハ)に進んだ。 1980年から都市対抗野球大会に4年連続出場。社会人野球日本選手権大会で優秀選手に2度選出される。 1981年インターコンチネンタルカップ日本代表。 1984年のロサンゼルスオリンピック野球日本代表ではチームの主将を務め3番打者として打率.429を記録し、金メダル獲得に貢献した。同年の日本・キューバ国際野球大会でも日本代表となり、社会人ベストナインに外野手として選出される。 同年のドラフト会議では阪急ブレーブスから3位で指名され入団した。 1985年からレギュラーに定着し、118試合に出場。本塁打を14本記録し、新人王に選出されるなど、晩年の阪急を支えた。 1989年に阪急が身売りし、球団名がオリックスとなってからは若手の台頭もあり出場機会が年々減少していった。 1992年には勝呂博憲とのトレードで読売ジャイアンツに移籍。当初は1番打者を任せられたが、主に守備固めや代打での出場が多くなる。 1993年オフに戦力外通告を受けた。 1994年にはテスト入団でオリックスに復帰した。一軍に昇格することはできなかったが、二軍ではコーチ的な存在で若手選手を積極的に指導し、同年限りで現役を引退した。 引退後はオリックスで二軍育成コーチ(1995年)→二軍外野守備コーチ兼打撃コーチ補佐(1996年)→スカウト(1997年 - 2004年)→スカウトグループ副部長(2005年 - 2008年)→編成部長補佐兼国内グループ副部長(スカウトグループ部長)(2009年 - 2010年)を務めた。オリックス退団後は巨人大阪駐在スカウト(2012年)を経て、2013年からは阪神のスカウトに就任。 詳細情報阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更 新人王(1985年) ベストナイン:1回(1985年) 初出場・初先発出場:1985年4月6日、対南海ホークス1回戦(阪急西宮球場)、7番・中堅手として出場 初安打:1985年4月7日、対南海ホークス2回戦(阪急西宮球場)、3回裏に加藤伸一から中前安打 初本塁打・初打点:1985年4月17日、対日本ハムファイターズ2回戦(後楽園球場)、8回表に田中富生から逆転決勝3ラン 6(1985年 - 1991年) 2(1992年 - 1993年) 5(1994年) 75(1995年 - 1996年) 2024/05/16 11:56更新
|
kumano terumitsu
熊野輝光と近い名前の人
話題のアホネイター
話題の芸能人・有名人
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「熊野輝光」を素材として二次利用しています。