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片山博視
片山 博視(かたやま ひろし)さんの誕生日は1987年4月19日です。兵庫出身の野球選手のようです。
経歴、選手としての特徴などについてまとめました。現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。現在の年齢は37歳のようです。
片山 博視(かたやま ひろし、1987年4月19日 - )は、兵庫県三原郡三原町市(現在の南あわじ市)出身のプロ野球選手(投手・内野手・外野手)。左投左打。 NPBの東北楽天ゴールデンイーグルス在籍時は、大半の期間は投手であったが、2015年のみ野手へ転向していた。 博視の視は、正確には示へんの部分を崩さずに示と書く。 経歴三原町立市小学校で3年時から「三原ジャガーズ」で投手兼一塁手として軟式野球を始める。三原町立三原中学校では3年時にエースとして全国大会8強入りを果たす。 報徳学園高校入学後に硬式野球を始め、1年の秋頃からエースで4番となる。2年の時には春の第76回選抜大会、同年夏の第86回全国選手権に連続出場。選抜では東海大山形高校、全国選手権では涌井秀章擁する横浜高校と対戦し、いずれも初戦敗退。3年夏は兵庫大会で自己最多の1試合17奪三振を記録したが5回戦敗退。4番として高校通算36本塁打を記録した打者としての評価も高く、投手・野手両方でドラフト上位指名での入団が可能と言われ、ドラフトに際しては日米合わせ、10数球団に注目されていた。 2005年のNPB高校生ドラフト会議にて東北楽天ゴールデンイーグルスと広島東洋カープから1巡目で重複指名を受け、抽選の結果、楽天が交渉権を獲得。交渉の結果、投手として入団。入団当初の背番号は「28」。楽天ではNPBに加盟した前年のドラフト会議にて明治大学の一場靖弘を1巡目指名(後に入団)したため、高校生の選手を1巡目で指名した事例は、ドラフト会議が「大学・社会人ほか指名会議」と「高校生指名会議」に分かれた2005年における「高校生指名会議」の片山が初めてであった。 2006年には、シーズン早々に出場選手登録を果たしたものの、一軍公式戦への登板機会はなかった。投球フォームが固まらないことや、左肘を故障したことから、二軍でも事実上体力の強化に専念。イースタン・リーグ公式戦には1試合に登板したが、打者6人に5被安打1与死球という内容で6点を失った末に、一死も取れずに降板した。 2007年には、一軍のレギュラーシーズン最終戦の直前に出場選手登録を果たしたが、最終戦への登板は見送られた。イースタン・リーグ公式戦では、4試合(15イニング)の登板にとどまりながら、防御率1.80を記録。シーズン終了後のフェニックスリーグでは、先発投手として4勝を挙げた。 2008年には、6月に3日の対阪神タイガース戦(クリネックススタジアム宮城)に救援投手として一軍デビューを果たすと、高校時代の地元・甲子園球場で開かれた18日の同カードで一軍初先発。7月2日の対千葉ロッテマリーンズ戦(クリネックススタジアム宮城)に先発すると、被安打3という好投で一軍初勝利・初完投・初完封を記録した。また、フレッシュオールスターゲームでは、イースタン・リーグ選抜の2番手投手として登板。リーグ戦の後半に先発で中盤に崩れることが相次いだため、一軍公式戦では通算で2勝7敗という成績に終わった。もっとも、この年チームに在籍していた左腕投手のうち、一軍公式戦の先発で勝利を挙げたのは片山(2試合)だけであった。 2009年には、オープン戦で好投していたが、後に左中指の深指屈筋を挫傷。公式戦の開幕直前から6週間のノースロー調整を余儀なくされた影響で、一軍公式戦への登板機会はなかった。12試合に登板したイースタン・リーグ公式戦でも、3勝5敗、防御率5.52という成績に留まった。 2010年には、新監督のマーティー・ブラウンからリリーフへの適性の高さを見出されたことを機に一軍の救援陣に定着。シーズン当初はロングリリーフやビハインドの局面で起用されながら、登板の機会を重ねた。セットアッパーの左腕投手・有銘兼久が故障で戦線離脱してからは、セットアッパーに抜擢。与四死球が多い割に被安打が少なかったことから、通算53試合の登板で、防御率1.88という成績を残した。 2011年には、前年に続き、左のセットアッパーとして活躍。一軍公式戦には、チーム最多の59試合に登板すると、パシフィック・リーグ7位の25ホールドポイントを記録した。一方で防御率は3.43と前年度よりも悪化したが、これはシーズン唯一の先発登板試合だった6月5日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で4回裏にリーグワースト記録の1イニング10失点を喫したためで、救援登板のみでの通算防御率は1.84と低かった。なお、シーズン終了後には、井坂亮平と共にオーストラリアのウィンターリーグ(ABL)に派遣。リーグ戦で人生初のセーブを挙げた。 2012年には、開幕から調子が上がらず、出場選手登録と抹消を繰り返した。シーズン後半にサイドスロー風の投球フォームに変更。一軍公式戦には41試合に登板したが、勝利は付かず、防御率も3.77に達した。 2013年には、一軍公式戦31試合の登板で、3勝1敗、防御率3.03を記録。しかし、レギュラーシーズン後半の故障で9月1日に出場選手登録を抹消されたため、チーム初のパシフィック・リーグ優勝の輪には加われなかった。クライマックスシリーズや日本シリーズへの登板機会もなかったが、チームの日本シリーズ制覇で臨んだ台湾でのアジアシリーズでは、準決勝の統一ライオンズ戦(11月19日)に2番手投手として初登板。2回裏無死一・三塁から7回裏終了までのロングリリーフを、被安打:3・失点:1で凌いだ。 2014年には、春季キャンプ前の自主トレーニングから、先発投手への本格転向を視野に調整していた。しかし、3月のオープン戦で左肘痛を発症したため、5月中旬までは患部のリハビリに専念していた。7月30日にシーズン初の出場選手登録を果たしたが、一軍公式戦への登板はオール救援で4試合にとどまった。シーズン終了後の契約交渉では、翌2015年の契約に対し、NPBの野球協約で定められている減俸の上限(年俸1億円未満の場合には25%)を適用することを球団から通告。結局、推定年俸2250万円(750万円減)で契約を更改した。 2015年には、春季キャンプの第1クールで左肘痛が再発したため、2月9日に一軍監督の大久保博元へ野手転向を志願。翌10日には、内野手へ転向することや、背番号を91へ変更することが球団から発表された。公式戦の開幕後は、野手としての経験を二軍で積むことに専念。イースタン・リーグ公式戦には、49試合の出場で、打率.238、1本塁打、11打点という成績を残した。また、27試合で一塁、7試合で外野の守備に就いている。なお、10月4日には、支配下選手登録を解除することを球団から通告。11月9日には、育成選手として再契約を結んだことや、背番号を001へ変更することが球団から発表された。 2016年には、春季キャンプのスタートから野手として参加。キャンプ中の紅白戦では、バックスクリーンを越える場外本塁打(推定飛距離150メートル)を放った。しかし、投手時代に痛めていた左肘が回復したことから、投手として一軍復帰を目指すことを決意した。公式戦開幕直後の3月31日には、再び投手へ転向することが球団から発表された。イースタン・リーグ公式戦では11試合に登板したが、0勝2敗1セーブ、防御率4.32という成績で、支配下選手への再登録はならなかった。10月31日には、育成選手に関するNPBの規約により、自由契約選手として公示。公示後に、育成選手としての再契約に至った。 2017年には、レギュラーシーズンの開始前に、左肘内側側副靱帯の損傷と左肘頭の疲労骨折が判明し、3月16日に靱帯を再建する手術を受けた。遊離体の摘出や左上腕骨の固定を伴う手術で、全治に10か月を要することが見込まれたため、実戦登板の機会はなかった。10月1日に球団から戦力外通告を受けた後に、同月31日付でNPBから自由契約選手として公示。 NPB他球団での現役続行を希望していたことや、実戦で投球できるまで左肘が回復していたことから、2017年11月15日には投手として12球団合同トライアウト(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)に参加。シートバッティング形式で4人の打者と対戦したところ、1被安打と1与四球ながら、2人の打者から三振を奪った。 これに対し、武蔵ヒートベアーズ新監督の角晃多が、片山にコーチ兼任での入団を打診。NPB他球団からの獲得のオファーがなかった片山は、1年でNPBへ復帰することを目標に武蔵へ入団することを決めた。ちなみに、角はロッテ在籍時にイースタン・リーグのロッテ戦に投手で登板した片山と対戦したこともあった。 2017年12月6日に、武蔵ヒートベアーズが片山の入団を発表した。2018年シーズンは投手としての契約で、投手コーチも兼務する。背番号は37。 2019年には背番号を99に改め、オーバーエイジ枠の都合上ヘッドコーチに専念していたが、7月9日にコーチ兼内野手として現役復帰した。同年はコーチとして松岡洸希(同年のドラフト会議で埼玉西武3位指名)を育てている。 2021年はコーチを兼任しながらも主力野手としてチームトップタイの60試合に出場。8・9月は打率.437を記録し、東地区野手部門月間MVPに選出された。チームの野手部門MVPにも選ばれ、最終的に打率.361で東地区の首位打者となり、リーグのベストナイン(一塁手部門)にも選出された。12月8日にはメットライフドームで行われた12球団合同トライアウトにも参加した。12月21日、来シーズンの役職がヘッドコーチ兼任に変更されたことが発表された。 2024年シーズン開幕後の4月23日、「球団規定及びリーグ契約書に反した」ことを理由に、同日付で自由契約により退団したことが発表された。同シーズン、埼玉では公式戦出場は投打ともになかった。 4月26日、埼玉と同じリーグの福島レッドホープスに入団することが発表された。背番号は66。 選手としての特徴投手としては、190cmを超える長身から投げ下ろす平均球速約141km/h、最速147km/hのストレートに、2種類のスライダー、スローカーブ、チェンジアップ、フォークボールを投げる技巧派サウスポー。スライダーについては、楽天への入団後のインタビューで、「一番得意なボール」と答えている。2012年頃からは、ストレートとスライダーを軸にシュートやチェンジアップを組み合わせる一方で、カーブをほとんど投げなくなった。ストレートは「綺麗な真っ直ぐではなく、ボールが自然に動く」と語っており、目立つほどの球速ではないが、ストレートの被打率は2008年度のパシフィック・リーグ投手5傑に入った。ただし、左投手ながらも左打者が苦手。変化球の失投を痛打されることが多いことや、与四死球が多いことを自身の課題に挙げていた。 その一方で、高校時代に通算36本塁打を記録するほどの長打力や、野手としての潜在能力も注目されていた。楽天への入団後には、ブラウンの前任監督・野村克也が一時、打者としての適性の高さを見込んで野手への転向プランを公言。片山本人にも、転向を勧めていたという。 2024/05/18 20:27更新
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katayama hiroshi
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