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田部武雄の情報 (たべたけお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【1月29日】今日誕生日の芸能人・有名人

田部武雄の情報(たべたけお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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田部 武雄さんについて調べます

■名前・氏名
田部 武雄
(読み:たべ たけお)
■職業
野球選手
■田部武雄の誕生日・生年月日
1906年3月28日 (年齢1945年没)
午年(うま年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
広島出身

田部武雄と同じ1906年生まれの有名人・芸能人

田部武雄と同じ3月28日生まれの有名人・芸能人

田部武雄と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


田部武雄と関係のある人

白石勝巳: 巨人は帰国後の夏季大会からリーグ戦に参加するが、内紛によって田部武雄・三原脩(8月復帰)・水原茂(11月復帰)ら主力選手が退団したこともあり、6月から7月にかけての夏季大会で惨敗を喫してしまう。


田部輝男: 田部武雄の従兄弟。


真野春美: 田部武雄(後に東京倶楽部、藤倉電線でもチームメイトになる)を外野に追いやって、遊撃手のレギュラーとして活躍した。


堀尾文人: この遠征で最も活躍したのは沢村栄治と田部武雄であったが、当時は日本からの移民の門戸は閉ざされており、日本国籍の選手がアメリカでプレーすることは不可能だった。


小川年安: 相手投手は同窓の田部武雄だった。


小西得郎: 1936年秋、小西は大学の後輩である田部武雄に、「職業野球の新球団として、岐阜県に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)というチームを作るので監督になって欲しい」と依頼される。


小川年安: 1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄と、夏の選手権は八十川胖とバッテリーを組み、更に打線も山城健三、三浦芳郎、中尾長らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂らのいた高松商業に決勝で敗れた。


中尾長: 翌1927年選抜は田部武雄、八十川胖両好投手を擁し、打線も中尾も含め山城健三、三浦芳郎らを揃え広陵野球部史上最強チームと言われた。


谷川昇: 県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)で鈴木剛や田部武雄の兄・謙二と同学で親友であった。


宮武三郎: 加えて当時は、三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)、伊丹安広(早大)、若林忠志(法大)苅田久徳(法大)、島秀之助(法大)、田部武雄(明大)、松木謙治郎(明大)、菊谷正一(立大)ら多くのスター選手が活躍しており、東京六大学リーグ戦はたいへんな人気を博していた。


津田四郎: 1936年、第二次アメリカ合衆国遠征に際して田部武雄の後を受けて第3代巨人軍主将に任命される。


岡田源三郎: 1935年秋までの在任中、二出川延明、湯浅禎夫、田部武雄、松木謙治郎ら多数の名選手を育てた。


田部武雄の情報まとめ

もしもしロボ

田部 武雄(たべ たけお)さんの誕生日は1906年3月28日です。広島出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

現在、兄弟、事件、卒業、姉妹、母親、病気、引退、結婚に関する情報もありますね。1945年に亡くなられているようです。

田部武雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945年6月)は、広島県広島市袋町(現在の中区)生まれのプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。大日本東京野球倶楽部→東京巨人軍創成期の1番打者、主将。巨人で最初に背番号3を着けた選手(現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもある)。戦死した日本のプロ野球選手の一人。その華麗な守備と俊足で日米の野球ファンを湧かせた。身長5尺3寸(161 cm)、体重14貫(52 kg)。

広島市立袋町小学校で二学年下の加藤喜作と何故か同級。8人兄弟の5番目で早くに父を亡くし家庭の事情は複雑だったといわれる。次兄・謙二(のち養子縁組し渡辺姓となる)は、1915年に初開催された全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に広島一中(現・広島国泰寺高校)の6番・捕手として出場した。この試合で指を痛め付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話が残っている。その後、大阪毎日新聞広島支局の記者となり、1920年5月にセミプロ野球団「大阪毎日野球団」の結成に、阿部眞之助監督に次ぐコーチ兼任格として参加。1924年から始まる選抜高等学校野球大会開催にも関与したが、早くに亡くなった。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めた。同じ袋町小学校出身の加藤喜作と少年野球チーム・旭ボーイズに所属していたという。

袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学するが、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなり、広島市内から田部の係累が全部消え、長兄・真一、三兄・正三をたより満洲に渡った、或いは学校あげての野球部満洲遠征のメンバーに加えられなかった不満から、他に天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられたなどの説がある。菊池清麿は複雑な家庭環境によるものではと推察している。当時の満洲は大日本帝国の辺境ではあったが「運動王国の満洲」「日本のフィンランド」とも呼ばれ、スポーツの世界では先進地域であった。このため16歳で単身満洲・奉天に渡り、サラリーマンをしながら1924年、大連実業団(以下、大連実業)に参加し野球を続ける。六大学出身の花形選手が揃っていた当時の大連実業でレギュラーポジションを掴む。田部、谷口五郎(岩瀬五郎)、山本栄一郎らの大連実業と中澤不二雄が主将だった満洲倶楽部との戦い"実満戦"は"大連の早慶戦"と呼ばれたが、両チームの背後には満洲社会の二大勢力が控えており、満洲野球界は、学校のライバル関係を基礎とする内地の野球界とは大いに性質を異にしていたといわれる。勤務先は満洲の営口実業団の後、東華銭荘に就職した。戦前の20年間を大連で暮らした清岡卓行は、田部の大ファンで、田部目当てで試合や練習を度々見に行ったと著書『大連港で』に書いているが、1924年当時の田部の勤務先は銭荘(両替所)だったと書いている。芥川賞受賞作『アカシヤの大連』でも田部についてふれられている。

1926年秋には大連実業の1番二塁手として内地を転戦。1927年、大連実業の明大OB・中島謙監督と小西得郎から、明治への進学を勧められ帰国し、大連実業に籍を置きながら広陵中学四年に復学。復学か短期間の転入かは不明。当時広陵から多くのOBが明大野球部に進んでいた。広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年4月2日復学」と書かれているため、大道文(田村大五)は「退学したときの学年」に正直に戻り、当時中学は5年が修了期限であったが、四年修了と同時に大学に進学することも可能だったため、大学へ行く資格を取るために編入したのだろうと推理している。この頃春の選抜大会には年齢・学年とも制限が無かったため、この年21歳にして甲子園に出場。この前年度初優勝して「野球王国」広島の礎を築いた広陵は、八十川胖(のち明大、八十川ボーク事件で有名)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(通称:ベーブ山城、立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われ、春連覇を狙い田部がエース3番として勝ち進み決勝までいくが、快速球左腕小川正太郎の和歌山中学(和中)の前に敗れた。この大会、決勝まで打ちまくり、走りまくりで、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかった。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていたが叶わず、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたという。しかし大投手・小川から7回裏に公式戦で初めての被本塁打(ランニングホームラン)を浴びせている。同年夏の選手権は「他チームでの在籍は1年のみ」という制限に引っ掛かり、田部は出場できなかった(代わってエースとなった八十川が2回戦、対敦賀商業戦で史上2人目のノーヒットノーランを達成するなどして勝ち進むが、またしても決勝で水原茂らのいた高松商業に敗れた)。

この年、夏選手権が終わるとまた広陵中を退学し大連実業に復帰。第1回全日本都市対抗野球大会の満洲代表を決める"実満戦"に、遊撃手または二塁手として3番や1番を打ったが、一勝二敗と不覚をとり、第1回都市対抗には出場が出来なかった。実満戦は年に一度、初夏に行われた定期戦で、1927年9月には大連実業の選手として内地に遠征。早大に1勝1敗、慶大に勝ち、明大に負けたが、いずれも接戦。その後、大毎野球団に2連敗、ダイヤモンド倶楽部に引き分けたものの、宝塚運動協会、関大を破り、朝鮮で4戦4勝してチームは帰連したが、田部は内地に止まり、翌春明大に進学したとされる。このような田部の目まぐるしい動きが問題視され、1928年から実満戦は試合の2週間前に大連に居住し勤務するもののみ出場できることとするルールができた。  

1928年9月19日鮮満遠征で来た明治大学との試合では、大連実業の1番遊撃手として登場。ピッチャーが一塁に山なりの牽制球を投げるのを見てとると、三塁から脱兎の如く本塁を駆け抜け見事ホームスチールを成功させた。逆に同年秋に田部のいた大連実業が東京に遠征して早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学と対戦したとする文献もある。田部のように実力十分な選手が加わることで、チーム力がすぐに上昇する現実が、中学校の選手争奪戦を激しくした。こうした田部の放浪生活は満洲に続き、内地の中等野球でも問題となり、中等野球選抜、選手権大会とも「在学一年以上」「落第生の出場禁止」など出場資格についての制限が1932年に施行された野球統制令に加えられた。1928年、22歳で明治大学の3年に進学。3月8日の関西大学戦に2番遊撃手として出場した。明治の進学は同大学のOBである小西得郎や安藤忍、中島謙や、広陵の同期・銭村辰巳らが関与したといわれる。「広陵学園野球クラブ会員名簿」には昭和4年(1929年)広陵を卒業と明記されているため、広陵中に籍を置いたまま明治大学に進学したことになる。菊池清麿は、広陵を卒業した昭和4年(1929年)は、明治大学に既に入学していて、二重学歴となるが、個人の才能を十分に伸ばすという大らかな教育事情に従ったと推察している。この入学問題のため「明大は田部を買った」「球界の不祥事」などと大きく批判された。明治入りした田部はすぐにレギュラーを確保、主に二塁と遊撃を守ったが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取った。踏み出した左足を地面に付けて、やや遅らせて球を投げるというボークすれすれの新しいモーションを編み出し、この投げ方は当時流行した。また後輩・八十川胖が田部を真似て後年、八十川ボーク事件の遠因となった三塁に偽投し、反転、一塁へ牽制球を投げるという戦法も田部が編み出したもの。走者として塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし片足を突き出してピッチャーを威嚇、大騒ぎする観客の中、まるで隣の家に行くように盗塁を簡単にやってのけた。また、俊足強肩の外野手としても知られ、後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)の社長を務めた保坂誠は、「慶明戦でセンターを守っていた田部が、ランナー三塁で大きなセンターフライを背走して好捕。97.8mぐらいのところから、1メートルくらいの高さのバックホームをしてランナーを刺した。後にも先にもあんなプレーは見たことがない」と、今でも強烈な印象が残っていると話していた。全てを兼ね備えた天才選手といわれ明治の黄金時代に貢献。リーグ通算67試合出場、259打数56安打、打率.216、0本塁打、22打点、36盗塁。東京六大学を代表する美男子ともいわれ、明治の練習に女性がくれば九割が田部のファンで、同級(年齢は違う)だった松木謙治郎は田部ファンからの差し入れのケーキや寿司をよく回してもらったという。当時、田部と書かれたサインの多くは松木の代筆だという。『明治大学野球部史』にも「昭和初期に最も“神宮の杜”を沸かせた選手」とある。ただし、先の入学問題と相まって「スタンドプレーの標本」などと悪口を言われた(この時代の活躍については大和球士著、『真説 日本野球史 《昭和篇その一》』に詳しい)。1931年、初来日したルー・ゲーリッグら米大リーグ選抜チームと対戦する日本選抜チームに外野手でファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場。大学の先輩・小西得郎が可愛がり小西の神楽坂に自宅に居候していた。小西は「私の六十年の野球生活の中でみてきた選手では、飛び抜けた存在だった」と評している。

1932年明治大学を卒業後、東京市の深川にあった藤倉電線に入社。東京倶楽部の一員として第6回全日本都市対抗野球大会に出場。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場するが、この大会優勝した全神戸に田部の三塁への暴走等で敗れた。明治在学中から日活のトップ女優であった伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせた。しかし仲が良かった苅田久徳の著書他によると本命は東京日本橋の老舗乾物問屋のお嬢さんで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消したといわれる。日本を去って南洋ジャワ島の開拓に行ったと当時の雑誌に書き立たれたが、実際は山口県の小さな鉄道会社の身を落ち着けた後、1934年に福岡県の九州電気軌道(西日本鉄道の前身)に転職し、車掌をしていた。

関係者が奔走し、たまたま地方紙の記者が田部の存在を知っていたため1934年、満洲・朝鮮の有名選手の「全日本チーム」入りを口説いた帰途の三宅大輔に勧誘され、3年ぶりに上京し大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。結成時の背番号は3。仲立ちしたのは小西得郎で、大日本東京野球倶楽部在籍時には松本瀧藏宅に住んでいたという。初代主将二出川延明の退団に伴い、2代目主将となる。東京六大学出身で端整なマスクに、ショーマンシップ溢れたプレースタイルは、男女問わず非常に人気が高かったといわれる。また伝説的な韋駄天選手として知られ、1935年の第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして105試合で110盗塁という驚異的な数字を記録、また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、アメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた。帰国後、巨人が巡業試合で東京鉄道局野球部(現JR東日本硬式野球部)に2敗したため、東京鉄道局の藤本定義が巨人の監督に招聘されたが、東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治だった。東京鉄道局は田部対策として内野安打での出塁を防ぐ前進守備の田部シフトを敷いた。

背番号が1となった翌1936年、2月5日に日本職業野球連盟が結成され、巨人2回目のアメリカ遠征壮行会と名古屋金鯱軍の結成記念を兼ねて行われた現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合(鳴海球場)では、母親病気で広島に帰省していたが、巨人の初戦の敗戦で急遽球団から呼び寄せられ2月11日の第3戦に間に合い、貴重な二塁打を放ち巨人の二連勝に貢献した。直後の2月14日からの第2次アメリカ遠征では、全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板した。沢村と二人だけ写真入りで取り上げられ共にメジャーリーグから勧誘を受けた。帰国後、主将としての役目上選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団(主将の後任は津田四郎)。沢村を先頭として選手たちのあいだにチーム内の学閥に対する不公平などへの不満があり、渡米前に他チームへ移籍させられた三宅大輔と苅田久徳の復帰、頼りない浅沼誉夫新監督の勇退を要求する声が強く、田部主将と水原茂副将を中心に、署名捺印を連ねての正力松太郎に直訴したが受け入れられなかった。田部と浅沼は八十川ボーク事件で因縁があり、浅沼は田部を嫌っていたといわれる。田部と水原はアメリカから帰国後は三宅が監督となった阪急軍に転じるつもりであったが、移籍は認めないという規定が契約書に含まれており窮地に追い込まれ、同年日本初のプロ野球リーグが開幕したが、結局、プロ野球には身を投じなかった。

同年秋、岐阜県在住の田部の後援者が、田部を筆頭に杉田屋守らと関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団を計画するがマスコミ発表のみで頓挫。その際、コーモラントの幹部から料亭で千円という破格の契約金を記した小切手を提示され、水原は断ったが田部は受け取った。しかし有力者の事業の失敗で話は潰れ小切手は不渡りとなった。このため水原は巨人軍に復帰できたが、田部はプロ野球への道は閉ざされたという説がある。しかしこのチームの監督を田部が小西得郎に薦め、頓挫した事で大東京軍のマネージャーに相談、これが縁で鈴木龍二に会った小西が鈴木の気性に惚れ、その後職業野球とかかわる事になった。小西は「ぼくが明大入りの橋渡しをした田部のすすめで、実はぼくは"プロでやってみよう"という気になったんだよ。後年、私が日本のプロ野球に少しでもお役にたてたとしたら、いってみれば田部のおかげなんですよ」と話している。

こうして田部は1936年(1937年とも)日本を去り再び満洲大連に渡る。当時の大連は日本から続々と、大きな仕事をやろうと胸をふくらませた男たちが渡って行った時期。田部はトラック運送業を始め事業も成功した。大連実業に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれる。1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場(準優勝投手)。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせた。1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場。1944年、大連で現地召集され、戦況悪化の激戦地、沖縄に向かう。

1945年、地上戦最中の6月、沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡したとされるが、没日ほか詳細は不明。満39歳没。 東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

1969年、野球殿堂入り。

松木謙治郎の著書「タイガースの生いたち―阪神球団史」の中に田部の記述がある。松木と同じ1932年、明治大学を卒業した田部が雑誌の取材で“暁の超特急”といわれ同年ロサンゼルスオリンピックに出場し、東洋人としては初めて陸上短距離で入賞した吉岡隆徳にどちらが速いか、と挑戦し神宮球場で競争した。馴れない陸上用のスパイクながら後半までリードしたと言っていた。吉岡は当時世界で一番速いとも言われたので、これが本当なら50mなら田部が世界一速かったという事になる。松木は数多くの俊足選手を見てきたが、スタートダッシュの速い事にかけては田部に及ぶものがない、と信じているという。

従弟の田部輝男はプロ野球リーグ入りした。広陵、立教大学を経て、戦後にプロ入り。結城ブレーブス(国民リーグ)、西日本パイレーツ、西鉄ライオンズなどでいずれも主力選手として活躍した。選手層の薄かった創設年の西日本、西鉄では四番も打った。引退後は芝浦工業大学の野球部監督を長く務め、同校を東都大学の強豪チームに育て、また片岡新之介、河村健一郎、伊原春樹ら多くの後進を育てた。

田部は大連に戻った1942年に結婚して長男が生まれている。島岡吉郎は「田部の子は明大中野高校を卒業したんですが明治大学には来なかったです」と話している。安藤忍が東映フライヤーズの監督をしていた1950年から1952年まで面倒を見ていたらしく、小西得郎は「長男が東映フライヤーズでバットボーイをしていたはず」と話している。その後田部夫人と長男は野球関係者に連絡を取ることはなかった。松木謙治郎は1957年に大映スターズの監督として沖縄へ行った時、沖縄摩文仁海岸の崖の上でひっそりと祈る夫人と長男を見たと話している。

一軍公式戦出場なし

野球殿堂特別表彰(1969年)

3(1935年)

1(1936年)

^ 満洲倶楽部は南満洲鉄道のチームで、それ以外の会社の連合チームが大連実業。

^ 満洲鉄道のチームで、正式名称は「大連満洲倶楽部」。

^ この年の"実満戦"で、大連実業に勝った満洲倶楽部が本大会で優勝、田部が抜けた翌1928年の第2回都市対抗では大連実業が満洲倶楽部を降し本大会に出場し優勝した。

^ 1920年代の後半から年5試合となるが、それ以前は年3試合だった。

^ 水原はやがて有力者の尽力で巨人軍に復帰。田部は妥協しなかったという。

^ 高嶋航『満洲スポーツ史話(I)』京都大學文學部研究紀要 pp.164,190–191,195,206–208,211–214:(2011-03-05) - 京都大学学術情報リポジトリ紅

^ ベースボールマガジン、1977年7月号、195-210頁、大道文(田村大五)「歴史再発掘 プロ野球の謎とロマン② 幻の天才走者・田部武雄」

^ #菊池11頁

^ 背番号変遷|読売巨人軍公式サイト - 読売ジャイアンツ、【ありがとう八十年(167)】長嶋茂雄、契約金は巨人が一番低かった…背番3はこだわりなく

^ プロ野球OBクラブ-千葉茂コラム第5回

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^ 【満州文化物語(9)】花開いた野球 熱狂の「実満戦」 都市対抗で最強だった

^ 『大連港で』清岡卓行、福武書店、1987年、266-292頁

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^ 『阪神タイガース 昭和のあゆみ(プロ野球前史)』株式会社阪神タイガース、1991年、p112

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^ したいざんまい

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^ #われら野球人197-198頁

^ 2014年はプロ野球80周年だが、プロ同士の初の試合からは78年 | 週刊ベースボール、日本プロ野球はこの一戦から本格的に始まった。80年前の歴史的試合を当時の新聞から振り返る、自動車学校に生まれ変わったスタジアム(第842回)日本初のプロ野球試合の舞台は今

^ 野球できる幸せ胸にプレーを: 蛭間豊章記者の「Baseball inside」

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^ 『明治大学野球部史〈第1巻〉』、272頁

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^ 小西得郎『したいざんまい』 実業之日本社、1957年、131、132頁

^ 『大連港で』、p286

^ 『大連港で』、p285

野球叢書〈守備の巻〉、田部武雄、横井春野共著、1930年

越智正典『ジャイアンツの歴史』恒文社、1974年。 

明治大学野球部史〈第1巻〉、駿河台倶楽部明治大学野球部史編纂委員会、1974年7月

高校野球百年、久保田高行、時事通信社、1976年4月

ベースボールマガジン、1977年7月号、195-210頁、大道文(田村大五)「歴史再発掘 プロ野球の謎とロマン② 幻の天才走者・田部武雄」のち、『プロ野球選手 謎とロマン』の一章として恒文社から単行本化(1978年)、その後『プロ野球 豪傑伝』として再編集されベースボール・マガジン社から再刊された(1986年、ISBN 978-4-583-02596-4)。

真説 日本野球史、大和球士著、ベースボール・マガジン社、1977-1981年

読売新聞社会部『われら野球人』ベースボール・マガジン社、1977年。 

もうひとつのプロ野球 山本栄一郎の数奇な生涯、佐藤光房著、 朝日新聞社、1986年1月、ISBN 978-4-02-255448-2

大連港で、清岡卓行著、福武書店、1987年3月

「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史、文藝春秋、1988年8月

野球殿堂物語、神田順治著、ベースボール・マガジン社、1992年9月

菊池清麿『天才野球人 田部武雄』彩流社、2013年12月。ISBN 978-4-7791-1958-3。 

広島県出身の人物一覧

明治大学の人物一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

殿堂一覧 田部武雄|財団法人野球体育博物館

鎮魂の碑(野球殿堂博物館)

戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館)

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治, 鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一, 二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義, 藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂, 西沢道夫

78 松木謙治郎, 浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘, 小鶴誠

81 飯田徳治, 岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳

88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一

89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎

90 真田重蔵, 張本勲

91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎

92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男

93 稲尾和久, 村山実

94 王貞治, 与那嶺要

95 杉浦忠, 石井藤吉郎

96 藤田元司, 衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫, 小山正明

02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎

03 上田利治, 関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治, 森祇晶

06 門田博光, 高木守道, 山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二, 堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学, 津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹, 工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜, 金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾, 山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信, 黒田博樹

25 イチロー, 岩瀬仁紀

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一, 平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

25 掛布雅之

59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿

60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登, 宮武三郎, 景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三

69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧

70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚

71 小西得郎, 水野利八

72 中野武二, 太田茂

73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄, 西村幸生

78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎

79 平沼亮三, 谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫, 小川正太郎

82 鈴木龍二, 外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄, 山内以九士

86 中河美芳, 松方正雄

87 藤田信男, 山下実

88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一

89 池田恒雄, 伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征, 村上實

96 牧野直隆, 保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志, 井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟, 長谷川良平

02 中澤不二雄, 生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守, 豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規, 君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎, 大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男, 村山龍平

16 松本瀧藏, 山中正竹

17 郷司裕, 鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉, 石井連藏

21 川島勝司, 佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

25 富澤宏哉

02 フランク・オドール, 正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄

日本の野球選手

広陵高等学校出身の野球選手

明治大学野球部の選手

明治大学出身の人物

東京倶楽部の選手

全藤倉及びその前身チームの選手

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2025/01/28 13:45更新

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