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緒方洪庵の情報 (おがたこうあん)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

緒方洪庵の情報(おがたこうあん) 蘭学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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緒方 洪庵さんについて調べます

■名前・氏名
緒方 洪庵
(読み:おがた こうあん)
■職業
蘭学者
■緒方洪庵の誕生日・生年月日
1810年8月13日 (年齢1863年没)
午年(うま年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
岡山出身

緒方洪庵と同じ1810年生まれの有名人・芸能人

緒方洪庵と同じ8月13日生まれの有名人・芸能人

緒方洪庵と同じ出身地岡山県生まれの有名人・芸能人


緒方洪庵と関係のある人

宗方脩: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年)


佐野常民: 1846年(弘化3年)、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、1848年(嘉永元年)には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、さらに紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。


宮内敦士: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年 - 2011年、NHK) - 弓月王 役


杉浦太陽: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年、NHK総合) - 耕介 役


集貝はな: モンスターストライク(2016年 - 2024年、ミョルニル、ベビーアーク、プラム、巴御前、道明寺あんこ〈やつはし〉、マグ・メル〈メル〉、ラブリードリィ、リチャード1世、キャロル、ラミエル、シロアラント〈シロアリ〉、クリスマスの大楽聖 ベートーヴェン〈雪だるま〉、タコタコ・ブラザーズ、緒方洪庵


山崎裕太: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜 第3回(2009年、NHK) - 富沢 役


高橋留美子: 医院の創設者である曽祖父・高橋辰五郎は明治時代に大阪の産婦人科医、緒方正清(緒方洪庵の義理の孫)の下で研修し、帰郷後は新潟県の近代産婆(助産師)教育に貢献している。


芦屋小雁: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年、NHK) - 赤穂屋 役


中井正一: 日本最初期の帝王切開で、執刀医の緒方正清は緒方洪庵の孫娘の婿。


武智健二: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜第6話(2009年、NHK)


武田鉄矢: ただし、『白夜行』の大阪府警・笹垣潤三役(神戸弁)や『純と愛』の狩野善行役など、関西弁で話す役柄を演じることが度々あり、『JIN-仁-』で緒方洪庵役を演じた際には、緒方の大坂居住歴が長いことに着目し、当初共通語であった台詞を上方言葉に改めて演じた。


緒方章: 幕末の蘭方医・緒方洪庵の孫。


荒木宏文: 蘭RAN 緒方洪庵 浪華の事件帳(2018年5月6日 - 13日、大阪松竹座 / 5月16日 - 20日、新橋演舞場 ) - 在天楽人 / 若狭 役


団時朗: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜 第3回「闇の守護神(2009年) - 調所広郷


福澤諭吉: 緒方洪庵もこれからの時代は英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。


今井朋彦: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年、NHK) - 村越平八郎 役


上杉祥三: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜第1話(2009年1月、NHK総合) - 山城屋


福澤諭吉: そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。


窪田正孝: 翌2009年には主演ドラマ『浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜』で時代劇にも初挑戦する。


長与専斎: 実業家の岩崎弥太郎、弥之助兄弟、幕末の志士・松方正義、後藤象二郎、首相経験者の山本権兵衛、加藤高明、幣原喜重郎、そして師にあたる緒方洪庵や福沢諭吉とも親戚関係である。


緒形幹太: 陽だまりの樹(2012年、NHK BSプレミアム) - 緒方洪庵


木下ほうか: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年1月、NHK) - 加島屋


南原伸二: 洪庵と1000人の若ものたち(1963年、MOMプロダクション/共同映画) - 主演・緒方洪庵 ※緒方洪庵没後百年記念作品


佐野学: 父・佐野雋達(しゅんたつ、1841(天保12)-1913(大正2))- 緒方洪庵、アントニウス・ボードウィン、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから医学を学び、1880年(明治13)に開設された大分県病院兼医学校(現:大分県立病院)の副院長兼副校長に就任(院長は鳥潟恒吉)、医学誌「碩田医報」を明治14年に刊行した。


田中芳男: 養家の姉妹の夫に、判事の三沢元衛(今村信行の実弟)、医師の緒方惟準(緒方洪庵次男)、箕作麟祥がいる。


大村益次郎: 同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。


佐藤永典: 蘭 ~緒方洪庵 浪華の事件帳~(2018年5月16日 - 20日、新橋演舞場) - 瓦版屋三吉実は隠密同心 桂木一郎 役


草川祐馬: 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年2月、NHK)


大村益次郎: 福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、


大村益次郎: 緒方洪庵の孫・緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として、益次郎の適塾時代は「伝えるところによれば、村田は精根を尽くして学び、孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。


緒方洪庵の情報まとめ

もしもしロボ

緒方 洪庵(おがた こうあん)さんの誕生日は1810年8月13日です。岡山出身の蘭学者のようです。

もしもしロボ

結婚、卒業、母親、事件、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1863年に亡くなられているようです。

緒方洪庵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。

大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中国足守藩士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は、豊後大神氏の分家の豊後佐伯氏の分家で、佐伯惟定の弟・惟寛を祖とする。8歳のとき天然痘にかかった。

文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となった父と共に大坂へ出た。

文政9年(1826年)7月に中天游の私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。

天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。同7年(1836年)には長崎へ遊学し、出島のオランダ人医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。

天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。

弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。

嘉永2年11月1日(1849年12月15日)に京都に赴き、滞在7日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を得、古手町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方で、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。

安政5年4月24日(1858年6月5日)には洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。

万延元年(1860年)、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。

伊東玄朴らの推挙を受け、文久2年(1862年)に幕府の西洋医学所頭取として出仕の要請を受ける。一度は健康上の理由から固辞するが、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられた。

文久3年6月10日(1863年7月25日)、江戸下谷御士町の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市北区同心1丁目龍海寺、東京都文京区向丘2丁目高林寺。戒名は「華陰院殿前法眼公裁文粛居士」。明治42年(1909年)6月8日、贈従四位。

武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。

当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせてしまい、牛痘法を学んだ。

洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。

日本最初の病理学書『病学通論』を著した(1847年刊行開始、1857年刊行完)。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5、6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布するなど、日本医学の近代化に努めた。

人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。

塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それは極めて厳格で、子の緒方平三と緒方四郎が、預けられた加賀大聖寺藩の渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。

語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している。原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。

福澤諭吉が、適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。堂島新地5丁目(現・大阪市福島区福島1丁目)にあった中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。

洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。

診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。特に和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな」という悲痛な作品を残している。

江戸での洪庵は将軍徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。洪庵の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことであると述べている。

人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり、顔が広かった。大坂城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。

晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。

洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎の歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(住友史料館主席研究員海原亮の見解)。

適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。

妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。時に洪庵が叱責すると、それをなだめつつ門弟を教え諭すことも多かった。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から明治政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。八重の甥に紙幣製造に貢献した化学者の岸本一郎(1849-1878年)がいる。岸本は緒方宅で育ち、幕府派遣の英国留学生に選抜され、日本の最初期の化学留学生としてロンドンで学んだ。

次男緒方惟準(これよし、1843-1909、幼名平三、のちに章、洪哉、字は子縄、通称は洪斎、号は蘭洲 )

三男・緒方惟孝/緒方城次郎(1844-1905)。慶応元年幕府のロシア留学生となり、帰国後大蔵省入省、新潟県判事、帝国大学病院薬局取締を経て、退官後緒方病院薬局長を務めた。

第10子で五男の緒方惟直(1853-1878)は早くからフランス語を学び、1873年のウィーン万国博覧会で通訳を務めた。1875年にイタリアへ渡り、トリノで日本語教師となる。翌年当地の女性Maria-Giovanna Serotti(1855.8.14パドヴァ〜1890.10.27ヴェネツィア, 母ジョヴァンナ・ポレーゼ, 父ヴィンチェンツォ・セロッティ)と結婚。長女エウジェニア豊(1877-1967年)が生まれる。惟直は1878年に25歳で死去。豊は1890年に母親も亡くし、1891年に緒方家に引き取られ、加陽光太郎を婿養子に迎え二男三女をもうけた。

第12子、六男の緖方收次郞(1857-1942)は、東京医学校を1881年に卒業し、東京大学雇及医学部眼科当直医となり、1883年東京大学御用掛、1886年に東京帝国大学助手となるも翌年辞職して緖方病院副院長となり眼科及外科の診察を担当。1889年から3年間滞欧し、帰国後緖方病院の院長を務めた。その長男の緒方洪平は京都府立医科大学教授。三女・三重子は、横浜正金銀行役員のほか日本綿花監査役などを務めた平野珪蔵に嫁いだ。五女・淑子の夫・福沢八十吉は福沢諭吉の孫(諭吉の長男・一太郎の長男)。

第13子で八男の緒方重三郎(1858-1886)

四女の八千代は洪庵の弟子・緒方拙斎(1834-1911、旧姓・西)を婿とした。拙斎は適々斎塾を継ぎ、緒方惟準らと1887年に緒方病院を設立、1889年には大阪慈恵病院を設立した。その長女・千重(1861-1914)は緒方正清(1864-1919、旧姓・中村)を婿に迎えた。正清は帝国大学医科大学卒業後欧州に留学し、ベルリン大学ではロベルト・コッホに師事、帰国後、当時私立三大病院のひとつになっていた緒方病院の産婦人科長となり、その後は独立し、大阪今橋に日本初の本格的な産婦人科専門の緒方婦人科病院を設立。産婆に代わって助産婦という語を提唱し、助産婦教育所、助産婦学会を設立するなどして産婦人科の発展に寄与した。正清の病院は養子の緒方祐将が継ぎ、その子、孫と継承されている。

孫の緒方知三郎と緒方章はそれぞれ病理学者と薬学者である。

曾孫の緒方富雄は東京大学で血清学の研究を行い、日本の血清学の基礎を固めた。昭和23年(1948年)3月に財団法人血清学振興会を設立し、血清学領域の基礎研究及び応用研究が行われてきた。その後、緒方医学化学研究所に発展し、血清学に留まらず広く医学・歯学分野などの調査研究(学術誌『医学と生物学』)を行っている。また、同研究所では緒方洪庵や杉田玄白、石川大浪、小石元瑞などの貴重な蘭学資料を「蘭学文庫」として所有して公開している。

司馬遼太郎『花神』

築山桂『緒方洪庵・浪華の事件帳』シリーズ(『禁書売り』〈2001年〉、『北前船始末』〈2002年〉)

手塚治虫『陽だまりの樹』

村上もとか『JIN-仁-』『侠医冬馬』

そにしけんじ『ねこねこ日本史』

花神(1977年・NHK、演:宇野重吉)

幕末青春グラフィティ 福沢諭吉(1985年・TBS、演:川谷拓三)

JIN-仁-(2009年・TBS、演:武田鉄矢)

浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年・NHK、演:窪田正孝)

陽だまりの樹(2012年・NHK、演:緒形幹太)

洪庵と1000人の若ものたち(1963年・制作/MOMプロダクション 配給/共同映画 演 : 南原宏治)※緒方洪庵没後百年記念作品

蘭 〜緒方洪庵 浪華の事件帳〜(2018年・松竹、演:藤山扇治郎)

創作ミュージカル「緒方洪庵の妻」大阪桐蔭高等学校吹奏楽部 (2021年)

^ 緒方富雄『緒方洪庵伝』第二版増補版、4頁

^ 梅渓昇『緒方洪庵 人物叢書新装版』吉川弘文館、2016年、235頁。 

^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.26

^ 【文化の扉】緒方洪庵と感染症 医療コレラ指針いち早く発信■天然痘ワクチン普及『朝日新聞』朝刊2020年8月3日(扉面)同日閲覧

^ 『福澤全集緒言』 - 9頁。

^ 『福翁自傳』 - 153頁。

^ 芝哲夫「岸本一郎と西川虎之助」『和光純薬時報』71巻3号

^ 新聞集成明治編年史編纂会 編「7月 緒方病院長緒方惟準歿す」『新聞集成明治編年史』 14巻(3版)、林泉社、東京、昭和15年(1940年)、128頁。 「日韓合邦期 明治42-同45年」(3版 昭和15 表)

^ 緒方惟準コトバンク

^ 緒方城次郎(読み)おがた じょうじろうコトバンク

^ 『明治期のイタリア留学: 文化受容と語学習得』吉川弘文館、2017年。 

^ 梅溪昇『洪庵・適塾の研究』思文閣出版、1993年、p534

^ 緖方收次郞『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

^ 梅溪昇、芝哲夫『よみがえる適塾:適塾記念会50年のあゆみ』大阪大学出版会, 2002, p9

^ 福沢一太郎『人事興信録』第8版[昭和3(1928)年7月]

^ 新聞集成明治編年史編纂会 編「§明治四十三年 庚戌 §§11月 緖方拙齋逝く―岡田洪庵の女壻」『新聞集成明治編年史』 14巻(3版)、林泉社、東京、昭和15年(1940年)、500頁。doi:10.11501/1920445。 インターネット公開、図書館・個人送信対象外、遠隔複写は利用不可。日韓合邦期 明治42-同45年(3版 昭和15 表) |series=

^ 緒方拙斎(読み)おがた せっさいデジタル版 日本人名大辞典+Plus

^ 緒方 正清(読み)オガタ マサキヨ20世紀日本人名事典

^ 日隈ふみ子「第10回京都大学医療技術短期大学部健康科学集談会抄録 5. 『助産の栞』の果たした役割」『京都大学医療技術短期大学部紀要』第20巻、京都大学医療技術短期大学部、2000年、79-79頁、ISSN 02867850、NAID 120000896635。 

緒方富雄『緒方洪庵伝』第二版増補版(岩波書店、1977年)※初版は1942年刊行

中田雅博『緒方洪庵-幕末の医と教え-』(思文閣出版、2009年)ISBN 978-4-7842-1482-2

梅溪昇『緒方洪庵』人物叢書(吉川弘文館、2016年、オンデマンド版 2024年)ISBN 9784642752770

    大島美恵子

    緒方医学化学研究所

    緒方竹虎

    扶氏経験遺訓

    佐野常民

    大村益次郎

    福沢諭吉

    橋本左内

    大鳥圭介

    長与専斎

    手塚良仙

    岩崎環

    適塾(大阪大学サイト内)

    緒方洪庵概伝

    適塾と緒方洪庵

    緒方洪庵(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館

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    19世紀日本の医師

    19世紀日本の医学教育者

    19世紀日本の医学者

    19世紀の蘭学者

    緒方洪庵

    江戸時代の医師

    江戸時代の医学者

    江戸幕府幕臣

    奥医師

    医学所の人物

    適塾の人物

    幕末足守藩の人物

    緒方洪庵家

    従四位受位者

    1810年生

    1863年没

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2024/11/21 16:19更新

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緒方 剛志(おがた こうじ)
1970年12月24日生まれの有名人 大阪出身

緒方 剛志(おがた こうじ、1970年12月24日 - )は、日本のイラストレーター。大阪府出身。18禁作品を中心に「ぼうのうと」という別ペンネームも持つ。 ハミングバードソフトからカプコン、スクウ…

緒方 孝市(おがた こういち)
1968年12月25日生まれの有名人 佐賀出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)。現在は野球解説者…

緒方 耕一(おがた こういち)
1968年9月2日生まれの有名人 熊本出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 緒方 耕一(おがた こういち、1968年〈昭和43年〉9月2日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投両打)…


緒方 喜子(おがた よしこ)
1970年6月10日生まれの有名人 神奈川出身

緒方 喜子(おがた よしこ、現姓:山口、1970年6月10日 - )は、元中京テレビ放送のアナウンサー、現・小学校教員。神奈川県川崎市出身。慶應義塾大学経済学部卒業。血液型A型。 大学卒業後、199…

緒方 ちか(おがた ちか)
1982年1月9日生まれの有名人 大阪出身

第10回ルナティック演劇祭 最優秀俳優賞 緒方 ちか(おがた ちか、1982年1月9日 - )は、日本の女優。エクサプローズプロモーション所属。大阪府出身。 特技:少林寺拳法(少拳士弐段) 趣味:…

緒方 かな子(おがた かなこ)
1973年3月4日生まれの有名人 広島出身

緒方 かな子(おがた かなこ、1973年3月4日 - )は、日本のタレント、元グラビアアイドル。結婚後は広島ローカルタレントとして活動。夫はプロ野球・広島東洋カープ前監督の緒方孝市。長女は声優の緒方佑…

緒方 咲(おがた さき)
1994年10月7日生まれの有名人 神奈川出身

緒方 咲(おがた さき、1994年10月7日 - )は、日本のグラビアアイドル、 レースクイーン。神奈川県出身。現在、フリーランスで活動中。かつて、株式会社R.I.Pに所属していた。 地元・神奈川で…

緒方 もも(おがた もも)
1997年12月24日生まれの有名人 大阪出身

緒方 もも(おがた もも、1997年12月24日 - )は、日本の女優、タレント、YouTuber、TikTokerで、元iDOL Street ストリート生の一人(第3期生)である。 大阪府出身。…


緒方 憲吾(おがた けんご)
1947年2月16日生まれの有名人 熊本出身

緒方 憲吾(おがた けんご、1947年2月16日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元・毎日放送アナウンサー。  熊本県熊本市出身。同志社大学卒業後の1969年に、アナウンサーとして毎日放送に入社…

緒方 喜治(おがた よしはる)
1950年11月1日生まれの有名人 広島出身

緒方 喜治(おがた よしはる、1950年11月1日‐)は、元NHKアナウンサー。現在はフリーアナウンサーとして、ボイスワークスとマネジメント協力を結んでいる。 広島県広島市出身。山口県立防府高等学校…

緒方 りお(おがた りお)
1977年4月30日生まれの有名人 大阪出身

緒方 りお(おがた りお、1977年4月30日 - )は日本の声優・舞台女優。大阪府出身。大阪テレビタレントビューローに所属していたが、2006年3月退所。Matsuri Company、Jプロダクシ…

緒方 恵美(おがた めぐみ)
1965年6月6日生まれの有名人 東京出身

緒方 恵美(おがた めぐみ、1965年〈昭和40年〉6月6日 - )は、日本の声優、女優、歌手。作詞などのクレジットには主に「em:óu」(エムオゥ)という名義を使用している。東京都千代田区出身。Br…

緒方 智美(おがた ともみ)
5月10日生まれの有名人 出身

緒方 智美(おがた ともみ、5月10日 - )は、日本の女性ナレーター。東京俳優生活協同組合所属。国立音楽大学声楽学科出身。元東海テレビアナウンサー。 土曜フォーラム (NHK) 列島スペシャル (…


緒方 文興(おがた ぶんこう)
1960年8月28日生まれの有名人 熊本出身

緒方 文興(おがた ぶんこう、1960年8月28日 - )は、日本の男性声優、ナレーター。熊本県出身。 以前は劇団俳優座、圭三プロダクション、東京俳優生活協同組合、リマックス、81プロデュースに所属…

緒方 敏也(おがた としや)
1922年10月14日生まれの有名人 出身

緒方 敏也(おがた としや、1922年10月14日 - )は、日本の男性俳優、声優。東京府生まれ。旧芸名:緒方 俊也、泉 敏也。都会的なインテリ役を得意としていた。1962年の時点で出演作品は5000…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「緒方洪庵」を素材として二次利用しています。

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