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藤圭子の情報 (ふじけいこ)
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【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

藤圭子の情報 (ふじけいこ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]

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藤 圭子さんについて調べます

■名前・氏名
藤 圭子
(ふじ けいこ)
■職業
歌手
■藤圭子の誕生日・生年月日
1951年7月5日 (年齢62歳没)
卯年(うさぎ)、蟹座(かに)
■出身地・都道府県
岩手出身

藤圭子と同じ年に生まれた芸能人(1951年生まれ)

藤圭子と同じ誕生日の人(7月5日)

藤圭子と同じ出身地の芸能人(岩手県生まれ)


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藤圭子と関係のある人

大下英治: 『悲しき歌姫(ディーヴァ) 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』イースト・プレス 2013


宇多田ヒカル: 日本では、1996年9月26日、藤圭子 with Cubic Uとして、シングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を日本クラウンよりリリース。


なかにし礼: 藤圭子


猪俣公章: 京都から博多まで(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子


横山ひろし: ホラ吹き漫才は1971年、神戸松竹座に出ていた頃、たかしが当時人気だった歌手の藤圭子の愛人だとホラを吹いたら受けたので、その後田中角栄の大言壮語を振ったりしたことで、ホラ吹き漫才のスタイルが生まれた(上方演芸会)。


長谷邦夫: 音楽方面の仕事がきっかけで、藤圭子や井上陽水の売り込みの相談を受けたり、山下洋輔と面識を得る。


水森かおり: その記録は2010年(平成22年)リリースの「松島紀行」で7作連続に達し、藤圭子の6作連続を抜き女性演歌歌手としての最高記録を更新した。


浜圭介: 悲しみの町(歌: 藤圭子、作詞: 石坂まさを)1972年12月5日発売


内藤やす子: ※原曲歌唱:藤圭子


金平正紀: 歌手・藤圭子をカムバックさせたい道楽家・藤原成郷に頼まれ、1981年8月、芸能界にも顔がきく金平が、藤のかつての所属事務所で芸能界でも迫力のある新栄プロダクションの社長・西川幸男(西川哲、西川賢の父)を説得し藤をカムバックさせた。金平は藤圭子カムバック劇のフィクサーだった。


山口洋子: 私は京都へ帰ります/藤圭子(1974年)


ギャランティーク和恵: 番組内で共演している稲葉さゆりとのデュエット曲で番組エンディングテーマ「真夜中のなでしこ」(作詞/三重野瞳、作曲・編曲/高田耕至)、そして、和恵の歌唱する「新宿の女」(オリジナル/藤圭子)を収録と共にリリース。


猪俣公章: あなたの噂(1974年、作詞:山口洋子、歌:藤圭子


サム=テイラー: 命預けます(1970年10月10日) / 藤圭子『命預けます』


園まり: また、「夢は夜ひらく」は藤圭子歌唱によるバージョンも存在する。


木下忠司: 藤圭子 わが歌のある限り (1971年、松竹)


馬飼野康二: 藤圭子


西川幸男: 1958年に西川興行社を発展改組して「新栄プロダクション」を設立した後、北島三郎・新川二朗・五月みどり・二宮ゆき子・十勝花子・大月みやこ・木村友衛・小松みどり・藤圭子・西川峰子・細川たかし・西尾夕紀らのマネジメントも行った。


中村泰士: 退廃的・虚無的であるとして放送禁止歌としてお蔵入りのような扱いとなったが、1973年、藤圭子のアルバム『演歌の旅 緋牡丹博打』の収録曲として僅かに広まった。


市原由美: ズッコケ三人組 楠屋敷のグルグル様(安藤圭子


吉田拓郎: 理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている。


猪俣公章: 別れの旅(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子


小川順子: 当時は「第二の藤圭子"」ともいわれ、自身も本格的な演歌を望んでいた。


曾根幸明: 自作曲としては勝新太郎の「座頭市子守唄」や「いつかどこかで」(細川たかしも歌唱)、山川豊の「流氷子守歌」、森進一の「銀座の女」、藤圭子、園まりらの「夢は夜ひらく」(練馬少年鑑別所で唱われていた俗曲を補作したもの)、藤圭子「命預けます(編曲)」「恋仁義」「知らない町で」などが代表作である。


猪俣公章: 大阪女のブルース(1971年、作詞:石坂まさを、歌:藤圭子)※アルバム『さいはての女』収録


馬飼野俊一: 藤圭子


山口洋子: 恋の雪割草/藤圭子(1973年)


宇多田ヒカル: 人間活動中の2013年には、母・藤圭子の死もあったが、2014年には、イタリア人男性と再婚(2018年に離婚が判明)、2015年には、第1子となる男児を出産した。


浜圭介: 雪のブルース(歌: 藤圭子、作詞: 石坂まさを)1973年12月5日発売


猪俣公章: 他にも水原弘『君こそわが命』、藤圭子『女のブルース』『京都から博多まで』『別れの旅』、内山田洋とクール・ファイブ『噂の女』、テレサ・テン『空港』、五木ひろし『千曲川』、海原千里・万里『大阪ラブソディー』など数多くのヒット曲を提供して成功を収めた。


藤圭子

もしもしロボ

藤 圭子(ふじ けいこ)さんの誕生日は1951年7月5日です。岩手出身の歌手のようです。

もしもしロボ

年譜、エピソードなどについてまとめました。引退、母親、兄弟、卒業、テレビ、結婚、家族、現在、ドラマ、事件に関する情報もありますね。62歳で亡くなられているようです。

藤 圭子(ふじ けいこ、1951年〈昭和26年〉7月5日 - 2013年〈平成25年〉8月22日)は、日本の演歌歌手・俳優。本名:宇多田 純子(うただ じゅんこ)。旧姓:阿部(あべ)。

最後の夫は音楽プロデューサーの宇多田照實、子はシンガーソングライターの宇多田ヒカル。

元夫は歌手の前川清。

実兄は1970年にデビューし、引退後飲食店などの経営を経て、2022年に復帰した演歌歌手の藤三郎。姪は三郎の長女で、父の活動再開と同時に歌手デビューした。

1960年代末から1970年代初頭にかけ、夜の世界に生きる女の情感を描いた暗く哀切な楽曲(『怨歌』)を、ドスの効いたハスキーボイスと凄みのある歌いまわしで歌唱し、その可憐な風貌とのギャップも相俟って一世を風靡した。

代表曲は『新宿の女』『女のブルース』『圭子の夢は夜ひらく』『京都から博多まで』など。

他の歌手のヒット曲も幅広くカバーしており、多くの曲で本家を凌駕する歌唱力と表現力を発揮したと評される。『うそ』をカバーされた中条きよしは「こんなにうまく歌われたらたまんないよ」と作曲した平尾昌晃に伝えた。

浪曲師の父・松平国二郎こと阿部壮(つよし)、同じく浪曲師であり曲師でもある母・阿部澄子こと竹山澄子(2010年に死去。享年80)との間に3人きょうだい末子・阿部純子として父の出身地でもある岩手県一関市の県立磐井病院にて巡業中に生誕する。

一家は純子が生まれてまもなく母親の実家のある北海道名寄市へ渡道し、道内・東北を中心に祭り・炭鉱・寺の御堂・旧家大広間などを旅回りの巡業をしながら細々と生計を立てていた。仕事のないときは、長女富美恵に乳飲み子の純子を背負わせ、澄子は三味線を抱え、国二郎は長男・博(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら一軒一軒農家を廻り営業した。純子3歳の時に姉の小学校入学から旭川市に定住。

一家の生活は赤貧洗うが如し厳しきもので、純子が幼い頃は市内の忠別橋上流の通称サムライ部落で雨風を凌いで暮らした。純子が幼い頃澄子は下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていたとの証言もある。

小学校に入った後も転校を繰り返し、純子が4年生の頃旭川市立大有小学校に転入した当時の担任は「在学証明書を一度に4~5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされた」と語る。旭川市旭町にあった住まいは、畳もなく、床が剥き出しで、裸電球一つぶら下がる部屋であった。両親が巡業から戻るのが遅くなり食費に困った幼い兄弟は納豆や豆腐を売り歩き日銭を稼ぐこともあったという。小学校5年になり客前で初めて歌った(畠山みどり「出世街道」)ところ大反響を得、その後学校の休みの日に両親の巡業に同行(中学3年夏の岩見沢への転居まで続ける)。結果一家の収入も増え神居に家を建て5年生の夏、旭川市立神居小学校に転校。旭川市立神居中学校3年の夏まで過ごす。岩見沢の温泉施設「きらく園」で住み込みの専属の歌手として請われ両親と共に岩見沢へ転居。

1967年3月北海道の岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)卒業。勉強好きで成績優秀だったが、家計を支えるために、高校進学を断念。1967年2月に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで急きょ代役として出場、北島三郎の「函館の女」を歌った。居合わせた作曲家・八洲秀章がその才能を評価し両親に上京を勧めた。

中学の卒業式の日に両親と上京。西日暮里のアパートに住み八洲秀章のレッスンを受け歌手 島純子として「ホテル層雲小唄」「島牧音頭」「島牧小唄」「火まつり音頭」などを録音し、北海道出身の八洲氏に連れられ活動した。この時期、蕎麦屋の店員や錦糸町や浅草などで母と流しをして生活した。

その後、作詞家の澤ノ井龍二(石坂まさを)と知り合う。石坂まさをは純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴きドスの効いた声と人生の哀愁をにじませた退廃的な歌い方に圧倒されスカウト。石坂まさをの自宅に住み込み弟子となりレッスンを受ける。いくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て不合格。石坂まさをからRCAレコードの当時のディレクター榎本襄(現・音楽プロデューサー)を紹介。純子の歌う「星の流れに」「カスバの女」を聴いた榎本襄も同じく圧倒され他社からデビューが決まっていたところを断り自社からのデビューを強く勧めた。石坂まさをは東芝専属作詞家を辞し「藤プロ」という個人事務所としてスタート。三人でデビュー曲を練り、1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。

以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。オリコンチャートで、ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。

演歌を歌いながらもアイドル歌手としての人気も集め、青少年に大きな影響力を持っていた少年マガジンなど多数の雑誌の表紙を飾った。またその人気からテレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインのモデルにもなった。

1971年、当時ともに絶頂期であった内山田洋とクール・ファイブのボーカル前川清と結婚するが、大スター同士の結婚生活はすれ違いが重なり、翌1972年に離婚。

1974年、喉のポリープの手術を受けたことで、自身が強みと考えていた声の特徴が失われたと悩むようになり、引退を考え始める。

1975年2月、石坂まさをの澤ノ井音楽事務所から新栄プロダクションに移籍。

1979年10月17日、RCAレコード本社に於いて引退の記者会見を開き、1979年12月26日新宿コマ劇場で引退公演を行った、その後渡米する。

1981年7月29日に帰国。同年8月1日より「藤 圭似子」の芸名でニュージャパンプロダクションに所属し、RCAレコードからCBSソニーに移籍し、第一弾となるシングル「螢火」を発表した。

1982年に、宇多田照實と再婚。以降、照實との間で7回の離婚・再婚を繰り返す。

1983年1月19日、ニューヨークにて、長女・光を出産。網膜色素変性症を発症し視力が徐々に低下していた頃の出来事だったことから、「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名した。その後、光を世界で通用する歌手に育てるため、1990年から照實とともに光を連れて初めて渡米、お金が足りなくなると日本に戻って歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返した。その際にはいくつかのテレビ番組にも顔を出しており、複数回出演した『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)では光とのエピソードを交えつつ、当時のヒット曲を歌唱している。更に1996年11月26日に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日)では当時13歳だったデビュー前の光の歌声を紹介した。光デビュー直前の1997年まではテレビ番組出演を続けており、1月27日放送の『ふたりのビッグショー』(NHK総合)では八代亜紀と共演、往年のヒット曲「女のブルース」など多数の曲を歌唱、八代と昔の思い出を語りあうなど健在ぶりを見せていた。

光が15歳となった1998年に宇多田ヒカルの名で歌手デビューし、これを機に藤も再び注目を浴びた。しかし、光のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印、以降ほとんどステージで歌うことはなくなった。

2013年8月22日午前7時頃、都内で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は自死と断定。享年63(62歳没)。照實と光はそれぞれコメントを発表し、藤が1988年頃から精神疾患を患っていたことを公表した。

葬儀は遺言書に従って執り行わず家族のみの直葬とし、遺灰は海に散骨された。その後、藤の実家の阿部家側によって、ファン有志とともに「しのぶ会」が行われた。

年譜

1951年7月5日 - 岩手県一関市に生まれる。生まれてすぐに北海道名寄市に移る。3歳の頃、旭川市に引っ越して15歳初めまで生活する。

1966年 - 中学3年生の夏、父母とともに旭川を離れ、北海道岩見沢市の温泉保養センター「きらく園」にて三条純子の芸名で専属歌手となる。

1967年 - 2月、岩見沢雪まつりのステージにて代役歌手として出場、八洲秀章にその才能を見出される。純子の中学卒業と同時に両親と上京。八洲指導によるレッスンの傍ら、16歳から母親と錦糸町、浅草周辺で流しをするなどして両親の生活を支える。島純子名義で本人作詞による「男の仁義」をソノシート制作。

1968年 - 発声のレッスンを受けていた上条たけしのところで東芝音楽工業専属作詞家の澤ノ井龍二(のちの石坂まさを)と出会うも、東芝でのデビューは困難を極めた。純子の才能に賭けた石坂は東芝を退職し、純子は新宿区東大久保の石坂の家に住み込み特訓。日本音楽放送の工藤宏と縁が出来たことから工藤を社長に据え、藤プロダクションを設立。工藤の藤、工藤の妹の名である桂子から純子の芸名は藤圭子と改められる。

1969年9月25日 -RCAビクターよりファーストEP「新宿の女」で歌手デビュー。

1970年2月5日 - セカンドEP「女のブルース」が発売され、オリコンシングルチャートにて3月30日から5月18日まで8週連続首位を記録する。

1970年3月5日 - ファーストLP「新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて」を発売。同年3月30日から8月10日の計20週に亘りオリコンアルバムチャート連続首位。

1970年4月25日 - サードEP「圭子の夢は夜ひらく」が発売され、オリコンシングルチャートで5月25日から8月3日まで10週連続首位を獲得。シングル部門で「圭子の夢は夜ひらく」・「女のブルース」が5月25日、6月1日に1位と2位を独占。

1970年7月5日 - セカンドLP「女のブルース」発売。ファーストLP「新宿の女」と入れ替わるかたちで8月17日から12月7日まで17週連続首位を達成。

1970年11月9日 - 第1回日本歌謡大賞大賞を受賞。

1970年12月 - 内山田洋とクール・ファイブとの混成LP「演歌の競演 清と圭子」発売。LP「女のブルース」と交替で12月14日から翌1月11日まで5週連続首位となり、圭子のアルバム作品は1970年3月30日から1971年1月11日までの通算42週連続首位を獲得する前人未踏の記録を樹立。また、3月30日から8月3日迄の19週間はシングル・アルバム両チャートにて首位を独占。この記録は、オリコンチャート開始から現在に至るまで、未だ誰にも破られていない。

1970年12月31日 - 第12回日本レコード大賞大衆賞を受賞。NHK紅白歌合戦に初出場。

1970年 - 第3回日本レコードセールス大賞受賞。

1970年 - 第3回日本有線大賞優秀スター賞受賞。

1971年 - 前川清と結婚。 長崎県佐世保市俵町教会で挙式。第8回ゴールデン・アロー賞大賞を演歌歌手としては初めて受賞。

1972年 - 8月、前川清と離婚。離婚会見は12日に赤坂プリンスホテルで行われた。

1974年 - 5月、喉のポリープ手術。

1979年 - 5月、日本劇場にて「10周年記念リサイタル~圭子のすべて!」を開催。ステージにて前向きな意欲を語ったものの、10月突如「普通の女になりたい」と引退を表明し、アメリカ合衆国に渡る。

1980年 - アメリカ・ニューヨークに滞在。ライターの田家正子と3ヶ月共同生活を営む。またこの時、米国でコーディネーターをしていたミュージシャンの宇多田照實と出会う。当時「コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった」と圭子は田家に話していた。

1981年 - 7月帰国。藤圭似子の名で芸能界に復帰。10月、ドラマ「新海峡物語」で主演を務める。同時にシングル「螢火」をリリース。

1982年 - 宇多田照實と結婚(再婚)。

1983年 - 長子・光を出産。

1984年 - 芸名を藤圭子に戻す。

1988年 - この頃から照實・光・澄子へ攻撃的な言動が見られるようになる。現実と妄想の区別が曖昧となり、自身の感情や行動のコントロールを失うことも見られるなど精神状態が悪化したと思われる。照實が通院を薦めるも拒絶。母澄子とも被害妄想による金銭トラブルになるなど家族関係も悪化したとみられる。

1993年 - 照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、自らも取締役になる。

1993年 - 照實と光の3人で音楽ユニット「U3」を結成してセンチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表。

2002年 - 照實・光と別居。ニューヨークを拠点に、気まぐれに世界中を旅する生活を最期まで営む。家族には時々電話をかけていた。

2006年 - ニューヨークのケネディ国際空港にて約49万ドルに上る多額の現金を没収される騒動を起こし、世界各国のカジノなどで5年の間に5億は使ったと述べている。

2007年 - 照實と最後の離婚。以降、二度と再婚することはなかったが、照實と絶交することはなく、姓は宇多田のまま、本名は宇多田純子であった。

2009年 - 2006年の米空港での49万ドル没収事件について、事件性がないとして全額返還された。

2010年 - 11月、母・澄子が肝癌にて80歳で逝去。

2013年8月22日 - 逝去。享年62歳。遺言書はこの年のはじめにしたためられていた。また8月14日には、圭子から照實に電話をかけていた。照實は「この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。」と語った。本人の強い遺志にて通夜・葬儀はなく、火葬のみ執り行った。

エピソード

圭子の人物像について、公式サイトにて光は「とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。」照實は「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な『気まぐれ』な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。」と評している。

マスコミが『一卵性母娘』と名付けるほどとても母思いで仲がよかった。レコード歌手になろうとしたのも、母をもっと楽にさせてあげて、不自由な目を治してあげられるかもしれないからだったという。しかし、1990年頃に精神状態悪化からの金銭トラブルになり母とは絶縁状態となった。

五木寛之は「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」と評している。

育ての親である作詞家:石坂まさをに ”アメリカ人になりたい” と話しており、デビューしてから間もなく、熱心なファンのハーフの少女と友だちになり英語の勉強を始める。デビュー当時、マネージャーだった成田忠幸は、藤から「いつか、アメリカに行きたい」と聞かされており、藤はアメリカに住んで、そこで、ロックを歌いたいのだろうなと感じたという。1979年に引退する前、八代亜紀は藤から「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」と聞かされている。

紅白出場に強い執着があり、1974年の紅白では力を入れていた新曲『命火』もヒットし、事前にほとんどのメディアが当選確実と報じていたにもかかわらず、落選したことで大きなショックを受けてダウンし、その様子を心配した母親が医師に往診を頼んだほどだった。結局それ以降1週間に渡って仕事をキャンセルしている。

娘の光を天才と信じ、知り合いの音楽関係者にことあるごとに光を売り込んでいた。その売り込みは光が9歳のとき、藤圭子育ての親である石坂まさをにも行われ、光がいかに天才歌手であるかを力説していたほどだった。同じ頃、藤がデビュー前に世話になった初代林家三平の妻である海老名香葉子のもとにも訪れ、光の歌を吹き込んだデモテープを聴かせている。

大の虫嫌いで虫全部が嫌いだと述べている。光が子供の頃、いたずらで体中にセミの抜け殻をまとって帰宅したところ、それを見た藤が卒倒してしまい、おおごとになったという。

ビートルズ、Tレックス、シャーデーのファン。また、圭子は時代を先取りする嗜好があり、1993年頃にはヒップホップに熱中した。ドクター・ドレーの「The Chronicle」とスヌープ・ドッグの「DOGGY STYLE」を光と愛聴し、ヒップホップのダンス教室で真剣にレッスンを受け、「この曲のキックドラムが凄い」「ノリが、グルーヴがどうだ」など語っていたという。

沢木耕太郎 が1979年の引退を前に藤圭子にインタヴューした著書「流星ひとつ」(2013年)のあとがきで、水晶のように硬質で透明な精神。美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。と語った。

2024/05/19 02:41更新

fuji keiko


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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「藤圭子」を素材として二次利用しています。

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