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越路吹雪の情報 (こしじふぶき)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

越路吹雪の情報(こしじふぶき) 女優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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越路 吹雪さんについて調べます

■名前・氏名
越路 吹雪
(読み:こしじ ふぶき)
■職業
女優
■越路吹雪の誕生日・生年月日
1924年2月18日 (年齢56歳没)
子年(ねずみ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(大正13年)1924年生まれの人の年齢早見表

越路吹雪と同じ1924年生まれの有名人・芸能人

越路吹雪と同じ2月18日生まれの有名人・芸能人

越路吹雪と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


越路吹雪と関係のある人

美川憲一: 第56回はNHK主導で行われたアンケート企画「スキウタ」でランクインした越路吹雪バージョンの「愛の讃歌」歌唱を合戦の本歌として与えられた。


リンダ=カーター: aucfan. “古い 広告絵葉書 12枚 中森明菜 河合奈保子 越路吹雪 倉沢淳美 森口遥子 日本酒 ウイスキー 資生堂化粧品 企業広告 昭和レトロ「中古」の落札価格|その他|ヤフオク! 落札相場- オークファン(aucfan.com)”.


本田美奈子: また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことから越路吹雪への強いあこがれを抱くようになった。


岩谷時子: 『私の心はヴァイオリン』(越路吹雪


松本アイコ: 女の一代記 越路吹雪・愛の生涯(お針子)


内藤法美: 「一寸おたずねします」越路吹雪


安蘭けい: 2014年8月 「越路吹雪生誕90周年記念コンサート~想い出のヤマハホール~」(ヤマハホール)


淡路恵子: 1963年(昭和38年)には越路吹雪、岸田今日子、横山道代との四姉妹役で出演した『男嫌い』が数々の流行語を生み出す話題作になった。


原保美: 愛の讃歌 越路吹雪の青春(1983年、TBS)- 小林一三 役


川口真: 在学中から越路吹雪のバックバンド「クレール・ド・シャルム」のピアニストとして活動。


瀧本美織: 2018年、『帯ドラマ劇場「越路吹雪物語」』(テレビ朝日系)で越路吹雪の青年期役を演じた。


上杉祥三: 越路吹雪物語(2018年) - 尾崎敏雄


ジョージ川口: のちに越路吹雪のバンド「ロイヤルポップスオーケストラ」や、自身のリーダーバンド「ジョージ川口&スーパーバンド」のドラマーとしても活動した。


コシミハル: 3歳からピアノ、8歳から作曲を始め、11歳で越路吹雪に憧れシャンソンの弾き語りを始める。


中丸美繪: (第一夜瀬戸内寂聴、第二夜越路吹雪、第三夜杉村春子)。


宮田慶子: 越路吹雪物語 - 2003年、コマプロダクション


喜多麗子: 3夜連続特別ドラマ 女の一代記シリーズ 第1夜・瀬戸内寂聴 第2夜・越路吹雪 第3夜・杉村春子(2005年、3夜とも)


津村泰彦: 横田俊明(フルート室内楽)、松岡直也(ラテン)、森山良子(フォーク)、越路吹雪(ミュージカル)などと共演し、その他、多くの歌手のツアーをサポート。


榎木孝明: 越路吹雪物語(2018年、テレビ朝日) - 松岡功 役


福士秀樹: 日立テレビシティ 第2話「越路吹雪の青春 / 愛の賛歌」(1982年、TBS):舞台出演者


飯田基祐: 越路吹雪物語(2018年) - 平山文章 役


本田美奈子: 岩谷は本田の歌手としての力量を高く評価し、かつてマネージャーを務めていた越路吹雪と重ね合わせて見ていたようである。


岩谷時子: 編集部を訪れた当時15歳で宝塚歌劇団新人の越路吹雪と出会う。その後は自らが作詞家として成功しても、自分の本業を聞かれるたびに「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。


岸洋子: 日本のシャンソン界において越路吹雪と人気を分け、「魅せる越路、聴かせる岸」と評価されていた。


唐沢龍之介: 越路吹雪物語(2018年、テレビ朝日) - 運転手役


白鳥羽純: 越路吹雪物語(2018年1月8日 - 3月30日、テレビ朝日 帯ドラマ劇場)- 八千草薫 役


本田美奈子.: また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことから越路吹雪への強いあこがれを抱くようになった。


岩谷時子: 『家へ帰るのが怖い』(越路吹雪


本田美奈子: ロックバンド時代の前作『豹的 (TARGET)』以来5年ぶりとなるアルバム『JUNCTION』(1994年9月24日発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久(越路吹雪の担当ディレクターとしても知られる)と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当した岩谷時子をプロデューサーに迎え制作が進められた。


藤本真澄: 越路吹雪、久慈あさみ、新珠三千代などのタカラジェンヌを映画女優としてスター化。


越路吹雪の情報まとめ

もしもしロボ

越路 吹雪(こしじ ふぶき)さんの誕生日は1924年2月18日です。東京出身の女優のようです。

もしもしロボ

ピアフ、「愛の讃歌」との関わり、日生劇場でのロングリサイタルなどについてまとめました。父親、映画、テレビ、事故、卒業、ドラマ、結婚に関する情報もありますね。56歳で亡くなられているようです。

越路吹雪のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

越路 吹雪(こしじ ふぶき、本名:内藤 美保子(ないとう みほこ)、旧姓:河野(こうの)、1924年(大正13年)2月18日 - 1980年(昭和55年)11月7日)は、日本のシャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団の主演男役。 愛称は「コーちゃん」「コッシー」(旧姓から)。

所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業(その後東芝EMIに改称、現:ユニバーサルミュージック)。

1924年(大正13年)に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区麹町)に5人きょうだいの3人目として生まれる。両親は山梨県の出身。越路本人は「父親の祖先は山窩の出」と話している。両親が姉の看病に専念するため、越路は山梨の祖父母のもとに預けられた。その後、父が新潟へ転勤し、越路も新潟で下宿した。これが「越路吹雪」の芸名の由来となった(芸名は父親が名づけた)。長野県飯山高等女学校(後の長野県飯山南高等学校・現:長野県飯山高等学校)を中退し、宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)に入学した。

子供の頃から歌が好きで、ラジオから流れる曲をよく口ずさんでは当時の流行り歌をたちまち覚えたが、その反面勉強が大嫌いでずる休みすることばかり考えているような子だった。その様子を目にしていた父が、娘に好きな歌を思う存分歌える場所として宝塚歌劇団入団を薦めたのである。

宝塚歌劇団男役スターとして戦中から戦後にかけて活躍した。宝塚歌劇団27期生。同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。宝塚入団時の成績は93人中73位。「清く正しく美しく」のスローガンで知られる宝塚で越路は喫煙や門限破りをするなど異色の存在であり、「不良少女」というあだ名を付けられた。

1939年(昭和14年)2月、宝塚歌劇団・月組公演「宝塚花物語」で初舞台を踏んだ。この時の役は、たくさんいるたんぽぽの精のうちの1人だった。花組に所属してからは、1943年(昭和18年)の公演「航空母艦」で浪曲師・広沢虎造のものまねをして演じた森の石松が評判となり、この頃から注目を集めるようになる。

1944年(昭和19年)、宝塚大劇場が戦争により閉館するなど戦況が悪化するとともに、先行きを不安視し退団する生徒が続出した。その結果、若手たちが台頭し始めるのだが、その筆頭が越路であった。この直後不良っぽさを漂わせる越路の色気に熱烈な大人のファンがつき花組のトップスターとなった。

終戦後、宝塚が再開した1946年(昭和21年)の第2回花組公演で越路が主演した「ミモザの花」は好評を博し、楽曲は今も宝塚の代表曲のひとつとして歌われている。また「ブギウギ巴里」でレコードデビューし、戦後の宝塚で最大のヒットとなった。

1950年(昭和25年)、宝塚在籍のまま東宝映画「東京の門」「エノケンの天一坊」などに出演。翌年には、第1回帝劇コミック・オペラ「モルガンお雪」に主演。この舞台の主演によって、越路が国産ミュージカル女優第一号となった。同年7月31日、宝塚を退団した。最後に出演した公演の演目は、月組公演「春のおどり」である。

1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、1968年にフリーになるまで17年間東宝の専属スター女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーする。特にシャンソンにおいては、作詞家・翻訳家の岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介し、「(日本の)シャンソンの女王」と称された。「魅せる歌手」と評価された越路は、同じ女性シャンソン歌手で「聴かせる歌手」と称される岸洋子と人気を分け合った。ちなみにシャンソンを歌うきっかけとなったのは、宝塚時代にある舞台を見に来た進駐軍の将校から「あなたは“語る”歌い手になるべき」と言われたことから。

1953年(昭和28年)から当時では珍しい歌手のワンマンショーであるリサイタルを開催した。リサイタルは1965年(昭和40年)より開設間もない日生劇場に場を移した。リサイタルはさらに好評を博し、越路が逝去する1980年(昭和55年)まで「ロングリサイタル」と称する1ヶ月に渡る長期公演となった。「ロングリサイタル」は歌手・越路吹雪の名声を不動のものとしたのであった。

1958年(昭和33年)にテアトロン賞、1965年(昭和40年)に第7回日本レコード大賞歌唱賞、1968年(昭和43年)に文化庁芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。

テレビ出演はほとんどしないことでも有名であったが、1964年(昭和39年)8月31日から始まった、フジテレビ系音楽番組『ミュージックフェア』の初代司会者でもある。また、希にテレビ出演する際は、「お久しぶりのテレビでございます」と、視聴者へ挨拶をしたこともあったという。ちなみに映画では、市川崑監督作品などに1950年代から60年代半ばまで数本出演した。

NHK紅白歌合戦には、1952年・「第2回NHK紅白歌合戦」に出場予定の歌手の事故被害による代役として初出場。当日越路は自宅で新年会(当時紅白は正月開催だった)の真っ最中で出場を依頼された時は泥酔状態だったが、時間が迫ると「じゃあ、行ってくるか」とNHKへ向かい本番では見事に歌い上げた。

その後、紅白には1969年・第20回まで通算15回出場。しかし、1970年・第21回には出場を辞退した。辞退の理由は「ジーンズ姿の歌手と一緒に並んで出るのが嫌」だったから、とも伝えられた。しかし後年の岩谷の証言に拠れば、1月に舞台出演が多くなり主演をしている立場として紅白のために舞台稽古を止めて歌合戦の稽古に出るのは舞台人として迷惑をかけることになる。このため岩谷は越路リサイタルの演出家である浅利慶太に相談し、彼と伴にNHK会長と話し合い、卒業という形で解決したとある。その後も、人気アンケートでベスト10にランクインしたこともあり、NHKからもオファーがあったものの頑なに出場を辞退し一度も復帰することは無かった。

1980年(昭和55年)3月に越路は、ライフワークであった恒例の日生劇場でのロングリサイタル(越路の急逝により越路最後のリサイタルとなった)を終えると、新境地開拓として芝居に挑戦した。演目は「古風なコメディ」、劇団民藝の重鎮宇野重吉の演出で、越路と米倉斉加年の二人だけの芝居であった。

その経緯として浅利によれば、ロングリサイタルとミュージカルの両輪が揃った越路に、岩谷と内藤から「越路に芝居を。シェークスピアのマクベス夫人などはどうだろう」という注文が出たが、これは少し難しく、内藤と親しかった倉橋健を通じて宇野が引き受けることになったという。岩谷も、越路とはかねてより歌のかたわらに念願だった芝居の勉強もしておきたいと相談しており、浅利の諒承を得て「古風なコメディ」に出演することになったと記している。

「古風なコメディ」は福岡で5月27日から上演され、その後東京では連日大入りの好演となり、6月5日から22日までの公演であったところ追加公演が行われた(6月26日千秋楽)。なおこの劇中で内藤作曲の「サーカスの唄」が越路によって歌われたが、これが越路最後の歌唱となった。

公演中より越路は胃の不調を訴えていたようであり、西武劇場(現:PARCO)にて胃の激しい痛みを堪えつつ舞台を務めるも、公演終了直後に緊急入院。「重度の胃潰瘍」との診断を受け、7月8日に東京都目黒区の東京共済病院で、胃の5分の4を切除する大手術を受けた。術後の復帰を目指してリハビリに励み、その後も入退院を3回繰り返すものの、11月7日午後3時2分に死去した。56歳没。「古風なコメディ」の終演後僅か4ヵ月という急逝であった。

実は本当の病名は胃潰瘍ではなく「末期の胃癌」で、腹膜にも多数の癌が転移していたが、当時本人には告知されなかった。死の直前、病床に臥し意識が朦朧とする中で「法美さんにコーヒーを」と、最期まで最愛の夫を気遣った。越路は両親と実兄を共に癌で亡くしている(夫・内藤も1988年7月、肝臓癌のため死去)ことから、自身も一番癌を怖れ毎年の癌検診を欠かさなかったが、たまたま死の前年だけ多忙のため検査を先延ばしにしていたという皮肉な結果だった。

死に化粧は親友の一人で生前永きにわたり交友のあった淡路恵子によって施された。葬儀の後、火葬場に向けて走っていた霊柩車が途中でコースを変えて、越路が幼い頃から気にいっていた中野区・旧陸軍電信隊のコスモスの原っぱをスピードを落として走り出した。これは、自らの死期を悟った越路が内藤にこの原っぱの思い出話をしていたことなどから、内藤が取り計らったものだという。

墓所は川崎市宮前区初山の日蓮宗初香山本遠寺で内藤の墓に隣接する形で越路の墓が建てられている。死後、岩谷の意向により東京都港区元麻布にある浄土真宗本願寺派麻布山善福寺に「越路吹雪の碑」と名づけられた石碑が建てられた。石碑には代表曲『愛の讃歌』の歌詞が刻まれている。

死後、2014年に古巣・宝塚歌劇団が創立100周年を記念して創立された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たした。

ピアフ、「愛の讃歌」との関わり

ピアフについて

1953年(昭和28年)春、日本人の海外渡航が自由化されていない時代に越路は初めてフランス・パリへ渡る。そこでシャンソン歌手のエディット・ピアフのステージを生で聴いた越路は大きな衝撃を受け、当時の日記には「エディット・ピアフを初めて聴く。オーケストラ、ジェスチャー、アレンジの素晴らしさに私は悲しい。ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。泣く、初めてのパリで。」と書き残されている。ピアフは越路の代表曲『愛の讃歌』のオリジナル歌手でもあり、生涯にわたって越路にとってシャンソン歌手としての大きな目標になった。なおこの時の越路の3ヶ月のパリ生活を世話したのは、当時パリに滞在していた錚々たる日本の文化人達であった。

越路とピアフとは因縁めいた関係があり、越路夫妻が1963年(昭和38年)にパリに旅行した際に、偶然にも夫妻はピアフの訃報をホテルで聞いたのであった。ホテルのスタッフが誰彼となく、ピアフの死を泣きながら伝えていたことを越路は後年記している。また越路は後にピアフの妹シモーヌとの交流も深めたらしく、越路が彼女と抱擁し合う写真が残されている。

1971年(昭和46年)に越路は日生劇場のロングリサイタルの演目として、劇団四季と共に「ドラマチックリサイタル 愛の讃歌 エディット・ピアフの生涯」を作り上げ、以後越路の十八番として好評を博したが、それはこのような越路とピアフとの不思議な縁も大いに関係していた。

「愛の讃歌」との出会い

越路の「愛の讃歌」との出会いには、作曲家の黛敏郎が一役買っていた。黛がパリのコンセルヴァトワールに留学している時に、「とてもいい歌だから、ぜひ歌ったら」とパリから越路に譜面を送ってきたのだという。

その後実際に越路が歌ったのは1952年(昭和27年)9月の日劇のショー「巴里の歌」においてであった。二葉あき子の代役でショーに出演することになった越路に「愛の讃歌」を勧めたのは、奇しくも当ショーの音楽監督を務めていた黛であった。岩谷は期日の迫る中で、戦後日本を代表する作曲家でありフランス語に長けた黛の弾くピアノと彼による歌詞の訳を聞きながら、「愛の讃歌」の日本語詞を完成させ、これが彼女の最初の訳詞作品となった。

日生劇場でのロングリサイタル

公演のあらましとスタッフ

越路は初めてのパリ行からの帰国後の1953年(昭和28年)に、第1回リサイタルを東京銀座のヤマハホールで開催した。以後はほぼ年に1回のペースでヤマハホールを拠点に(他では日比谷公会堂)リサイタルを開催し、1965年(昭和40年)から日生劇場での開催を始めその後芸能界の歴史に残るリサイタルとなった。第1回当初は2〜3日の公演だったがその後大きな反響を呼び、1968年(昭和43年)には公演期間は11日間に伸び、1969年(昭和44年)からは空前絶後の約1ヶ月におよぶロングリサイタルとなった。1970年代当時、最もチケットの入手が困難なライブ・ステージのひとつともいわれた。1972年(昭和47年)以降はほぼ春、秋に公演され、秋の公演後は全国縦断公演も行った。

越路の歌唱は年々進化・深化していったが、その最大の功績者の一人はロングリサイタルの演出家であった浅利慶太と言って良いだろう。リサイタルには1966年(昭和41年)から劇団四季の演出家である浅利慶太が関わったが、当初は越路の所属先であった東宝(越路は昭和43年からフリー)との関係から浅利が前面に出ることは無かった。その後は浅利の演出、日本ゼネラルアーツ(浅利の舞台制作会社)の制作により、越路の死去する1980年(昭和55年)までリサイタルを支えた。

また、音楽構成は越路の夫である作曲家の内藤法美が務め、舞台装置は金森馨、照明は吉井澄雄、また演奏にはジョージ川口らが加わり、最高のスタッフ陣がロングリサイタルを支えたことは特筆すべきことである。

ドラマチックリサイタル」

ロングリサイタルでは、越路が単独で歌い演ずる形式だけではなく「ドラマチックリサイタル」と称する意欲的な作品も制作された。これは越路吹雪と劇団四季とのタイアップで行われた。その最大のヒット作は1971年(昭和46年)初演の「愛の讃歌-エディット・ピアフの生涯」であり、越路が亡くなる前年の1979年(昭和54年)までロングリサイタルの一演目として再演された。

その内容とは、ピアフを演ずる越路とギリシア古典劇のコロス様に扮した劇団四季の俳優陣とが相呼応しつつ、ピアフの名曲約20曲でピアフの生涯を劇的に描くものであった。四季による「三つの鐘」の大合唱で幕を開けて、出生・結婚(当作品ではパリ解放)・死という人生で鳴り響く3度の鐘をモチーフにして、ピアフの生涯が綴られた。

第1幕は、ピアフの出生(第1の鐘)から始まる。凍る冬の真夜中にパリの路上で産み落とされたピアフ、その不幸な少女は街で歌いやがてスターに、しかし殺人の疑惑をかけられ転落、その後復活した彼女はドイツ占領からパリ解放に喜ぶパリ市民と高らかにラ・マルセイエーズを歌い上げて幕(第2の鐘)。

第2幕は、戦後アメリカで人気を博したピアフのバラ色の人生で幕を開ける。ボクシングの世界チャンピオンであるマルセル・セルダンとの恋、そして悲しい別れ、その後薬物中毒に落ちるピアフ、やがて復活、ギリシアの年若いテオ・サラポとの新たな恋そして彼との結婚、しかし病魔に蝕まれていたピアフはテオに看取られながら永遠の眠りにつく。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されるピアフを何万人ものパリ市民が見送る。ピアフの魂を安らげる鐘(第3の鐘)が鳴り響き、愛の讃歌の大合唱へと変わり幕が閉じる。

劇中でピアフの最愛の恋人マルセル・セルダンの突然の事故死を受けて、絶望の中でマルセルの霊を慰め永遠の愛を込めて越路が歌った「愛の讃歌」は、悲痛さと魂の清らかさを表現した絶唱として、「ノワールの愛の讃歌」「世界で最も感動的な愛の讃歌かも知れない」との評価を得ている。

その他のドラマチックリサイタルとしては、1975年(昭和50年)春の「恋の7章」がある。また越路最後のリサイタルとなった1980年(昭和55年)春の「スペシャルリサイタル」も、第1部は劇団四季との共演であった。これらの越路と劇団四季との共演が、今日の四季ミュージカルの基盤となったであろうことも指摘できるだろう。

2024/06/24 22:02更新

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