鈴木梅太郎の情報(すずきうめたろう) 農芸化学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
鈴木 梅太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
鈴木梅太郎と関係のある人
志方益三: 理化学研究所に入り、鈴木梅太郎のもとで研究を行った。 相馬半治: 同年、明治製糖研究所を独立させ、相馬は顧問として鈴木梅太郎、真島利行、加藤与五郎といった一流の学者を招くのに尽力している。 本多光太郎: 長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 藪田貞治郎: 「人間風景:鈴木梅太郎と藪田貞治郎 激動期の理化学研究所」(加藤八千代著 共立出版 1987年) 長岡半太郎: 本多光太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 秦佐八郎: 1915年(大正4年)、国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功。 住木諭介: 1929年(昭和4年)4月に東京帝国大学農学部農芸化学科(主任:鈴木梅太郎)副手に就任、1932年(昭和7年)9月に東京帝国大学農学部農芸化学科助手に就任、1936年(昭和11年)8月に東京帝国大学農学部農芸化学科助教授に就任。 辻村みちよ: 同研究所鈴木梅太郎研究室では、三浦政太郎との共同研究で緑茶にビタミンCが多く含まれていることを発見する。 塩原又策: さらに1902年、高峰譲吉のアドレナリンや1911年、鈴木梅太郎が発見したオリザニンの輸入販売権を獲得し1913年(大正2年)に三共株式会社を設立し高峰譲吉を社長に迎える。 赤堀四郎: 兄弟が多く家計は苦しかったが、父から鈴木梅太郎やキュリー夫妻の話を聞いて育った。 辻村みちよ: 研究生となり鈴木梅太郎研究室に入る。 |
鈴木梅太郎の情報まとめ
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう)さんの誕生日は1874年4月7日です。静岡出身の農芸化学者のようです。
卒業、現在に関する情報もありますね。1943年に亡くなられているようです。
鈴木梅太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月7日 - 1943年(昭和18年)9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を用いて抗脚気因子を初めて抽出したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。 静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。 帝国大学農科大学(現:東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。 1874年 - 榛原郡堀野新田村にて生まれる。 1880年 - 地頭方学校(現:牧之原市立地頭方小学校)入学。 1886年 - 地頭方学校卒業。 1887年 - 東遠義塾が開講し、入塾。 1888年5月15日 - 単身徒歩にて上京する。 1888年 - 東京神田の日本英学館に入る。のち東京農林学校予備校に入学。 1889年 - 東京農林学校入学。翌年、東京農林学校は帝国大学農科大学と改称された。 1893年 - 帝国大学農科大学予科を卒業。帝国大学農科大学に入学。 1896年 - 帝国大学農科大学農芸化学科を卒業し、卒業式において帝国大学各分科大学全卒業生を代表して答辞を朗読。大学院に入る。 1900年 - 「桑樹委縮症病原論」によって農学博士の学位を得る。 1901年 - ベルリン大学に留学。エミール・フィッシャーの下で、ペプチド合成の研究に従事。 1906年 - 帰国。盛岡高等農林学校教授。 1907年 - 東京帝国大学農科大学教授。 1913年 - 東京農業大学教授(兼農芸化学講習部長)。植物栄養論の講義を担当。 1917年 - 理化学研究所主任研究員。 1919年 - 香川県藍同業組合の招聘に応じ、小松島町(現:小松島市)に藍工場を建設。 1924年 - 副栄養素の研究に対し帝国学士院賞を授与。日本農芸化学会を創立し、初代会長となる。 1925年 - 帝国学士院会員となる。 1926年 - 帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞。東京帝国大学農学部長(1928年まで)に就く。 1928年 - 帝国発明協会より合成酒の発明に対し、特等賞牌を受ける。 1929年 - 大日本農会より名誉賞を受ける。東京帝国大学農学部へ実験室一棟寄付の件に対して紺綬褒章を受ける。 1932年 - ドイツ学士院会員に推される。 1933年 - 東京帝国大学へ奨学資金10万円寄付の件により、紺綬褒章を受ける。 1934年 - 東京帝国大学教授を辞する。 1937年 - パリ万国博覧会にてビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を受賞。 1938年 - 理研酒工業株式会社(1955年、協和発酵キリンに吸収合併)を創設。 1943年
9月20日 - 慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため逝去。 鈴木は、糠に含まれる抗脚気因子を物理的に抽出することに成功した。 留学から帰った鈴木は、クリスティアーン・エイクマンの追試を行い、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気同様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米にはその症状を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。1910年(明治43年)6月14日、東京化学会で「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」と題して報告をした。その後、この成分の化学抽出を目指した。 はやくも鈴木は同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、その論文は翌1911年(明治44年)1月の東京化学会誌に「糠中の一有効成分に就て」と題して掲載された。そこでは、糠のアルコールエキスから有効成分を濃縮し樹脂状の塊として得たこと、それを仮にアベリ酸と命名したこと(のちにオリザニンと改名している)が報告された。また、この有効成分が抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、後の「ビタミン」の概念をはっきりと提示していた。 鈴木の論文はドイツ語に訳されてドイツの速報誌に抄録されたのだが、新しい栄養素であるとの主張が訳出されておらず、鈴木の発見は世界的な注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみとなってしまった。 医者ではない鈴木には脚気患者に対する実地治療成績がなく、1911年10月1日にオリザニンを発売したが、世間の医家に試験治療を要望する広告を出しての販売であった。都築甚之助のアンチベリベリンなどの他の糠製剤と異なり、なかなか医家にとりあげられず、8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がオリザニンを使った脚気治療報告を行った。そこでは「粗オリザニン」の大量投与が有効であるとされた。これにより、オリザニンはその価値が認識されるようになった。 1922年には合成清酒を発明している。これは1923年に「理研清酒『新進』」、1924年に「理研酒『利久』」の名称で市販され、後の「三倍増醸清酒」開発の基礎ともなった。なお、『利久』は戦後、理研の合成清酒製造部門を継承した協和発酵(現:協和発酵キリン)を経て、現在はアサヒビール(協和発酵がアサヒビールに酒類事業を譲渡)に引き継がれている。 出身地である静岡県では彼の業績を顕彰し、1955年(昭和30年)に「鈴木梅太郎博士顕彰会」が設立されており、毎年県下の中学・高校生の優れた理科研究論文に対して「鈴木梅太郎賞」を贈っている。 1974年(昭和49年)4月、鈴木の生誕から100年を記念して静岡女子大学に鈴木の胸像が建立された。この像は『鈴木梅太郎先生像』と命名された。のちに静岡女子大学は静岡薬科大学や静岡女子短期大学と統合され静岡県立大学となったが、胸像は引き続き静岡県立大学の谷田キャンパスに設置されていた。さらに同キャンパスは草薙キャンパスと改称されたが、胸像は引き続き設置され続けている。 1992年(平成4年)、母校である相良町立地頭方小学校に鈴木の胸像が建立された。この像は『鈴木梅太郎博士之像』と命名された。のちに相良町立地頭方小学校は牧之原市立地頭方小学校に改称されたが、胸像は引き続き設置されている。 2000年(平成12年)、鈴木によるオリザニン発見から90年を記念し、静岡県庁、相良町役場、日本ビタミン学会などが中心となって12月13日を「ビタミンの日」として制定した。また、ビタミンの日制定に関わった住民、企業、学会などにより「ビタミンネットワーク」が組織されている。 妻は辰野金吾の長女である須磨子。生物学者である荒木文助を婿養子として迎えており、文助は姓を荒木から鈴木に改めた。文助は梅太郎の門下生であり、梅太郎が東京帝国大学で主宰していた化学第二講座を引き継いだということもあり、梅太郎の業績について解説する機会も多かった。 1908年(明治41年)12月11日 - 従六位 1912年(大正元年)12月28日 - 従五位 1943年
9月 正三位勲一等瑞宝章受章 ノーベル賞 ビタミン 日本の脚気史 日本の十大発明家 栄光なき天才たち ^ “鈴木梅太郎”. 牧之原市. 2013年6月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。 ^ 山下 (2008)、379-380頁。 ^ 山下 (2008)、379頁。 ^ 鈴木 梅太郎, 島村 虎猪 (1911). “糠中の一有効成分に就て”. 東京化學會誌 32 (11): 4-17. https://doi.org/10.1246/nikkashi1880.32.4. ^ 山下 (2008)、379-380頁。 ^ 山下政三 1995, p. 374 ^ 山下政三 1995, pp. 309–311 ^ 「これまでの博士の顕彰活動」牧之原市政策協働部秘書広報課編集『広報まきのはら』155巻、牧之原市、2014年8月15日、4頁。(表紙には「NO.155」と記載されているが、奥付には「vol.155」と記載されているため「155巻」と表記。) ^ 「牧之原市の偉人鈴木梅太郎博士――世界で初めてビタミンを発見」牧之原市政策協働部秘書広報課編集『広報まきのはら』155巻、牧之原市、2014年8月15日、3頁。(表紙には「NO.155」と記載されているが、奥付には「vol.155」と記載されているため「155巻」と表記。) ^ 「牧之原市の偉人鈴木梅太郎博士――世界で初めてビタミンを発見」牧之原市政策協働部秘書広報課編集『広報まきのはら』155巻、牧之原市、2014年8月15日、5頁。(表紙には「NO.155」と記載されているが、奥付には「vol.155」と記載されているため「155巻」と表記。) ^ 「HISTORY――研究室沿革」『生物化学研究室 沿革』東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻生物化学研究室。 ^ 鈴木文助「鈴木梅太郞博士とヴイターミン」静岡県科学協会編『黎明期に於ける郷土の科学者』静岡県科学協会、1944年。 ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。 ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。 ^ 『官報』第5012号「叙任及辞令」1943年9月25日。 山下政三『脚気の歴史 ビタミンの発見』思文閣出版、1995年。ISBN 4-7842-0881-X。 『鴎外森林太郎と脚気紛争』 山下政三、日本評論社、2008年 「脚気に挑んだ明治の二人の“太郎”」 上山明博(『歷史街道 12月号』PHP研究所、2005年12月1日) 「ビタミンを最初に見つけた日本人、鈴木梅太郎」 上山明博(『発明立国ニッポンの肖像』 文春新書、2014年) 鈴木梅太郎のビタミンB1の発見 - 東京大学大学院農学生命科学研究科 鈴木梅太郎 - 静岡県牧之原市 鈴木梅太郎-歴史が眠る多磨霊園 鈴木梅太郎:作家別作品リスト - 青空文庫 鈴木梅太郎の業績 『鈴木梅太郎』 - コトバンク FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 韓国 CiNii Books CiNii Research レオポルディーナ Scopus 鈴木梅太郎 日本の農芸化学者 日本の発明家 日本学士院賞受賞者 文化勲章受章者 紺綬褒章受章者 勲一等瑞宝章受章者 帝国学士院会員 国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員 東京大学の教員 岩手大学の教員 東京農業大学の教員 理化学研究所の人物 東京大学出身の人物 静岡県出身の人物 1874年生 1943年没 脚気 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Leopoldina識別子が指定されている記事 Scopus識別子が指定されている記事
2025/01/23 15:56更新
|
suzuki umetarou
鈴木梅太郎と同じ誕生日4月7日生まれ、同じ静岡出身の人
TOPニュース
鈴木梅太郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「鈴木梅太郎」を素材として二次利用しています。