阿久悠の情報(あくゆう) 作詞家、作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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阿久 悠さんについて調べます
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阿久悠と関係のある人
森山直太朗: 『歌鬼 (GA-KI) 〜阿久悠トリビュート〜』(2008年7月30日) 長尾みのる: どうせこの世は猫またぎ : Odd eye essay 阿久悠 著,長尾みのる 絵 毎日新聞社 1988 猪俣公章: 街の子(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子) 井原高忠: 1971年10月改編で開始した『スター誕生!』は阿久悠から出された企画書に対して、井原はホリプロダクションの経営を軌道に乗せていた堀らを誘って具体化させ、プロデューサーに後輩の池田文雄を据えて実行に移す。 三木たかし: 憂愁 (作詞: 阿久悠) 宮内知美: 同年には阿久悠のトリビュートアルバム『Bad Friends』(ポニーキャニオン・2009年12月16日発売)で来栖あつこと共に「ペッパー警部」を歌唱している。 大倉智之: 7月 阿久悠トリビュートアルバム『歌鬼3』の「5番街のマリーへ」とRAG FAIRと「宇宙戦艦ヤマト」参加。 相澤秀禎: デビュー曲の作詞は阿久悠、作曲は中村泰士に決まり、このふたりも同席した。 木之内みどり: 作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:三木たかし 真鍋ちえみ: c/w 「ロマンチスト」 作詞:阿久悠 作曲:細野晴臣 編曲:清水信之 三木たかし: 青い鳥逃げても (作詞: 阿久悠) 岡本舞子: エデンの園(阿久悠/山川恵津子/山川恵津子) 伊藤咲子: 以降は日本コロムビアへ移籍してシングルを発表、2019年(令和元年)5月29日には阿久悠作詞の未発表曲『静かに、愛がとび立つわ』を発売した。 西城秀樹: 7月5日 - 28日、台本・作詩は阿久悠、作曲は三木たかし、演出は浅利慶太による劇団四季『わが青春の北壁』(日生劇場)に主演し、ミュージカルに初挑戦。 大野克夫: 業界内でも、発売されたレコードに引けをとらないほど完成度の高いデモテープを制作することで知られている(何度もコンビを組んだ作詞家の阿久悠曰く「大野克夫さんのデモテープは絶品で、このままレコードとして発売したいくらいだねと毎曲届けられる度に思っていた」)。 原沙知絵: ヒットメーカー 阿久悠物語(2008年8月1日) - 女性担当者 役 三木たかし: 花供養 (作詞: 阿久悠) 荻久保和明: 男声合唱組曲「八月十五夜の笛吹き」(2001):阿久悠作詩、キックオフ刊 三木たかし: 渡り鳥…北から南から… (作詞: 阿久悠) 五木ひろし: 其の他、改名後では初めて自らが作曲を手懸けたシングル曲であること、非・演歌であること、売れっ子作詞家の阿久悠と初めてタッグを組み、最高位20位、登場週数30週、20万枚を超える売上げを記録。 鈴木キサブロー: ひらめきもときめきも (作詞:阿久悠) 奥村伸二: 7月 阿久悠トリビュートアルバム『歌鬼3』の「5番街のマリーへ」とRAG FAIRと「宇宙戦艦ヤマト」参加。 岡本舞子: 桜吹雪クライマックス(阿久悠/山川恵津子/山川恵津子) あべ静江: 作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:馬飼野俊一 小林亜星: トヨタ自動車『ふれあう世界』(4代目コロナ(中期型・後期型))(日本語詞:阿久悠)/布施明(日本語バージョン)、ボビー・ウィリアムス(英語バージョン) 鈴木キサブロー: ながいながいお話をみじかいみじかい一言で (作詞:阿久悠) あべ静江: 作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:馬飼野俊一 袴田吉彦: 時代をつくった男 阿久悠物語(2017年8月26日、日本テレビ) - 飯塚ディレクター 役 鈴木キサブロー: 八月の恋人九月の悪魔(作詞:阿久悠) 水谷絵津子: 作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:矢野立美 |
阿久悠の情報まとめ
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阿久 悠(あく ゆう)さんの誕生日は1937年2月7日です。兵庫出身の作詞家、作家のようです。
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主な記録、エピソードなどについてまとめました。現在、父親、卒業、映画、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。70歳で亡くなられているようです。
阿久悠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)阿久 悠(あく ゆう、1937年〈昭和12年〉2月7日 - 2007年〈平成19年〉8月1日)は、日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。 本名は深田 公之(ふかだ ひろゆき)。 淡路島(兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原)出身。 ペンネームの由来は、広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、兼業禁止の会社にばれないよう“悪友”をもじった筆名として使い始めた事から。深く考えずにつけたため、いずれは別の筆名にするつもりだったが、仕事が途切れなかったので、独立後も使い続けた。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する)。長男は作曲家の深田太郎で、阿久作詞・深田作曲の楽曲も存在する。 両親とも宮崎県児湯郡川南町出身。 幼少期は兵庫県警の警察官であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。都志町立都志小学校卒業、都志町立都志中学校、一宮町立江山中学校、五色町立五色丘中学校卒業し、兵庫県立洲本高等学校卒業(同級生に京都大学教授の木曾好能、料理研究家の為後喜光などがおり、在学中に野球部が選抜高等学校野球大会で優勝する。)、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に故郷の宮崎に戻ったという。 1959年(昭和34年)に広告代理店・宣弘社(現在の電通アドギア)へ入社する。元々は映画の脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家の伊上勝が課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」と言われて、振られた仕事はCMの絵コンテ描きだったという。絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のためにここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を書かせてもらえるものだと思っていたという。 また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。作詞家としての処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)。初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」(1966年(昭和41年)11月発売)。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年(昭和42年)11月5日発売)。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、1968年(昭和43年)に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした阿久の作詞作品となった。また、この頃より死去までオフィス・トゥー・ワンに所属する。 その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、このスタイルは「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と阿久が提案したものである。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。 上記の作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである」との言葉を遺す。 1980年代に入りニューミュージックの歌手が台頭し、彼等のつづった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。 直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』で第7回島清恋愛文学賞を受賞。 2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。 墓所は東京都港区の長谷寺。 日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。また、同年の第49回日本レコード大賞では特別功労賞、第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。 2009年、明治大学連合父兄会阿久悠作詞賞制定。2010年、明治大学アカデミーコモン地階に阿久悠記念館が開設された。また、没後、生前に発表されなかった作詞を基にした楽曲が多数造られているほか、さらに10年経過してからも、2017年の第59回日本レコード大賞では特別賞を受賞している。 主な記録音楽賞日本レコード大賞での大賞受賞曲は作詞家として最多の5曲(1976年から1978年まで3年連続受賞)。 1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦 1976年「北の宿から」都はるみ 1977年「勝手にしやがれ」沢田研二 1978年「UFO」ピンク・レディー 1980年「雨の慕情」八代亜紀 日本レコード大賞の作詩賞受賞は7回で最多記録。 1973年「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス。「じんじんさせて」山本リンダ 1975年「乳母車」菅原洋一 1985年「夏ざかりほの字組」Toshi & Naoko(田原俊彦・研ナオコ) 1986年「熱き心に」小林旭 1990年「花(ブーケ)束」八代亜紀 1994年「花のように鳥のように」桂銀淑 1996年「螢の提灯」坂本冬美 2007年 特別功労賞 2017年 特別賞 日本作詩大賞は8回受賞。日本レコード大賞作詩賞と同じく、最多記録となっている。 1974年「さらば友よ」森進一 1976年「北の宿から」都はるみ 1977年「勝手にしやがれ」沢田研二 1981年「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行 1982年「契り」五木ひろし 1984年「北の螢」森進一 1988年「港の五番町」五木ひろし 2002年「傘ん中」五木ひろし オリコン6834.0万枚(2015年12月8日付デイリーランキング迄) - 作詞家歴代2位 ※歴代作詞家 総売上枚数TOP5 1位 - 秋元康…10,022.6万枚 2位 - 阿久悠…6,834.0万枚 3位 - 松本隆…4,985.4万枚 4位 - 小室哲哉…4,229.7万枚 5位 - つんく♂…3,796.1万枚 1位 - 「UFO」ピンク・レディー 2位 - 「サウスポー」ピンク・レディー 3位 - 「北の宿から」都はるみ 4位 - 「ウォンテッド (指名手配)」ピンク・レディー 5位 - 「モンスター」ピンク・レディー 6位 - 「青春時代」森田公一とトップギャラン 7位 - 「渚のシンドバッド」ピンク・レディー 8位 - 「また逢う日まで」尾崎紀世彦 9位 - 「時の過ぎゆくままに」沢田研二 10位 - 「勝手にしやがれ」沢田研二 22作 1977年6月20日付のオリコンシングルチャートで、阿久悠作詞の「勝手にしやがれ」(歌・沢田研二)が首位を獲得する。それ以降、12月5日付首位の「ウォンテッド (指名手配)」(歌・ピンク・レディー)まで、25週連続で阿久悠作品が首位を獲得。ほぼ半年にわたり首位を取り続けるという前人未到の記録を打ち立てた。 またこの年は他に、「北の宿から」(歌・都はるみ)、「青春時代」(歌・森田公一とトップギャラン)なども首位を獲得。阿久悠作品は年間39週(約9か月)首位を獲得した。 1977年12月5日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに16曲チャートインした。 1位 - 「ウォンテッド (指名手配)」ピンク・レディー 4位 - 「憎みきれないろくでなし」沢田研二 9位 - 「思秋期」岩崎宏美 12位 - 「気絶するほど悩ましい」Char 16位 - 「暖流」石川さゆり 19位 - 「津軽海峡・冬景色」石川さゆり 23位 - 「東京物語」森進一 26位 - 「勝手にしやがれ」沢田研二 33位 - 「ワインカラーのときめき」新井満 39位 - 「渚のシンドバッド」ピンク・レディー 42位 - 「宇宙戦艦ヤマト」ささきいさお 45位 - 「ボタンを外せ」西城秀樹 48位 - 「能登半島」石川さゆり 69位 - 「薔薇とピストル」ギャル 70位 - 「過ぎてしまえば」森田公一とトップギャラン 95位 - 「ほたる坂」清水由貴子 エピソード演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い作詞のジャンル、日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』などの番組企画など芸風が多彩なのは、広告代理店勤務時にコピーライターをしていたことを活かした商品の特長や特性別に書きわけてコピーを作ることと、歌手や番組もひとつの商品として捉えて作詞を作り出す方法を採用している為で、それが幅広いジャンルにさまざまな作品を作り出した。また、たとえば『津軽海峡・冬景色』『UFO』『ピンポンパン体操』『恋のダイヤル6700』など、これだけ異質な楽曲でミリオンセラーを連発した作詞家は後にも先にもおらず、ねっとりと暗く激しい情念から明るく弾けきったナンセンスまで自在に描き分けた。 詞が先に描かれ、曲がそれにあわせて作られる「詞先」が多数派だった時代において、どちらかといえばその逆の「曲先」を得意にし、両方を全く違和感なくこなせる作家でもあった。初の大ヒット作である「白い蝶のサンバ」も曲先であり、僅か2日での曲の差し替えを引き受けた「サウスポー」も曲先である。阿久は「歌詞は4分間の映画のシナリオ」と語っている。 作詞家・なかにし礼も年齢が近いこともあり、阿久が強く意識する存在であった。年齢は阿久のほうが年上だったが、デビューはなかにしの方が早かった。放送作家時代、歌謡番組の台本に、なかにし礼作詞の歌詞を書き写す時は、明らかに他の作詞家の場合と違って、一行一行どころか、一語一語を舐めるように読み、さらに、行間にひそんでいるであろうもののけすら探ろうとした、と自著「愛すべき名歌たち: 私的歌謡曲史」において記されている。 好きな映画は『ニュー・シネマ・パラダイス』であり、自身の『瀬戸内少年野球団』との共通点についても言及している。 漫画原作者として『悪魔のようなあいつ』(上村一夫画)を手がける。連載中に沢田研二主演でテレビドラマ化(TBS)された。主題歌は沢田研二の「時の過ぎゆくままに」。 長年、産経新聞『正論』メンバーとしても活動しており、生活面に『阿久悠 書く言う』というコラムを、亡くなる約2か月ほど前の2007年6月9日まで執筆・掲載し、没後に「清らかな厭世 - 言葉を失くした日本人へ」と改題され出版された。 日記を日課としていたが、必ず一ページを埋め尽くすことを自らに課し、テレビのニュースや新聞の内容、浮かんだ詩を書き留めていた(阿久はこの日記を「アンチロマンの極み」と評していた)。その中で書き上げられた100編を収録した『書き下ろし歌謡曲』(岩波新書、1997年)に日記の一部が引用されている。日記は晩年の闘病生活から亡くなる直前まで、26年7カ月に渡り書き続けられた。現在では阿久悠記念館に保管されている。2016年、残された日記を元に『不機嫌な作詞家-阿久悠日記を読む』(三田完、文藝春秋)が発表された。 宣弘社宣弘社に入社した理由は、『月光仮面』が好評であったことがチャンスに繋がるのではないかと考えたことによるが、自身はテレビを持っていなかったため番組自体は見ておらず、広告代理店という業種もよくわかっていなかったという。 脚本家の伊上勝は宣弘社時代の上司であり、住んでいたアパートを追い出されて住む所がなくて困っていたところを伊上に相談したところ、「じゃあ、決まるまで家に来ていいよ」と言われて、1年ほど伊上宅に下宿していたこともあった。伊上は明治大学の先輩でもあったが、そのことは宣弘社に入社してから知った。元々脚本家志望だった阿久は、給料をもらいながらシナリオを書いて、テレビに名前がクレジットされる第一線で活躍する伊上の姿を「理想の姿」と評していた。下宿していた頃に伊上に麻雀を教えたのは阿久であり、それが原因で伊上は大の麻雀好きになってしまったという。 漫画家・イラストレーターの上村一夫は宣弘社時代の同僚であり、同時代から交友が深かった。阿久は宣弘社時代にCMの絵コンテなどを手がけていたが、上村のうまい絵を見てからは恥ずかしくなり絵が描けなくなったと述べている。 歌手との関係歌手・美空ひばりとは同い年であるが、阿久の少年時代、すでに美空は天才少女として一世を風靡している存在だったことから、12歳にして強く意識する存在で、畏敬の念を抱いていた。阿久が自ら定めた「作詞家憲法」の第1条で「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。」と書くほど、美空の楽曲と異なる方向性を考えていた。この作詞家憲法は明治大学駿河台キャンパスの阿久悠記念館で展示されている。なお、その後は心境に変化が見られ、美空の最晩年には「恋夜曲」「人」「花蕾」など数作品を提供している。 没後の2007年(平成19年)のNHK紅白歌合戦では、最終盤出場の4人、和田アキ子が「あの鐘を鳴らすのはあなた」(森田公一作曲)、森進一 が「北の螢」(三木たかし作曲)、石川さゆりが「津軽海峡・冬景色」(三木たかし作曲)、五木ひろしが「契り」(五木ひろし本人が作曲)の阿久悠作詞作品を歌い、「阿久悠追悼コーナー」として、故人を偲んだ。 2010年3月22日、出身地である兵庫県洲本市五色町の複合公園『ウェルネスパーク五色』(高田屋嘉兵衛公園)に、阿久が作詞した「あの鐘を鳴らすのはあなた」をモチーフとした顕彰モニュメント『愛と希望の鐘』が設置され、同曲の歌手 和田アキ子・作曲家 森田公一らが出席して除幕式が行われた。 阿久悠と野球『瀬戸内少年野球団』でも推測できる通り、熱狂的な野球ファンであり、プロ野球では阪神タイガースのファンで阪神を題材にした小説『球臣蔵』を執筆しているほどである。しかし、西武ライオンズと福岡ダイエーホークスの球団歌は手がけながら、生前に地元・兵庫県の球団である阪神の応援歌は発表していなかったが、没後の2010年6月になって、1992年に作詞した「野球狂〜拝啓タイガース様」という歌の存在が明らかにされた。また、「くたばれジャイアンツ」という曲を作詞し、フィンガー5に提供している。ヒット曲では「ピンポンパン体操」「サウスポー」と王貞治に縁がある作品を手がけている。 また、1979年から2006年まで、夏の高校野球期間中、スポーツニッポン新聞に『甲子園の詩』と題して、夏の高校野球出場高校及びその選手等を題材にした抒情詩を掲載していた。最後の作品は第88回全国高等学校野球選手権大会決勝(早稲田実業 対 駒大苫小牧)戦が題材であった。 宣弘社の渡辺邦彦は、同社時代に一緒に野球をしていたと証言している。 平成に入ってに採用された、現在の選抜高校野球の大会歌「今ありて」(谷村新司作曲)も作詞した。 2024/06/13 18:30更新
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aku yuu
阿久悠と同じ誕生日2月7日生まれ、同じ兵庫出身の人
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