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■名前・氏名
芥川 龍之介
(あくたがわ りゅうのすけ)
■職業
作家
■芥川龍之介の誕生日・生年月日
1892年3月1日
■出身地・都道府県
東京出身

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芥川龍之介

生涯

東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。

生後7ヵ月後頃に母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。

なお、龍之介の名前は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われているが、出生時刻については資料がないため不明。戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。彼自身は「龍之助」表記を嫌った。

1898年(明治31年)、江東(えひがし)尋常小学校入学(現在の墨田区立両国小学校)。府立第三中学校を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学。1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明、渋沢秀雄らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、龍之介は順応することはなかったらしい。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は第一高等学校一覧によると1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。

東京帝大在学中の1914年(大正3年)2月に一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿した後、10月に『新思潮』が廃刊に至るまでに同誌上に処女小説「老年」を発表。作家活動の始まりとなった。1915年(大正4年)10月、代表作の1つとなる「羅生門」を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表、級友松岡譲の紹介で夏目漱石門下に入る。

1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池・久米に松岡譲・成瀬正一の五人)を発刊したが、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が浅野の後任に芥川を推薦(内田百間によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。

1918年(大正7年)の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった。1919年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。

1919年(大正8年)3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文(父塚本善五郎は戦艦「初瀬」沈没時に戦死)と結婚。1921年(大正10年)2月、横須賀海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池と共に長崎旅行を行い、友人の日本画家近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。

1921年には海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合いなどを行い、7月帰国。「上海遊記」以下の紀行文を著した。

この旅行後から次第に心身衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む。1923年(大正12年)には湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減ってゆくが、この頃からいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「歯車」「河童」などへと繋がっていく。

1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、各地で自警団が形成された。芥川も町会(田端)の自警団に、世間体もあるので病身を押して参加した。随筆「大震雑記」やアフォリズム「或自警団員の言葉」に自警が言及される。また震災後の吉原遊廓付近へ芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた川端康成によると、芥川は悲惨な光景の中を快活に飛ぶように歩いていたという。

1920年(大正9年)3月30日、長男芥川比呂志、誕生。

1922年(大正11年)11月8日、次男芥川多加志、誕生。

1925年(大正14年)7月12日、三男芥川也寸志、誕生。

1925年(大正14年)頃から文化学院文学部講師に就任。1926年(大正15年)、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲、療養のため鵠沼の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『點鬼簿』を脱稿、堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前岸田劉生が住み、震災後建て直されて国木田虎雄(国木田独歩の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、斎藤茂吉・土屋文明・恒藤恭・川端康成・菊池寛らの訪問を受けている。元号が昭和に替わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。

1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎と「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。この頃、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている。

7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。

作品の特徴

作品は、多く短篇小説が知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(「バルタザアル」など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。

主に短編小説を書き、多くの傑作を残した。しかし、その一方で長編を物にすることはできなかった(未完小説として「邪宗門」「路上」がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したと言われる。他の作家にくらべ表現やとらえ方が生々しい。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に「蜃気楼」が挙げられる)。

「杜子春」など古典を参考にしたものや(原話は唐の小説『杜子春伝』)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』に発表されたものなど児童向け作品も多い。一般的には、キリシタン物や平安朝を舞台とした王朝物などに分類される。また、古典(説話文学)から構想を得た作品も多い。例えば、「羅生門」や「鼻」、「芋粥」などは『今昔物語集』を、「地獄変」などは『宇治拾遺物語』を題材としている。またアフォリズムの制作も得意としており、漢文などにも通じていた。

反軍的な自説を主張しており、殊に「河童」、「侏儒の言葉」などの晩年の作品にはそのような傾向が強い。軍人の階級争いを「幼稚園児のお遊戯みたいだ」と自著で酷評したほどである。だが、当時は軍が著作物の検閲をするのが通常であったため、この検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくされた箇所も作品内に多数存在する。その一方で、海軍に対してはある程度の好意を抱いていたようで、陸軍のあまりの狭量に腐っていた陸軍幼年学校教官の豊島与志雄を「良い職場があるから」と海軍機関学校に招き、豊島はフランス語嘱託教官として勤務した。内田百間も芥川の推薦でドイツ語嘱託教官となっており、のちに内田は「竹杖記」(1934年(昭和9年))で芥川が講師の人選や交渉などに一定の役割を担っていたことを記している。

自著にて天照大神を登場させる際、別名の「大日孁貴」(おおひるめむち)を用いた。これは「天照大神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまうことになるため、太陽神、それも自然神という性格付けで「大日孁貴」を用いなければならなかったためである。

煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたという。この煙草について『海のほとり』『京都日記』『玄鶴山房』に敷島銘柄の煙草が登場した。

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