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太宰治の情報 (だざいおさむ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

太宰治の情報(だざいおさむ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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太宰 治さんについて調べます

■名前・氏名
太宰 治
(読み:だざい おさむ)
■職業
作家
■太宰治の誕生日・生年月日
1909年6月19日 (年齢38歳没)
酉年(とり年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
青森出身

太宰治と同じ1909年生まれの有名人・芸能人

太宰治と同じ6月19日生まれの有名人・芸能人

太宰治と同じ出身地青森県生まれの有名人・芸能人


太宰治と関係のある人

相沢友子: フリー直後に、ホリプロ時代のマネージャーに「小説を書き、賞を狙ってみては?」と勧められ、1999年に第15回太宰治賞の最終候補作に小説『COVER』がノミネートされた。


小館善四郎: 太宰治との関係


川島雄三: 一方で同郷の小説家としばしばみなされた太宰治は嫌いであり、太宰より織田の作品を読むことを薦めていた。


檀ふみ: 冬の花火 わたしの太宰治(1979年、TBS)


柄本明: 月曜・女のサスペンス カチカチ山殺人事件(1990年、テレビ東京) - 田野木肇・太宰治 ※二役


平田満: 新ハムレット〜太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?〜(2023年)


藁科みき: 世紀の愛の物語 太宰治 (美容師)


宮崎敦吉: 舌切雀 (太宰治作)


佐藤春夫: 太宰治の『道化の華』、『虚構の春』は佐藤が命名した。


三浦真弓: ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる 第4回「人間失格 太宰治」(1984年、ANB) - 津島美知子


太田静子: 8月1日、井伏鱒二、今官一、伊馬春部の訪問を受け、「太宰治ノ名誉及ビ作品ニ関スル言動(ヲ傷ツケルヤウナ言動)(新聞・雑誌ニ談話及ビ手記発表)ヲ一切ツツシムコト」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。


比古地朔弥: 人間失格(原作:太宰治、2010年、学研パブリッシング)


坂口安吾: そして、「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」として、三島は安吾について以下のようにも評している。


坂口安吾: 人気作家となった安吾は、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれて、時代の寵児となり注目される反面、「痴情作家」とレッテルを貼られることもあった。


剛力彩芽: 太宰治短編小説集 「駈込み訴え」 (2010年9月27日、NHK BS2) - 女子高生(アンデレ) 役


太田治子: 『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』朝日新聞出版、2009 朝日文庫、2012 


神路めぐみ: 「月夜とめがね」著者:小川未明 「桃太郎」著者:楠山正雄 「日日の麺麭」著者:小山清 「哀れなトンマ先生」著者:坂口安吾 「チャンス」著者:太宰治 「ネギ一束」著者:田山花袋 「柿の種」著者:寺田寅彦 「夢十夜」著者:夏目漱石 「落第」著者:夏目漱石 「夏の花」著者:原民喜 「壊滅の序曲」著者:原民喜 「廃墟から」著者:原民喜 「泉ある家」著者:宮沢賢治 「山男の四月」著者:宮沢賢治 「よだかの星」著者:宮沢賢治 「ヘンゼルとグレーテル」著者:ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム


北村薫: 収録作品:花火 / 女生徒 / 太宰治の辞書(書き下ろし) / 白い朝(文庫版のみ)/ 一年後の『太宰治の辞書』(文庫版のみ)/ 二つの『現代日本小説大系』(文庫版のみ)


野島昭生: 室生犀星の詩や、太宰治、シャルル・ボードレールなど色々なものを勉強をするため、喫茶店やレストランなどで詩の会をしていた。


小林親弘: 中学に入った頃から周りの目を気にして内にこもる暗い性格に変わり、人付き合いが苦手になってしまい、太宰治などを愛読したり、卓球部で友達と「人生って何だろうね」などと語り合うような毎日だった。


いいだもも: 別名の宮本 治は「宮本百合子と太宰治をアウフヘーベンする」との意図によるという。


星新一: 星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし、大庭みな子、鶴見俊輔、尾崎秀樹、奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。


冨永昌敬: 2009年、太宰治の小説『パンドラの匣』を映画化する。


川端康成: 第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。


平田満: “木村達成が太宰治にシンパシー「新ハムレット」俳優にも容赦なし?五戸真理枝の“問題作””.


宮本輝: 1977年(昭和52年)に自身の幼少期をモチーフにした『泥の河』で、第13回太宰治賞を受賞してデビュー。


長部日出雄: 『神話世界の太宰治』平凡社 1982


吹越満: 太宰を聴く〜太宰治朗読会〜(2024年、三鷹市芸術文化センター 星のホール)


横山由依: 太宰治を読んだか?


太田静子: 「人間失格 太宰治と3人の女たち」(2019年、沢尻エリカが演じる)


太宰治の情報まとめ

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太宰 治(だざい おさむ)さんの誕生日は1909年6月19日です。青森出身の作家のようです。

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略年譜、エピソードなどについてまとめました。現在、卒業、兄弟、事件、結婚、趣味に関する情報もありますね。去年の情報もありました。38歳で亡くなられているようです。

太宰治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名は津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後は、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。

青森県北津軽郡金木村(後の同郡金木町、現在の五所川原市金木町)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという。小学校卒業後、明治高等小学校に1年間通った。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている。

1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、菊池寛などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。小説家を志望するようになる。しかしこの時期から怠け癖が見え始め、太宰の長兄である津島文治が、太宰の中学時代の教科書を見たところ、教師や兄弟の似顔絵がぎっしり描かれていたという。

1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り津島家の親戚筋にあたる藤田家(現・太宰治まなびの家)で下宿生活をしていた。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。

1928年(昭和3年)、5月に同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無間奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている。この同人誌の製作にのめり込む反面、授業には殆ど出席せず、成績の悪化により、担当教師からは「正直さに欠ける」「外面上は正直に見える」という評価を受けた。またこの頃、芸者の小山初代(1912-1944年)と知り合う。1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選。12月10日深夜にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある。

1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという。

講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する。除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる。

1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。

1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。

同人雑誌『日本浪曼派』(1935年5月号) に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である今官一へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている。

1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。この頃の太宰は、後述の鎮痛剤の中毒に悩まされ、友人知人問わずに死を仄めかすなど、精神的に不安定だったが、度重なる言動に激怒した雑誌記者から「死ねないくせに、脅迫、強請りだ」と罵られることもあったという。

第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。

パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。

1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。

1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉(現・信玄の湯 湯村温泉)に度々逗留し、同温泉の「旅館明治」を定宿としていたほか、銭湯の「喜久乃湯温泉」にも通っていた。

1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。

1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。

没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。

10月頃、新潮社の野原一夫は太宰が愛人の山崎富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。部屋に青酸カリを隠していると脅し、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談し、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた埼玉県大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州(長野県)に出張中だった。

1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。

この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。

中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した。

『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。

しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。

既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・杉並区梅里の堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。

略年譜

1909年6月19日 - 青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。

1916年4月 - 金木第一尋常小学校に入学。

1922年4月 - 金木第一尋常小学校を卒業し学力補充のため、四ヵ村組合立明治高等小学校に一年間通学。

1923年

    3月4日 - 父・源右衛門が貴族院議員(多額納税)在任中に東京で死去。

    4月 - 青森県立青森中学校(新制県立青森高校の前身)に入学。青森市内の遠縁の家より通学。

    1925年 - この頃より作家を志望、級友との同人雑誌などに小説・戯曲やエッセイを発表。

    1927年

      4月 - 弘前高等学校(新制弘前大学の前身の一つ)文科甲類に入学。

      7月 - 芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受ける。

      9月 - 青森の芸妓・小山初代と知り合う。

      1928年

        5月 - 同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、「辻島衆二」名義で『無間奈落』を発表。

        9月 - 四号で廃刊するまでに井伏鱒二、舟橋聖一らの寄稿を得る。

        1929年12月 - カルモチンで自殺を図る。

        1930年

          3月 - 弘前高等学校を卒業

          4月 - 東京帝国大学仏学科入学。

          5月 - 井伏鱒二のもとに出入りするようになる。

          11月 - カフェの女給・田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手・シメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取り調べを受けたが、兄・文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。

          1931年2月 - 小山初代同棲。

          1933年2月 - 『サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した」と井伏鱒二の回想「太宰君」にて記されている。

          1934年12月 - 檀一雄、山岸外史、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。

          1935年

            3月 - 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。

            8月10日 - 第1回芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まる。太宰の「逆行」は次席となった。選考委員の佐藤春夫の自宅をその後訪問し、以後師事する。

            9月30日 - 東大を除籍。

            1936年

              6月25日 - 最初の単行本『晩年』(砂子屋書房)刊行。

              10月13日 - パビナール中毒治療のため武蔵野病院に入院。

              1937年

                3月 - 小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを知る。初代と心中未遂、離別。

                6月21日 - 井伏鱒二の斡旋で杉並区天沼1丁目へ転居。

                1938年

                  9月18日 - 石原美知子と見合いをする。

                  11月6日 - 美知子と婚約。

                  1939年

                    1月8日 - 杉並区の井伏鱒二宅にて結婚式を挙げる。同日、山梨県甲府市御崎町の新居に移る。

                    9月1日 - 東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。

                    1940年

                      5月-『走れメロス』出版。

                      1941年6月7日 - 長女・園子誕生。

                      1944年8月10日 - 長男・正樹誕生。

                      1945年

                        3月 - 妻子を甲府の石原家に疎開させる。

                        4月2日 - 三鷹も空襲を受ける。甲府の石原家に疎開。

                        7月 - 爆撃のため甲府の石原家も全焼。妻子を連れ、かろうじて津軽の生家へたどりつく。

                        1946年

                          4月10日 - 戦後最初の衆議院議員総選挙が行われ、長兄文治が当選。

                          11月14日 - 妻子とともに三鷹の自宅に帰る。

                          1947年

                            2月21日 - 神奈川県下曾我に愛人の太田静子を訪ね、一週間滞在した後、田中英光が疎開していた伊豆の三津浜に行き、3月上旬までかかって『斜陽』の一、二章を書く(完成は6月末)。

                            3月30日 - 次女・里子(津島佑子)誕生。

                            4月12日 - 長兄文治が青森県知事に就任。

                            11月12日 - 太田静子との間に女児(太田治子)誕生。

                            1948年

                              3月7日 - 『人間失格』執筆のため熱海の「起雲閣」に向かう。同作品は5月10日、埼玉県大宮市で完成。

                              6月13日 - 愛人の山崎富栄と玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町、現・三鷹市)の急流にて入水心中、38歳で死去。

                              6月19日 - 遺体が玉川上水の下流で見つかる。

                              1998年12月31日 - 没年50年にのっとり、著作権法による著作権の保護期間が終了。

                              エピソード

                              左翼活動

                              1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が諭旨退学、2人が無期停学となっている。

                              大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた。1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した。

                              その他

                              太宰の墓は三鷹市中心部の禅林寺にあり、太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。これは一般に「桜桃忌」と称されている。太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていたが「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

                              身長175 cm。大食漢であり、新婚当時、酒の肴に湯豆腐を好み、豆腐屋から何丁も豆腐を買っていたため近所の噂になるほどだった。太宰曰く「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」とのことだったが、歯が悪いのと(後述)、何丁食べてもたかが知れているのが理由だった。京都「大市」のスッポン料理や、三鷹の屋台「若松屋」のウナギ料理が好きだった。味の素が好物で、鮭缶を丼に開け、味の素を大量にふりかけて食べた。味噌汁も好きだった。生家が一時養鶏業をやっていたこともあり、鶏の解剖が隠れた趣味だった。戦時中、妻の美知子が三鷹の農家から生きた鶏1羽を買ってくると、自分でさばいて水炊きや鍋にして食べた。短編『禁酒の心』にあるように酒もよく飲んだ。体に悪いと言われると「酒を飲まなければ、クスリをのむことになるが、いいか」と弁解した。

                              足のサイズも11文(約26.4 cm)と大きく、甲高でもあったので足に合う靴や足袋がなく苦労していた。戦後の戦災者への配給で兵隊靴(軍用ブーツ)を購入すると、これを気に入り愛用した。林忠彦が撮影した銀座の「ルパン」の写真で履いているのがこの兵隊靴である。

                              28歳の頃、駆け出しの自分を評価した佐藤春夫に誠意を見せるため、1937(昭和12)年1月1日付の西北新報に短いコラム「春夫と旅行できなかつた話」を執筆している。

                              30歳前後の頃、三鷹の家で弟子の堤重久と飲んでいた所、知人の編集者が合流して文学談議となったが、気を良くした太宰が堤に「今晩はなんでも聞け、明確に答えてみせるぞ」と断言したが、太宰も知人の編集者も全く知らない17世紀の僧侶・契沖について尋ねられ、答えに窮して暫し両手を揉み合わせて考え込んだ後、唐突に大笑いをしてから「大物過ぎて一晩で語り尽せない。近い内に席を改めて――」とはぐらかしたという。

                              虫歯だらけの「みそっ歯」だったが、美知子夫人の勧めで歯医者に通い、32歳でほとんど入れ歯にした。

                              三鷹駅西側にあった、三鷹電車庫(現・三鷹車両センター)と中央本線をまたぐ三鷹跨線人道橋(2023年12月に閉鎖・撤去)にはよく通ったという。

                              1949年4月11日、東京財務局が発表した所得番付では、100万円台の収入が記録されており、作家陣の中では上位となっている。

2024/06/17 04:49更新

dazai osamu


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