久米正雄の情報(くめまさお) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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久米正雄と関係のある人
高垣眸: 高垣は菊池寛『父帰る』、山本有三『嬰児殺し』、久米正雄『地蔵教由来』などの『新思潮』の作品や、ドストエフスキー『罪と罰』の上演などの新しい企画で一座を盛り立てた。 田村道美: 吾亦紅 前篇 1938年 監督阿部豊、原作久米正雄、脚本木村千依男、音楽服部正、主演入江たか子、大日方伝、高田稔、丸山定夫 田山花袋: 2021年、久米正雄が撮影していた動画が修復されたが、その中に田山が映り込んでいたことが判明している。 横光利一: 鎌倉文庫は1945年(昭和20年)5月に小林秀雄、川端康成、高見順、久米正雄ら鎌倉在住の文士によって貸本屋として開店され、終戦後の9月に大同製紙の申し入れにより出版社となって出発し、『人間』が創刊された。 横光利一: 小田切秀雄は1946年6月、新日本文学会の機関誌『新日本文学』に「文学における戦争責任の追及」を発表し、そこで「菊池寛、久米正雄、中村武羅夫、高村光太郎、野口米次郎、西條八十、斎藤瀏、斎藤茂吉、岩田豊雄、火野葦平、横光利一、河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、保田與重郎、林房雄、浅野晃、中河与一、尾崎士郎、佐藤春夫、武者小路実篤、戸川貞雄、吉川英治、藤田徳太郎、山田孝雄らは最大かつ直接的な戦争責任者である」と問いただし、「文学界からの公職罷免該当者である」と断定した。 吉野裕行: 文豪とアルケミスト(久米正雄) 沢田正二郎: 『わが家』(岡本綺堂作)、『地蔵経由来』(久米正雄作)、『屋上の狂人』(菊池寛作)、『箕輪の心中』(岡本綺堂作)、『嬰児殺し』(山本有三作、『殺陣』(市川升六・澤田正二郎作)、浪花座 (1921.5) 大佛次郎: 戦前では、小説家仲間の久米正雄らと鎌倉カーニバルの企画にも携わっている。 菊池寛: 葬儀委員長は久米正雄。 川端康成: 川端が鹿児島で特攻の取材をしていた5月1日に、久米正雄、小林秀雄、中山義秀、高見順、大佛次郎ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を八幡通りに開店した。 小宮豊隆: 大学時代に夏目漱石の門人となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。 田村道美: 吾亦紅 後篇 戦野に咲く 1939年 監督阿部豊、原作久米正雄、脚本木村千依男、音楽服部正、主演入江たか子、高田稔、月田一郎 竹岡信幸: 『白蘭の歌』(昭和14年12月)[久米正雄作詞、歌:伊藤久男、二葉あき子] 沢田正二郎: 『牛乳屋の兄弟』(久米正雄作)、『和泉屋染物店』(木下杢太郎作、『死骸の哄笑』(長田秀雄作、有楽座(第二次新時代劇協会の公演)(1914.9) 川端康成: 大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。 佐々木茂索: ^ 久米正雄、里見弴、佐佐木茂索ら検挙『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613) 菊池寛: 寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察。 佐藤惣之助: 1938年(昭和13年)9月には、久米正雄、林房雄、川口松太郎らと支那事変従軍文芸家第一班として中国へ従軍記者として赴く。 菊池寛: 同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介、久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。 徳富蘇峰: 杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥、菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されていた。 沢田正二郎: 『松永弾正』(岡栄一郎作)、『狂へる桜花』(藤井真澄作)、『寺田屋騒動』(長田秀雄作)、『安政小唄』(久米正雄作)、再建の演技座 (1924.3) 小穴隆一: 1933年、文士賭博事件により久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑となる。 江川宇礼雄: 1923年(大正12年)、仲間との窃盗容疑で逮捕され、年末懲役一年の判決を受けるが、里見弴、久米正雄、佐藤春夫らがその文才を惜しんで減刑嘆願を行い、24年(大正13年)3月、控訴審で執行猶予がつく。 阿部眞之助: 1933年(昭和8年)東日学芸部長時代に、菊池寛を学芸部顧問に、久米正雄・横光利一・吉屋信子・大宅壮一・高田保・木村毅・三宅周太郎を学芸部社友とした。 音羽美子: 岳父:久米正雄(作家)夫の父 前田山英五郎: シールズ事件で引退後、本人は「たまたま後楽園の前で知人と待ち合わせてるところに、偶然にも久米正雄が現れて切符をもらった」と語っている。 佐分真: 滞在中はイタリアやスペインを旅行し、レンブラントやベラスケス、ゴヤの作品に感銘を受ける、また藤田嗣治、佐伯祐三、久米正雄、長岡輝子らと交流。 川口松太郎: 1933年(昭和8年)11月、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり、久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑を受ける。 入江たか子: 続いて、サナトリウム(療養所)に勤務する美貌の看護師を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。 宇野千代: 本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトを18日間している間に久米正雄や芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ。 |
久米正雄の情報まとめ
久米 正雄(くめ まさお)さんの誕生日は1891年11月23日です。長野出身の作家のようです。
兄弟、現在、卒業、結婚、事件、映画、姉妹に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1952年に亡くなられているようです。
久米正雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。“微苦笑”という語の造語者として有名。 芥川龍之介らと第三、四次「新思潮」同人となる。理知的な作風から、のち感傷的作風の通俗小説に転じた。作品に戯曲『牛乳屋の兄弟』(1914年)、小説『受験生の手記』(1918年)、『破船』(1922年)など。 永井龍男は義弟(永井の妻が久米の妻の妹)。 長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は1898年(明治31年)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。このため、正雄は母・幸子の故郷である福島県安積郡桑野村で育つ。母方の祖父・立岩一郎は中條政恒とともに安積原野開拓に尽力した開拓出張所長で、のちに桑野村の村長を務めた。 明治31年5月桑野村立桑野尋常小学校(現開成小学校)に入学し、明治35年4月郡山町立郡山第一尋常高等小学校(現金透小学校)を受験し合格した。郡山第一尋常高等小学校を3年で中退し、明治38年4月旧制の福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)を受験し合格した。明治41年学校の仲間と俳句愛好会笹鳴會を結成し、高校の助教諭心得田邊彦彌(俳号三貝)の指導を受ける。翌年秋同校の西村岸太郎教諭(俳号雪人)からの呼びかけで群峯吟社への参加が認められ、俳句の才能を開花させ、俳句に熱中し、俳壇で有望視された。無試験で第一高等学校文科に推薦入学。東京帝国大学文学部英文学科に在学中、成瀬正一、松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、作品を発表。戯曲「牛乳屋の兄弟」(1914年)で認められる。「新思潮」廃刊後は、「帝国文学」同人。 1915年(大正4年)、夏目漱石の門人となる。1916年(大正5年)、芥川龍之介、菊池寛、松岡譲らと第四次「新思潮」を創刊。同年大学卒業。このころ、中条百合子と交流。文学少女で、なおかつ資産家の娘であった百合子はドストエフスキーやトルストイなどの訳本を大量に所持。久米はそれを借りたり、互いに手紙にやり取りをしていた。相愛の2人であったが、久米が百合子への想いを自覚すると同時に二人の交流は終わる。この件は久米の随筆『彼女と私』に詳しい。この時期の久米は、路上で偶然に百合子と会うと真っ赤になって照れるほど純情であったという。百合子の父方の祖父・中條政恒は、久米の母方の祖父とともに安積を開拓した仲で両家につきあいが深く、百合子の父・中條精一郎は久米が大学に入る時の保証人だった。 その後、年末に漱石が急死。夏目家へ出入りするうち、漱石の長女筆子に恋して、漱石夫人鏡子に結婚の許しを請うたところ、筆子が同意するなら許すとの言質を得る。筆子は松岡譲を愛しており、久米のことはあまり好きではなかった。しかし筆子は鏡子から久米と結婚するように言い含められていた。そんな中、何者かが久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した。久米は夏目家への迷惑を恐れて婚約解消を申し出るが、筆子が泣いてさみしがって見せる。この件で久米の気持ちは後戻りできなくなった。鏡子は娘婿には暫くは漱石の版権管理などをさせたがっており、久米には小説を書かせたがらなかった。久米はそれに逆らい執筆続行の意思を表明。鏡子の怒りを買う。この事から筆子への恋は破れた。その後、筆子は久米の親友であった松岡譲と結婚。この結婚に共通の友人であった芥川龍之介は怒り、松岡を揶揄する句を久米への手紙に書いている。しかし久米は松岡への友愛の情を棄てられず、何度も連絡を取ろうとしては拒絶された事を後の短編で告白している。 久米は失意のあまりいったん郷里に帰るが、1918年(大正7年)4日間ほどで再上京。生活のために職を探していたところ、菊池寛の勧めで『時事新報』に「蛍草」を連載させ(1918年3月19日 - 9月20日)、この通俗小説は好評を博した。以後、数多くの通俗小説を書いた。この蛍草の連載中の4月、松岡譲と筆子の結婚式当日に朝日新聞に久米を中傷する記事が大きく報じられる。筆子に一方的に恋慕した愚かしい男という内容で、醜い戯画までついていた。久米は大きく衝撃を受け、『大凶日記』、『敗者』、『和魂』などの小品に葛藤を吐露。しかし、この新聞記事により世論は久米への同情へ傾いたと『良友悪友』に書いている。 その後、多くの大衆小説を執筆。探偵小説風の冷火、ファムファタルを描き出した不死鳥、鉱山に生きる男たちを描いた赤光など、多彩な作品で人気流行作家となる。また、大衆小説連載の合間にも多くの私小説を書いている。 1922年(大正11年)になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を『婦人之友』1922年1月 - 12月に連載。かつて新聞で悪者にされながらも、同作品では松岡、筆子ともに敬意をもって描き、非常に大きな支持を得ることになる。翌1923年(大正12年)、待合「ゆたか」の元芸妓・奥野艶子(1904年 - 1992年)と結婚。多くの令嬢との見合いを断った末の恋愛であった。婚約期間中は体の関係を持たないようにするなど、真面目な交際をしたという。 自らは通俗小説の大家となりながら、芸術小説への憧れが強く、評論「私小説と心境小説」(文藝春秋社『文芸講座』1925年1月 - 2月)で、トルストイもドストエフスキーも所詮は高級な通俗小説で、私小説こそが真の純文学だと論じた。しかし後に今後は大衆小説作家として生きることを明言するなど(二階堂放話)、心境の変化を見せる。親友であった芥川龍之介の自殺後、執筆量が極端に減るなどしている。 1925年(大正14年)から亡くなるまで鎌倉に居住。1927年(昭和2年)5月、長男が誕生。芥川が鎌倉までお祝いに来る。この日の会話の中で芥川から自殺をほのめかす発言を受ける。同年7月24日、芥川死去。1932年(昭和7年)、石橋湛山の後を継いで鎌倉の町議に立候補しトップ当選した。1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で川口松太郎や里見弴らと共に常習的な花札賭博を行っている容疑が浮上。同年11月7日、築地の料亭で行われていた結婚十周年を祝う宴席が終了した直後に検挙された。なお、賭博自体は身内でやる些細なものであったため不起訴となる。1937年(昭和12年)、ニースの謝肉祭に触発されて大佛次郎ら鎌倉在住の作家仲間らと鎌倉カーニバルを企画。戦時中の中断をはさみながら1962年まで続くイベントへ成長させた。 1938年(昭和13年)には東京日日新聞(のちの毎日新聞)の学芸部長に就任。1940年(昭和15年)5月から文芸家協会主催、東京日日新聞などの後援により始められた文芸銃後運動講演会では総帥格となり、横光利一、岸田国士、中野実、林芙美子ら文学者と全国を巡回した。8月、この年から創設された芥川賞の選考委員の一人となった。 第二次世界大戦中は、日本文学報国会の事務局長を務めた。1945年(昭和20年)5月、鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)“鎌倉文庫”の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊した。鎌倉ペンクラブ初代会長としても活躍。菊池との友情は長く続いた。戦後松岡と和解し、桜菊書院『小説と読物』を舞台に、夏目漱石賞を創設して松岡とともに選考委員を務めたが、桜菊書院が倒産したため一回で終った。 晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる。 全13巻の『久米正雄全集』(平凡社、1931年)は、1993年に本の友社から復刻された。第二の故郷ともいうべき郡山の「こおりやま文学の森資料館」の中に、久米正雄記念館があり、鎌倉の自宅が移築されている。 牛乳屋の兄弟(牧場の兄弟) - 3幕。1914年3月第3次『新思潮』第2号に「牛乳屋の兄弟」として発表。「牧場の兄弟」に改題して『阿武隈心中』におさめる。1914年9月、有楽座で新時代劇協会が原題で初演。東北地方のある都市に近い牧場岩木耕牧舎では、炭疽症のためにウシが5頭、死亡して、1月の売乳禁止をくらっている。牧場は、牧場主源吉は焦ってもうばい菌のないのをいいことに、ひそかに牛酪を密造し、牛乳を密売し、雇い人らは給料未払いでストライキをうとうとし、配達夫清蔵はウシの飼料を盗み出して女郎買いにつかい、搾乳夫正吉は源吉の姪を目当てに牛酪密造を手伝い、源吉は弟清二の妻に横恋慕して言い寄るというありさま。牧場経営を助けている弟清二は、この状態がわかり心を痛め、兄源吉を改めさせようとする。妊婦の身で嫉妬に狂っていた義姉が、難産で死亡する。翌朝、弟清二は不正な牛乳を搬出する兄源吉の現場をおさえ、あばきたてていさめる。兄源吉はこれに応じず、2人は格闘する。兄源吉は、弟清二から妻への不倫な行為を責められ、自暴自棄になり、糧秣室に入り、錠をかけ、火を放ち、自殺を図る。弟清二はおどろき、すくおうと焦りつつ、もうもうたる煙の中で狂ったように兄さん兄さんと連呼する。 地蔵教由来 三浦製絲場主 新潮社 1920 阿武隈心中 新潮社 1921 心中後日譚 春陽堂 1922 (ヴエストポケツト傑作叢書) 牧場の兄弟 金星堂 1922 (金星堂名作叢書) 久米正雄戯曲全集 第1巻 金星堂 1922 父の死 銀貨 手品師 新潮社 1918 (新進作家叢書) 学生時代 新潮社 1918 のち文庫、角川文庫、旺文社文庫
弱き心 春陽堂 1920 良友悪友 春陽堂 1922 (ヴエストポケツト傑作叢書) 懶い春 金星堂 1922 (金星堂名作叢書) 或る求婚者の話 金星堂 1922 (金星堂名作叢書) 和霊 新潮社 1922 彼女と私 金星堂 1923 (金星堂名作叢書) 不肖の子 二松堂書店 1923 (表現叢書) 山鳥 春陽堂 1924 金魚 春陽堂 1924 木靴 改造社 1927 久米正雄作品集 岩波文庫 2019。石割透編 蛍草 不死鳥 新潮社 1920 水の影 春陽堂 1922 破船 新潮社 1922-1923 - 初出『主婦之友』1922年1月-12月、夏目筆子との失恋事件を小説化したもの 冷火 新潮社 1924 晴夜 春陽堂 1926 天と地と 文芸春秋社出版部 1927 青眉 春陽堂 1932 (日本小説文庫) 白夜は明くる 大日本雄弁会講談社 1932 拓きゆく道 遠藤節共著 講文館 1933 沈丁花 中央公論社 1933 男の掟 昭和長篇小説全集 第5巻 新潮社 1934 月よりの使者 大日本雄弁会講談社 1934 のち春陽文庫(三度映画化) 寂光愛 新小説社 1935 竜涎香 改造社 1935 金環蝕 新小説社 1935 青空に微笑む 大日本雄辯會講談社 1935.6 紅頬褪する時 新小説社 1936 新月抄 大日本雄辯會講談社 1936.9 吾亦紅・光の漣 非凡閣 1939 (新作大衆小説全集) 白蘭の歌 新潮社 1940 風と月と 鎌倉文庫 1947 青空少年 湘南書房 1948 (新日本少年少女選書) 三つの真珠 矢貴書店 1949 二葉のクローバー 光文社 1950 金色雪崩 湊書房 1951 私小説と心境小説 純文学余技説 漱石先生の死 春陽堂 1921 (新興文芸叢書) 人間雑話 金星堂 1922 微苦笑芸術 新潮社 1924 (感想小品叢書) 伊藤博文伝 改造社 1931 (偉人伝全集) 二階堂放話 新英社 1935 文章の作り方 新潮社 1937 (入門百科叢書) 微苦笑随筆 文芸春秋新社 1953 牧唄 久米三汀句集 柳屋書店 1914 かへり花 甲鳥書林 1943 互選句集 久保田万太郎 文芸春秋新社 1946.9 久米正雄全集 全15巻 平凡社 1930-1931 立体派と後期印象派 / アーサー・ジエローム・エツデイ 向陵社 1916 (美術叢書) ハムレツト / シエクスピーア 新潮社 1922 (泰西戯曲選集) ロミオとジユリエツト / シエクスピーア 新潮社 1922 (泰西戯曲選集) レ・ミゼラブル ユゴー 三徳社 1922 此悲惨 / ユーゴー 春陽堂 1924 椿姫 / 小デュマ 文芸日本社 1925 (世界文芸映画傑作集) オセロオ / シエクスピーア 新潮社 1925 (泰西戯曲選集) 世界大衆文学全集第5巻 椿姫 デユマ マノンレスコオ / アベ・プレヴォ 改造社 1929 現代語西鶴全集 第2巻 好色二代男 一名諸艶大鑑 春秋社 1931 小谷野敦『久米正雄伝 「微苦笑」の人』中央公論新社、2011、ISBN 978-4120042003 庄司一幸著『久米正雄と俳句の師西村岸太郎と田邊彦彌』(自費出版、2022年6月17日出版) 庄司一幸著『魚城の三汀、ここに誕生する 郡山時代の久米正雄』(自費出版、2022年11月13日出版) 庄司一幸(久米正雄研究会代表)著『桑野尋常小学校時代の久米正雄&群峯吟社のすべて』(久米正雄研究会、2024年8月22日発行) 2021年、郡山市は久米の親族から買い取った映像フィルムの一部を修復。フィルムは久米自身が撮影したもので、自身のほか田山花袋や里見弴などが映り込んでおり、大正末期から昭和初期の文士の貴重な映像記録が得られている。 ^ のち「牧場の兄弟」に改題。 ^ 久米正雄「父の死」 - 青空文庫 ^ 郡山市 郡山市開成館 - NTT東日本福島支店 ^ 安積開拓 もっと安積開拓を知りたい人へ - 郡山市役所 ^ 牧場の兄弟 - 国立国会図書館デジタルコレクション ^ この手紙は山本有三が自分の妻に書かせて投函したものだと関係者の間では信じられている。(関口安義『評伝松岡譲』小澤書店、1991年。) ^ 松岡の娘、半藤茉莉子の随筆による。 ^ なお、鏡子は後に久米に息子の件で相談がある旨の手紙を出すなど久米を頼ってもいる。 ^ 破船. 前編 - 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 破船. 後編 - 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 「久米艶子さん死去」『朝日新聞』1992年5月5日、朝刊、31頁 ^ 『私たちの結婚について』 ^ 驚き悲しむ文壇人『東京日日新聞』昭和2年7月25日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p4 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 吉井勇夫人の供述から文士連の賭博暴露『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613) ^ 結婚十周年の宴席から出頭の久米正雄『中外商業新聞』昭和8年11月18日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613) ^ “鎌倉が日本が熱狂したカーニバル”. タウンニュース (2015年8月14日). 2019年12月24日閲覧。 ^ 浜松公会堂で第一声『東京日日新聞』昭和15年5月7日(『昭和ニュース時典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p705) ^ 第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日 ^ 薄田泣菫「久米正雄宛書簡」、久米正雄「薄田泣菫宛書簡」翻刻庄司達也、三宅昭三、東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第19号(2012) ^ 微苦笑芸術 - 国立国会図書館デジタルコレクション ^ “郡山市が復元に成功 久米正雄撮影などの映像フィルム”. 福島民報 (2021年5月20日). 2021年5月26日閲覧。 小宮豊隆 寺尾正・文姉妹 久米正雄・詳細年譜 | 小谷野敦 公式ウェブサイト 郡山ゆかりの作家 久米正雄 - こおりやま文学の森資料館 久米正雄記念館(旧 久米正雄邸) - こおりやま文学の森資料館 ふくしまの児童文学者たち - 福島県立図書館
久米 正雄:作家別作品リスト - 青空文庫 『久米正雄 ――傚久米正雄文体――』:新字新仮名 - 青空文庫(芥川龍之介著) 『久米正雄氏の事』:新字新仮名 - 青空文庫(芥川龍之介著) FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イタリア イスラエル アメリカ 日本 チェコ 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research MusicBrainz IdRef 19世紀日本の小説家 20世紀日本の小説家 19世紀日本の劇作家 20世紀日本の劇作家 時事新報の人物 東京日日新聞社の人物 日本文学報国会の人物 鎌倉市議会議員 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 福島県立安積高等学校出身の人物 明治大学の教員 長野県出身の人物 1891年生 1952年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/20 23:56更新
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kume masao
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