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芥川龍之介の情報 (あくたがわりゅうのすけ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

芥川龍之介の情報(あくたがわりゅうのすけ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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芥川 龍之介さんについて調べます

■名前・氏名
芥川 龍之介
(読み:あくたがわ りゅうのすけ)
■職業
作家
■芥川龍之介の誕生日・生年月日
1892年3月1日 (年齢35歳没)
辰年(たつ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
東京出身

芥川龍之介と同じ1892年生まれの有名人・芸能人

芥川龍之介と同じ3月1日生まれの有名人・芸能人

芥川龍之介と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


芥川龍之介と関係のある人

橋本祥平: 文豪ストレイドッグス 三社鼎立(6月8日 - 7月10日、日本青年館ホール 他) - 芥川龍之介


佐々木茂索: 1935年(昭和10年)に菊池寛らと芥川龍之介賞および直木三十五賞を創設。


尾崎一雄: 1933年 『暢気眼鏡』(同名小説集により第5回芥川龍之介賞)


伊井直行: 1983年、「草のかんむり」で第26回群像新人文学賞受賞、同作で第89回芥川龍之介賞候補。


田中慎弥: 2007年(平成19年)、『図書準備室』で第136回芥川龍之介賞候補となった。


進藤純孝: 『伝記芥川龍之介』(六興出版、1978年)


菅原初代: 岩手県立水沢高等学校に入り、高校では新聞部で活動し、三島由紀夫や太宰治、芥川龍之介などの文学全集を読破した。


宇野浩二: 浩二(作中では牧)と芸者八重(作中では藤)との湯河原旅行の回想から、直木三十五(作中では楠)の紹介で八重と知り合った頃のこと、震災後に名古屋で八重と待ち合わせ京都・大阪・奈良を旅行したこと、直木と芸者清とのこと、中学時代の友人がカフェの女給澄のヒステリー・発狂に苦しんだこと、妻にふとしたことから隠女(玉子)とその子のことや恋女(八重)のことを告白してしまったこと、文学第一の浩二にとって恋愛至上の八重が重荷になってきたこと、鵠沼で病気療養中の芥川龍之介(作中では柳)を見舞ったこと、横須賀できみ子(作中ではまり子)が芸者をしていた頃半玉だった勝栗と再会したこと、浩二が神経衰弱で入院した頃に芥川が自殺したこと、妻のヒステリーと八重の板挟みになって苦しみ八重と別れたこと、2年後に直木の仲介で八重と仲直りしたことなどが描かれている。


中島たい子: 2005年、「漢方小説」で第132回芥川龍之介賞候補。2006年、「この人と結婚するかも」で第133回芥川龍之介賞候補。


藤原智美: 1992年『運転士』により第107回(1992年上半期)芥川龍之介賞受賞。


絲山秋子: 2005年(平成17年) - 第134回芥川龍之介賞(『沖で待つ』)


泉鏡花: このころ映画に興味を持ち、谷崎潤一郎や芥川龍之介と知り合う。


前田司郎: 2017年 - 小説『愛が挟み撃ち』で第158回芥川龍之介賞候補。


高橋恵子: 新・地獄変(2000年、新国立劇場、原作:芥川龍之介、脚本:鐘下辰男、演出:鵜山仁)


舘岡奈智子: ナチコの作品はの多くは、芥川龍之介の作品を取り上げたものが目立つ。


村岡花子: 芥川龍之介の晩年の恋人)の勧めで童話を執筆。


芥川麻実子: 作曲家・芥川也寸志(芥川龍之介の三男)とその最初の妻・紗織(旧姓:山田)の長女として東京都に生まれる。子供の頃は音楽の成績が良かったため、そのことを作曲家である父親に対する教師からの特別な配慮として受け取った也寸志は、「そういうことはしないでください」と学校に抗議に行ったが、その後も音楽の成績は下がらなかったという(『芥川龍之介 あれこれ思う孫娘より』p.126)。


片桐千里: 2000年~2011年 年1~3回公演 宮沢賢治、芥川龍之介、夏目漱石、梶井基次郎、阿部ツヤ子、北原白秋、 中原中也、室生犀星、アルベール・サマン他


中澤まさとも: 芥川龍之介「杜子春」(杜子春)


柘植伊佐夫: 2019年、NHKスペシャルドラマ『ストレンジャー~上海の芥川龍之介~」、武内英樹監督『翔んで埼玉』の人物デザイン監修/衣裳デザインを担当。


小野賢章: 共闘ことばRPG コトダマン(2018年 - 2024年、イフゥイン、ロバキュラ、ユーリ・ブライア、芥川龍之介、ファウスト)


阿部和重: 2004年に『シンセミア』で伊藤整文学賞および毎日出版文化賞を、2005年に「グランド・フィナーレ」で芥川龍之介賞(芥川賞)をそれぞれ受賞。


室龍規: 桃太郎 〜芥川龍之介ver.〜(2024年6月12日 - 16日)


斎藤茂吉: 長崎を訪れた芥川龍之介、菊池寛と知り合う


芥川麻実子: 『芥川龍之介 あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)


柴崎友香: 2007年、『その街の今は』で第136回芥川龍之介賞候補、第57回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。同年、『また会う日まで』で第20回三島由紀夫賞候補、「主題歌」で第137回芥川龍之介賞候補。


川端康成: 川端は石濱の影響で、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉、ロシア文学をよく読んだ。


二木てるみ: 注文の多い料理店 - 宮沢賢治 作、 杜子春 - 芥川龍之介作(2010年)


横光利一: 芥川龍之介の最晩年に、「君は上海を見ておかねばいけない」と言われ、1928年4月から約1か月間、上海に滞在する。大正末期から昭和初期のこの頃、芥川龍之介をはじめ、吉行エイスケ、村松梢風、金子光晴などが上海を訪れている。


中村文則: 2005年 - 第133回芥川龍之介賞(「土の中の子供」)


芥川龍之介の情報まとめ

もしもしロボ

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)さんの誕生日は1892年3月1日です。東京出身の作家のようです。

もしもしロボ

作品の特徴、作品の変遷などについてまとめました。趣味、卒業、現在、結婚、事件、家族に関する情報もありますね。35歳で亡くなられているようです。

芥川龍之介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京出身。『羅生門』、『鼻』、『地獄変』、『歯車』などで知られる。

1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。

生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に伯父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。

1898年(明治31年)、江東(こうとう)尋常小学校入学(芥川卒業後、「江東」は「えひがし」と読むようになる。現在の墨田区立両国小学校)。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、1910年(明治43年)9月、第一高等学校第一部乙類英文科に入学。1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(のちの恒藤恭)、土屋文明、倉田百三(第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組)、渋沢秀雄(第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組)、矢内原忠雄(第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組)らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は『第一高等学校一覧』(第一高等学校刊行)によると、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。

東京帝大在学中の1914年(大正3年)2月、一高同期(クラスメイト)の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスの『バルタザアル』、イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。1915年(大正4年)10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表。

1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら5人)を発刊したが、その創刊号に掲載した『鼻』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦(内田百閒によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。 なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった。

1918年(大正7年)の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)と澤木四方吉(『三田文学』主幹で西洋美術史家)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった。1919年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。

1919年(大正8年)3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文(父塚本善五郎は日露戦争において戦艦「初瀬」沈没時に戦死)と結婚。菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池とともに長崎旅行を行い、友人の日本画家・近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。

1920年(大正9年)3月30日、長男芥川比呂志、誕生。

1921年(大正10年)3月、海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合い、7月帰国。『上海遊記』以下の紀行文を著した。

この旅行後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患う。1923年(大正12年)には湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減っていくが、このころからいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の『歯車』『河童』などへとつながっていく。

1922年(大正11年)11月8日、次男芥川多加志(たかし)、誕生。

1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、各地で自警団が形成された。芥川も町会(田端)の自警団に、世間体もあり病身を押して参加した。随筆「大震雑記」(『大正十二年九月一日の大震に際して』収録)やアフォリズム「或自警団員の言葉」(『侏儒の言葉』収録)に自警が言及される。また震災後の吉原遊廓付近へ芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた川端康成によると、芥川は悲惨な光景のなかを快活に飛ぶように歩いていたという。朝鮮人デマについて「善良なる市民」は信じただろうと述べている。

また「或自警団員の言葉」においても日本社会について皮肉めいた記述をしている。

1924年(大正13年)、芥川は『桃太郎』を発表した。芥川にとっての桃太郎観というものは、『女性改造』連載「僻見」1924(大正13)年4月1日発行第3巻第4号に見出すことができる。芥川は上海で章炳麟(章太炎先生)から聞いた話を次のように引用した。(「僕」が芥川、「予」が章炳麟)

章炳麟は、侵略者としての桃太郎と日本の帝国主義による植民地政策を重ね合わせたのであり、芥川はそれを理解して自らの作品『桃太郎』を執筆したのである。当時の売れっ子作家であり表層では国家の優等生でもあった芥川は、一方でバーナード・ショーへの傾倒など社会主義のよき理解者であった。1925年(大正14年)制定の治安維持法に至る法案策定過程に関して彼ははっきりと不快感を示している。それは1922年(大正11年)『新潮』4月号掲載「澄江堂雑記」に次のように主張された。

甘粕事件より以前の1910年(明治43年)、芥川が一高に入学する数か月前の5月25日に大逆事件が起きている。1911年(明治44年)2月1日、徳富蘆花が一高で大逆事件への政府批判演説をしたことが当時の一高生たちの心を揺さぶり、一高生たちはこの演説『謀叛論』の話で持ち切りであった。芥川はこの時、一高の一年生であった。クラスメイトの菊池寛、久米正雄は演説の件を文章に書き残している。

1925年(大正14年)7月12日、三男芥川也寸志(やすし)、誕生。

1925年(大正14年)ごろから文化学院文学部講師に就任。1926年(大正15年)、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、ふたたび湯河原で療養。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため鵠沼の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『点鬼簿』を脱稿。堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前に岸田劉生が住み、震災後に建て直されて国木田虎雄(国木田独歩の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。元号が昭和に変わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。

1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、『文芸的な、余りに文芸的な』で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として「小説の神様」志賀直哉を称揚した。このころ、芥川の秘書的な役割を果たしていた平松ます子(父は平松福三郎・大本信者)は芥川から帝国ホテルでの心中を持ちかけられ、小穴龍一や文夫人等に知らせて阻止した。

7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36〈数え年〉、満35歳没。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名はなく俗名で葬儀が行われたが、後に懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。

作品の特徴

作品は、短編小説が多く知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(『バルタザアル』など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。

短編の傑作を残した一方で、長編を物にすることはできなかった(未完小説として『邪宗門』『路上』がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したといわれる。他の作家に比べ表現やとらえ方が生々しい。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に『蜃気楼』が挙げられる)。

『杜子春』など古典を参考にしたものや(原話は唐の小説『杜子春伝』)、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』に発表されたものなど児童向け作品も多い。一般的には、キリシタン物や平安朝を舞台とした王朝物などに分類される。また、古典(説話文学)から構想を得た作品も多い。例えば、『羅生門』や『鼻』、『芋粥』などは『今昔物語集』を、『地獄変』などは『宇治拾遺物語』を題材としている。またアフォリズムの制作も得意としており、漢文などにも通じていた。

反軍的な自説を主張しており、ことに『河童』『侏儒の言葉』などの晩年の作品にはそのような傾向が強い。当時の軍人の横柄な様子を「小児のようだ」と自著で酷評したほどである。しかし、当時は軍が著作物の検閲をするのが通常であったため、この検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくされた箇所も作品内に多数存在する。その一方で、海軍に対してはある程度の好意を抱いていたようで、陸軍のあまりの狭量に腐っていた陸軍幼年学校教官の豊島与志雄を「いい職場があるから」と海軍機関学校に招き、豊島はフランス語嘱託教官として勤務した。内田百閒も芥川の推薦でドイツ語嘱託教官となっており、のちに内田は『竹杖記』(1934年(昭和9年))で芥川が講師の人選や交渉などに一定の役割を担っていたことを記している。

自著にて天照大神を登場させる際、別名の「大日孁貴」(おおひるめのむち)を用いた。これは「天照大神」という呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまうことになるため、太陽神、それも自然神という性格づけで「大日孁貴」を用いなければならなかったためである。

煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたという。この煙草について『海のほとり』『京都日記』『玄鶴山房』に敷島銘柄の煙草が登場した。

作品の変遷

芥川龍之介の作品は、初期と晩年でかなり違うといわれる。

初期

説話文学を典拠とした『羅生門』『鼻』『芋粥』など歴史物、加えてキリシタン物が有名である。日夏耿之介は初期の作品を「非常によい」と評価している。歴史物では、人間の内面、特にエゴイズムを描き出したものが多い。

中期

芸術至上主義的な面が全面に出た『地獄変』などを書き、長編『邪宗門』に挑んでいた。

晩年

自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死を取り上げたりした作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。『一塊の土』など、これまでと比べ現代の話を書くようになるが、台頭するプロレタリア文壇にブルジョア作家と攻撃されることとなる。このころから主人公の一人称を「僕」とする私小説が増え、告白的な自伝も書き始める(『大導寺信輔の半生』、『点鬼簿』、『或阿呆の一生』など)。晩年の代表作『河童』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。

『歯車』の内容から、晩年には自分自身のドッペルゲンガー(Doppelgänger)を見たのではないか、また、片頭痛あるいはその前兆症状である閃輝暗点を患っていたのではないか、という説がある。

「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」と、自殺直前に書いた色紙の一句が辞世とされる。

2024/06/22 16:15更新

akutagawa ryuunosuke


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芥川 貴子(あくたがわ たかこ)
1970年4月12日生まれの有名人 福島出身

4月12日生まれwiki情報なし(2024/06/24 17:53時点)

芥川 也寸志(あくたがわ やすし)
1925年7月12日生まれの有名人 東京出身

芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年(大正14年)7月12日 - 1989年(平成元年)1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRAC元理事長。 芥川也寸志の作風は大きく分けて3つに分…

芥川 瑠璃子(あくたがわ るりこ)
1916年9月21日生まれの有名人 東京出身

芥川 瑠璃子(あくたがわ るりこ、1916年9月21日 - 2007年8月1日)は、日本の随筆家。東京府(現:東京都)出身。夫は俳優・演出家の芥川比呂志。芥川龍之介の次姉・ヒサと2番目の夫・西川豊の長…

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