伊藤久男の情報(いとうひさお) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
伊藤 久男さんについて調べます
■名前・氏名 |
伊藤久男と関係のある人
松原操: 『父よあなたは強かった』(昭和14年(1939年))共唱:霧島昇、伊藤久男、二葉あき子 高橋掬太郎: 『大敦賀行進曲』(昭和11年1月)[古関裕而作曲、奥山貞吉編曲、歌:伊藤久男] 森一也: 評論の対象は作詞家・作曲家・歌手など、少なくとも百数十人にも渡り、特に西條八十、古賀政男、古関裕而、藤山一郎、伊藤久男などの音楽作品解説・知識に関しては第一人者と言われる。 高橋掬太郎: 『雪の国境』(昭和10年1月)[大村能章作曲、歌:伊藤久男] 佐藤惣之助: 『美わしの琉球』(1941年)[竹岡信幸作曲、歌:伊藤久男] 古賀政男: 熱砂の誓ひ(建設の歌)(1940年) 歌:伊藤久男 霧島昇: 索敵行(1943) - 共唱:伊藤久男・楠木繁夫、作詞:野村俊夫/作曲:万城目正/編曲:服部良一 野村俊夫: 1948年「若き日のエレジー」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男) 野村俊夫: 1941年「宣戦布告」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男、霧島昇) 丘灯至夫: 『百万石音頭』(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男・永田とよ子) 八洲秀章: 1940年(昭和15年)6月、伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。 八洲秀章: 高原の旅愁(「鈴木義章」名義)(昭和15年6月、関沢潤一郎作詞、歌:伊藤久男) 霧島昇: 愛国行進曲(1938) - 共唱:伊藤久男・松原操・二葉あき子ほか、作詞:森川幸雄/作曲:瀬戸口藤吉 二葉あき子: 「お島千太郎旅唄」(1940年5月発売、共唱:伊藤久男) 八洲秀章: 「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)8月8日からラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年(昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された。 霧島昇: 航空日本の唄(1940) - 共唱:藤山一郎・伊藤久男・二葉あき子ほか、作詞:中川秀雄/作曲:佐々木すぐる 若山彰: 当初はオペラ歌手を目指していたが、在学中に伊藤久男の「イヨマンテの夜」のバックコーラスのアルバイトをしたことで流行歌の魅力にとりこになり、作曲家の米山正夫に師事。 里見浩太朗: 高校卒業間近に『NHKのど自慢』に出場する機会があり、伊藤久男の代表曲「山のけむり」を熱唱し予選に合格した。 野村俊夫: 1956年「ガンヂス河は流れる」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男) 野村俊夫: 1942年「感激の合唱」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男、二葉あき子) 松原操: 『奉祝国民歌 紀元二千六百年』(昭和15年(1940年))共唱:霧島昇、藤山一郎、伊藤久男、二葉あき子 出田憲二: 熊本県民の歌(作詞:坂井秀雄、歌:伊藤久男) 西沢爽: 伊藤久男「たそがれの夢」 霧島昇: 矢ぶみ(1937)-共唱:伊藤久男-作詞:佐藤春夫/作曲:奥山貞吉 古関裕而: また同時期に古関は伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。作曲家の古関と作詞家の野村俊夫(福島市出身)、歌手の伊藤久男(本宮市出身)の三人はいずれも福島県出身で「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれた。 古賀政男: 希望に燃えて(1949年) 歌:伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・二葉あき子・奈良光枝・藤山一郎・高倉敏 霧島昇: 露営の歌(1937) - 共唱:中野忠晴・松平晃・伊藤久男・佐々木章、作詞:薮内喜一郎/作曲:古關裕而/編曲:奥山貞吉 西條八十: 「あゝ藤原湖」(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男・奈良光枝、1955年) 三木鶏郎: 選挙くせものこわいもの ※伊藤久男版と三木鶏郎版がある。 近江俊郎: 『農兵節』1944年10月ニッチク(コロムビア) 共演:伊藤久男、菊池章子、奈良光枝、原島喜代子 |
伊藤久男の情報まとめ
伊藤 久男(いとう ひさお)さんの誕生日は1910年7月7日です。福島出身の歌手のようです。
代表曲、NHK紅白歌合戦出場歴などについてまとめました。父親、家族、映画、兄弟に関する情報もありますね。
伊藤久男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)伊藤 久男(いとう ひさお、1910年(明治43年)7月7日 - 1983年(昭和58年)4月25日)は日本の歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。 本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。 生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。 東京では、同郷の新進作曲家・古関裕而と懇意になり、家族には知らせずに農大を退学し、帝国音楽学校に進む。同校では同郷の声楽家・平間文寿に師事する。 その後、農大を退学したことが家族に知られて毎月の仕送りが来なくなり、音楽学校の同級生とともにコロムビア吹き込み所で合いの手や囃子の吹き込みのアルバイトを始める。ピアニスト志望だった伊藤は不本意だったが、これが後に作曲家やディレクターたちの耳に留まることになる。 1932年(昭和7年)、古関裕而の勧めにより、1933年(昭和8年)6月25日付で「伊藤久男」名義でリーガル(コロムビアの廉価レーベル)から「今宵の雨」でデビュー。コロムビアからのデビューは同年9月の「ニセコスキー小唄」で、「宮本一夫」の名前で発売。出身地「本宮」をひっくり返し、本名「四三男」の4から3を引いた「一」と、男を表す「夫」を付けた芸名で、同郷の作詞家・野村俊夫が名付けたという。その間、アルバイトとしてタイヘイレコードにて「内海四郎」名義でレコーディング。その後、コロムビアでは伊藤久男、リーガルでは宮本一夫を使用していたが、1935年(昭和10年)の「別れ来て」の発売を機に芸名を伊藤久男に統一。 抒情性豊かなバリトンで、昭和10年代前半から戦時歌謡(軍歌)のレコーディングが多く、伊藤久男としての初めてのヒットは日中戦争(支那事変)を題材とする1938年(昭和13年)の「湖上の尺八」(2月20日発売)。慰問演奏で藤原義江に抒情的なバリトンを流行歌手として生かすことを奨められる。一時期はオペラ歌手としての進路も検討したが、同年に慰問のため服部良一、赤坂小梅らと中国戦線の日本軍部隊を訪れた際、自分の歌に涙を流す兵隊の姿を目の当たりにし、流行歌手としての途を選択した。 その後、「暁に祈る」「白蘭の歌」「高原の旅愁」「お島千太郎旅唄」と連続してヒットを飛ばし、スター歌手としての地位を確立。作詞家の野村俊夫や作曲家の古関裕而とともに「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれた。 1940年(昭和15年)、日劇のアトラクションに出演し、伊藤が歌う「熱砂の誓い」を客席で見た岡本敦郎は、その歌声に感動し、歌手になる決意をしたと述懐している。 歌手活動の一方、多くの映画に俳優として起用され、1939年(昭和14年)の松竹映画「純情二重奏」に流しの芸術家として、本人が主題歌を担当している1940年の「征戦愛馬譜 暁に祈る」には歌う兵隊として、さらに1942年(昭和17年)の大映映画「歌う狸御殿」には村の青年役として、朴訥とした台詞回しでありながらスクリーンでも活躍した。 終戦直後は、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先に引きこもり酒に溺れ、再起不能とも言われたが、1947年(昭和22年)の松竹映画「地獄の顔」(マキノ雅弘監督)の主題歌「夜更けの街」でカムバック。その後は、「シベリヤ・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジー」「ひめゆりの塔」など様々なジャンルでヒットを飛ばした。殊にラジオ歌謡においては詩情豊かな抒情歌が多く、「たそがれの夢」は本人もかなり気に入って、晩年まで愛唱していた。 日本歌手協会の設立に尽力し、後進の指導にも力を惜しまなかった。 1978年(昭和53年)に紫綬褒章受章、1982年(昭和57年)には第24回日本レコード大賞特別賞を受ける。この受賞の際は中野区にある自宅からの中継で顔出し出演。この当時、日本レコード大賞制定委員だった古関裕而から直接、受賞楯を手渡されている。既にその顔貌はやつれ、歩行が困難だったためか、終始立ち上がることは無く、座ったままの表彰だった。結局、伊藤が公の場に姿を見せるのは、これが生涯最後となった。翌1983年4月25日、肺水腫のため西武沼袋医院に於いて死去、享年72。勲四等旭日小綬章受勲。同27日、通夜は沼袋の禅定院で執り行われた。墓所は故郷本宮の石雲寺にある。 代表曲1936年「大敦賀行進曲」(作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而、編曲:奥山貞吉) 1937年「露営の歌」(作詞:薮内喜一郎、作曲:古関裕而)共唱:中野忠晴、松平晃、霧島昇、佐々木章 1937年「続・露営の歌」(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而)共唱:霧島昇、二葉あき子 1937年「弾雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而) 1938年「湖上の尺八」(作詞:深草三郎、作曲:明本京静) 1938年「愛国行進曲」(作詞:森川幸雄、作曲:瀬戸口藤吉)共唱:霧島昇、松原操、二葉あき子 他 1938年「軍国の兄弟」(作詞:高橋掬太郎、作曲:奥山貞吉)共唱:霧島昇 1938年「皇軍入場」(作詞:西條八十、作曲:古関裕而)共唱:霧島昇 1938年「出征五人男」(作詞:高橋掬太郎、作曲:明本京静)共唱:霧島昇、松平晃 他 1939年「白蘭の歌」(作詞:久米正雄、作曲:竹岡信幸)共唱:二葉あき子 1939年「父よあなたは強かった」(作詞:福田節、作曲:明本京静)共唱:霧島昇、二葉あき子、松原操 1939年「くろがねの力」(作詞:浅井新一、作曲:江口夜詩)共唱:霧島昇、松原操、二葉あき子 1940年「お島千太郎旅唄」(作詞:西條八十、作曲:奥山貞吉)共唱:二葉あき子 1940年「大政翼賛の歌」(作詞:山岡勝人、作曲:鷹司平通)共唱:霧島昇、二葉あき子 他 1940年「航空日本の唄」(作詞:中川秀雄、作曲:佐々木すぐる)共唱:藤山一郎、霧島昇、二葉あき子 他 1940年「高原の旅愁」(作詞:関沢潤一郎、作曲:八洲秀章) 1940年「暁に祈る」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而) 1940年「熱砂の誓い」(作詞:西條八十、作曲:古賀政男) 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而)共唱:霧島昇 1941年「海の進軍」(作詞:海老名正男、作曲:古関裕而)共唱:藤山一郎、二葉あき子 1941年「三国旗かざして」(作詞:大木惇夫、作曲:山田耕筰)共唱:霧島昇、二葉あき子 1941年「山の凱歌」(作詞:西條八十、作曲:古賀政男)共唱:霧島昇 1943年「索敵行」(作詞:野村俊夫、作曲:万城目正、編曲:服部逸郎)共唱:霧島昇、楠木繁夫 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而) 1948年「たそがれの夢」(作詞:西沢義久、作曲:田村しげる) 1948年「シベリヤ・エレジー」(作詞:野村俊夫、作曲:古賀政男) 1949年「栄冠は君に輝く(全国高校野球大会歌)」(作詞:加賀大介、作曲:古関裕而) 1949年「イヨマンテの夜」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1950年「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」(作詞:小島清、作曲:古関裕而) 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1951年「あざみの歌」(作詞:横井弘、作曲:八洲秀章) 1952年「ミナレの哀愁」(作詞:門田ゆたか、作曲:平川英夫) 1952年「山のけむり」(作詞:大倉芳郎、作曲:八洲秀章) 1952年「オロチョンの火祭り」(作詞:石本美由起、作曲:上原げんと) 1953年「ひめゆりの塔」(作詞:西條八十、作曲:古関裕而) 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而) 1953年「君、いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1954年「ブラジルの太鼓」(作詞:石本美由起、作曲:上原げんと) 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、共唱:奈良光枝) 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而) 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而、共唱:神楽坂はん子) 1954年「百万石音頭」(作詞:丘十四夫、作曲:古関裕而、共唱:永田とよこ) 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、作曲:古関裕而) 1955年「サビタの花」(作詞:大倉芳郎、作曲:原六朗) 1956年「キャラバンの太鼓」(作詞、作曲:米山正夫) 1956年「メコンの舟唄」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而) 1957年「山一証券株式会社社歌」(作詞:西條八十、作曲:古関裕而) 1958年「日本通運株式会社社歌」(作詞:土岐善麿、作曲:渡辺浦人) 1960年「民社党歌」(作詞室谷幸吉、補作詞藤浦洸、作曲:古関裕而、共唱松田トシ) NHK紅白歌合戦出場歴
2024/06/12 21:49更新
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itou hisao
伊藤久男と同じ誕生日7月7日生まれ、同じ福島出身の人
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