大塚博堂の情報(おおつかはくどう) シンガー ソングライター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大塚 博堂さんについて調べます
■名前・氏名 |
大塚博堂と関係のある人
小坂洋二: 布施明・大塚博堂のマネージャーを務め、大塚作品の歌詞を「るい」名義で数多く手掛けた。 藤公之介: 『詩集・大塚博堂よ』吟遊社 1995 原大輔: また、レイラ時代にジョイントライブをした関係で大塚博堂にも造詣が深く、13回忌追悼歌「総天然色の日々」も歌ったり、メモリアルイベントに出演することも多い。 斉藤とも子: 作詞:森雪之丞/作曲:大塚博堂/編曲:井上鑑 椎名林檎: 小学生の頃は、映画『風の谷のナウシカ』のサウンドトラックや母親の好きだった五輪真弓、太田裕美、朱里エイコ、大塚博堂、寺尾聰、来生たかお、ペドロ&カプリシャス、長谷川きよし のような古い歌謡曲、そして父親の好きだった渡辺貞夫やビリー・ジョエルおよびニーナ・シモン、サラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルドなどの女性ジャズ・ボーカリストを好んで聞いていた。 藤公之介: 『博堂伝説 ダスティン・ホフマンになれなかったよ』大塚博堂共著 岩崎電子出版 2002 フランシス=レイ: 坂の上の二階 - 大塚博堂 斉藤とも子: 作詞:るい/作曲:大塚博堂/編曲:戸塚修 山崎イサオ: 1993年、大塚博堂追悼アルバム『風の中で…』を発表。 藤公之介: 大塚博堂「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「季節の中に埋もれて」 太田裕美: 他のメンバーには山下久美子、大沢誉志幸(クラウディ・スカイ)、チャクラ、桑江知子、大塚博堂、大上留利子、ルイス、ララなどがいた。 ジョルジュ=ムスタキ: 大塚博堂・さとう宗幸らはムスタキを敬愛し、ムスタキの曲をカバーして歌う。 青木裕史: かすみ草哀歌(大塚博堂遺作) 小室みつ子: 以来、小柳ルミ子、大塚博堂、石川ひとみらに楽曲を提供。 小野寺昭: 作曲:大塚博堂、編曲:萩田光雄 森岡賢一郎: 大塚博堂 ジョルジュ=ムスタキ: 「ある日恋の終りが」 - "Les Amoure Finissent Unjour" ※大塚博堂(訳詞:大塚博堂)、さとう宗幸(訳詞:高野圭吾)などがカバー 藤公之介: 大塚博堂 クニ河内: 大塚博堂「もう子供でも鳥でもないんだから」「青春は最後のおとぎ話」(編曲) 斉藤友子: 作詞:森雪之丞/作曲:大塚博堂/編曲:井上鑑 山川啓介: 青春は最後のおとぎ話(作曲:大塚博堂 編曲:クニ河内)※『聖女房』主題歌 斉藤友子: 作詞:るい/作曲:大塚博堂/編曲:戸塚修 宮川泰: LOVE IS GONE(大塚博堂) 高倉健: 大塚博堂を聞いて、「自分にない何かがある」と感銘を受け、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』をはじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた藤公之介に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。 山川啓介: 大塚博堂 林哲司: 大塚博堂 藤公之介: 『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』大塚博堂共著 ルック社 1976 吟遊社、1994 江本孟紀: 趣味はバロック音楽の鑑賞で、好きな歌手は親友でもある大塚博堂だった。 惣領泰則: 大塚博堂「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(編曲) 船山基紀: 大塚博堂 |
大塚博堂の情報まとめ
大塚 博堂(おおつか はくどう)さんの誕生日は1944年3月22日です。大分出身のシンガー ソングライターのようです。
解散、兄弟、テレビ、ドラマ、現在、結婚に関する情報もありますね。1981年に亡くなられているようです。
大塚博堂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大塚 博堂(おおつか はくどう、本名の読み:おおつか ひろたか、1944年3月22日 - 1981年5月18日)は、ニューミュージックのシンガーソングライター。大分県別府市出身。東洋音楽大学(現:東京音楽大学)声楽科中退。活動時の所属事務所は渡辺プロダクション。 以下の表記は、「博堂」で統一する。 1972年(昭和47年)に「大塚たけし」名義で歌手デビュー、デビュー曲は「自由に生きてほしい」。作曲:井上忠夫、作詞:阿久悠の音楽祭用の楽曲であったが、ヒットには繋がらなかった。その後クラブやライブハウスでの弾き語りの活動が評判になり、1976年(昭和51年)6月26日、『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』で32歳での再デビュー。これが評価され、遅咲きながらも『めぐり逢い紡いで』、『過ぎ去りし想い出は』や『季節の中に埋もれて』などの曲で活発な音楽活動を行ったが、1981年(昭和56年)5月18日に脳内出血のため37歳で急逝した。5年間の活動に凝縮された彼の曲は、レコード化されたものが約80曲、没後に発表されたものを含めて約90曲ある。その他、小野寺昭、岩城滉一、ペギー葉山など他歌手に提供した歌が40曲ほどある。 ステージ活動を中心にして全国を回り、"愛を唄う吟遊詩人"として徐々に人気を高めていった。ファン層は20代・30代を中心とした女性が多く、コンサートでは涙を流しながら博堂の歌を聴く女性ファンが多かったと伝えられている。トレードマークはヒゲとサングラスで、コンサートは、年間100か所以上を数えた。 初期の作品は、デビュー曲『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』を作詞した藤公之介と組んだものが多かったが、3枚目のアルバム『もう少しの居眠りを』から作詞家るい(本名:小坂洋二)が登場する。るいは博堂が所属する渡辺プロダクションの社員で、博堂担当のマネージャーだった。また、後期は山川啓介と数曲組んでいる。そして最後のアルバム『感傷』では、全作品の作詞を阿久悠が行っている。 博堂の没後も、曲を唄い継いでいる歌手達がいる。主にシャンソン系の歌手が、自分のライブなどで唄うことが多いが、大塚郷(博堂の甥)、田口徹、山田友人など、主に博堂の歌を唄って活動している歌手もいる。 また、「大塚博堂倶楽部」というファン組織が現存している。13回忌に「博堂メモリアルライブ」の企画で集まったファンの呼びかけで、1994年(平成6年)10月1日に出来た「大塚博堂ネットワーク」がその前身であり、1995年(平成7年)5月18日に『大塚博堂旅立ち15回周年メモリアルライブ』が、特別ゲストにペギー葉山を迎えて武蔵野公会堂で開催された。その後、「大塚博堂ネットワーク」は発展的に解散し、同年10月に「大塚博堂倶楽部」として結成された。その後、博堂の曲を21世紀に残すための活動や、メールマガジン「大塚博堂倶楽部通信」の発行などをしている。 1944年(昭和19年)3月22日 大分県別府市にて6人兄弟の末っ子として誕生。 1959年(昭和34年) 別府市立青山中学合唱部所属 大分県合唱コンクール優勝。中学時代に「NHKのど自慢大会」に出場し、県大会で入賞。 1960年(昭和35年)4月 大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校) 音楽科入学。 1963年(昭和38年)4月 東洋音楽大学 声楽科入学。 1966年(昭和41年) 東洋音楽大学 声楽科中退。 1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年) 別府市の音楽喫茶などで唄う。 1968年(昭和43年)3月 - 博多のクラブ「絹」「長島」「88」などでジャズシンガーとして活動。 1972年(昭和47年)
8月 「大塚たけし」の芸名でデビュー。 シングル「自由に生きてほしい」をワーナー・パイオニアから発売。 9月29日 「日本歌謡祭'72」に出場、「自由に生きてほしい」を唄う。 1973年(昭和48年)8月 2枚目シングル 「風は知らない」を発売、フジテレビのドラマ「トリプル捜査線」の主題歌に採用される。 1974年(昭和49年) - 1975年(昭和50年) 「大塚たけし」の名前でシングルレコードを2枚発売したが、ほとんど仕事がなく、博堂の不遇時代。この頃、藤公之介の詩集と出会い、気に入った詩に勝手に作曲して歌を作っていた。 1975年(昭和50年)秋 青山のクラブ「バルセロナ」での、オリジナル曲の弾き語りが評判となる。 1976年(昭和51年)
8月23日放映開始のNHK銀河テレビ小説「幻のぶどう園」挿入歌に「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」が採用される。 8月25日 初のアルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」発売。 10月6日 横浜音楽祭 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で出場。最優秀新人賞受賞。 1978年(昭和53年)
4月 渡辺プロダクションが、若者のニューミュージック指向を高めようと「ノンストップ」プロジェクトを立ち上げ、博堂もその一員となる(メンバーは、大塚博堂・太田裕美・桑江知子・山下久美子・ルイス・ララ)。 6月9日 第5回広島平和音楽祭に「めぐり逢い紡いで」と「小さな幸福でよければ」で出場。 12月31日 第29回NHK紅白歌合戦で布施明が「めぐり逢い紡いで」を唄う。 1979年(昭和54年)
5月20日 東京音楽祭に「もう子供でも鳥でもないんだから」で出場。 NHKテレビで「旅でもしようか」が、NHK-FMのイメージソングとして放送される。 日本テレビのドラマ「聖女房」の主題歌に「青春は最後のおとぎ話」が採用される。 11月10日 フジテレビのドラマ、西武スペシャル・「女が職場を去る日」(原作:沖藤典子)主題歌に「花びらは風に」が採用される。 12月15日 日本テレビのドラマ「ちょっとマイウェイ」、第10話「またメチャメチャになっちゃうよ」に桃井かおり演じる浅井なつみの元恋人のジャズピアニスト・藤倉信夫役で出演。 1980年(昭和55年)
「センチメンタルな私小説」が、NHKのイメージソングとして放送される。 1981年(昭和56年)
3月21日 東京音楽祭に「トマトジュースで追いかえすのかい」で出場。 4月10日 福島県郡山市でのコンサートが、春の全国ツアー最後となる。 5月5日 NHKテレビ「子供の歌のフェスティバル」に出演。 5月14日 早朝、目黒区青葉台のマンション自宅で脳内出血により倒れる。 5月18日 入院中の東邦大学付属大橋病院にて逝去、37歳没。 5月19日 東京都品川区の桐ヶ谷寺で告別式が行われる。 1981年(昭和56年)
7月5日 大分市「レインボービル」にて博堂追悼コンサート「言い遺したサヨウナラ」 7月7日 福岡市「南市民センター文化ホール」にて博堂追悼コンサート 7月14日 名古屋市「芸音劇場」にて博堂追悼レコード・フィルムコンサート 7月20日 東京にて(詳細不明) 8月25日 別府市「別府中央公民館」にて百ヶ日追悼コンサート「早すぎた時の流れ」 10月5日 - 9日 銀座「博品館劇場」にて博堂追悼ミュージカル「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」が上演される。演出は藤公之介、たちはらるいが博堂役。 1982年(昭和57年)
5月18日 「大分文化会館」にて、博堂忌〜大塚博堂一周忌コンサート(ゲスト:江本孟紀) 7月20日 名古屋市「愛知厚生年金会館」にて「翔び続けよ!! ダスティン・ホフマン」〜ピアノとバイオリンで奏でる大塚博堂の世界〜 1984年(昭和59年)
6月10日 日比谷のNECショールームにて「あれから3年、大塚博堂」ビデオコンサート 1995年(平成7年)5月18日 武蔵野公会堂でイベント
1999年(平成11年)12月14日 仙台市においてイベント
2000年(平成12年) 博堂を歌う100曲コンサートを各地を回って一年間開催
葵まつり - 「桜模様」「心しらず」(作詞:竜真知子 編曲:クニ河内)1980年 EP 青木裕史 - 「かすみ草哀歌」(作詞:るい 編曲:石川大明)1985年 EP 石川ひとみ - 「ショッキング・ブルー」(作詞:松岡つばめ 編曲:大村雅朗)1978年12月21日 LP「くるみ割り人形」 伊勢功一 - 「サザンクロス」(作詞:藤公之介 作曲:ジョルジュ 滝名義)1981年 EP 岩城滉一 - 「風媒花」「CHANGING MINDS」「心寂しき狩人」(作詞:るい 編曲:津村泰彦)1982年 LP「HUNTER」 小野寺昭 - 「やがてむらさき」「水彩画の少女」「旅に出ませんか」(作詞:藤公之介 編曲:小六禮次郎 ※作曲・ジョルジュ滝名義)1977年11月 LP「旅・青春・ふるさと」 加門亮 - 「風に吹かれて」(作詞:やしろよう 編曲:石倉重信)※注:たちはらるい「人を愛したら」と同曲、詞違い。2001年10月24日 CD「旅人-夢の向こうに-」 具志堅用高 - 「やつが行く」(作詞:藤公之介 編曲:小笠原寛)「今度生まれて来る時は」(作詞:るい 編曲:あかのたちお)1979年 LP「拳」 古賀孝 - 「RAIN RAIN RAIN」「泣き顔美人」(作詞:大内田たか子 編曲:惣領泰則)1982年 LP「哀しみはイエスタデー」 斉藤とも子 - 「陽のあたる坂道」(作詞:るい 編曲:戸塚修)1979年12月 EP「青春プラスアルファ」B面 「きっと夕焼け」(作詞:森雪之丞 編曲:井上鑑)1980年1月5日 LP「たけくらべ」 佐藤光政 - 「悪口」(作詞:藤公之介 編曲:石田勝範 ※作曲・ジョルジュ滝名義)EP 高田ジョニー - 「ひとときの安らぎ」、「K子の部屋」(作詞:藤公之介 編曲:松岡直也)EP たちはらるい - 「人を愛したら」「心の端をつまんで」「少女の誘惑」「涙が耳を濡らして」「ガラスの愛撫」(作詞:藤公之介 編曲:小六禮次郎) 1981年9月 LP「じゃあ、また・・・」 日吉ミミ - 「ピリオッド」「春待ちながら」(作詞:門谷憲二 編曲:竹村次郎)1980年 EP ペギー葉山 - 「あかねさす紫野」「あかねさす紫野part II」「落葉の日」(作詞:山口洋子 編曲:小六禮次郎)1979年11月5日 LP「恋歌-万葉の心を求めて-」 恵あい - 「あいつは私の情夫だった」(作詞:千家和也 編曲:高田弘)「女ざかり」(作詞:るい 編曲:高田弘)※作曲:ジョルジュ 滝名義 1979年 EP 桃井かおり - 「愛のかさねぎ」(作詞:桃井かおり 編曲:後藤次利) 1981年7月5日 LP「FIVE」 青木裕史 - 「旅でもしようか」「男と女の光景」「青春の宴」1988年5月21日 CD「リサイタル-百万本のバラ-」 「めぐり逢い紡いで」「春は横顔」「トマト・ジュースで追いかえすのかい」1993年9月3日 CD「風のルフラン」 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」 梓みちよ - 「トマトジュースで追いかえすのかい」(編曲:後藤次利)1982年3月21日 EP 麻生よう子 - 「青春の宴」「人を愛したら」(編曲:竜崎孝路)1983年6月 EP 大木康子 - 「季節の中に埋もれて」「旅でもしようか」1991年6月21日 CD「季節の中に埋もれて」 小野寺昭 - 「旅でもしようか」(編曲:萩田光雄)1977年5月 EP 「街」(編曲:小六禮次郎)1977年11月 LP「旅・青春・ふるさと」 門倉有希 - 「めぐり逢い紡いで」(編曲:今泉敏郎)2003年2月21日 CDS「J」CW 狩人 - 「過ぎ去りし想い出は」1978年11月25日 LP「KARYUDO First Live」 クミコ - 「私はもう女です」(編曲:国吉良一) 2008年3月19日 CD「友よ! 〜あの出発ち(たびだち)を“青春”と呼ぼう〜」 小柳ルミ子 - 「哀しみ通せんぼ」「愛されてますか」1979年11月 LP「やさしさということ」 さとう宗幸 - 「娘をよろしく」1993年3月24日 CD「風とともに」 「過ぎ去りし想い出は」(編曲:矢野立美)1993年9月22日 CD「過ぎ去りし想い出は」 すがはらやすのり - 「旅でもしようか」2004年9月23日 CD「タペストリー-愛のつづれ織-」 関口祐二 - 「過ぎ去りし想い出は」(ギター演奏、ボーカル・原田ユリコ、フランス語によるボーカル、フランス語題「Nos souveniss s'envolent」) 高橋亜貴子 - 「後悔(ぐち)」(編曲:大野久雄)1984年 EP たちはらるい - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「街」「ママ」(「僕のママ」と同曲)「60歳の日」(編曲:小六禮次郎)1981年9月 LP「じゃあ、また…」 白竜 - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」2006年 原大輔 - 「過ぎ去りし想い出は」「めぐり逢い紡いで」(編曲:竜崎孝路)1984年 LP「秋冬」 「めぐり逢い紡いで」(編曲:丸山雅仁)1992年6月2日 CDS 日高晤郎 - 「過ぎ去りし想い出は」(編曲:チコ本間)「めぐり逢い紡いで」(編曲:中村暢之)1992年12月9日 CD「泣きたい時に」 尾藤イサオ - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」 2009年9月30日 CD「オマージュ HOMME」 日吉ミミ - 「ラブ・イズ・ゴーン」(編曲:神山純)2005年3月9日 CD「<COLEZO!>日吉ミミベスト」 布施明 - 「新宿恋物語」1977年12月5日 LP「布施明ライヴ」 「めぐり逢い紡いで」(編曲:宮川泰)1978年9月5日 EP ポーラ・チョイ(徐小鳳) - 「Never Could Say Good-bye」(漢表記「星星問」あるいは「謝幕」) ボニージャックス - 「旅でもしようか」1986年3月21日 CD「旅情」 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」 ミルバ(Milva) - 「過ぎ去りし想い出は」1996年5月22日 CD「日本語の歌」 夢彗 - 「旅でもしようか」2002年2月21日 CD「ソフト・ヒーリング・ソング16-歌はジャンルを超えて-」 ヤドランカ(Jadranka Stojaković) - 「過ぎ去りし想い出は」1994年 CD「信じているの」 山崎イサオ - 「坂の上の二階」「めぐり逢い紡いで」「過ぎ去りし想い出は」「青春の宴」「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「翌朝」「見送った季節のあとで」「旅でもしようか」「トマトジュースで追い返すのかい」1993年3月24日 CD「風の中で」 レイモンド・チョイ(蔡濟文) - 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」1992年9月21日 CDS (レコード化されなかった歌) 「カラス」 - ステージ曲 「黄色いリンゴ」 - ステージ曲 「墓守唄」 - ステージ曲 「Mrギターマン」 - ステージ曲 「賛歌」 - 昭和47年合歓ポピュラーフェスティバル「日本歌謡祭'72」出場曲(作詞:阿久悠 作曲:井上忠夫) 「シンドバッドの船」 - NHK「みんなのうた」 大塚博堂(ボーカル、ギター、コンガ、ピアノ) 岩村義道(リードギター)・・・博堂デビュー4ヶ月後から博堂と二人でツアー(福岡時代の仲間) 山中さとし(フルート、ギター、キーボード)・・・岩村が呼び寄せた、福岡時代の仲間 竹村進二(ベース) 桜田賢(ドラム) 逸見良造(キーボード) (参加順、バンドメンバーは入れ替わりあり、主なメンバー記載) 1978年(昭和53年)
11月29日 『スターと共に・夜は友達』 東海ラジオ(ディクスジョッキー:大塚博堂) 1979年(昭和54年)
7月8日 『ニューミュージック共和国』 FM愛知(司会:小林よしと) 末頃 『(番組名不明)』 NHK-FM(女性アナウンサー) 12月15日 ドラマ『ちょっとマイウェイ』 日本テレビ 桃井かおりの恋人役で出演 12月16日 『DENONライブコンサート』 FM東京(司会:菅野沖彦) 12月29日 『ヤングタウン東京・サタディーハッピーナイトコンサート』TBSラジオ(司会:ハイ・ファイ・セット、ゲスト:ザ・ナターシャー・セブン、サーカス) 1981年(昭和56年)
春頃 『(番組名不明)』NHK-FM(DJ:大塚博堂、3日分) 春頃 『関東ミュージックエクスプレス』 ラジオ局不明 (司会:山崎イサオ) 5月5日 『子供の歌のフェスティバル』 NHKテレビに出演(共演:ペギー葉山・菅原洋一・雪村いづみ) 9月20日 『今夜はすごいぜ』 FM愛知 (司会:つボイノリオ)4月頃にスタジオ録音されていたが、放送前に逝去し、オクラ入りになっていたのを9月に追悼番組として放送。 1976年(昭和51年)10月20日 「いわき市コンサート」 - いわき文化センター(ツアー開始初期のもの) 1977年(昭和52年)
3月5日 「別府市ライブ」 - ヤンキースタジアム。LP「過ぎ去りし想い出は」発売キャンペーン 秋頃 「福島市コンサート」 - 福島市民会館 11月頃 「函館市コンサート」 - 函館市民会館 (「ふきのとう」とのジョイント・ライブ) 1978年(昭和53年)
6月 「山形市コンサート」 - 山形県民会館※カラオケDAM「めぐり逢い紡いで」に出てくる映像は、このコンサートのもの。 7月 「労音コンサート」 - 新宿・厚生年金小ホール 8月3日 - 大阪・梅田コマ(太田裕美・大上留利子とのジョイント・ライブ) 10月31日 「NEW・30 MUSIC コンサート」 - 東京・九段会館(佐々木幸男・田口清・大野真澄とのジョイント・ライブ) 1979年(昭和54年)
4月20日「労音コンサート」 - 有楽町・よみうりホール 5月 - 6月頃 「真駒内コンサート」 - 真駒内区民センター 5月28日 「新潟市コンサート」 - 新潟市公会堂 10月「労音コンサート」 - 荒川区民会館 11月5日 - 日本青年館(タイム・ファイブとのジョイントライブ) 11月「労音コンサート」 - 中野公会堂 1980年(昭和55年)
4月21日「労音コンサート」 - 渋谷公会堂 12月19日 - 新宿ロフト(江本孟紀とのジョイント・ライブ) 1981年(昭和56年)
3月19日「労音コンサート」 - 有楽町・よみうりホール 3月頃 「日高晤郎カフェオーレサロン」 - 札幌パークホテル ダスティン・ホフマンになれなかったよ - 著者:藤公之介・大塚博堂、1976年7月31日発行、ルック社、680円
ダスティン・ホフマンになれなかったよ 〈上記の復刻版〉 - 1994年3月25日発行、吟遊社、1,000円 博堂伝説〜ダスティン・ホフマンになれなかったよ〜 〈2度目の復刻版かつ新装版〉 - 2002年5月18日発行、岩崎電子出版、1,800円(2006年現在入手可能) 博堂は風になった - 大塚俊英著、1982年5月20日発行、日之出出版、980円 博堂は風になった 〈新装版〉 - 博堂生誕50年記念、1994年12月25日発行、吟遊社、1,200円 詩集・大塚博堂よ - 藤公之介著、1995年6月発行、吟遊社、1,800円 劇画・ダスティン・ホフマンになれなかったよ - 原作:藤公之介、画:大木三千代、1995年5月18日発行、1,000円 大塚博堂・楽譜全集 - 1979年2月10日発行、ドレミ楽譜出版社 (写真及び資料提供 - 渡辺音楽出版社)、1,000円 大塚博堂・楽譜全集 - 1984年9月20日発行、ドレミ楽譜出版社 (写真及び資料提供 - 渡辺音楽出版社)、1,800円 「ダスティン・ホフマンになれたじゃないか」 - 1981年(昭和56年)10月 博堂追悼ミュージカルで発表。(唄:たちはらるい 作詞:藤公之介 作曲:たちはらるい 編曲:小六禮次郎) 「駆けぬけた風」 - 博堂に奉げる歌としてシャンソン歌手、青木裕史が作詞作曲し自分のコンサートで唄う。(唄・作詞・作曲:青木裕史) 「おまえの声が聞こえる」 - 1993年(平成5年) 博堂13回忌追悼CD「風の中で」に収録。(唄:山崎イサオ 作詞:山川啓介 作曲:宮川泰 編曲:渡辺俊幸) 「Nice to Meet You」 - 1993年(平成5年) 博堂13回忌追悼CD「風の中で」に収録。(唄:山崎イサオ 作詞:池田裕幾 作曲:宮川泰 編曲:渡辺俊幸) 「総天然色の日々」 - 1994年(平成6年) 博堂に奉げる歌としてリリース。(唄:原大輔 作詞:藤公之介 作曲:高関勝美 編曲:竜崎孝路) 「ダスティン〜博堂別離の詩」 - 告別式で詠まれた弔辞の詩に作曲し、2004年(平成16年)発表。(唄・作曲:山田友人 作詞:井手ごいち) 「一本のギター」 - 博堂生誕60年、24回忌記念曲。(唄・作曲:田口徹 作詞:藤公之介) 「博堂の風に吹かれて」 - 博堂生誕60年、24回忌記念曲 2004年(平成16年)12月発表。(唄・作曲:山田友人 作詞:藤公之介) 「今もそして永遠に…」 - 2006年9月に発売された大塚博堂デビュー30年、没後25年を機に作られた甥、大塚郷のCD「愛歌・今もそして永遠に…」に収録。(唄・作詞・作曲:大塚郷) 五木寛之 - アルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」収録曲、「一冊の本」の歌詞に登場する。ラジオ番組、五木寛之の夜 (TBSラジオ)で、三雲孝江と博堂の事をトークをしていた。歌詞の五木寛之の所に色々な作家を当てはめて『やっぱり五木寛之がぴったりだな』と話したり、『歌詞に出てくる男と女の愛の憎しみってどの小説かな?』、『彼の声は低音はいいが、高いところの出ていいね(←正しい発言に訂正求む)』などと語る。 江本孟紀 - 現役時代、知人を貰ったテープを聴きファンになる(大学の先輩である山本浩二と言う説もある)。その後、知人を介して博堂と知り合う。プロスポーツ選手歌合戦で、博堂の持ち歌を歌い優勝したこともある。1980年12月19日、新宿ロフトでジョイントコンサートを行った(ゲスト・古沢憲司)。その後お互い忙しくなり、曲を博堂に書いてもらう約束をしていたが、亡くなったため実現せず。二日後先発の予定だったが、球団に許可をもらい通夜に参列した。また、メモリアルコンサートに数回出演している。野球関係では、他では、元・広島カープ・西武ライオンズ投手で、左のワンポイントとして活躍した永射保が博堂ファンである。 大沢悠里 - リクエスト葉書で名を知り、番組にゲストで呼んでから親しくなった。自身の番組のコーナーで「旅でもしようか」を流す。アナウンサー界の大塚博堂と自称している。 さとう宗幸 - フランスの吟遊詩人・ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki)を敬愛する者、デビューが遅かった者同士で親しくしていた。アルバムで、博堂の「過ぎ去りし想い出は」「娘をよろしく」をカバー。また、「過ぎ去りし想い出は」はアルバムのタイトルになっている。 高倉健 - 知人に博堂の歌が入ったテープをもらいファンになる(1981年11月21日・報知新聞記事より)。作詞家・藤公之介に、新しいアルバムを出すので博堂と組んで曲を作ってほしいと電話でオファーしたことがある(急ぎの仕事のため実現せず)。博堂と実際に会ったことはないが、メモリアルコンサートに数度、一ファンとしてメッセージを贈る。 髙橋真梨子 - 博多のクラブ「絹」、「長島」などでジャズシンガーとして同時期に活動していた。「88」では、大塚博堂と高橋真梨子の2枚看板で交互にステージで歌っていた。また、博堂の事を兄のように慕っていた。この当時、デビュー前の俳優田中健がよく見に来ていた。 タモリ - 福岡の中洲で博堂がJAZZを歌っていた頃のファンの一人であり、仲間でもあった。タモリが上京した時、博堂は歓迎会を開いている。タモリのリクエストで「マイファニーバレンタイン」を歌ったというエピソードがある。 はらたいら - 著書「めぐり逢い紡いで」(1981年10月発行)の前書きにおいて、以下のように記している。 藤山寛美 - 娘の結婚式で大塚が「娘をよろしく」を歌った。夫が渡辺プロの社員なので出席した。 布施明 - 「めぐり逢い紡いで」を歌う。他にも「新宿恋物語」をコンサートで歌っていた。 ペギー葉山 - 1979年に万葉集を現代風に作詞して、ニューミュージック系の作曲家に曲をつけてもらい歌う企画レコード「恋歌-万葉の心を求めて-」を出す。そのうち「あかねさす紫野」「落葉の日」を博堂が担当(他には、来生たかお・南佳孝・西谷翔・米山拓巳)。企画段階で、誰に作曲をして欲しいか?と言うのに、真っ先に博堂の名が思いついた。歌う前に博堂が歌ったデモテープが届き聴いたが、それを聴いて「こんな風に歌えるだろうか?」と感じた。レコーディングには、博堂が一緒にいたが、表情を変えず、本当にいいと思っているのか心配になる。このアルバムは、1980年の第22回日本レコード大賞企画賞を受賞。博堂の死後行ったメモリアル・コンサートで泣いたなどのエピソードを、13回忌のイベントにゲスト出演したときに語った後「あかねさす紫野」を歌う。 めぐり逢い紡いで - ウェイバックマシン(2001年10月7日アーカイブ分) - 博堂の甥でシンガーソングライター、大塚郷のサイト やすらぎのラブソングをあなたに - 2000年(平成12年)11月「博堂を歌う、全百曲コンサート」で博堂シンガーとしてデビューした、山田友人のOfficial Website VIAF 日本 MusicBrainz 日本の男性シンガーソングライター 日本の男性ポップ歌手 日本のフォークシンガー ユニバーサルミュージックジャパンのアーティスト EMIミュージック・ジャパンのアーティスト 過去の渡辺プロ系列所属者 大分県出身の人物 1944年生 1981年没 2024/12/03 01:28更新
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ootsuka hakudou
大塚博堂と同じ誕生日3月22日生まれ、同じ大分出身の人
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