下田武三の情報(しもだたけぞう) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
下田 武三さんについて調べます
■名前・氏名 |
下田武三と関係のある人
内村祐之: 後にコミッショナーを務めた下田武三によると、コミッショナーの職を辞した後は一度たりとも球場に足を踏み入れず、存命中は特別表彰による殿堂入りも拒否したという。 仲田幸司: 当時のNPB(日本野球機構)ではドラフト会議での指名対象選手による逆指名制度を設けていなかったが、仲田以外の指名候補選手にも希望球団をあらかじめ明言する動きが相次いでいたため、コミッショナーの下田武三が「20歳以下の若者が『どこそこでなければ働かない』と発言するのは口はばったい。 岸本葉子: 祖父は女子教育家の下田次郎、伯父は下田武三。 柴田猛: 自宅謹慎3ヶ月はあくまでも阪神球団が科したペナルティであってセ・リーグの「無期限出場停止」処分は未だに解かれておらず、これに下田武三コミッショナーは「オフの期間中に監督やコーチが選手に接触して指導する事は禁じられている。 中島敏次郎: 1965年8月 下田武三事務次官秘書官 黒田正宏: また、下田武三コミッショナーがバットの調査を開始し、素材であるアオダモの品質低下が判明。 ジョー=スタンカ: また、日本プロ野球コミッショナー・下田武三に対して、「外国人選手がNPBで働けるかどうか、技術面に加えて家庭環境から判断できる」として、外国人選手獲得窓口を自薦する手紙を書いたこともあったが、一部の日本マスコミから体のいい売り込みと中傷的な記事を書かれている。 |
下田武三の情報まとめ
下田 武三(しもだ たけぞう)さんの誕生日は1907年4月3日です。東京出身の外交官のようです。
卒業、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1995年に亡くなられているようです。
下田武三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)下田 武三(しもだ たけそう、1907年4月3日 - 1995年1月22日)は、日本の外交官。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。東京府出身。 外交官、外務省官僚としてポツダム宣言の翻訳を初め、日米安全保障条約、沖縄返還、日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した。プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。 教育学者の下田次郎の三男として東京に生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1925年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業、一高時代の1926年、下田らの提唱で一高内に「瑞穂会」が設立された。同年に外務省入省。 入省後は、フランス語研修(フランストゥール大学、ポワティエ大学)、在フランス大使館、在オランダ大使館、条約局、欧米局、在ソ連大使館などに勤務した。 1971年1月に最高裁判事に就任。佐藤栄作首相は下田が駐米大使を辞める時に既に下田を最高裁判事に起用することを決め、その旨を本人にも伝えていたが、しばらく音沙汰がなかったため、下田が佐藤首相に問い合わせをしたこともあった。就任にあたっては「(下田発言について)本来無口な男で、条約局長時代は少しもしゃべらないと記者団から抗議をされたくらいだ。外務次官になってから政府の考えを国民に理解してもらうために発言したので、裁判官になった以上、余計なことは申し上げない」「私は政治家ではないし、政治的発言をした覚えはない」「国民の耳にそぐわなくても、事実を正しく伝え、政府の判断の材料を提供するのが外交官の職責であり、私はその使命に従うという点では、裁判官として変わりはない」と述べた。 就任してから約半年後に裁判所視察のために新潟地裁を訪れた下田は同地裁の裁判官の懇談会を開いたが、その際に「裁判官は体制的でなければならない。体制に批判的な人は裁判官を辞めて政治活動をすべきだ」等と話したということが洩れた。記者に質問された下田は「非公開での場の話についてコメントすることはできない」と述べた。司法記者の野村二郎によると、下田はこの時に「体制」ではなくて「憲法体制」と話したのが事実らしく、宮本判事補再任拒否問題などで最高裁が批判されていた時代に、一部の裁判官が意図的な情報操作を行い、新聞がそれに利用されたと分析している。 1972年実施の最高裁判所裁判官国民審査における不信任率15.17%は、歴代最多不信任記録である。1973年の尊属殺重罰規定違憲判決で最高裁が尊属殺重罰規定を違憲とした際、ただ一人合憲の反対意見を出した。このほか東大ポポロ事件の再上告審にも関与した(判決は上告棄却)。1975年(昭和50年)8月6日の4年間審理を中断した長すぎる裁判の事件では違憲説を取り敗れた。 1977年4月2日付で、最高裁判事を定年退官した。同年4月29日には、勲一等旭日大綬章を受章した。 1979年からは日本野球機構の第7代コミッショナーを務めた。内村祐之以降は各球団のオーナーのイエスマンばかりで、なかなか指導力を発揮出来ないと批判される歴代コミッショナーの中で、初の外交官出身者となった下田はプロ野球人気の振興に努め、前任者の金子鋭の退任につながった江川事件の収拾をはじめとした業績を残した。そのうちのいくつかは、1985年の下田の退任後も継続されている。 また、コミッショナー在任中に外交官時代の経験を証言として出版し、退任後はプロ野球に関する回想録を出版した。1995年1月22日午前6時17分、心不全のため東京都文京区の病院で逝去、87歳。葬儀と告別式は同月25日午後1時から千代田区の聖イグナチオ教会で行われ喪主は妻が務めた。 コミッショナー時代の幾多の実績と功績から、野球殿堂入りしていないのが意外と思われており、当時を知る野球関係者、報道関係者やファンの中には、今でも下田の野球殿堂入りを望む声が強い。 江川事件後の混乱を収拾させた。 「飛ぶボール」の飛距離を測定して、反発力を落とすようメーカーに要望を出し、1981年のシーズンからボールを旧に復させた。同時に、王貞治などのホームラン打者が用いていたことで知られる圧縮バットの使用も禁じた。 プロ野球の公式戦を開催する可能性のある全32球場に野球規則に定められた野球場の両翼と中堅までの長さを実測させ、今後新設もしくは改造する場合、基準に沿うよう要望書を出し、その後の新球場建設にはそれが反映された。 1984年のロサンゼルスオリンピックから野球が公開競技となることが決まり、1981年12月24日に12球団のオーナーらに要望書を送付して新設する野球場は国際規格で建設するよう訴えた。 1982年、判定を不服として審判岡田功らに対し暴行を働いた島野育夫、柴田猛(当時両者とも阪神タイガースコーチ)に対し無期限出場停止処分を下した(半年後に処分は解除)→横浜スタジアム審判集団暴行事件。 1983年6月8日、試合進行の妨げになるとして、投球のサイン交換に用いられていた乱数表の使用を禁止した。 1984年、折れたバットの直撃を受けて当時西武ライオンズの黒田正宏が負傷した際には、すぐさま品質改善のためにバット製造業者に調査を依頼した。 同年には日本の野球応援はうるさいとして、応援倫理三則を定めた。 日本シリーズでセパ両リーグの条件を公平にするため、指名打者制度の導入を決めた(実施は1985年から)。 当時は12球団中10球団が関東や関西に集中していたフランチャイズの全国分散化を提唱した。下田の退任後、1989年には南海ホークス買収による福岡での福岡ダイエーホークス発足が起こり、下田の死後の2004年には本拠地移転による北海道日本ハムファイターズ発足、2005年にはプロ野球再編問題 (2004年)の末に生まれた東北楽天ゴールデンイーグルス創設があり、九州・北海道・東北の各地域での球団発足により下田の構想は実現している。 外交官の下田吉人は弟。 『日米関係の展望』(1970年、内外情勢調査会) 『プロ野球回顧録』(1988年4月、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4583026800 『戦後日本外交の証言-日本はこうして再生した(上・下)』(永野信利編、1984-85年、行政問題研究所) 『迎日排雲記 回想 下田武三』、下田光枝刊、1996年。関係者の追想録 ^ 朝日新聞大阪版 1995年1月23日 1面 ^ “「吉田書簡」に日本側が修正要求” (日本語). 日本経済新聞. (2014年1月25日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK13009_R20C14A1000000/ 2017年3月21日閲覧。 “日米で国会答弁擦り合わせ” (日本語). 日本経済新聞. (2013年7月27日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK16007_T20C13A7000000/ 2017年3月21日閲覧。 “重光のウソを基礎に核拒否を閣議決定” (日本語). 日本経済新聞. (2015年6月13日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO87592120S5A600C1I10000/ 2017年3月21日閲覧。 “大使たちの戦後日米関係 千々和泰明著” (日本語). 日本経済新聞. (2012年8月7日). https://www.nikkei.com/article/DGXDZO44564060U2A800C1MZC001/ 2017年3月21日閲覧。 “NPT署名の前年に慎重論 対ソ交渉にらむ” (日本語). 日本経済新聞. (2012年2月15日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1503L_V10C12A2PE8000/ 2017年3月21日閲覧。 “佐藤長期政権を要職で支える” (日本語). 日本経済新聞. (2011年10月23日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK17027_Y1A011C1000000/?df=3 2017年3月21日閲覧。 “核をめぐって日米すれ違い” (日本語). 日本経済新聞. (2016年1月2日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO95526090V21C15A2I10000/ 2017年3月21日閲覧。 “佐藤元首相、繊維でも密約 官僚知らず交渉頓挫” (日本語). 日本経済新聞. (2010年11月26日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS26027_W0A121C1PE8000/ 2017年3月21日閲覧。 “沖縄返還の財政密約、米要求は6.5億ドル 外交文書” (日本語). 日本経済新聞. (2011年2月18日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS17026_Y1A210C1000000/ 2017年3月21日閲覧。 ^ 沖縄の核Ⅱ - 原子力時代の死角 - 特別連載 - 47NEWS(よんななニュース) ^ 「【旧制高校 寮歌物語】(7)息づいていた『武士道精神』産経新聞、2012年9月16日6面 ^ 野村二郎 1986, p. 167. ^ 日米同盟が「堅固」ならTMDで十分だが「破綻」なら核武装も視野に入るSAPIO 2000年1月26日 ^ “NPT署名前年に慎重論 対ソ交渉にらむ” (日本語). 日本経済新聞. (2011年2月17日). http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E3E7E2E19E8DE3E7E2E0E0E2E3E08297EAE2E2E2;at=DGXZZO0195166008122009000000 2012年2月17日閲覧。 ^ 野村二郎 1986, pp. 167–168. ^ 野村二郎 1986, p. 168. ^ “最高裁判所裁判官 国民審査2021”. 日本放送協会. 2021年10月31日閲覧。 ^ 尊属殺重罰規定違憲判決においてただ一人、反対意見を出したことによる世論の評価だと云われることがあるが、尊属殺重罰規定違憲判決が下されたのは翌年の1973年であるため、この反対意見の提出と不信任率歴代最低記録に因果関係は無い。 ^ 野村二郎 1986, p. 169. ^ 田宮謙次郎・道仏訓『プロ野球 審判だけが知っている―誤審、大乱闘、トラブルの真相』(ソニー・マガジンズ、1992年、33-34頁) ^ 改革続けた下田氏-殿堂入りなし、球界に疑問(日本経済新聞、2008年1月9日夕刊記事) ^ 森祇晶『野球力再生』(ベースボール・マガジン社、2009年) ^ 豊田泰光のオレが許さん(週刊ベースボール、2009年8月17日号) ^ プロ野球統一球問題(妄言多謝、2013年6月12日) ^ “インサイド/アウトサイド 飛ぶボールの歴史が教えること” (日本語). 日本経済新聞. 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(2019年2月5日). https://archive.is/Wlp5p 2022年10月22日閲覧。 ^ 戦後日本外務省内の「政治力学立命館大 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403。 表 話 編 歴 福井盛太 1951 - 1954 井上登 1956 - 1962 内村祐之 1962 - 1965 宮澤俊義 1965 - 1971 大濱信泉 1971 - 1976 金子鋭 1976 - 1979 下田武三 1979 - 1985 竹内壽平 1986 - 1988 吉國一郎 1989 - 1998 川島廣守 1998 - 2004 根來泰周 2004 - 2007 加藤良三 2008 - 2013 熊﨑勝彦 2014 - 2017 斉藤惇 2017 - 2022 榊原定征 2022 - 表 話 編 歴 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使) 上野景範 1872(弁理公使) 吉田清成 1874–82 寺島宗則 1882–84 九鬼隆一 1884–88 陸奥宗光 1888–90 建野郷三 1891–94 栗野慎一郎 1894–96 星亨 1896–98 小村寿太郎 1898–1900 高平小五郎 1900–06 青木周蔵 1906–08 高平小五郎 1908–09 内田康哉 1909–11 珍田捨巳 1912–16 佐藤愛麿 1916–18 石井菊次郎 1918–19 幣原喜重郎 1919–22 埴原正直 1922–24 松平恆雄 1924–28 出淵勝次 1928–34 斎藤博 1934–39 堀内謙介 1938–40 野村吉三郎 1941 来栖三郎 1941 (閉 鎖 1941–52) 武内龍次 1951–52 武内龍次臨時代理大使 1952 新木栄吉 1952–53 井口貞夫 1954–56 谷正之 1956–57 朝海浩一郎 1957–63 武内龍次 1963–67 下田武三 1967–70 牛場信彦 1970–73 安川壮 1973–75 東郷文彦 1975–80 大河原良雄 1980–85 松永信雄 1985–89 村田良平 1989–92 栗山尚一 1992–95 斎藤邦彦 1995–99 柳井俊二 1999–2001 加藤良三 2001–08 藤崎一郎 2008–12 佐々江賢一郎 2012–18 杉山晋輔 2018–2021 冨田浩司 2021–2023 山田重夫 2023–現任 表 話 編 歴 青木周蔵1886-1889 岡部長職1889-1891 林董1891-1895 原敬1895-1896 小村寿太郎1896-1898 鳩山和夫1898 都筑馨六1898-1899 高平小五郎1899-1900 高平小五郎1900 浅田徳則1900 内田康哉1900-1901 珍田捨巳1901-1903 珍田捨巳1903-1906 内田康哉1906-1907 珍田捨巳1907-1908 石井菊次郎1908-1912 倉知鉄吉1912-1913 松井慶四郎1913-1915 幣原喜重郎1915-1919 埴原正直1919-1922 田中都吉1922-1923 松平恆雄1923-1924 出淵勝次1924-1928 吉田茂1928-1930 永井松三1930-1932 有田八郎1932-1933 重光葵1933-1936 堀内謙介1936-1938 沢田廉三1938-1939 谷正之1939-1940 松宮順1940 心得 大橋忠一1940 心得 大橋忠一1940-1941 山本熊一1941 心得 天羽英二1941 西春彦1941-1942 山本熊一1942 心得 山本熊一1942 松本俊一1942-1944 沢田廉三1944-1945 松本俊一1945 河相達夫1945 田尻愛義1945 松嶋鹿夫1945-1946 寺崎太郎1946-1947 岡崎勝男1947-1948 吉沢清次郎1948 岡崎勝男1948 太田一郎1948-1949 太田一郎1949-1951 井口貞夫1951-1952 渋沢信一1952 奥村勝蔵1952-1955 門脇季光1955-1957 大野勝巳1957-1958 山田久就1958-1960 武内龍次1960-1963 島重信1963-1964 黄田多喜夫1964-1965 下田武三1965-1967 牛場信彦1967-1970 森治樹1970-1972 法眼晋作1972-1974 東郷文彦1974-1975 佐藤正二1975-1977 有田圭輔1977-1979 高島益郎1979-1981 須之部量三1981-1983 松永信雄1983-1985 柳谷謙介1985-1987 村田良平1987-1989 栗山尚一1989-1991 小和田恆1991-1993 斎藤邦彦1993-1995 林貞行1995-1997 柳井俊二1997-1999 川島裕1999-2001 野上義二2001-2002 竹内行夫2002-2005 谷内正太郎2005-2008 薮中三十二2008-2010 佐々江賢一郎2010-2012 河相周夫2012-2013 齋木昭隆2013-2016 杉山晋輔2016-2018 秋葉剛男2018-2021 森健良2021-2023 岡野正敬2023- 表 話 編 歴 西源四郎1922-1923 堀口九萬一1923-1925 武者小路公共1925-1928 藤田栄介1930-1936 栗原正1937-1938 宮崎勝太郎1940 筒井潔1940-1943 柳井恒夫1943-1944 国交断絶1944 公使館引揚1946 国交再開1959 公使館再開1960 門脇季光1960-1961 山田久就1961-1963 下田武三1964 大使館昇格1964 下田武三1964-1965 重光晶1965-1968 光藤俊雄1968-1970 下田吉人1970-1972 金沢正雄1972-1974 石川良孝1974-1978 山田淳治1978-1979 村上謙1979-1982 長谷川孝昭1982-1984 小崎昌業1984-1987 市岡克博1987-1990 古川清1990-1993 杉浦芳樹1993-1997 小山嘉昭1997-2000 三橋秀方2000-2002 杉内直敏2002-2006 津嶋冠治2006-2008 東良信2008-2009 雨宮夏雄2009-2012 山本啓司2012-2015 石井喜三郎2015-2018 野田仁2018-2020 植田浩2020-2024 片江学巳2023- 表 話 編 歴 澤宣嘉1873(未赴任) 榎本武揚1874-1880 柳原前光1880-1883 花房義質1883-1887 西徳二郎1887-1897 林董1897-1900 小村壽太郎1900 珍田捨巳1900-1901 栗野慎一郎1901-1904 国交断絶(日露戦争) 本野一郎1906-1908 大使館昇格1908 本野一郎1908-1916 内田康哉1916-1918 国交断絶(ロマノフ朝の崩壊から日ソ基本条約締結まで、日本は反革命の白系ロシア人勢力を支援してソビエト連邦と対立) 田中都吉1925-1930 広田弘毅1930-1932 太田為吉1932-1936 重光葵1936-1938 東郷茂徳1938-1940 建川美次1940-1942 佐藤尚武1942-1946 国交断絶(第二次世界大戦末期から日ソ共同宣言まで) 門脇季光1957-1961 山田久就1961-1963 下田武三1963-1965 中川融1965-1970 新関欽哉1971-1973 重光晶1974-1978 魚本藤吉郎1978-1982 高島益郎1982-1984 鹿取泰衛1984-1987 武藤利昭1987-1990 枝村純郎1990-1991 枝村純郎1991-1994 渡辺幸治1994-1996 都甲岳洋1996-1999 丹波實1999-2002 野村一成2002-2006 齋藤泰雄2006-2009 河野雅治2009-2011 原田親仁2011-2015 上月豊久2015-2023 武藤顕2023- 表 話 編 歴 柳原前光1873 代理公使(未赴任) 鮫島尚信1878-1880 長岡護美1880-1882 蜂須賀茂韶1883-1887 西園寺公望1887-1891 青木周蔵1892-1898 井上勝之助1898 本野一郎1898-1901 加藤恒忠1902-1906 秋月左都夫1907-1909 鍋島桂次郎1910-1913 阿部守太郎1913 (未赴任) 陸奥広吉1914 (未赴任) 安達峰一郎1917-1921 大使館昇格1921 安達峰一郎1921-1928 永井松三1928-1930 佐藤尚武1931-1933 有田八郎1934-1935 来栖三郎1936-1939 栗山茂1939-1940 大使交換中断 与謝野秀1951-1952 在外事務所長 荒川昌二1952-1955 武内竜次1955-1957 倭島英二1957-1960 下田武三1961-1963 湯川盛夫1963-1968 小田部謙一1968-1971 安倍勲1971-1976 西堀正弘1976-1979 徳久茂1979-1983 山本鎮彦1983-1987 加藤吉彌1987-1990 矢田部厚彦1990-1992 加藤淳平1992-1994 中村順一1994-1997 兵藤長雄1997-2000 佐藤俊一2000-2003 内藤昌平2003-2006 林梓2006-2009 横田淳2009-2012 坂場三男2012-2014 石井正文2014-2017 林肇2017-2019 下川眞樹太2019-2022 三上正裕2022- 表 話 編 歴 在ベルギー大使が兼轄 荒川昌二1954-1955 武内龍次1955-1957 倭島英二1957-1961 下田武三1961-1963 湯川盛夫1964-1967 ECに一本化 在ベルギー大使・ECSC大使が兼轄 倭島英二1959-1961 下田武三1961-1963 湯川盛夫1964-1967 ECに一本化 在ベルギー大使・ECSC大使・EEC大使が兼轄 下田武三1961-1963 湯川盛夫1964-1967 ECに一本化 在ベルギー大使が兼轄 湯川盛夫1964-1968 小田部謙一1968-1971 安倍勲1971-1976 西堀正弘1976-1979 常駐開始1979 谷田正躬臨時代理大使1979 加川隆明1979-1983 加賀美秀夫1983-1987 伊達宗起1987-1989 西山健彦1989-1991 小林智彦1991-1993 EUに改組1993 小林智彦1993-1995 時野谷敦1995-1999 木村崇之1999-2002 朝海和夫2002-2005 河村武和2005-2008 小田野展丈2008-2011 塩尻孝二郎2011-2014 片上慶一2014-2016 兒玉和夫2016-2020 正木靖2020-2023 相川一俊2023- 表 話 編 歴 松田道一:1919年 - 1920年 山川端夫:1920年 - 1925年 長岡春一:1925年 - 1926年 佐分利貞男:1926年 - 1927年 松永直吉:1927年 - 1930年 松田道一:1930年 - 1933年 栗山茂:1933年 - 1937年 三谷隆信:1937年 - 1940年 松本俊一:1940年 - 1942年 安東義良:1942年 - 1944年 柳井恒夫:1944年 - 1945年 渋沢信一:1945年 杉原荒太:1945年 - 1946年 萩原徹:1946年 - 1947年 西村熊雄:1947年 - 1952年 下田武三:1952年 - 1957年 高橋通敏:1957年 - 1960年 中川融:1960年 - 1964年 藤崎萬里:1964年 - 1967年 佐藤正二:1967年 - 1969年 井川克一:1969年 - 1972年 高島益郎:1972年 - 1973年 松永信雄:1973年 - 1975年 中島敏次郎:1976年 - 1977年 大森誠一:1977年 - 1979年 伊達宗起:1979年 - 1981年 栗山尚一:1981年 - 1984年 小和田恆:1984年 - 1987年 斎藤邦彦:1987年 - 1989年 福田博:1989年 - 1990年 柳井俊二:1990年 - 1993年 丹波實:1993年 - 1994年 折田正樹:1994年 - 1995年 林暘:1995年 - 1997年 竹内行夫:1997年 - 1998年 東郷和彦:1998年 - 1999年 谷内正太郎:1999年 - 2001年 海老原紳:2001年 - 2002年 林景一:2002年 - 2004年 国際法局に改編 林景一:2004年 - 2005年 小松一郎:2005年 - 2008年 鶴岡公二:2008年 - 2010年 長嶺安政:2010年 - 2012年 兼原信克:2012年 越川和彦:2012年 - 2013年 事務代理 石井正文:2013年 - 2014年 秋葉剛男:2014年 - 2015年 斎木尚子:2015年 - 2017年 三上正裕:2017年 - 2019年 岡野正敬:2019年 - 2021年 鯰博行:2021年 - 2022年 御巫智洋:2022年 - 2024年 金井正彰:2024年 - 表 話 編 歴 柳原前光1873 代理公使(未赴任) 青木周蔵1878-1880 長岡護美1880-1882 桜田親義1881-1885 臨時代理公使 青木周蔵1885 中村博愛1885-1889 弁理公使 棚橋軍次臨時代理公使 高平小五郎1892-1894 弁理公使 赤羽四郎1894-1899 弁理公使 珍田捨巳1899-1900 1900 弁理公使 三橋信方1901-1906 佐藤愛麿1906-1914 幣原喜重郎1914-1915 落合謙太郎1915-1920 田付七太1920-1923 長岡春一1923-1925 松田道一1925-1926 広田弘毅1926-1930 松永直吉1931-1933 斎藤博1933-1934 武富敏彦1934-1936 桑島主計1937-1938 石射猪太郎1938-1940 矢口麓蔵1940臨時代理公使 引揚1940 下田武三1951-1952 下田武三1952臨時代理大使 佐藤正二1952臨時代理大使 田付景一1952臨時代理大使 岡本季正1952-1956 大江晃1956-1959 宮崎章1959-1963 伊関佑二郎1963-1966 後宮虎郎1966-1968 藤崎萬里1968-1972 須之部量三1972-1973 広田稹1974-1975 高島益郎1975-1977 内田宏1977-1981 中島信之1981-1985 秋山光路1985-1988 大鷹正1988-1990 藤田公郎1990-1992 有馬龍夫1992-1994 佐藤行雄1994-1996 池田維1996-2001 東郷和彦2001-2002 小池寛治2002-2004 小町恭士2004-2007 渋谷実2007-2010 肥塚隆2010-2012 長嶺安政2012-2013 辻優2013-2016 猪俣弘司2016-2019 堀之内秀久2019-2023 南博2022- FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 戦前日本の外交官 日本の最高裁判所裁判官 在アメリカ合衆国日本大使 在ソビエト連邦日本大使 在ルーマニア日本大使 在オランダ日本大使 在ベルギー日本大使 在欧州連合日本大使 外務事務次官 日本野球機構のコミッショナー 勲一等旭日大綬章受章者 佐藤栄作 私の履歴書の登場人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 筑波大学附属高等学校出身の人物 東京都出身の人物 1907年生 1995年没 染井霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/24 11:43更新
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shimoda takezou
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