八神純子の情報(やがみじゅんこ) シンガー ソングライター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
八神 純子さんについて調べます
■名前・氏名 |
八神純子と関係のある人
魚住有希: 11月3日、『ロックの学園2013』(東京工芸大学・厚木キャンパス)に「ロックの学園女子部」(SHOW-YA、LoVendoЯ、八神純子)として出演。 宮川泰: ラブ・シュープリーム-至上の愛-(八神純子) 是永巧一: 八神純子 かとうれいこ: ※『パープルタウン』は八神純子(1980年)、『埠頭を渡る風』は松任谷由実(1978年)のカバー曲。 原田真二: またロックミュージシャンだけではなく、ニューミュージック寄りのイメージが持たれていた渡辺真知子、八神純子、中原理恵なども、原田に続いて積極的にテレビ出演した。 山川恵津子: 1980年、八神純子へ楽曲提供した「Be My Best Friend」で公式に作曲家デビューとなる。 岩里祐穂: 八神純子 溝口肇: 東京芸術大学音楽学部器楽科チェロ専攻に入学。この頃はクラシック音楽家としてデビューを夢見ていたが、学生時代から八神純子、上田知華+KARYOBIN等のサポートメンバーを始め、ポップミュージックの魅力を改めて知る。 澤近泰輔: 八神純子 西尾夕紀: 八神純子 山川啓介: 八神純子 戸塚修: 八神純子 矢沢透: のちの八神純子の夫)や鷺巣詩郎(キーボード)とともに、音楽ユニット「BLEND」として活動した。 松井五郎: 八神純子 森川美穂: 一方で、梓みちよ、八神純子、岩崎宏美、大橋純子、沢田研二などの個性的で実力派といわれた歌手に憧れていた。 山川啓介: 「Mr.ブルー 〜私の地球〜」(作曲:八神純子 編曲:大村雅朗) 荒牧陽子: 八神純子 森川美穂: また、「八神純子や大橋純子の歌が好きだったので、初期のアイドル路線には抵抗があった。 ひぐちしょうこ: 現在は「ひぐちしょうこ」名義へ改名し、さかいゆう、堂本剛、清春、八神純子などのアーティストのバックバンドとして参加している。 大村雅朗: すぐに八神純子「みずいろの雨」の編曲で一躍注目を浴び、その後も稀代のヒットメーカーとして活躍。八神純子「パープルタウン」(編曲)、山口百恵「謝肉祭」(編曲)、松田聖子「青い珊瑚礁」(編曲)、吉川晃司「モニカ」(編曲)、大沢誉志幸「そして僕は途方に暮れる」(編曲)、渡辺美里「My Revolution」(編曲)、中山美穂「ツイてるねノッてるね」(編曲・船山基紀と共作)など数々の名曲を誕生させた。 大村雅朗: 23日はばんばひろふみ、八神純子、渡辺美里、中川翔子、24日は大澤誉志幸、川崎鷹也、槇原敬之、南佳孝、ゲストDJに砂原良徳、音楽監督は佐橋佳幸と亀田誠治が担った。 松本隆: 八神純子 来生たかお: 提供曲「時を輝かせて」を歌った八神純子は、コンサートのMCにおいて、“他人の曲にはケチをつけたいが勢いがあって明るいから素直に好きになった”と述べたらしい。 後藤次利: その後、編曲家としての活動も開始し、八神純子、中島みゆきなどの楽曲を手がける。 欧陽菲菲: DISCO之夜(パープルタウン 八神純子のカヴァー) 柳澤寿男: また同年より、日本の音楽シーンをリードするポップミュージシャンとフルオーケストラによる融合プロジェクト、ビルボードクラシックスPREMIUM SYMPHONIC CONCERTの指揮者を務め、玉置浩二 、八神純子、石井竜也、渡辺美里、May.J、杏里、平原綾香、中島美嘉、小柳ゆき、藤井フミヤ、タケカワユキヒデ、佐藤竹善、尾崎裕哉、石崎ひゅーい、NOKKO、大黒摩季、工藤静香等と共演。 山川啓介: 「NATURALLY」(作曲:八神純子 編曲:瀬尾一三) 是永巧一: 八神純子 山川啓介: 「サマー・イン・サマー」(作曲:八神純子 編曲:大村雅朗) 古川タク: 23.ヒピディ・ホプディ・パンプ / 八神純子(1998年12月・1999年1月放送)◆ |
八神純子の情報まとめ
八神 純子(やがみ じゅんこ)さんの誕生日は1958年1月5日です。愛知出身のシンガー ソングライターのようです。
ディスコグラフィー、提供曲などについてまとめました。卒業、引退、テレビ、映画、結婚、事件、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。八神純子の現在の年齢は66歳のようです。
八神純子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)八神 純子(やがみ じゅんこ、1958年1月5日 - )は、日本の歌手・シンガーソングライター。アメリカ合衆国在住。ジューン・スタンレー (June Stanley) 名義での活動もある。 1958年1月5日、八神製作所創業家出身で後に同社第4代会長となる八神良三の長女として、名古屋市千種区で生まれる。 3歳からピアノを、小学校1年生から日本舞踊を習う。幼い頃から歌が大好きで、自宅でも壁に向かってザ・ピーナッツやシャーリー・バッシーの歌を歌い続け、両親を呆れさせたという。 一方で、八神は自分の少女時代について「小学校の頃はすごく不器用でぎこちなくて、自分のことが好きではなかった。運動が得意な子はもてはやされ目立っていましたが、私は内気でまったく目立たない存在でした」とインタビューで語っている。 愛知淑徳高等学校に入学すると、フォークギターのサークルを作り、ギターを持って他校の文化祭へ行ったこともあった。ヤマハのボーカルタレントスクールにも通い始め、歌の練習に明け暮れていた。また高校在学中に曲を作り始め、1974年の16歳のときに初めて「雨の日のひとりごと」を作詞・作曲した。 1974年10月13日に開催された『第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に出場し、「雨の日のひとりごと」で優秀曲賞に入賞。同大会では「幸せの時」もノミネートされ入賞曲に選ばれた。同一大会で2曲ノミネートされ同時入賞したのは、つま恋で本選会が開かれてからは、後にも先にも八神だけである。その後「雨の日のひとりごと (Junko's Dream)」で『第5回世界歌謡祭』に出場し、本選に進出した。 愛知淑徳高校在学中の音楽活動について、八神は「派手なことは許さない学校だったので、コンテストなどに出るたび職員室に呼び出され、慎みなさいと注意された」と語っている。 1974年12月10日、シングル「雨の日のひとりごと」で、キャニオン・レコードのAARD-VARKレーベルよりプレ・デビュー。翌1975年2月10日には2枚目のシングル「幸せの時」もリリースされた。 1975年5月に開催された『第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト』にも出場し「幸せの国へ」で優秀曲賞に入賞。また2年連続で「幸せの国へ (Hand in Hand) 」で『第6回世界歌謡祭』に出場した。八神はこの世界歌謡祭に出場していた外国人アーティストに誘われ、海外での音楽祭やコンテストにも挑戦する決意を固めたと語っている。高校3年生であった1976年には、『第17回チリ音楽祭』に参加、オーケストラをバックに和服姿で「もう忘れましょう (I Shall Forget) 」を歌って6位に入賞した。 高校卒業後は音楽の道に進み、プロデビュー前の1976年からデビュー後の1980年まで、文化放送で霊友会提供の帯番組『デデと純子のミュージックトリップ』にデデこと川村尚と出演していた。 デビュー当時に制作された「小さなさくら貝」は、スローテンポでフォークソング調の曲だったが、当時は発表されなかった。ポプコン30周年を記念としてキングレコードからリリースされたベストアルバム「ポプコン・スーパー・セレクション」シリーズの1枚として、2003年3月26日に発売された『ポプコン・スーパー・セレクション 八神純子 ベスト』(規格品番:KICS-2401)に未発表曲として初収録されている。 1978年1月5日、20歳の誕生日にディスコメイトレコードより、シングル『思い出は美しすぎて』でプロ歌手として本格デビューを果たす。この曲はオリコン最高位25位、売上12万枚のヒットとなった。同年6月25日、デビュー・アルバム『思い出は美しすぎて』を発売、オリコン最高位5位のヒットとなる。 また、デビュー当初からネム音楽院出身の選りすぐりメンバーで構成された専属バックバンド「メルティングポット」を率いていたのは当時としては画期的なことだった。 続いて同年5月5日、シングル『さよならの言葉』をリリース。この曲は1977年に開催された『第13回ヤマハポピュラーソングコンテスト』でグランプリを受賞した小野香代子の楽曲のカバーであった。しかし、シングルが自作曲でなくカバーとなったことは八神にとっても不本意であった。セールス結果もそうした状況を反映して前作のヒットとはうらはらに、オリコン最高位67位、売上1.9万枚にとどまった。 シングル『さよならの言葉』の売上低迷により、八神は歌手引退も考える状況に追い込まれた。次の楽曲作りに迷っていたとき、東京・原宿の歩道橋で不意に曲想を得て「みずいろの雨」を作曲することになる(作詞は三浦徳子が手掛けた)。八神は「『みずいろの雨』は岩崎宏美の声を想定して書いた曲で、前のシングルが思うように売れなかったので、歌手を引退して作家への転身を考えていた」が、しかし「自分で歌ってみたところ、とても評判が良くレコーディングとなった」と語っている。 同年9月5日に「みずいろの雨」をシングルとしてリリースしたところ、有線放送やラジオ番組を中心にリクエスト回数が増え始めてオリコンチャートの順位も上昇し、TBS系で1978年1月19日より放映開始された音楽番組『ザ・ベストテン』の注目曲を紹介するコーナー「今週のスポットライト」へ同年10月19日に出演したことで全国区に知名度を上げた。八神は「一夜にして大ブレイクした」と語っている。 それに伴いテレビの音楽番組への出演も増え、『ザ・ベストテン』の司会者だった久米宏からは、八神が毎回登場する度に体型や容姿、衣装の話などでよくからかわれていたが、八神は「私がいつも緊張していたのをほぐしてくださったのだと思います」と好意的に受け止めている。また黒柳徹子については「本当に勉強家で努力家で、お仕事させていただくたびに脱帽でした。本番前のリサーチが素晴らしかった」と尊敬の念を述べている。 シングル「みずいろの雨」はオリコン最高位2位、売上60万枚の大ヒット曲となった。同年12月にはこの曲で「ライオンリスナーズグランプリ・FM東京最優秀新人賞」を受賞した。 1978年10月1日には、八神純子オフィシャルファンクラブが結成され、会報『はろーあんどぐっばい』が刊行された。 翌1979年4月5日には、セカンド・アルバム『素顔の私』を発表しオリコン最高位1位を獲得。同年には、「想い出のスクリーン」「ポーラー・スター」と、立て続けにシングルヒットを飛ばした。 ピアノ弾き語りをしながらサンバホイッスルを吹くというスタイルを特徴とし、首からいつもトレードマークのように十字型のサンバホイッスルを下げていた。「チリ音楽祭」への出場は大きな影響をもたらし、初期のヒット曲はボサノバやサンバのリズムが響く、ラテン系の哀愁と情熱を漂わせたマイナーコードの曲が多かった。八神自身も「昔は暗かったですよね。でもマイナー調のパッションは美しいと今も思っている」と語る。 八神は1980年4月から54日間、アメリカのロサンゼルスに渡り、一般人家庭にホームステイした。帰国後の同年7月21日にリリースしたシングル「パープルタウン 〜You Oughta Know By Now〜」がオリコン最高位2位、売上60万枚の大ヒットとなった。この曲はアメリカ滞在の体験をもとにニューヨークの街並みをパワフルに歌い上げたもので、JALPAK「I LOVE NEWYORKキャンペーン」CMイメージソングとして使用された。 この曲は、前半はレイ・ケネディの「You Oughta Know By Now」(邦題:ロンリー・ガイ)のアレンジとメロディーラインの一部をベースに作曲され、後半サビの部分は八神のオリジナルという構成であった。しかし当初は『パープルタウン』として発売され、さらに初回プレス盤にはケネディの名がクレジットされていなかったため、発売直後に「盗作ではないか」と騒ぎになった。これに対して発売元のディスコメイトレコードは、ケネディから楽曲使用の許可を取っていることと、原曲の権利関係が複雑な上にCM音源を急遽レコード化したことで手違いが生じたという事情を説明した。再プレス盤からはタイトルに原題「You Oughta Know By Now」が併記され、ケネディら3人が追加でクレジットされたことで和解した。疑惑は晴れて、八神はこの曲で同年の『第31回NHK紅白歌合戦』に初出場を飾った。 また、同年11月5日のシングル「Mr.ブルー 〜私の地球〜」は、NHK総合『パノラマ太陽系』のテーマソングに起用され、1981年には「I'm A Woman」(ヤマハオーディオ)、1982年には『サマー イン サマー 〜想い出は、素肌に焼いて〜』(JAL沖縄キャンペーン'82)と、企業タイアップ曲で着実にシングルヒットを飛ばした。 八神はこの頃、郷ひろみとの交際が女性週刊誌などで取り沙汰されたこともあったが、八神の話によると郷は映画や食事に行く程度の友人に過ぎず、恋人ではなかったという。 1983年にはプロデューサーにブルックス・アーサーを迎え、全曲英語のアルバム『I WANNA MAKE A HIT WIT-CHOO (恋のスマッシュヒット) 』をアメリカで制作・発表した。しかし出来映えに満足できず英語での表現に自らの限界を感じて、いつか英語で音楽や映画を楽しめるようになりたいと海外移住の夢が生まれた。そうした心境の変化により、同年12月5日発表のアルバム『FULL MOON』を最後に、デビュー当時から所属していた財団法人ヤマハ音楽振興会を離れる。 ヤマハからの移籍と同時に、レコード会社もディスコメイトレコードからアルファ・ムーンへ移籍。1985年から1986年にかけて、『COMMUNICATION』『純』『ヤガマニア』の3枚のアルバムを発表した。 1986年2月7日、八神は2歳上のイギリス人の音楽プロデューサー、ジョン・スタンレー (John Stanley)と結婚、ハワイで挙式した。秋に渡米し、カリフォルニア州シミバレーのウッドランチに在住。1989年に長女を、1993年に長男を出産した。 結婚後は活動の拠点をロサンゼルスに移し、日本での音楽活動はコンサートのたびに来日しており、1990年以降は毎年帰国してコンサートやディナーショーを行っていた。 しかし、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生。八神はショックを受けて飛行機に乗ることが怖くなってしまった。さらにテロ事件の1週間前、当時住んでいたカリフォルニアで友人の家族3人が自宅で知人に射殺される銃撃事件があり、恐怖から子供と離れられなくなってコンサートの予定をキャンセルしてしまう。テロ事件後はアメリカでの不安定な社会情勢の中で、日米を行き来してコンサートの企画を立てることが困難となった。そのため、2000年末のクリスマスコンサートを最後に、毎年恒例であった日本でのコンサートを中断する。 以降、2000年代にはシングルやアルバムの発表も途絶え、ほぼ活動停止状態となっていた。しかし日本ではその間にもベストアルバムが売れ続け、2002年に『八神純子 CD-BOX』、2009年には『八神純子 1974〜1986 SINGLES plus』とCD-BOXが2回発売された。 2010年には、8月21日放送の『思い出のメロディー』と、後日放送された『SONGS』(共にNHK総合テレビ)に出演し、久々に日本のテレビ番組で歌唱したことで、視聴者やファンからは復帰を望む声が高まった。八神はのちに、それまで「自分はもうやり尽くした」と思っていたが、番組出演とその反響により、また日本で歌いたいという思いが生まれてきたと語っている。 2人の子供が大きくなったこともあり、日本での音楽活動の再開を考えていた矢先に、東日本大震災が発生した。「私の世界をこれ以上狭くしたくない」「心配するだけで何も挑戦しない人生はやめよう、東北に行って被災者の人たちと今を生きよう」という思いから急遽帰国。被災地で炊き出しと合わせたライブ活動を行った。5月15日・16日には、岩手県陸前高田市や宮城県南三陸町での支援活動を行い、震災後に作ったバラード「翼」を歌った。『トランス・パシフィック・キャンペーン』を自ら企画して被災地支援活動を継続し、チャリティーイベントやコンサート活動などを行った。八神はのちに、このときの体験を「9.11で閉まったドアが、3.11で開いた」と語っている。 同年11月2日には凱旋ライブとして、約10年ぶりとなる日本公演を東京・渋谷のライブハウス「SHIBUYA-AX」で開催。公演は成功を収め、翌日にはgoogle検索ワード第1位になるほどの注目を集めた。 翌2012年1月25日、15年ぶりのニューアルバム『VREATH 〜My Favorite Cocky Pop〜』、ニューヨーク在住の大江千里とコラボレーションしたシングル「さくら証書」を発売。同年2月15日から、25年ぶりとなる日本での全国ツアー『翼 -私の心が聞こえますか。-』を奈良県文化会館国際ホールを皮切りに開催した。 2013年2月24日、『NHKのど自慢』(滋賀県大津市・大津市民会館で開催)に初出演し「さくら証書」をピアノの伴奏で歌う。 震災2年後の2013年3月11日、東北支援チャリティーシングルCD『翼/かれ木に花を咲かせましょう』を発表。同年4月12日の東京国際フォーラムホールCを皮切りに全国ツアー『Here I am』がスタート。同年6月5日、21世紀初となるオリジナル・アルバム『Here I am 〜Head to Toe〜』を発表。 2015年9月21日、公式YouTubeチャンネルにて、同年12月に2年半ぶりにアルバム『There you are』をリリースすると発表。同年11月20日、アルバム『There you are』の詳細が発表され、12月18日にハイレゾで先行配信、翌2016年1月13日にCDリリース、同時にソニー・ミュージックダイレクト内に自主レーベル「Listen J Label」を発足させると発表した。 2016年1月16日、八神純子オフィシャルファンクラブ「Key of J」を再開。同年には第14回グッドエイジャー賞を受賞した。その後もBunkamuraオーチャードホールでのコンサート「ヤガ祭り」、全国を巡るコンサートツアー「キミの街へ」など、ライブ活動を継続している。またアメリカでも「LA スプリングプレミアコンサート」として杏里や大江千里と共演した。 2019年にはニューアルバムをレコーディング中としていたが、同年末からの新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響などもあってアルバムリリースが延期。同年8月21日に配信限定シングルとして「Here We Go!」が配信開始された。 2021年9月29日に、およそ6年ぶりとなるオリジナル・アルバム『TERRA -here we will stay』をリリース。 2022年8月 米国で第2回 Women Songwriters Hall of Fame(WSHOF)で殿堂入り。日本人初。 ディスコグラフィーシングルアルバムCD-BOXビデオグラムメディア種別の注記なきものはDVD SURPRISE!!(1986年4月21日(VHS、VHD、レーザーディスク。後に八神純子 1974〜1986 SINGLES plusにDVDで収録)) TRUTH HURTS(1988年3月21日(CDビデオ)) コッキーポップ・コレクション Vol.1(2004年9月29日) コッキーポップ・コレクション Vol.2(2005年3月24日) コッキーポップ・コレクション Vol.3(2007年4月25日) コッキーポップ・コレクション Vol.4(2010年10月27日) There you are THE LIVE(2017年1月25日(BD、DVD)) 「ヤガ祭り 2017」Key of J Special(2017年12月20日) 「ヤガ祭り 2018」Key of J Special(2019年4月28日) ヤガ祭り the 3rd 2021(2022年4月23日) ヤガ祭り the 4th 2022(2023年6月25日) 参加作品タイアップ提供曲岩崎良美「Prologue」(作詞・作曲)「君の傍らの月」(作曲) 太田貴子「ガラスのシャボン玉」(作曲) 河合奈保子「街角」「MY BOY」(作詞・作曲)「コントロール」「夏の日の恋」「太陽の下のストレンジャー」「デリカシー」「幻の夏」(作曲) 沢田研二「スーパージェネレーション」(作曲) 宮崎美子「NO RETURN」(作曲) 2024/06/16 13:09更新
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yagami junko
八神純子と同じ誕生日1月5日生まれ、同じ愛知出身の人
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