吉岡隆徳の情報(よしおかたかよし) 陸上競技/短距離 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
吉岡 隆徳さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉岡隆徳と関係のある人
岡部平太: (本大会の男子100メートルでは吉岡隆徳が優勝) 北井正雄: 旧制大社中学の先輩には、1932年のロサンゼルスオリンピック陸上100mで6位入賞を果たす「暁の超特急」吉岡隆徳がいた。 江里口匡史: 9月の第79回日本インカレ100mで優勝し、吉岡隆徳以来77年ぶり2人目となる同種目大会4連覇を飾った。 田部武雄: 松木と同じ1932年、明治大学を卒業した田部が雑誌の取材で“暁の超特急”といわれ同年ロサンゼルスオリンピックに出場し、東洋人としては初めて陸上短距離で入賞した吉岡隆徳にどちらが速いか、と挑戦し神宮球場で競争した。 南部忠平: 日本陸上競技選手権大会男子100メートル競走で2回(1930年、1933年)優勝しており、1931年4月には吉岡隆徳ら3人の記録を破る10秒6の日本新記録(1ヶ月後に吉岡に抜き返される)、1933年9月には吉岡と並ぶ10秒5の日本タイ記録(約2週間後に吉岡が更新)をそれぞれ樹立している。 飯島秀雄: このとき日本陸上競技連盟コーチとして視察に訪れた吉岡隆徳は、飯島のスタートの素晴らしさに感銘を受け、以後学休期に指導をおこなうようになる。 依田郁子: 高校卒業後はリッカーミシンに入社、往年の名スプリンターである吉岡隆徳の指導を受けた。 川本信正: 1932年ロサンゼルスオリンピックで100メートル競走に6位入賞した短距離走者の吉岡隆徳を(同種目で金メダルを獲得したアメリカのエディ・トーランの愛称「深夜の超特急(midnight express)」にちなむ形で)「暁の超特急」と形容した。 エディ=トーラン: ロサンゼルスオリンピック100m決勝で同走した吉岡隆徳の「暁の超特急」という異名は、このトーランのあだ名をヒントに、当時読売新聞の記者だった川本信正が付けたものである。 高野進: 1992年のバルセロナ五輪400mでも決勝進出、日本のオリンピック短距離選手として1932年ロサンゼルス五輪の吉岡隆徳以来となる60年ぶりのファイナリストとなり45秒18で8位入賞の成績を残した。 サニブラウン=アブデル=ハキーム: これは、日本人として初めての快挙であり、世界大会男子100mで日本選手が決勝に進出するのは1932年ロサンゼルス五輪の吉岡隆徳以来実に90年ぶりのことだった。 |
吉岡隆徳の情報まとめ
吉岡 隆徳(よしおか たかよし)さんの誕生日は1909年6月20日です。島根出身の陸上競技
短距離のようです。
現在、卒業、結婚、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1984年に亡くなられているようです。
吉岡隆徳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)吉岡 隆徳(よしおか たかよし(または「たかのり」)、1909年(明治42年)6月2日 - 1984年(昭和59年)5月5日)は、昭和初期に活躍した日本の陸上短距離選手。東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業、元東京女子体育大学教授。名前は「たかよし(たかのり)」のほか、通称で「りゅうとく」とも呼ばれた。身長165cm、体重61kg。 1909年6月、島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現・出雲市湖陵町大池)にある彌久賀神社の宮司、春日千代主の四男(春日隆徳)として生まれ、小学校卒業後に斐川町(現・出雲市)の吉岡家の養子となる。自宅と学校(尋常小学校と中学校)との間には砂丘があり、そこを歩いたり遊んだりすることで足腰が鍛えられたという。 旧制島根県立杵築中学校(現・島根県立大社高等学校)を3年で中退し、1925年に島根県師範学校本科1年に転入した。この年、陸上競技の指導で来県していたパリオリンピック100メートル代表の谷三三五にスプリンターとしての才能を見いだされる。1927年には第8回極東選手権競技大会(英語版)(上海)に日本代表として出場、100メートルでは3位となる。優勝したのはフィリピンのデイヴィッド・ネポムセノ(英語版)で、日本の選手は100メートルで過去にフィリピン選手に勝ったことがなく、吉岡は「初めてフィリピン選手を破る日本選手になる」ことを目標にした。この大会では200メートルでも2位に入賞している。 1930年に東京高等師範学校に進学する。同年5月、第9回極東選手権競技大会の男子100メートルに日本選手として初めて優勝した。100メートルでフィリピン選手に勝つという目標を達成し、晩年の吉岡は現役時代の「思い出に残るレース3つ」の1番目に挙げていた。1か月後の6月、京城府(現・ソウル特別市)で開かれた競技会で10秒7の日本タイ記録をマーク。この記録は翌1931年4月に南部忠平が10秒6で更新するが、吉岡はその1か月後に10秒5を出して王座を奪い返した。東京高等師範への進学後は100メートルで10秒台がコンスタントに出るようになっていた。この大会では200メートルにも優勝し、2冠を達成している。 1932年8月、吉岡は第10回ロサンゼルス五輪で、100メートルに出場、6位入賞を果たした。晩年の吉岡は、「レースのときの心理状態や走っている姿を克明に覚えているのは、このレースだけですね」と述べている。同じ100メートルで金メダルをとり、「深夜の超特急」と呼ばれたエディ・トーランにちなんでスポーツライターの川本信正(当時読売新聞記者)は吉岡に「暁の超特急」という呼び名を付けた。一つ前の準決勝ではトーランとダナイ・ジュバート(英語版)に次ぐ3着だったが、吉岡自身は3人ほぼ同着であると確信しており、判定写真(公式な順位決定には使用されなかった)で自身の腕とジュバートの胸がトーランより先にゴールテープに触れていたのを見て、(勝つことを念じていた)トーランに勝っていたと晩年まで語っていた。 このときの吉岡以降、日本人のオリンピックの短距離種目での決勝進出者は1992年のバルセロナオリンピック400メートルでの高野進まで現れなかった。 100メートル決勝翌日の8月2日に行われた200メートル予選では準々決勝で敗退。8月7日、南部忠平、阿武巌夫、中島亥太郎と組み出場した4×100メートルリレー決勝では5位入賞を果たした。 オリンピック翌年の1933年9月23日に、第15回関東学生対校で自己記録を0秒1更新する10秒4を記録している。 1934年に東京高等師範学校体育科を卒業した。卒業後も研究科に残る傍ら高等師範附属中学校の教職にも就き、卒業した年の10月にファンの女性と結婚した。同年の第10回極東選手権競技大会(マニラ)では200メートルで連覇を達成している。卒業以後は「大塚クラブ」を所属として競技会に出場した。 1935年6月9日(南甲子園運動場、関東近畿フィリピン対抗陸上競技大会)と6月15日(明治神宮外苑競技場、日比対抗戦)に10秒3の世界タイ記録を達成した。吉岡によると、甲子園での記録樹立は想定の範囲内で感慨はなく、東京の大会で記録を出すべきという考えから日比対抗戦で記録を狙い、当日は体が重くて気が乗らなかったのに記録が出たレースとして記憶に残ったという。この記録は日本陸上界の短距離走が世界に追いついたことを意味する非常に意義のあるものだった。 その翌年のベルリンオリンピックに吉岡は日本中からメダル獲得の大きな期待を寄せられた。だが、オリンピックを意識するあまり、吉岡は大会の半年前から不眠症にかかり、ベルリン到着後は睡眠薬を服用するほどになっていた。こうしたプレッシャーにより10秒8の平凡な記録で2次予選(準々決勝)落ちしてしまう。このレースで吉岡は、90メートルラインをゴールラインと間違えてスピードを落としかけていたという。その結果に責任を感じて吉岡はレース後に「申し訳ありません」と書いた手紙を恩師や友人に送り、一時は自殺まで考えた(帰路の船から飛び込みを図って佐々木吉蔵に止められたという)。しかし、日本で迎えた小学生に「吉岡選手、悲観するな。この次のオリンピックで頑張ってください。ご苦労様でした」と励まされたことで再び競技の道に戻ることができた。現役時代、日本陸上競技選手権大会の100メートルに、1931 - 32年、1935年、1938 - 1940年の6回優勝を果たす。この優勝回数は神野正英に破られるまでは最多記録で、2022年現在も歴代2位である。 1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任する、戦争で陸上競技のトレーニングが十分できる環境ではなくなり、吉岡は1943年の「国民錬成大会」の100メートルに出場して11秒2で2位となったのを最後に競技を退いた。 1945年8月6日に吉岡は同校学生を連れて東洋工業内で勤労奉仕中原爆投下に遭うが、爆心地から10km離れていたため吉岡に大きな怪我はなかった。しかし、中心部に残った家族に会うため、途中瀕死の人達を無視し先を急いだ自身の行動にショックを受け教職を捨てた。戦後は広島県教育委員会保健体育課長に職を移り、1951年の第6回国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わった。また、1952年には広島カープの初代トレーナーを務めるなど当地のスポーツ界に功績を残した。長崎県教育委員会保健体育課長時代の1956年、学童用の粉ミルクを横流ししたとして逮捕され、裁判で執行猶予となった。当時は児童に不人気な粉ミルクの転売はどこの都道府県も密かに行っており、保阪正康は有名人の吉岡の逮捕は「一罰百戒の意味を持たせていた」と指摘している。 裏方の仕事を続けるうち指導者としてベルリンの屈辱を晴らしたいと強く願うようになる。吉岡は中央大学の陸上部監督やリッカーミシン陸上部コーチ(後に監督)として陸上競技の現場に復帰した(日本陸上競技連盟の特別コーチにもなり、東京オリンピック候補選手の強化コーチも務める)。指導者としては依田郁子(リッカーミシン)や飯島秀雄を育てた。飯島には高校時代に出会って素質に惚れ込み学休期に指導を始め、飯島が早稲田大学に進学した後も個別指導を行った。 東京オリンピック終了後にリッカーミシンを辞した。一方飯島秀雄への指導は、飯島が茨城県庁に進んでからも続いたが、1968年の夏頃に関係は絶たれたとされる。 1970年には東京女子体育大学の教授となった。吉岡は、「100メートルは私の一生の友です。齢をとったからといって、この友と別れるわけにはいかない」と、高齢になっても100メートルをどの程度の記録で走れるかにこだわり、マスターズ大会や東京女子体育大の運動会に出走した。70歳の東京女子体育大運動会では15秒1を記録している。しかし1983年6月にアキレス腱を切断して入院した。この負傷は自身のトレーニングではなく、才能を見込んだ高校生選手の指導に熱を入れて手本を示そうと走ったときに起きたという。5か月の入院と手術を経て同年11月下旬に退院したが、それから間もない12月上旬に胃に激痛を発して再度入院。回復することなく、1984年5月5日午後3時10分、東京都立府中病院(現・東京都立多摩総合医療センター)にて胃癌のため死去した。吉岡の葬儀は5月8日に三鷹市の禅林寺で営まれ、1500人の弔問客が訪れた。 島根県では毎年吉岡の功績をたたえ、「吉岡隆徳記念出雲陸上競技大会」および小中学生対象の「吉岡隆徳賞記念短距離記録会」が開催されている。また2020年には吉岡の出生地である出雲市湖陵町大池の彌久賀神社脇に記念碑が建立された。 吉岡の走りで特に優れていた部分はスタートダッシュで、中間疾走(30 - 80メートル)の前半でスピードがピークに達した。そのかわり、ラスト20メートルでは速力が落ちた。スタート時は体を低くして足を「八」にした構えから、強靱な筋力によって強いダッシュをかけた。 NHKの取材でスタート時の神経を鋭敏にする訓練について、「私は電話の音が鳴ればすぐその方向に体を動かす癖があります。信号が赤から青に変わればすぐ歩き出す」と答えている。 当時、日本では陸上競技に必ずしもコーチがつかず、吉岡は独力で生活や練習量、タイムを克明に記録して最適となる環境や条件を分析した。保阪正康は「吉岡はその生活すべてをその記録の向上にだけふりむけた」と評している。吉岡は現役時代故障らしい故障を経験することがなく、保阪はその点について「摂生と健康管理に耐え抜く精神力ももっていた」と指摘した。 競技時には白い鉢巻を締めたが、これは郷里で野や海で働くときに巻く習慣にならったというものだった。 『短距離走』金子書房、1951年 『短距離走法の新技術』不昧堂書店、1959年 『スランプ』(小野三嗣・調枝孝治共著)不昧堂書店、1971年 『わが人生一直線』日本経済新聞社、1979年 『栄光なき天才たち』(ヤングジャンプ・コミックス)集英社、1988年。第二巻、第15話に『吉岡隆徳』を所収。ISBN 978-4088614748 『栄光なき天才たち 』伊藤智義(原作)・森田信吾(絵)、(集英社文庫コミック)集英社、1997年。第一巻、第7話に『吉岡隆徳』を所収。ヤングジャンプ・コミックスを再構成している。ISBN 978-4086170925 辺見じゅん『夢、未だ尽きず 平木信二と吉岡隆徳』文藝春秋、1998年、ISBN 978-4163535609) 辺見じゅん『暁の超特急 吉岡隆徳ものがたり』松江今井書店、2001年、ISBN 978-4895930383 ^ コトバンクに収録されている各種事典類では、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『マイペディア』『デジタル大辞泉』『世界大百科事典 第2版』が「たかよし」、『日本大百科全書(ニッポニカ) 』『精選版 日本国語大辞典』が「たかのり」を採用している。Olympediaのラテン文字表記は"Takayoshi"である。 ^ 手動計時、他にラルフ・メトカーフらを含む4人が記録。 ^ 保阪正康 (1984)はタイムを「10秒9」と記しているが、Olympediaに従う。 ^ 明治神宮競技大会が改称した大会。 ^ 「吉岡隆徳」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%9A%86%E5%BE%B3。コトバンクより2023年3月26日閲覧。 ^ Takayoshi Yoshioka - Olympedia(英語) ^ “Takayoshi Yoshioka Bio, Stats, and Results”. Olympics at Sports-Reference.com. https://web.archive.org/web/20200417210706/https://www.sports-reference.com/olympics/athletes/yo/takayoshi-yoshioka-1.html 2020年9月24日閲覧。 ^ 保阪正康 1984, pp. 13–14. ^ 保阪正康 1984, pp. 21–23. ^ FAR EAST CHAMPIONSHIPS - GBR Athletics(英語)2023年5月6日閲覧。 ^ 保阪正康 1984, p. 15. ^ 保阪正康 1984, p. 19. ^ 保阪正康 1984, pp. 24–29. ^ 【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】川本信正 平和への思いに貫かれたスポーツ評論 - 笹川スポーツ財団(2019年9月18日)2023年5月3日閲覧。 ^ オリンピック競技大会 入賞者一覧 ^ 保阪 1984, p. 6. ^ 保阪正康 1984, pp. 33–36. ^ 日本選手権男子100m優勝者 - 月陸Online ^ 保阪正康 1984, pp. 30–33. ^ 鎌田忠良 1988, pp. 288–289この内容は吉岡の著書『わが人生一直線』による。 ^ 100 metres, Men 1936 Summer Olympics - Olympedia (英語)2023年5月5日閲覧。 ^ 鎌田忠良 1988, pp. 460–462この内容は吉岡の著書『わが人生一直線』による。 ^ 保阪正康 1984, pp. 37–38. ^ 保阪正康 1984, pp. 38–40. ^ 保阪正康 1984, pp. 56–57. ^ 保阪正康 1984, pp. 78–79. ^ 保阪正康, p. 44. ^ 保阪正康 1984, pp. 9–12. ^ 保阪正康 1984, p. 47. ^ 保阪正康 1984, p. 52. ^ “「暁の超特急」立つ 吉岡さんの記念碑除幕 出雲 /島根”. 毎日新聞. (2020年8月9日). https://mainichi.jp/articles/20200809/ddl/k32/050/207000c 2022年7月30日閲覧。 ^ 保阪正康 1984, p. 42. ^ 保阪正康 1984, p. 41. ^ 1932年のロス五輪、男子100m決勝に残った吉岡隆徳 神経を鋭敏にする訓練とは ^ 保阪正康 1984, pp. 27–30. ^ 保阪正康 1984, p. 20. 保阪正康『100メートルに命を賭けた男たち』朝日新聞社、1984年6月30日。 鎌田忠良『日章旗とマラソン ベルリンオリンピックの孫基禎』講談社〈講談社文庫〉、1988年8月15日。 栄光なき天才たち 吉岡隆徳 - NHK人物録 Sports-Reference.com 表 話 編 歴 13 明石和衛 14 明石和衛 15 斎藤友三 16 東口真平 17 真殿三三五 18 松田恒政 19 伊達宗敏 20 平岡国雄 21 高木正征 22 谷三三五 23 谷三三五 25 谷三三五 26 田島貞夫 27 竹内兵蔵 28 相沢巌夫 29 矢野栄 30 南部忠平 31 吉岡隆徳 32 吉岡隆徳 33 南部忠平 34 谷口睦生 35 吉岡隆徳 36 金裕沢 37 矢沢正雄 38 吉岡隆徳 39 吉岡隆徳 40 吉岡隆徳 42 長田年弘 46 仁田脇功 47 生駒一太 48 仁田脇功 49 生駒一太 50 細田富男 51 大橋敏宏 52 ハーブ・マッキンリー 53 中島健 54 清藤享 55 清藤享 56 潮喬平 57 潮喬平 58 潮喬平 59 田村武雄 60 室洋二郎 61 田村武雄 62 セルジオ・オットリーナ(英語版) 63 エンリケ・フィゲロラ 64 蒲田勝 65 阿部直紀 66 誉田徹 67 石川準司 68 神野正英 69 神野正英 70 神野正英 71 神野正英 72 石沢隆夫 73 神野正英 74 神野正英 75 神野正英 76 田崎博道 77 豊田敏夫 78 原田彰 79 豊田敏夫 80 原田康弘 81 清水禎宏 82 清水禎宏 83 宮崎博史 84 松原薫 85 宮崎博史 86 宮崎博史 87 松原薫 88 笠原隆弘 89 青戸慎司 90 ロブソン・ダ・シルバ 91 ブルニー・スリン 92 鈴木久嗣 93 井上悟 94 井上悟 95 伊藤喜剛 96 朝原宣治 97 朝原宣治 98 伊東浩司 99 土江寛裕 00 朝原宣治 01 朝原宣治 02 朝原宣治 03 末續慎吾 04 末續慎吾 05 佐分慎弥 06 塚原直貴 07 塚原直貴 08 塚原直貴 09 江里口匡史 10 江里口匡史 11 江里口匡史 12 江里口匡史 13 山縣亮太 14 桐生祥秀 15 高瀬慧 16 ケンブリッジ飛鳥 17 サニブラウン・アブデル・ハキーム 18 山縣亮太 19 サニブラウン・アブデル・ハキーム(10.02)* 20 桐生祥秀 21 多田修平 22 サニブラウン・アブデル・ハキーム 23 坂井隆一郎 24 坂井隆一郎 *は大会記録 100m 200m 400m 800m 1500m 5000m 10000m 3000mSC 110mH 400mH 表 話 編 歴 1928: 相沢巌夫 1929: 大沢重慶 1930: 吉岡隆徳 1931: 吉岡隆徳 1932: 吉岡隆徳 1933: 吉岡隆徳 1934: 谷口睦生 1935: 谷口睦生 1936: 川手輝典 1937: 谷口睦生 1938: 谷口睦生 1939: 山本耕造 1940: 松田岩男 1941: 中止 1942: 長田年弘 1947: 仁田脇功 1948: 仁田脇功 1949: 細田富男 1950: 大橋敏宏 1951: 大橋敏宏 1952: 大橋敏宏 1953: 中島健 1954: 清藤亨 1955: 原弘典 1956: 潮喬平 1957: 田村武雄 1958: 室洋二郎 1959: 長田義昭 1960: 室洋二郎 1961: 室洋二郎 1962: 蒲田勝 1963: 浅井浄 1964: 石川準司 1965: 飯島秀雄 1966: 飯島秀雄 1967: 阿部直紀 1968: 神野正英 1969: 神野正英 1970: 神野正英 1971: 蘇文和 1972: 新間一夫 1973: 蘇文和 1974: 淵野辰雄 1975: 中村要一 1976: 中村要一 1977: 原田彰 1978: 川島敏夫 1979: 原田彰 1980: 山崎博仁 1981: 有川秀之 1982: 有川秀之 1983: 栗原浩司 1984: 栗原浩司 1985: 向井隆通 1986: 不破弘樹 1987: 太田裕久 1988: 笠原隆弘 1989: 杉本龍勇 1990: 小野貴久 1991: 杉本龍勇 1992: 杉本龍勇 1993: 井上悟 1994: 朝原宣治 1995: 海老沢雅人 1996: 西川康秀 1997: 大槻康勝 1998: 宮田貴志 1999: 小島茂之 2000: 川畑伸吾 2001: 松田亮 2002: 末續慎吾 2003: 田島宣弘 2004: 北村和也 2005: 佐分慎弥 2006: 高平慎士 2007: 江里口匡史 2008: 江里口匡史 2009: 江里口匡史 2010: 江里口匡史 2011: 小谷優介 2012: 飯塚翔太 2013: 九鬼巧 2014: 山縣亮太 2015: 桐生祥秀 2016: 桐生祥秀 2017: 桐生祥秀(9:98)* 2018: 永田駿斗 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research 陸上競技日本代表選手 オリンピック陸上競技日本代表選手 日本の男子短距離走の選手 日本の陸上競技指導者 陸上競技の元世界記録保持者 東京女子体育大学の教員 広島高等師範学校の教員 紫綬褒章受章者 私の履歴書の登場人物 東京高等師範学校出身の人物 島根師範学校出身の人物 胃癌で亡くなった人物 島根県出身のスポーツ選手 1909年生 1984年没 2024/11/17 08:25更新
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