吉田正男の情報(よしだまさお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
吉田 正男さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉田正男と関係のある人
西村一孔: 高校時代は無名の選手だったが、全藤倉の監督だった吉田正男の目に留まり、投手に専念することになる。 森弘太郎: 一宮第四小学校では先輩に吉田正男が居た。 桑田真澄: 甲子園での通算勝利数は吉田正男に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位(20勝3敗)。 二階堂智: 恋の罪(2011年) - 吉田正男 役 新屋晃: ※29は1977年初採用から1978年引退まで吉田正男がつけていた番号だったが現在は空番。 野口明: このうち、第19回全国中等学校優勝野球大会では吉田正男とのバッテリーで夏の甲子園3連覇を達成した。 藤村富美男: 明石中学の楠本保、京都商業の沢村栄治、中京商業の吉田正男、県立岐阜商業の加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれた。 岩本義行: 「中学超弩級打者」と評されたが、準々決勝で吉田正男を擁する中京商業(現:中京大中京高校)に惜敗(中京商業はこの年から夏三連覇)。 児玉利一: 岩本義行、杉浦清、吉田正男、藤本英雄ら錚々たるメンバーと共に六大学史上初の4連覇に貢献。 |
吉田正男の情報まとめ
吉田 正男(よしだ まさお)さんの誕生日は1914年4月14日です。愛知出身の野球選手のようです。
卒業、結婚、映画に関する情報もありますね。1996年に亡くなられているようです。
吉田正男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 吉田 正男(よしだ まさお、1914年(大正3年)4月14日 - 1996年(平成8年)5月23日)は、1930年代(昭和初期)に活躍した日本の中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。1931年(昭和6年)から1933年(昭和8年)にかけて、夏の甲子園大会で甲子園史上唯一の3連覇の偉業に大きく貢献した愛知県名古屋市にある中京商業学校(現・中京大中京高校)のエースピッチャー。甲子園史上最多の23勝記録保持者。 愛知県一宮市出身。一宮市立第四小学校在学時に少年野球で全国優勝を経験した。1929年(昭和4年)、名古屋市の中京商業学校(現・中京大中京高校)に入学し野球部に所属した。当時、中京商業野球部は技術コーチとして明治大学野球部監督・岡田源三郎を招聘していたが、この岡田の指導によって徹底的に投球フォームを矯正された。 3年生春の選抜大会から5年生夏の全国大会まで6季連続で甲子園に出場し、春は準優勝1回、夏は甲子園史上唯一の3連覇を達成した。この間、勝ち負けはすべて吉田につき、甲子園史上最多勝利数の23勝3敗という記録を残している。5年生夏の全国大会では主将として出場、選手宣誓して優勝している。 卒業後、明治大学に進学。東京六大学野球では1936年(昭和11年)春季リーグ戦で8試合登板7勝1敗で優勝に貢献するなど、在学中29試合に登板し12勝5敗という成績を残したが、途中で肩を痛め、1938年(昭和13年)に外野手に転向した。1937年(昭和12年)春から1938年秋にかけての史上初の4連覇の達成に貢献し、最終学年では主将を務めた。 大学卒業の際には職業野球(プロ野球)入りを検討するも、当時の時勢では職業野球選手の社会的地位は低いものとされていた。のちに妻となる女性の父から「職業野球選手にならないこと」を条件として結婚を許されたため、職業野球入りを断念、アマチュア野球に徹する。 1939年(昭和14年)、藤倉電線(現・フジクラ)に入社し、野球部では投手に復帰した。その年の都市対抗野球大会に東京市代表で出場し、全4試合を連投して優勝に導いた。藤倉電線はこの大会で2連覇を達成し、吉田は最優秀選手賞である橋戸賞を受賞した。 その後は、藤倉電線野球部を改組した全藤倉野球部のコーチなどを歴任し、1964年(昭和39年)から中日新聞専属のアマチュア野球評論家となるなど、一貫してアマチュア野球に関わり続けた。 1992年(平成4年)に特別表彰で野球殿堂入り。 1996年(平成8年)5月23日、胃癌のため没した。享年82。 第8回選抜中等学校野球大会(1931年春)……準優勝 ○11-0川越中学、○3-0第一神港商業、○3-0和歌山中学、●0-2広島商業 これが中京商業にとっても春夏通じて初めての甲子園であった。吉田は3試合連続完封をやってのけてチームを決勝へ導いたが、2点に抑えるも打線が広島商業エース灰山元治を打てず、広島商業の夏春連覇を許した。 第17回全国中等学校優勝野球大会(1931年夏)……優勝 ○4-3早稲田実業、○19-1秋田中学、○5-3広陵中学、○3-1松山商業、○4-0嘉義農林 東海予選では全6試合完封で甲子園に出場した。1回戦の早稲田実業戦では3点先行を許したがサヨナラ勝ちで救われ、そのまま4試合を完投で決勝へ進出した。嘉義農林も初出場でエース呉明捷を擁していたが、吉田はあっさりと完封し、初出場初優勝を成し遂げた。 第9回選抜中等学校野球大会(1932年春)……ベスト4 ○3-1平安中学、○3-2坂出商業、○8-0長野商業、●2-3松山商業 夏春連覇を目指し順当に勝ち進んだが、準決勝で松山商業エース三森秀夫に投げ負け、夏の雪辱を果たされた。松山商業はこの大会で優勝した。 第18回全国中等学校優勝野球大会(1932年夏)……優勝 ○5-0高崎商業、○7-2長野商業、○4-0熊本工業、○4-3松山商業(延長11回) 高崎商業戦は1安打完封、熊本工業戦では途中で三塁手にまわった。決勝は9回1死まで3点差の楽勝ペースだったが、失策と3連打で同点とされた。しかし、延長11回サヨナラ勝ちで2度目の優勝投手となった。 第10回選抜中等学校野球大会(1933年春)……ベスト4 ○3-0島田商業、○1-0興國商業(延長13回22奪三振)、○3-1享栄商業、●0-1明石中学 2試合連続完封と22奪三振、享栄商業との愛知県対決も制したが、明石中学エースの楠本保が立ちはだかった。中京商業は3安打しか打てず完封負け。明石中学の決勝点は吉田が与えた押し出しの死球だった。 第19回全国中等学校優勝野球大会(1933年夏)……優勝 ○11-0善隣商業(ノーヒットノーラン)、○3-2浪華商業、○2-0大正中学、○1-0明石中学(延長25回)、○2-1平安中学 右投げのオーバースロー。球種はストレート以外にはカーブしかなく、その配分も“ストレート9:1カーブ”であったという(シュートも修得したが封印・後述)。前述の岡田源三郎に指導を受けてコントロールを徹底的に鍛えられ、4年生で投球スタイルが完成。最大の武器は「外角低めに決まる快速球」。吉田と対戦した明石中・深瀬は「監督(高田勝生)から『お前らは吉田君の球を絶対に連打できないのだからデッドボールででも良いから出塁する事を考えろ』と言われてました。とにかく外角低めにビシビシと決まる直球に全然手が出なかった。」と言う。事実1933年のセンバツの準決勝で中京商と対戦した際、決勝点は1死満塁から福島が「打っても当たらないから」とユニホームをわざとだぶつかせて死球を狙い、死球・押し出しで決勝点となる1点を取って勝利した。投げる球種は90%がストレートだが「ブレーキ鋭いカーブ」「ドロップ」なども持っていた。5年の初めに落ちるシュートを修得したが、それで肩を壊しかけたため、シュートは封印した。 甲子園で活躍ぶりから剛速球タイプを想起させるが、元々中京は伝統的に剛速球タイプよりも好投手タイプが多く、吉田も後者だったという。自らも甲子園で指揮を執った深谷弘次は、人づての話しながら「吉田さんはスピードこそなかったが、コントロールとカーブと守備が良かったと聞いている」と証言している。 吉田率いる中京商業(現・中京大中京)以降3連覇を達成した学校はない。この3連覇について吉田は生前、「自慢するわけではないが」と前置きして「もう3連覇なんか出来っこない。」と言っていた。その理由として、「昔とは野球の質が違う。」として金属バットや打撃技術の向上を挙げ、「もし3連覇出来るとするならば、打者のバットが届かないところにストライクを投げられる投手がいること。」と述べた。 2006年(平成18年)の夏の甲子園決勝では、駒澤大学附属苫小牧高等学校が73年ぶりの3連覇に挑んだが、惜しくも達成はならなかった。駒大苫小牧のエース・田中将大は打者の手元で変化する球、すなわちスライダーを得意としていた。(田中のスライダーは右打者の外角低めのボールゾーンに大きく変化して落ちていくが、打者からはストライクと見えて空振りをするケースが非常に多かった) 台湾公立嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)野球部の活躍を描いた台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」が2014年に公開された。張鎧嚴(中国語)が吉田を演じた。ただし、映画では当時3年生(5年制)だった吉田を「キャプテン」としている。 ^ 同一大会で選手宣誓と優勝旗授与のダブル栄誉の主将 - ウェイバックマシン(2007年7月15日アーカイブ分) ^ 中日スポーツ連載コラム『吉田正男の三連覇』 ^ 「熱球にかけた青春の記録 甲子園大会60年の歩み」『アサヒグラフ』増刊1978年8月1日号、p.54 ^ 松本大輔(著)神戸新聞社(編)『明石中-中京商延長25回 キミは「伝説の球児たち」を知っているか!!』、神戸新聞総合出版センター、2003年、 ISBN 4-343-00217-9 ^ “全国制覇7度の最強王者 中京大中京「守り勝つ」伝統”. 中日スポーツ. (2018年1月10日). https://www.chunichi.co.jp/article/15264 2022年11月23日閲覧。 ^ KANO公式日本語サイト 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 VIAF 日本のアマチュア野球選手 中京大学附属中京高等学校出身の野球選手 明治大学野球部の選手 全藤倉及びその前身チームの選手 橋戸賞 日本の野球殿堂表彰者 愛知県出身のスポーツ選手 中日新聞社の人物 スポーツライター 胃癌で亡くなった人物 1914年生 1996年没 出典のページ番号が要望されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事
2024/11/19 19:25更新
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yoshida masao
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