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吉野作造の情報 (よしのさくぞう)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

吉野作造の情報(よしのさくぞう) 政治学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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吉野 作造さんについて調べます

■名前・氏名
吉野 作造
(読み:よしの さくぞう)
■職業
政治学者
■吉野作造の誕生日・生年月日
1878年1月29日 (年齢1933年没)
寅年(とら年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
宮城出身

吉野作造と同じ1878年生まれの有名人・芸能人

吉野作造と同じ1月29日生まれの有名人・芸能人

吉野作造と同じ出身地宮城県生まれの有名人・芸能人


吉野作造と関係のある人

伊東光晴: 1967年 - 吉野作造賞(第2回)『経済政策における保守と革新』


猪木武徳: 2002年、『自由と秩序』で読売・吉野作造


佐藤義亮: 同誌の投稿仲間には仙台の中学生だった吉野作造がいた。


三輪寿壮: 東大在学中に吉野作造の民本主義の影響を受け、大正8年(1919年)には、麻生久・赤松克麿らと新人会の創設期に参加している。


永井陽之助: 1967年、「日本外交における拘束と選択」(『中央公論』掲載、『平和の代償』収録)で第2回吉野作造賞を受賞。


御厨貴: 1981年、『明治国家と地方経営』で東京市政調査会藤田賞、1996年、『政策の総合と権力』でサントリー学芸賞、1997年に『馬場恒吾の面目』で吉野作造賞を受賞。


五百旗頭真: 他に吉田茂賞(2回)、吉野作造賞を受賞。


大佛次郎: 在学中には東大教授吉野作造が右翼団体浪人会と対決した「浪人会事件」で吉野の応援に駆けつけた。


田畑忍: 1916年、同志社中学2年に編入学し、山室軍平、賀川豊彦、内村鑑三などの説教に接し、さらに吉野作造の科外講演からも影響を受ける。


松本三之介: 『近代日本の思想家(11)吉野作造』(東京大学出版会, 2008年)


鈴木唯一: 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第七巻 政治篇』 日本評論社、1929年11月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第三巻 政治篇』 日本評論新社、1955年5月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第八巻 政治篇』 日本評論社、1992年7月、ISBN 4535042489


西園寺公望: 西園寺の死去を受けた『ニューヨーク・タイムズ』が古い「議会主義的日本」を代表する人物であったと評し、また吉野作造らも政党内閣主義者であると評していたように、当時の西園寺は議会主義の擁護者として知られていた。


鈴木義男: そして東京帝国大学に進学し、美濃部達吉・吉野作造・牧野英一らのもとで学んだ。


蝋山政道: 在学中に吉野作造の影響を受け東大新人会に参加、政治学の研究を志す。


佐藤せつじ: 忍たま乱太郎(2022年 - 2023年、吉野作造〈2代目〉)


竹内洋: 読売・吉野作造賞(第13回、2012年、受賞作:『革新幻想の戦後史』)


森戸辰男: 裁判では今村力三郎を主任弁護士に原嘉道、花井卓蔵、鵜沢総明、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、大審院まで争ったが上告は棄却され有罪が確定。


物集高量: このころ、Sとの恋を強姦事件として「二六新報」に報じられて将来を絶望し、Sと共に大宮で心中を企てるが、友人吉野作造に止められて未遂に終わる。


嶋中雄作: 大正デモクラシーの波に乗り、吉野作造や大山郁夫らの論文を繰り返し掲載した。


土浦亀城: 同年にライトが建設費の問題から帝国ホテルの設計の任を解かれアメリカに引き上げる際、土浦はライトからアメリカに来るように請われ、卒業後の1923年に信夫人(吉野作造の長女)と共に渡米。


宮武外骨: 外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献した。


西園寺公望: 吉野作造は「何を言ってよいか分からなかったためだ」と批判している。


岸信介: その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる。


宮武外骨: その後吉野作造の民本主義に傾倒し、大正8年(1919年)3月には雑誌『民本主義』を創刊した。


麻生久: また同年には吉野作造らを担いで大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を創設し、新渡戸稲造・大山郁夫・小泉信三・与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。


北岡伸一: 1995年(平成7年)0 - 吉野作造賞(受賞作『自民党 政権党の38年』)


土井晩翠: 1887年に斎藤秀三郎主宰の仙台英学塾に通学を許され、のちに第二高等中学校(ニ高)に入学し、吉野作造と交友を結ぶ。


大隈重信: 特に選挙直前に大浦兼武を内務大臣に転任させ、政権の力を利用した激しい選挙干渉は、大隈内閣を支持していた吉野作造をも失望させるほどのものであった。


小野塚喜平次: 弟子に吉野作造、南原繁、河合栄治郎、蠟山政道、矢部貞治等多数。


吉川洋: 第1回読売吉野作造賞(2000年)、The UFJ Bank Monograph Award(2002年)等、多くの学術賞を受賞している。


吉野作造の情報まとめ

もしもしロボ

吉野 作造(よしの さくぞう)さんの誕生日は1878年1月29日です。宮城出身の政治学者のようです。

もしもしロボ

事件、卒業、結婚、現在、退社、兄弟に関する情報もありますね。1933年に亡くなられているようです。

吉野作造のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男、袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。

明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。作蔵(作造)は長男であったが、長子に跡目を継がせぬという宮城県北部の家督相続の風習により、家業を継がなかった。吉野家は明治25年(1892年)6月8日に長姉の婿養子・和平が相続している。

明治17年(1884年)3月、6歳で古川尋常小学校(現・古川第一小学校)に入った。初めて読んだ漢文の書物は『皇朝史略』で、二人の姉から読み方を教わった。明治19年(1886年)7月、高等小学校一年生の時、古川講習会に参加したことがあった。明治25年(1892年)6月、宮城県尋常中学校(現、仙台一高、校長は大槻文彦)が開校し、古川から初めて吉野が推薦された。このとき吉野は14歳であった。

明治28年(1895年)の旧制中学校入学の年が林子平の百回忌にあたり、校長・大槻文彦が子平の伝記を講義した。作造は、その中から面白いと思ったことを書き留め、雑誌『青年文』明治28年(1895年)2月号に『林子平の逸事』という題で投稿した。子平の探究心と行動力、周囲に惑わされない思慮深さなどを紹介している。またこの頃、劣勢の南朝のために奮戦した菊池氏の孤忠を、「寒桜」に譬えた作文を書いた。同年7月、学内誌『如蘭会雑誌』第一号の「松風録」にも林子平についてのことを書き記している。中学校では、回覧雑誌発行に熱中する様になり、二年生の時『常磐文学』を始めた。会員増加や対抗誌が出来るなど、学内でも回覧雑誌が流行した。吉野は、回覧雑誌編集を通じて友人をつくった。その中の一人に小学校からの友人・三浦吉兵衛がいた。

明治28年(1895年)、日清戦争の戦勝に際しては下記のような秀歌を詠んでいる。

太刀たちまくらに まどろみて ほまれのいさを ゆめを見るらむ — 吉野作蔵(『軍人ゆめ』)

もろこしの 荒野あれのへし 醜草しこぐさも なびくやきみの 御稜威みいつかぜ — 吉野作蔵(『皇德及邊境』)
故郷ふるさとの 妻子さいしきし たまづさに つきをかすむる 雁金かりがねあと — 吉野作蔵(『夜營』)
露霜つゆしもに おきふすもきみ ためなれや 大和やまと男子をのこの なにいとふべき — 吉野作蔵(『夜營』)
1913年頃の雑誌『新人』の同人(前列左から湯浅治郎、海老名みや、松井友子、野口せい子、小山東助、右端不明、後列左から和田信次、相原一郎介、吉野作造、海老名弾正、加藤直士、鈴木文治)

高校時代

明治30年(1897年)9月、第二高等学校法科に無試験合格する。尚絅女学校校長アニー・S・ブゼルの聖書研究会に参加。 明治31年(1898年)7月3日、内ヶ崎作三郎・島地雷夢らと三人一緒に浸礼を受ける。キリストネーム「ピリポ」。二高で事件となった。 明治33年(1900年)5月14日、20歳の「たまの」との婚姻届出す。7月、二高を卒業。9月、東京帝国大学法科大学に入学。本郷教会(牧師海老名弾正)で三沢糾らとともに『新人』の編集に参加協力する。

政治学へ

天津時代の吉野作造(1908年3月)
東京帝国大学では小野塚喜平次の薫陶をうける。実家は吉野を大学に出す経済的余裕がなかった。妻「たまの」も仙台で小学校勤務を続けながら、十戸で長女・信を育てることとなった。信はのちに建築家土浦亀城と結婚する。 明治36年(1903年)、英語雑誌からエスペラントを知り、ロンドンから教科書を取り寄せて勉強。明治37年(1904年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業(銀時計受領)し、同大学院進学。同大工科大学講師就任。 明治39年(1906年)1月、袁世凱の招聘を受け、長男・袁克定(中国語版)の家庭教師として、妻「たまの」と三女・光子を伴って天津に赴任。袁家が北京に移住すると、吉野は天津に残り、1907年(明治40年)9月から1年間北洋法政專門学堂(中国語版)の教鞭を執る。明治42年(1909年)1月に帰国し、2月5日東大法科大学助教授就任。明治43年(1910年)4月より3年間の欧米留学。大正2年(1913年)7月、3年間の留学を終えて帰国後、東京大学で政治史講座を担当することになった。初めての講義は、「現代政治的進化の外観」と題し、主に「社会主義」の過去・現在より各国における回答の情勢を詳述した。

民本主義の主張

大正3年(1914年)1月、『中央公論』編集主幹の瀧田樗陰に頼まれ、同誌に「学術上より見たる日本問題」を寄稿し、国際社会の一員としての日本人のあり方に批判的な目を向けている。4月号には「民衆的示威運動を論ず」を寄稿、日本の民衆運動にも民衆の自覚という肯定的な面を主張した。
萬世一系、坤輿に比類なき芽出度、皇統を受けさせ給へる我が聡明仁孝なる今上陛下は人皇第百二十二代の帝として近く將に卽位の大禮を擧させられんとす。恭しく惟みるに、神武大和橿原に於て帝位に卽き給ひてより、茲に二千五百七十三年。此間大古一千年は漠として多く知る可らざるも、神功皇后の三韓を征伐せらるゝあり、仁德帝の民の疾苦を察し、三年の御調を止められ、高き屋の御歌をよみて、仁政の範を垂れ給へるあり。下りて奈良、平安朝に至れは大に大陸の文物を輸入せられ、彼が僧侶、學者、工作者の歸化人を採用せられ、而して聖德太子の憲法制定、桓武帝の遷都、天智帝の大化新政等、勳業最も顯著なり。此より以降政權、多くは閥族に歸し、藤原氏の専横時代を經て、鎌倉時代に入りて、更に室町時代を過ぎて天正年間に至れば、信長勤王を以て起り、秀吉亦た朝廷を尊奉して天下の亂を鎭定せり。德川氏に至り儒學大に興り、殊に其中葉以後、國學開けてより大義名分の説、益々明なりしが、明治天皇に至り維新の大業成り外、開國の國是を立て内、立憲政體の基を定められ、日清日露の戰役に由り、皇威を世界に輝かせ給へり。今帝陛下、今この大統を繼ぎ、世界歡呼の裡に大典を擧げさせられんとす。吾等同人六千萬の同胞と共に、謹んで寶祚の萬歳を祝し奉る — 吉野作造(大正天皇即位礼賀詞)
大正4年(1915年)、『中央公論』7月号の「大正政界の新動向」論説で古川学人という筆名を使用した。同年、法学博士号を授与される。 大正5年(1916年)、同誌1月号に代表作となった評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表。大正デモクラシーの代表的な論客となる。大正7年(1918年)、白虹事件が起こると、吉野は言論の自由を擁護して浪人会の暴行事件を非難、同会との間で立会演説会を開き聴衆の圧倒的支持を得た。これをきっかけに福田徳三・今井嘉幸らとともに「頑迷思想の撲滅」をめざす黎明会を結成。
我日本の國體には實に萬國に誇るべきものがある。吾々は其根本義を合理的に宣明して、國體の本義に關する不動の確信を國民に与へたい。所謂、舊式の國學者などの唱ふるやうに神話的説明では到底今日の青年を動かす事は出来ない。更に進んで吾々は、今日の世界の大勢に於ける日本の地位を明かにし、何を以て世界人文の進歩に貢献すべきかの日本の所謂世界的使命を發揮したい — 吉野作造(大正8年(1919年)1月)
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で研究室と図書館が火災に遭った際、吉野は貴重な資料を取り出そうとして燃える図書館に二度突入を試みたが、果たせず。炎を見上げながら立ち尽くす吉野の頬を数条の涙が光っていたという。大正13年(1924年)11月、東大教授の職を辞任し、東京朝日新聞に編集顧問兼論説委員として入社するが、政治評論がもとで同年退社。大正13年(1924年)2月7日、東京帝大教授をやめ、朝日新聞社に入社し、4月1日-6日「枢府と内閣」で筆禍、5月29日退社した。東大の講師に戻り、11月明治文化研究会を組織。尾佐竹猛、石井研堂、宮武外骨、小野秀雄、藤井甚太郎ら、在野の人物を含む異色のメンバーを集めたことは、吉野の視野の広さと包容力の大きさを現している。同会のメンバーと『明治文化全集』30巻の刊行(1927年10月5日-1930年7月25日)に尽力する。吉野及び宮武の収集が、東大の明治新聞雑誌文庫の基になった。 昭和2年(1927年)、女子経済専門学校(現東京文化学園)理事・教授。晩年は無産政党との関係を強め、右派無産政党である社会民衆党の結成に関わっている。なお、赤松克麿は吉野の娘婿である。 昭和8年(1933年)1月、肋膜炎を発症し神奈川県三浦郡逗子町の湘南サナトリウムに入院。3月18日、55歳で死去。墓所は多磨霊園。

思想

吉野は民本主義を尊重した思想家として知られている。民主主義は「Democracy」の訳語であり、民主主義とは違うと主張した。吉野は民主主義は手段の民主性を、民本主義は結果の民主性を求めるものと定義した。議会における大岡育造の質問に触発され、 軍首脳が閣議を経ずに直接的に天皇に上奏(帷幄上奏)することを、「戦時」のみならず「平時」においても存在する二重権力だと解釈して批判したため、後の統帥権問題にまつわる一因ともなった。つまり、吉野やマスコミの誤った論調は、その批判意図とは別に逆手にとられ、二重政府が憲法からあたかも導かれると誤解させ、かえって荒木貞夫をはじめ昭和の軍人によって平時においても統帥権をもち、軍隊が政府さえも導くことができると主張するのに益したとされている。 吉野自身は、朝鮮独立運動家や中国の民族主義者に対して共感する部分が多く、朝鮮独立運動家の呂運亨について、道徳的に評価できると弁護したり、孫文の起こした辛亥革命に対しての共感を覚えている。また、関東大震災朝鮮人虐殺事件について批判論文を発表するなどした。 日本は「君主君本(清国や李氏朝鮮)」でも「民主民本(共和政治)」でもなく、「君主民本」である。天皇が民衆を慈父のように憐れんできたことは史書や御製にも見えると話す佐々木安五郎との対論において、吉野作造は次の様に述べた。
日本が「君主民本」であるという認識に異論はない。「君主制はく國が纏まると云ふことは東洋に於てはもとより、西洋の學者も明白に認めて居る。萬世一系の皇室を戴いて居る國は良いが、その真似をして、袁世凱を君主にしてもやれるものではない。此點に於て日本のやうな国家を諸外国は作ることが出来ない。この萬世一系の皇室を戴いて居ると云ふ點が、日本の萬國に冠絶する國體を有する所以である。其事は、屡々私が講堂に於て、學生諸君に説いて居る點であります。唯、佐々木安五郎君が常に憂慮せられました如く、最近に於て國民の思想が動揺して居ると云ふことは、私も亦之を認めるところであります。而して其動揺を防衛すると云ふ點に於ては、私も佐々木君と同様、憂ひを共にする。ただ、「デモクラシー」なる言葉は「民主民本」と同義ではなく、フランス流もあるが、米国のウィルソンのそれらとは意味が違う。「誤りたる民主主義の流入」もあるが、西洋の「民本主義」も正当な類型が入るならば日本の民本主義を助けることになるだろう。分り易く言えば「民主主義」が対抗するべきものは「君主主義」ではなく「官僚主義」なのである。 — 板垣退助

人物

    安部磯雄、島田三郎らとともに東京専門学校の科外講師としてしばしば招かれていた。

    明治大学、日本大学、法政大学でも講師を務めた。

    同志社大学でも嘱託講師を務め、昭和3年(1928年)、海老名弾正総長辞任時には後継候補として学生たちの間で名前が挙がったこともあった。

    色白で身体の弱い少年だった。

    関東大震災時、大杉栄らとともに吉野作造も陸軍による暗殺対象であった。

    『古い政治の新しい観方』

    『現代政治講話』

    『日本無産政党論』

    『現代憲政の運用』各・みすず書房、リプリント版1988年、オンデマンド版2005年

    『吉野作造選集』(全16巻、岩波書店、1995-96年)、オンデマンド版2016年

    『吉野作造政治史講義 矢内原忠雄・赤松克麿・岡義武ノート』(講義録研究会編、岩波書店、2016年)

    ※以下は主な新版著作
      『中国・朝鮮論』(平凡社東洋文庫、松尾尊兊編)、ワイド版2006年

      『吉野作造評論集』(岩波文庫、岡義武編)、復刊2016年ほか

      『吉野作造 閑談の閑談(抄)』(日本図書センター「人間の記録」、1998年)

      『憲政の本義 吉野作造デモクラシー論集』(中公文庫、2016年)、解説苅部直

      『憲政の本義、その有終の美』(山田博雄現代語訳・解説、光文社古典新訳文庫、2019年)

      生誕地の宮城県大崎市古川(旧・古川市)に「吉野作造記念館」(市立)があり、地元NPO法人古川学人が運営を行っている。北緯38度34分54秒 東経140度58分22秒 / 北緯38.581614度 東経140.972750度 / 38.581614; 140.972750

      長女 土浦信子 - 建築家。土浦亀城の妻。

      二女 赤松明子 - 社会運動家。赤松克麿の妻。

      三女 小松光子 - 小松清の妻。

      ^ 堀勇良『日本近代建築人名総覧』中央公論新社、2021年、869頁。

      ^ 『官報』第1448号、大正6年5月31日、p.705

      ^ 田澤晴子 2006年 1-3ページ

      ^ 田澤晴子 2006年 10-12ページ

      ^ 田澤晴子 2006年 17ページ

      ^ 『仙台一高六十年史』宮城県立仙台第一高等学校編、宮城縣立仙台第一高等学校同窓会、昭和31年(1956年)、43頁

      ^ 田澤晴子 2006年 20ページ

      ^ 田澤晴子 2006年 21ページ

      ^ 吉野作蔵作・和歌4首(所収『如蘭會雜誌』明治28年(1895年)、14頁)

      ^ 受浸は、数日間学業を犠牲にして考えた末の行動であった。年来の「自分の意志の弱き」性格を克服し、信仰によって強い意志を持ち人生に処する指針を得ることを目的としていた。田澤晴子 2006年 33-34ページ

      ^ 田澤晴子 2006年 33-34ページ

      ^ 田澤晴子 2006年 47ページ

      ^ 吉野作造記念館デジタルギャラリー、A-1-020

      ^ 吉野作造「清国に於ける日本人教師の現在及び将来」『新人』10巻3号

      ^ 吉野作造「袁世凱を中心として観たる清国近時の政変」『国家学会雑誌』23巻3号、359頁

      ^ 吉野と同じ東北の二高の出身、寄稿はもとより先輩としてご交際を願いたいと挨拶した。瀧田は総合雑誌の時代を飾る『中央公論』の黄金時代を築き上げた人物である。(田澤晴子 2006年 105ページ)

      ^ 留学の帰途アメリカで千葉豊治から寄贈された「排日問題梗概」を元にしている

      ^ 田澤晴子 2006年 106ページ

      ^ 田澤晴子 2006年 107ページ

      ^ 『寶祚萬歳』吉野作蔵(所収『中央公論』大正4年(1915年)、巻頭)

      ^ 故郷古川の中学生たちを集めて講演した時の内容に基づく

      ^ 『官報』第949号、大正4年9月30日、p.587.

      ^ 3月号に上杉慎吉が「我が憲政の根本義」を発表、4月号に吉野が「予の憲政論の批評を読む」を発表し誌上で論争になった。

      ^ 『婦人公論』大正8年(1919年)1月、13頁。

      ^ 田澤晴子 2006年 191ページ

      ^ 『帝国陸軍の栄光と転落』(別宮暖朗、文春新書、2010年4月20日) P162 ~ P168、P176

      ^ シンポジウム「宮崎滔天と中国人留学生」たち~戦前期早稲田大学に学んだ中国人留学生(紀旭峰 早稲田大学主任研究員)

      ^ 『吉野作造-人世に逆境はない』 284-287頁

      ^ 同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年、130-131頁

      ^ 堅田剛「吉野作造と明治文化研究会 : 「ヘーゲルの法律哲学」から「嘆きの天使」まで」『獨協法学』第72号、獨協大学法学会 紀要、8頁、2007年7月。https://dokkyo.repo.nii.ac.jp/records/725。 

      ^ 吉野作造記念館条例|大崎市

      ^ 『ビッグ・リトル・ノブ』23頁。

      小川信子・田中厚子『ビッグ・リトル・ノブ : ライトの弟子・女性建築家土浦信子』ドメス出版、2001年。※長女の伝記。

      田澤晴子 『吉野作造-人世に逆境はない』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2006年 ISBN 4-623-04676-1

      田澤晴子『吉野作造と柳田国男-大正デモクラシーが生んだ「在野の精神」』ミネルヴァ書房〈人と文化の探究〉、2018年

      井上ひさし『兄おとうと』 新潮社、2003年 - 作造・信次兄弟の評伝劇

      太田哲男『吉野作造 人と思想』清水書院、2018年

      今野元『吉野作造と上杉愼吉 日独戦争から大正デモクラシーへ』名古屋大学出版会、2018年

      松本三之介『吉野作造 近代日本の思想家11』東京大学出版会、2008年

      三谷太一郎『大正デモクラシー論 吉野作造の時代』東京大学出版会、第三版2013年

      吉野作造賞

      民本主義

      森本厚吉

      森戸辰男

      大内兵衛

      美濃部達吉

      石橋湛山

      海老名弾正

      吉野 作造:作家別作品リスト - 青空文庫

      吉野作造記念館公式

      吉野作造 | 近代日本人の肖像

      吉野作造 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

      D・C・グリーン(1869年) · O・H・ギューリック(1871年) · J.D.デイヴィス(1871年) · M・L・ゴードン · (1872年)J・L・アッキンソン(1873年) · E・タルカット(1873年) · 新島襄(1874年) · J・H・デフォレスト(1874年) · J・T・ギューリック(1875年) · J・ダッドレー(1875年) · D・W・ラーネッド(1876年) · O・ケーリ(1878年) · G・M・ローランド(1880年) · E・L・コー · S・L・ギューリック(1887年) · C・ジャドソン(1887) · M・F・デントン(1888年)

      沢山保羅 · 宮川経輝 · 海老名弾正 · 小崎弘道 · 横井時雄 · 金森通倫 · 不破唯次郎 · 原田助 · 牧野虎次 · 長田時行 · 堀貞一 · 渡瀬常吉 · 柏木義円 · 綱島佳吉 · 二宮邦次郎 · 成瀬仁蔵

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      2024/11/21 20:51更新

yoshino sakuzou


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西脇 久夫(にしわき ひさお)
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吉野 紗香(よしの さやか)
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吉野 朔実(よしの さくみ)
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吉野 真治(よしの しんじ)
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吉野 真治(よしの しんじ、1978年7月25日 - )は、テレビ朝日のアナウンサー。 東京都立八王子東高等学校を経て慶應義塾大学商学部を卒業後、2002年4月にテレビ朝日に入社。同期のアナウンサー…

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吉野 美佳(よしの みか)
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吉野 美佳(よしの みか、1971年8月31日 - )は日本の元タレント。神奈川県茅ヶ崎市出身。所属していた事務所はユウ・プランターズ(1998年当時)。夫はMr.Childrenのボーカル・桜井和寿…

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吉野 ももみ(よしの ももみ、1984年10月26日 - )は、日本の元グラビアアイドル、お笑い芸人である。お笑いコンビ「相方不在」の元メンバー。 神奈川県出身。元サンズエンタテインメント所属。一時…

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