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君原健二の情報 (きみはらけんじ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

君原健二の情報(きみはらけんじ) 陸上競技/マラソン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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君原 健二さんについて調べます

■名前・氏名
君原 健二
(読み:きみはら けんじ)
■職業
陸上競技
マラソン
■君原健二の誕生日・生年月日
1941年3月20日 (年齢83歳)
巳年(へび年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和16年)1941年生まれの人の年齢早見表

君原健二と同じ1941年生まれの有名人・芸能人

君原健二と同じ3月20日生まれの有名人・芸能人

君原健二と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


君原健二と関係のある人

宇佐美彰朗: 日本でオリンピックマラソン代表に3大会連続で選ばれて出場したのは、宇佐美彰朗と君原健二だけである(日本が不参加となったモスクワオリンピック代表を含めると宗茂、瀬古利彦も3大会連続)。


寺沢徹: 1964年東京オリンピックには、円谷幸吉(3位)、君原健二(8位)と共に出場したが、最も持ちタイムがよかったものの15位に終った。


寺沢徹: 株式会社RIGHTS.. “愛媛マラソンで東京五輪代表の寺澤徹さんと君原健二の二人がゲストランナー!”. 2018年3月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。


黒木和雄: 1962年に退社してフリーとなり、1964年東京オリンピック前の君原健二を追った『あるマラソンランナーの記録』(1964年)を監督するが、製作の東京シネマ首脳部と対立してPR映画という枠組み自体に限界を感じたため、以降は当初からの望みであった劇映画の世界を目指す。


円谷幸吉: その一方で、東京オリンピック前の合宿時には読書中の君原健二に「こっちの方が面白いぞ」とヌード写真が掲載された雑誌を見せたり、中央大学の友人からその先輩の書いた「濡れ場も出てくるエッチな」小説を借りて読み、葉書で「面白い小説、大変興味深く拝読いたしました」と記したりする茶目っ気も持っていた。


円谷幸吉: 合宿に参加した君原健二(八幡製鐵)は、円谷の20000mでの走りや生活態度に強い印象を受け、帰国後はライバルとなった。


采谷義秋: 翌1968年2月、指定レース二つ目の第17回別府大分毎日マラソンでは40キロで君原健二を抜き佐々木精一郎に次ぎ2位。びわ湖毎日マラソン終了後、日本陸連のマラソン部会が主体の選考委員会は、もめにもめ、佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。選考会でタイムが采谷より下だった君原健二が代表に選ばれ、君原はオリンピック本番で銀メダルを獲得した。


円谷幸吉: このとき、20000mで優勝した君原健二と控え室で二人きりになった際に円谷は「メキシコオリンピックで日の丸を揚げるのは国民との約束なんだ」と口にし、君原は「戦慄が走りました」と回想している。


辻本祐樹: 未来創造堂 マラソンシューズ(2007年) - 君原健二


廣島庫夫: それに続いて寺沢徹・君原健二・円谷幸吉・重松森雄らが活躍する戦後最初の男子マラソン黄金時代を迎える。


中山竹通: 日本陸連はその後任として、君原健二を育てた高橋進をあてがったが、自身の経験と実戦に立脚する中山は、理論優先の高橋の指導には従わなかった。


アベベ=ビキラ: 1966年のソウル国際マラソンでも優勝したが、日本から参加した君原健二のコーチである高橋進は、レース中にアベベが監督車に乗ったニスカネンから叱責される光景を目にして、遠からずアベベも敗れるだろうという思いを抱いたと記している(君原と高橋の共著『マラソンの青春』からの引用)。


円谷幸吉: その毎日マラソンでは、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となる。


朝隈善郎: 1968年(昭和43年)、メキシコオリンピックのマラソン日本代表選考で、代表3選手と補欠1人を決める際、正選手3人目は君原健二か、采谷義秋かで紛糾したが、この時の強化部会(選考委員会)本部長であった。


円谷幸吉: また君原健二は、ニュージーランド合宿の際に、入浴時に脱いだ服をすべて念入りにしわを取って畳む姿に驚嘆したと述べている。


村下孝蔵: 1日1万2,000メートルを泳ぎ、腹筋、背筋練習の後、君原健二と2キロ走る。


寺沢徹: 君原健二(優勝、2時間17分11秒)、佐々木精一郎(2位、2時間17分24秒)、寺沢(3位、2時間17分46秒)、岡部宏和(4位、2時間18分11秒)。


織田幹雄: 円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二、寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した。


采谷義秋: 代表3選手(今回は補欠は置かれなった)は「切り札・宇佐美彰朗、ここ一番・君原健二、執念・采谷義秋」と評された。


森下広一: 五輪マラソンで日本人男子選手がメダルを獲得したのは、1968年メキシコオリンピックでの君原健二の銀以来24年ぶりのことである。


木村了: 光より前に~夜明けの走者たち~(2018年11月 - 12月、紀伊國屋ホール / ABCホール) - 君原健二


三村仁司: 君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、森下広一、高橋尚子、有森裕子、野口みずき、イチロー、長谷川穂積、尾崎好美、小崎まり、青木宣親、内川聖一、香川真司、木﨑良子などのシューズ製作を担当した。


円谷幸吉: 君原健二は円谷死去を発覚の当日昼頃に知らされ、「悔しい、一体どうしてなんだ」という思いから社宅近くの競技場を約3000m全力疾走したという。


君原健二の情報まとめ

もしもしロボ

君原 健二(きみはら けんじ)さんの誕生日は1941年3月20日です。福岡出身の陸上競技
マラソンのようです。

もしもしロボ

兄弟、卒業、現在、映画、結婚、引退、テレビに関する情報もありますね。君原健二の現在の年齢は83歳のようです。

君原健二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

君原 健二(きみはら けんじ、1941年3月20日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。福岡県北九州市出身。

出生当時、実家は小倉市(現・北九州市小倉北区)で小間物屋を営んでいた。5人兄弟の3番目で、姉、兄、弟2人がいる。中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校(現・福岡県立ひびき高等学校)時代はインターハイでも予選落ちを経験するなどとりわけ目立った選手ではなく、高校を卒業後の就職活動も思わしくない中、八幡製鐵(現在の日本製鉄)より陸上部の長距離を強化する目的でスカウトされ、卒業直前にようやく入社が決まったという。ここでコーチの高橋進から指導を受けて、マラソンランナーとして成長する。

初マラソンは1962年の朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)で、3位に入賞。1963年の東京プレ五輪では競技場に入ってからベルギーのバンデンドリッシュを抜いて2位を記録した。1964年の東京オリンピックの代表に選ばれる。この当時の君原を題材とした記録映画『あるマラソンランナーの記録』が黒木和雄の監督で製作され、1964年に公開された。

東京オリンピックに際しては、日本の男子マラソン代表3人(他に円谷幸吉、寺沢徹)の中でもっともメダルに近いという下馬評だった。円谷は、どちらかといえばトラックと駅伝の選手というイメージが強く、マラソン経験が少ないことから有力候補とは目されていなかった。しかし迎えた東京五輪本番では君原はプレッシャーに押し潰され、実力を出し切れず8位に終わった(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。一方の円谷は銅メダルを獲得する。円谷とは代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、その晩は宿舎で床についた円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。東京五輪終了後福岡に戻ってからの君原は八幡製鐵陸上部の退部届を提出するほどに落ち込んでいたが、コーチの高橋は君原の退部届を保留扱いのままにしていた。

同じ頃に箱根駅伝チーム強化をもくろむ河野洋平の肝煎りで早稲田大学入学の勧誘を受け、いったんは入学を決意。福岡から上京するが、最終的に「自分はすでに大学卒業の年齢を過ぎている」として辞退した。

東京五輪男子マラソンの失敗はしばらく尾を引きなかなか立ち直れなかったが、初めて女性からのファンレターが届いたのをきっかけに相手の女性と交流を深め、高橋コーチは二人の結婚を承諾した。

1966年4月19日、ボストンマラソンに出場。63年、64年大会の優勝者のベルギーのオーレル・バンデンドリッシュは飛行機に乗り遅れたため不参加となった。同大会で君原は優勝。さらに日本選手は1位から4位までを独占した。順位と記録は以下のとおり。君原(優勝、2時間17分11秒)、佐々木精一郎(2位、2時間17分24秒)、寺沢徹(3位、2時間17分46秒)、岡部宏和(4位、2時間18分11秒)。

同年12月のアジア競技大会でも優勝を果たした。それから4年後の1970年バンコクアジア大会でも金メダルを獲得した。

だが、メキシコシティーオリンピックを目指していた1968年1月、故障に苦しんでいた君原の最大のライバルである円谷が突然自殺し、君原も大きな衝撃を受けた。円谷の葬儀の際、君原と高橋コーチは「メキシコ五輪で日の丸を掲げる事を誓う」という弔文を送っていた。

そのメキシコオリンピックの男子マラソン日本代表選考は難航となり、君原よりも選考会のタイムが上回った采谷義秋との比較になったが高橋コーチが君原を強力に推し、君原に決定することになった。

メキシコ五輪男子マラソン本番では、前回の無念を晴らす2位入賞・銀メダルを見事獲得、選考過程での疑問を跳ね返した。レース後半は腹痛に見舞われ、体調を十分に整えられなかった点で「自慢できる内容ではなかった」と後年述べている。それでも競技場へ入った後ゴール直前で後ろを振り向き、3位だったニュージーランドのマイケル・ライアンが迫っていたのに気づいて、わずか14秒の差で逃げ切った。ふだんは「バランスが崩れ、スピードが鈍る」という理由でレース中に後ろを見ることはほとんどなかったが、このときの行動について君原は、「円谷君の『陰の声』が振り返らせたのかもしれない」と思っているという。

また、著書『マラソンの青春』では事前に5回メキシコを訪れる経験に恵まれた点を挙げており、君原も自ら「スポーツにおいての平等の原則からみて、メキシコの高所障害を経験しなかったものに勝っても価値は乏しい」、さらには「二位の表彰台に登ったが感激も喜びも無く、ただ立ち尽くしたまま日の丸を眺めるだけだった」等と記している。

31歳となったミュンヘンオリンピックにも男子マラソン代表として選ばれた。レース序盤から君原は優勝争いには加わらずマイペースを貫くも、後半に入ると徐々に順位を上げていく。惜しくも2大会連続の五輪メダル獲得は成らなかったが、日本人トップの5位入賞を果たした。

なお、戦後の男子マラソン日本代表選手でオリンピックで2大会連続入賞の達成者は君原のほか中山竹通しかいないが、君原の場合今日のルール(8位まで入賞)であれば3大会連続入賞に相当する記録である。

君原は翌1973年、競技の第一線を退いた。引退まで出場した35回のレースすべてに完走。引退後も年に数回はフルマラソンへの出場を続けていた。優勝者が50年後に招待される2016年4月18日のボストンマラソンにも75歳で出場、4時間53分14秒のゴールタイムで無事完走を果たした。生涯通算74度目のフルマラソン出場にして、74度目の完走だった(途中棄権は一度も無い)。レース後に「走ることは続けます。フルマラソンは挑戦したい気持ちになれば。大きな区切りになったことは間違いないです」とコメントした。

コーチの高橋とは指導方法をめぐってしばしば対立した。その内容は著書『マラソンの青春』で知ることができる。同書の中の「2時間19分38秒の意識」は、筆者が加筆した上で、かつて中学校の国語の教科書(「新編 中学国語 3」教育出版 平成2年)に掲載されていた。また、首を傾けて走る独特のフォームでも知られた。これについては「苦しくなったときのあがきの走り」であると述べている。練習やレースの際、苦しいときには「まず次の電柱まで走ろう」と念じながら走ったという。このエピソードは引退後に出演した公共広告機構(現:ACジャパン)のテレビCM(『すててはいけない君の人生』)でも紹介された。レースについてはイーブンペースで走りきることを理想とし、駆け引きは好まなかったという。

引退後、1991年まで新日本製鐵に勤務。翌1992年からは八幡西区にある九州女子短期大学で教鞭をとりながら地域貢献活動をおこなった。九州女子短大を2001年に退職したあとは講演活動や市民マラソンへのゲスト出場をしている。1997年から2009年まで北九州市教育委員、2009年4月より2012年まで、北九州市立大学の特任教授(非常勤)を務めた。日本のマラソン界の将来について君原は「わたしたちの時代は努力でカバーできていた。ケニア選手たちの走りを見ると、努力が及ばない素質の問題になる」と悲観的な見方を示している。

今でも毎年円谷幸吉の墓参は欠かさず、東京オリンピックへのトレーニング中の思い出にまつわるビールを墓石にかけることが習慣となっている。2021年に行われた東京オリンピックの聖火リレーでは、円谷の故郷である須賀川市を走った。

自己最高記録…2時間13分25秒(1969年4月)

上記の他、現役引退後の1970年代後半~2000年代にも数々のマラソンレースに出場している。

『ぼくはなぜ走るのだろう 君原健二のマラソン人生』(講談社、1972)

『マラソンの青春』(高橋進(共著)、時事通信社、1975/1、ISBN 978-4788775091)

『マラソンの青春』(高橋進(共著)、筑摩書房「ちくま少年文庫」、上記のダイジェスト版、1978/3、ISBN 978-4480045133)

『君原健二のマラソン』(ランナーズ、1986/3)

『人生ランナーの条件』(佼成出版社、1992/11、ISBN 978-4333015955)

『人生の走り方 あなたにも自分に合った生き方のストライドがある(Series心の健康)』(勁文社、2001/6、ISBN 978-4766938371)

『君原健二聞書き ゴール無限』(助清文昭によるインタビュー、文芸社、2002/6、ISBN 978-4835541181)

^ 読売新聞 北九州版 2018年5月9日 P.30

^ “君原健二コラム)第8回 地元の陸上名門企業からの誘い”. 朝日新聞. (2014年11月18日). https://www.asahi.com/articles/ASGCK6KKXGCKTIPE053.html 2019年11月28日閲覧。 

^ この映画はNPO法人科学映像館のウェブサイトにて視聴することが可能である[1]。

^ 君原自身は、オーバーワークと故障を繰り返すこの映画での姿を「恥さらし」のように思い、「ほとんど他人に見せたことはありません」と2010年にブログで述べている[2]。

^ 「ボストンマラソン 日本、四位まで独占」 『中日新聞』1966年4月20日付夕刊、D版、1面。

^ 毎日新聞 北九州市市制50周年記念事業サイト » Blog Archive メキシコ五輪 君原選手 耐えて銀(archive)、君原健二 (2015年4月27日). “君原健二コラム)第12回 もめる代表選考、自身も経験”. 朝日新聞 (朝日新聞デジタル). オリジナルの2015年11月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151103125748/http://www.asahi.com/articles/ASH4S4CDXH4STIPE019.html 2015年11月3日閲覧。 君原健二 (2007年4月30日). “【時代の証言者】君原健二(12)走り疲れた...円谷の自殺”. 読売新聞朝刊 、浅尾忠男『ミュンヘンへの道 采谷選手物語』鳩の森書房、1972年、93頁。 

^ “夢と感動と愛を与えた日本陸上界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月17日閲覧。

^ 原田寛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年6月10日付

^ 君原さん、5時間切り完走=優勝50年後の挑戦-ボストンマラソン(時事ドットコムニュース)

^ “75歳・君原さん「私も年を取ったな」 4時間台で完走”. 朝日新聞. (2016年4月19日). http://www.asahi.com/articles/ASJ4M1RZXJ4MUTQP002.html 2016年5月4日閲覧。 

^ “君原健二コラム)第18回 円谷さんに力もらった五輪”. 朝日新聞. (2015年11月27日). http://www.asahi.com/articles/ASHCW6GZ9HCWTIPE02P.html 2016年3月11日閲覧。 

^ “「円谷君ありがとう」君原さん、盟友と聖火つなぐ”. 西日本新聞. (2021年3月28日). https://www.nishinippon.co.jp/item/n/714192/ 2021年9月21日閲覧。 

福岡県出身の人物一覧

君原健二オフィシャルブログ ゴール∞無限

メキシコ五輪銀メダリスト、ボストンマラソン優勝など、マラソン王国ニッポンを牽引してきた功労者 君原健二

ライツネットワークメンバー 君原健二 プロフィール

「疲れ切って走れません」東京五輪後自殺した円谷幸吉の人生(週刊朝日記事)]

君原健二のROAD TO BOSTON - 朝日新聞連載コラム

1951: インドの旗 Chhota Singh

1954: 実施せず

1958: 大韓民国の旗 李昌薰(英語版)

1962: 日本の旗 長田正幸

1966–1970: 君原健二

1974: 実施せず

1978: 日本の旗 阪本峰照

1982: 大韓民国の旗 Kim Yang-kon

1986: 日本の旗 中山竹通

1990: 大韓民国の旗 金元卓(英語版)

1994: 大韓民国の旗 黄永祚

1998–2002 李鳳柱

2006: カタールの旗 ムバラク・ハッサン・シャミ

2010: 大韓民国の旗 池永駿(英語版)

2014: ブルネイの旗 ハサン・マハブーブ

2018: 日本の旗 井上大仁 (JPN)

2022: He Jie (CHN)

13 金栗四三

14 金栗四三

15 金栗四三

16 加藤富之助

17 秋葉祐之

18 秋葉祐之

19 三浦弥平

20 後藤長一

21 下村広次

22 西田長次郎

23 松岡正夫

25 丸三郎

26 山内政夫

27 高橋清二

28 山田兼松

29 楠好蔵

30 高橋清二

31 塩飽玉男

32 権泰夏

33 楠好蔵

34 中田勇

35 孫基禎

36 鈴木勇

37 柳長春

38 樺沢繁一

39 呉東祐

40 竹中正一郎

42 秋葉安太

46 古賀新三

47 古賀新三

48 渡辺俊一

49 橋本博

50 野田義一

51 篠崎清

52 橋本博

53 廣島庫夫

54 高橋芳勝

55 フィンランドの旗ヴェイッコ・カルヴォーネン(英語版)

56 山田敬蔵

57 堀之内澄雄

58 堀之内澄雄

59 越川泰男

60 貞永信義

61 エチオピアの旗アベベ・ビキラ

62 寺沢徹

63 ニュージーランドの旗ジェフリー・ジュリアン(英語版)

64 君原健二

65 廣島日出国

66 御船芳郎

67 オーストラリアの旗デレク・クレイトン

68 宇佐美彰朗

69 カナダの旗ジェロム・ドレイトン(英語版)

70 イギリスの旗ビル・アドコックス(英語版)

71 アメリカ合衆国の旗フランク・ショーター

72 宇佐美彰朗

73 アメリカ合衆国の旗フランク・ショーター

74 宇佐美彰朗

75 カナダの旗ジェロム・ドレイトン(英語版)

76 宇佐美彰朗

77 アメリカ合衆国の旗ウイリアム・ロジャース(英語版)

78 宗猛

80 弓削裕

81 オーストラリアの旗ロバート・ド・キャステラ

82 水久保美千男

83 瀬古利彦

84 岩瀬哲治

85 新宅雅也

86 渋谷俊浩

87 中山竹通

88 瀬古利彦

89 ポルトガルの旗マヌエル・マティアス

90 ベルギーの旗エディ・エルブイク(英語版)

91 森田修一

92 アイルランドの旗マイク・オレイリー

93 メキシコの旗ディオニシオ・セロン(英語版)

94 鈴木賢一

95 大家正喜

96 田幸寛史

97 早田俊幸

98 小島宗幸

99 三木弘

00 藤田敦史(2:06:51)*

01 油谷繁

02 間野敏男

03 国近友昭

04 小島忠幸

05 高岡寿成

06 奥谷亘

07 久保田満

08 藤原新

09 下森直

10 佐藤智之

11 川内優輝

12 堀端宏行

13 藤原正和

14 松村康平

15 佐々木悟

16 北島寿典

17 井上大仁

18 服部勇馬

19 中村匠吾

20 作田直也

21 鈴木健吾

22 其田健也

23 小山直城

*は大会記録

1 古賀新三

2 古賀新三

3 古賀新三

4 山田三郎

5 野田義一

6 浅井正

7 内川義高

8 宇和博

9 濱村秀雄

10 廣島庫夫

11 川島義明

12 廣島庫夫

13 中尾隆行

14 廣島庫夫

15 貞永信義

16 アベベ・ビキラ

17 長田正幸

18 君原健二

19 君原健二

20 アベベ・ビキラ

21 御船芳郎

22 御船芳郎

23 宇佐美彰朗

24 松原一夫

25 ビル・アドコックス

26 采谷義秋

27 宇佐美彰朗

28 フランク・ショーター

29 宇佐美彰朗

30 宇佐美彰朗

31 宇佐美彰朗

32 カーレル・リスモン

33 宗猛

34 宗茂

35 弓削裕

36 松尾正雄

37 水久保美千男

38 川口孝志郎

39 岩瀬哲治

40 阿部文明

41 渋谷俊浩

42 阿部文明

43 瀬古利彦

44 小指徹

45 E・エルブイク

46 シモン・ムラシャニ

47 マイク・オレイリー

48 マイク・オレイリー

49 鈴木賢一

50 中村祐二

51 ヨキアム・ピネイロ

52 マルティン・フィス

53 小島宗幸

54 マルティン・フィス

55 マルティン・フィス

56 アントニオ・ペーニャ

57 武井隆次

58 ジャフェット・コスゲイ

59 ホセ・リオス

60 ジョセフ・リリ

61 ホセ・リオス

62 サムソン・ラマダニ

63 ムバラク・ハッサン・シャミ

64 ポール・テルガト

65 ウィルソン・キプサング

66 ジョセフ・ギタウ

67 サムエル・ドゥング

68 ビンセント・キプルト

69 バス・ウォルク

70 サムエル・ドゥング

71 ルーカス・ロティッチ

72 エゼキエル・キプトー・チェビー

73 マチャリア・ディラング

74 サラエディーン・ブナスル

75 エバンス・チェベト

76 鈴木健吾

福岡

東京

1957 井上治

58 井上治

59 西村良三

60 愛敬實※2月開催

60 清水亘※12月開催

1961 高田喜久

62 君原健二

63 土谷和夫

64 中尾隆行

65 三村清登

1966 佐々木孝徳

67 高橋英雄

68 谷村隼美

69 磯端克明

1970 鎌田俊明

71 高尾信昭

72 西弘美

1973 西弘美

74 森勇治

75 佐藤市雄

76 高尾信昭

77 宗茂

78 松尾正雄

79 佐藤市雄

80 堀幸一

81 酒井勝充

82 井手健二

83 上地修二

84 中村孝生

85 成田道彦

1986 亀鷹律良

1988 中村孝生

1989 井手健二

90 綾部健二

91 米重修一

92 アロイス・ニジガマ

93 佐保希

94 高岡寿成

95 本川一美

96 平塚潤

97 アロイス・ニジガマ

98 奥山光広

1999 大川久之

2000 山口洋司

2001 サイモン・マイナ

02 ジュリアス・ギタヒ

03 サムエル・カビル

04 マーティン・マサシ

05 ダニエル・ムワンギ

06 ダニエル・ムワンギ

07 マーティン・マサシ(34:16)*

08 ギルマ・アセファ・レタ

09 大野龍二

10 木原真佐人

11 大西智也

12 若松儀裕

13 宮脇千博

14 大西智也

15 大迫傑

16 若松儀裕

17 戸田雅稀

18 遠藤日向

19 中村信一郎

20 大隅裕介

21 松枝博輝

22 舟津彰馬

23 村山紘太

24 太田直希

*は現行区間の区間記録

1957 小野憲也

58 桜谷嘉彦

59 相良豊

60 君原健二※2月開催

60 布上正之※12月開催

1961 碓氷哲雄

62 中野興一郎

63 佐藤清

64 南館正行

65 猿渡武嗣

1966 白倉和義

67 稲垣清市

68 稲垣清市

69 小林秀昭

1970 神原惇

71 三浦信由

72 高尾信昭

1973 黒木章

74 中城幸夫

75 北山吉信

76 松元利弘

77 北山吉信

78 北山吉信

79 高橋欽二

80 佐藤市雄

81 宗猛

82 宗茂

83 宗茂

84 佐藤市雄

85 新宅雅也

1986 ダグラス・ワキウリ

1988 宗猛

1989 笠間三四郎

90 亀鷹律良

91 青木潤

92 秋吉慎一

93 渡辺利夫

94 森下広一

95 谷口浩美

96 小島宗幸

97 武井隆次

98 佐保希

99 高尾憲司※全長86.4キロ

2000 三木弘※全長86.4キロ

01 太田崇

02 森政辰巳

03 北田初男

04 サムエル・ムツリ

05 磯松大輔

06 松下朋広

07 秋山羊一郎

08 梅木蔵雄

2009 秋葉啓太

10 佐藤敦之

11 佐藤悠基

12 佐藤悠基

13 今井正人

14 宮脇千博

15 設楽悠太

16 設楽悠太

17 市田孝

2018 設楽悠太

19 井上大仁

20 井上大仁

21 佐藤悠基

22 細谷恭平

23 池田耀平

24 ディエマ・アイザック(20:52)*

*は現行区間の区間記録

Template:1966年アジア競技大会 陸上競技日本代表 Template:1968年メキシコシティーオリンピック 陸上競技日本代表 Template:1970年アジア競技大会 陸上競技日本代表

51 古橋廣之進

52 石井庄八

53 山田敬蔵

54 長沢二郎

55 古川勝

56 笹原正三

57 第24回世界卓球選手権日本代表選手団

58 曾根康治

59 山中毅

60 ローマ五輪日本男子体操チーム

61 大日本紡績貝塚女子バレーボールチーム

62 三宅義信

63 田中聡子

64 遠藤幸雄

65 重松森雄

66 深津尚子

67 鈴木惠一

68 君原健二

69 第6回世界柔道選手権大会日本代表選手団

70 西側よしみ、第17回世界体操競技選手権日本代表チーム

71 中山紀子、湯木博恵

72 田口信教、ミュンヘン五輪体操日本男子選手団

73 第8回世界柔道選手権大会日本代表選手団

74 バレーボール全日本女子チーム

75 エベレスト女子登山隊

76 モントリオール五輪バレーボール日本女子チーム

77 河野満

78 山下泰裕

79 藤猪省三

80 瀬古利彦

81 釜本邦茂

82 室伏重信

83 黒岩彰

84 山下泰裕

85 正木嘉美

86 中山竹通

87 小川直也

88 鈴木大地

89 伊藤みどり

90 橋本聖子

91 谷口浩美

92 岩崎恭子

93 浅利純子

94 リレハンメル五輪日本代表複合チーム

95 田村亮子

96 恵本裕子

97 鈴木博美

98 清水宏保

99 篠原信一

00 高橋尚子

01 田村亮子

02–03 北島康介

04 野村忠宏

05 冨田洋之

06 荒川静香

07 吉田沙保里

08 北島康介

09 内村航平

10 吉田沙保里

11 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表

12 ロンドン五輪レスリング男女日本代表選手団

13 内村航平

14 羽生結弦

15–16 伊調馨

17 桐生祥秀

18 羽生結弦

19 ラグビー日本代表

20–21 大野将平

22 髙木美帆

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