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君原健二の情報 (きみはらけんじ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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君原 健二さんについて調べます

■名前・氏名
君原 健二
(読み:きみはら けんじ)
■職業
陸上競技
マラソン
■君原健二の誕生日・生年月日
1941年3月20日 (年齢83歳)
巳年(へび年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和16年)1941年生まれの人の年齢早見表

君原健二と同じ1941年生まれの有名人・芸能人

君原健二と同じ3月20日生まれの有名人・芸能人

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君原健二と関係のある人

宇佐美彰朗: 日本でオリンピックマラソン代表に3大会連続で選ばれて出場したのは、宇佐美彰朗と君原健二だけである(日本が不参加となったモスクワオリンピック代表を含めると宗茂、瀬古利彦も3大会連続)。


黒木和雄: 1962年に退社してフリーとなり、1964年東京オリンピック前の君原健二を追った『あるマラソンランナーの記録』(1964年)を監督するが、製作の東京シネマ首脳部と対立してPR映画という枠組み自体に限界を感じたため、以降は当初からの望みであった劇映画の世界を目指す。


寺沢徹: 株式会社RIGHTS.. “愛媛マラソンで東京五輪代表の寺澤徹さんと君原健二の二人がゲストランナー!”. 2018年3月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。


円谷幸吉: 君原健二は円谷死去を発覚の当日昼頃に知らされ、「悔しい、一体どうしてなんだ」という思いから社宅近くの競技場を約3000m全力疾走したという。


三村仁司: 君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、森下広一、高橋尚子、有森裕子、野口みずき、イチロー、長谷川穂積、尾崎好美、小崎まり、青木宣親、内川聖一、香川真司、木﨑良子などのシューズ製作を担当した。


中山竹通: 日本陸連はその後任として、君原健二を育てた高橋進をあてがったが、自身の経験と実戦に立脚する中山は、理論優先の高橋の指導には従わなかった。


朝隈善郎: 1968年(昭和43年)、メキシコオリンピックのマラソン日本代表選考で、代表3選手と補欠1人を決める際、正選手3人目は君原健二か、采谷義秋かで紛糾したが、この時の強化部会(選考委員会)本部長であった。


寺沢徹: 1964年東京オリンピックには、円谷幸吉(3位)、君原健二(8位)と共に出場したが、最も持ちタイムがよかったものの15位に終った。


辻本祐樹: 未来創造堂 マラソンシューズ(2007年) - 君原健二


寺沢徹: 君原健二(優勝、2時間17分11秒)、佐々木精一郎(2位、2時間17分24秒)、寺沢(3位、2時間17分46秒)、岡部宏和(4位、2時間18分11秒)。


円谷幸吉: 合宿に参加した君原健二(八幡製鐵)は、円谷の20000mでの走りや生活態度に強い印象を受け、帰国後はライバルとなった。


廣島庫夫: それに続いて寺沢徹・君原健二・円谷幸吉・重松森雄らが活躍する戦後最初の男子マラソン黄金時代を迎える。


円谷幸吉: また君原健二は、ニュージーランド合宿の際に、入浴時に脱いだ服をすべて念入りにしわを取って畳む姿に驚嘆したと述べている。


円谷幸吉: このとき、20000mで優勝した君原健二と控え室で二人きりになった際に円谷は「メキシコオリンピックで日の丸を揚げるのは国民との約束なんだ」と口にし、君原は「戦慄が走りました」と回想している。


森下広一: 五輪マラソンで日本人男子選手がメダルを獲得したのは、1968年メキシコオリンピックでの君原健二の銀以来24年ぶりのことである。


采谷義秋: 代表3選手(今回は補欠は置かれなった)は「切り札・宇佐美彰朗、ここ一番・君原健二、執念・采谷義秋」と評された。


織田幹雄: 円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二、寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した。


采谷義秋: 翌1968年2月、指定レース二つ目の第17回別府大分毎日マラソンでは40キロで君原健二を抜き佐々木精一郎に次ぎ2位。びわ湖毎日マラソン終了後、日本陸連のマラソン部会が主体の選考委員会は、もめにもめ、佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。選考会でタイムが采谷より下だった君原健二が代表に選ばれ、君原はオリンピック本番で銀メダルを獲得した。


木村了: 光より前に~夜明けの走者たち~(2018年11月 - 12月、紀伊國屋ホール / ABCホール) - 君原健二


円谷幸吉: その一方で、東京オリンピック前の合宿時には読書中の君原健二に「こっちの方が面白いぞ」とヌード写真が掲載された雑誌を見せたり、中央大学の友人からその先輩の書いた「濡れ場も出てくるエッチな」小説を借りて読み、葉書で「面白い小説、大変興味深く拝読いたしました」と記したりする茶目っ気も持っていた。


円谷幸吉: その毎日マラソンでは、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となる。


村下孝蔵: 1日1万2,000メートルを泳ぎ、腹筋、背筋練習の後、君原健二と2キロ走る。


アベベ=ビキラ: 1966年のソウル国際マラソンでも優勝したが、日本から参加した君原健二のコーチである高橋進は、レース中にアベベが監督車に乗ったニスカネンから叱責される光景を目にして、遠からずアベベも敗れるだろうという思いを抱いたと記している(君原と高橋の共著『マラソンの青春』からの引用)。


君原健二の情報まとめ

もしもしロボ

君原 健二(きみはら けんじ)さんの誕生日は1941年3月20日です。福岡出身の陸上競技
マラソンのようです。

もしもしロボ

マラソン成績、著書などについてまとめました。兄弟、卒業、現在、映画、結婚、引退、テレビに関する情報もありますね。君原健二の現在の年齢は83歳のようです。

君原健二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

君原 健二(きみはら けんじ、1941年3月20日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。福岡県北九州市出身。

出生当時、実家は小倉市(現・北九州市小倉北区)で小間物屋を営んでいた。5人兄弟の3番目で、姉、兄、弟2人がいる。中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校(現・福岡県立ひびき高等学校)時代はインターハイでも予選落ちを経験するなどとりわけ目立った選手ではなく、高校を卒業後の就職活動も思わしくない中、八幡製鐵(現在の日本製鉄)より陸上部の長距離を強化する目的でスカウトされ、卒業直前にようやく入社が決まったという。ここでコーチの高橋進から指導を受けて、マラソンランナーとして成長する。

初マラソンは1962年の朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)で、3位に入賞。1963年の東京プレ五輪では競技場に入ってからベルギーのバンデンドリッシュを抜いて2位を記録した。1964年の東京オリンピックの代表に選ばれる。この当時の君原を題材とした記録映画『あるマラソンランナーの記録』が黒木和雄の監督で製作され、1964年に公開された。

東京オリンピックに際しては、日本の男子マラソン代表3人(他に円谷幸吉、寺沢徹)の中でもっともメダルに近いという下馬評だった。円谷は、どちらかといえばトラックと駅伝の選手というイメージが強く、マラソン経験が少ないことから有力候補とは目されていなかった。しかし迎えた東京五輪本番では君原はプレッシャーに押し潰され、実力を出し切れず8位に終わった(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。一方の円谷は銅メダルを獲得する。円谷とは代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、その晩は宿舎で床についた円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。東京五輪終了後福岡に戻ってからの君原は八幡製鐵陸上部の退部届を提出するほどに落ち込んでいたが、コーチの高橋は君原の退部届を保留扱いのままにしていた。

同じ頃に箱根駅伝チーム強化をもくろむ河野洋平の肝煎りで早稲田大学入学の勧誘を受け、いったんは入学を決意。福岡から上京するが、最終的に「自分はすでに大学卒業の年齢を過ぎている」として辞退した。

東京五輪男子マラソンの失敗はしばらく尾を引きなかなか立ち直れなかったが、初めて女性からのファンレターが届いたのをきっかけに相手の女性と交流を深め、高橋コーチは二人の結婚を承諾した。

1966年4月19日、ボストンマラソンに出場。63年、64年大会の優勝者のベルギーのオーレル・バンデンドリッシュは飛行機に乗り遅れたため不参加となった。同大会で君原は優勝。さらに日本選手は1位から4位までを独占した。順位と記録は以下のとおり。君原(優勝、2時間17分11秒)、佐々木精一郎(2位、2時間17分24秒)、寺沢徹(3位、2時間17分46秒)、岡部宏和(4位、2時間18分11秒)。

同年12月のアジア競技大会でも優勝を果たした。それから4年後の1970年バンコクアジア大会でも金メダルを獲得した。

だが、メキシコシティーオリンピックを目指していた1968年1月、故障に苦しんでいた君原の最大のライバルである円谷が突然自殺し、君原も大きな衝撃を受けた。円谷の葬儀の際、君原と高橋コーチは「メキシコ五輪で日の丸を掲げる事を誓う」という弔文を送っていた。

そのメキシコオリンピックの男子マラソン日本代表選考は難航となり、君原よりも選考会のタイムが上回った采谷義秋との比較になったが高橋コーチが君原を強力に推し、君原に決定することになった。

メキシコ五輪男子マラソン本番では、前回の無念を晴らす2位入賞・銀メダルを見事獲得、選考過程での疑問を跳ね返した。レース後半は腹痛に見舞われ、体調を十分に整えられなかった点で「自慢できる内容ではなかった」と後年述べている。それでも競技場へ入った後ゴール直前で後ろを振り向き、3位だったニュージーランドのマイケル・ライアンが迫っていたのに気づいて、わずか14秒の差で逃げ切った。ふだんは「バランスが崩れ、スピードが鈍る」という理由でレース中に後ろを見ることはほとんどなかったが、このときの行動について君原は、「円谷君の『陰の声』が振り返らせたのかもしれない」と思っているという。

また、著書『マラソンの青春』では事前に5回メキシコを訪れる経験に恵まれた点を挙げており、君原も自ら「スポーツにおいての平等の原則からみて、メキシコの高所障害を経験しなかったものに勝っても価値は乏しい」、さらには「二位の表彰台に登ったが感激も喜びも無く、ただ立ち尽くしたまま日の丸を眺めるだけだった」等と記している。

31歳となったミュンヘンオリンピックにも男子マラソン代表として選ばれた。レース序盤から君原は優勝争いには加わらずマイペースを貫くも、後半に入ると徐々に順位を上げていく。惜しくも2大会連続の五輪メダル獲得は成らなかったが、日本人トップの5位入賞を果たした。

なお、戦後の男子マラソン日本代表選手でオリンピックで2大会連続入賞の達成者は君原のほか中山竹通しかいないが、君原の場合今日のルール(8位まで入賞)であれば3大会連続入賞に相当する記録である。

君原は翌1973年、競技の第一線を退いた。引退まで出場した35回のレースすべてに完走。引退後も年に数回はフルマラソンへの出場を続けていた。優勝者が50年後に招待される2016年4月18日のボストンマラソンにも75歳で出場、4時間53分14秒のゴールタイムで無事完走を果たした。生涯通算74度目のフルマラソン出場にして、74度目の完走だった(途中棄権は一度も無い)。レース後に「走ることは続けます。フルマラソンは挑戦したい気持ちになれば。大きな区切りになったことは間違いないです」とコメントした。

コーチの高橋とは指導方法をめぐってしばしば対立した。その内容は著書『マラソンの青春』で知ることができる。同書の中の「2時間19分38秒の意識」は、筆者が加筆した上で、かつて中学校の国語の教科書(「新編 中学国語 3」教育出版 平成2年)に掲載されていた。また、首を傾けて走る独特のフォームでも知られた。これについては「苦しくなったときのあがきの走り」であると述べている。練習やレースの際、苦しいときには「まず次の電柱まで走ろう」と念じながら走ったという。このエピソードは引退後に出演した公共広告機構(現:ACジャパン)のテレビCM(『すててはいけない君の人生』)でも紹介された。レースについてはイーブンペースで走りきることを理想とし、駆け引きは好まなかったという。

引退後、1991年まで新日本製鐵に勤務。翌1992年からは八幡西区にある九州女子短期大学で教鞭をとりながら地域貢献活動をおこなった。九州女子短大を2001年に退職したあとは講演活動や市民マラソンへのゲスト出場をしている。1997年から2009年まで北九州市教育委員、2009年4月より2012年まで、北九州市立大学の特任教授(非常勤)を務めた。日本のマラソン界の将来について君原は「わたしたちの時代は努力でカバーできていた。ケニア選手たちの走りを見ると、努力が及ばない素質の問題になる」と悲観的な見方を示している。

今でも毎年円谷幸吉の墓参は欠かさず、東京オリンピックへのトレーニング中の思い出にまつわるビールを墓石にかけることが習慣となっている。2021年に行われた東京オリンピックの聖火リレーでは、円谷の故郷である須賀川市を走った。

マラソン成績

自己最高記録…2時間13分25秒(1969年4月)

上記の他、現役引退後の1970年代後半~2000年代にも数々のマラソンレースに出場している。

著書

『ぼくはなぜ走るのだろう 君原健二のマラソン人生』(講談社、1972)

『マラソンの青春』(高橋進(共著)、時事通信社、1975/1、ISBN 978-4788775091)

『マラソンの青春』(高橋進(共著)、筑摩書房「ちくま少年文庫」、上記のダイジェスト版、1978/3、ISBN 978-4480045133)

『君原健二のマラソン』(ランナーズ、1986/3)

『人生ランナーの条件』(佼成出版社、1992/11、ISBN 978-4333015955)

『人生の走り方 あなたにも自分に合った生き方のストライドがある(Series心の健康)』(勁文社、2001/6、ISBN 978-4766938371)

『君原健二聞書き ゴール無限』(助清文昭によるインタビュー、文芸社、2002/6、ISBN 978-4835541181)

2024/06/16 15:54更新

kimihara kenji


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