城之内邦雄の情報(じょうのうちくにお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
城之内 邦雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
城之内邦雄と関係のある人
山内一弘: 1965年7月4日に対巨人13回戦(後楽園球場)で城之内邦雄投手からシーズン7号本塁打となる先頭打者本塁打を打ち、NPB史上初の通算300本塁打を達成、1967年10月14日の対サンケイスワローズ25回戦(東京スタジアム)では、8回に吉江喜一から通算2000本目の安打を打ち、NPBでは川上哲治に次ぐ史上2人目(昭和生まれでは史上初)の通算2000安打を達成した。 池田英俊: 新人王争いでは24勝12敗の城之内邦雄にタイトルを譲ったが、備前喜夫・鵜狩道夫・河村英文らベテランが出足で躓いた非常事態に、新人とは思われぬピッチングで大車輪の活躍を見せた。 堀込基明: 1966年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦で城之内邦雄から本塁打を放つ。 岡村浩二: 同年の巨人との日本シリーズでは最終第6戦に城之内邦雄から本塁打を放つなど、18打数6安打2打点と活躍。 城之内早苗: 読売ジャイアンツで活躍した城之内邦雄は大叔父(祖父の弟)にあたる。 金田正一: 1967年は復活し、城之内邦雄(17勝)に次ぐ16勝に防御率2.28(リーグ4位)を記録。 藤田元司: 藤田は1961年・1963年の日本一メンバーだが、前者では第3戦・第5戦に先発してどちらも早期に降板、後者は第2戦で城之内邦雄を救援して勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板するなど、エースらしい働きは出来なかった。 新山彰忠: 最有力といわれた巨人は柴田勲・城之内邦雄らの入団決定から新山の心が他球団の方へ傾いたことで脱落し、南海は柴田を巨人に奪われて以来、新山獲得に全力を注いだのが好結果を生み出した。 丸山完二: 規定打席(28位、打率.210)にも達して新人王候補にも挙がったが、城之内邦雄にタイトルを奪われた。 宮田征典: 同期の城之内邦雄が社会人からの入団ということもあって1年目から開幕投手を務め、24勝を挙げる活躍を見せたが、一方の宮田は別所毅彦コーチの下で雌伏の日々が続いた。 和田徹: 6月7日の巨人戦(後楽園)に代打で初出場し、初打席はエース・城之内邦雄の前に三振に倒れ、同13日の国鉄戦(甲子園)で初安打を放った。 落合博満: 落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった。 福嶋久晃: 4月15日のサンケイ戦(神宮)の8回表に松岡功祐の代打で藤原真から二塁打を放って初安打、5月17日の中日戦(中日)では6回表に星野仙一から左翼へ逆転決勝2点適時二塁打を放って初打点、同25日の巨人戦(川崎)の9回裏に大橋勲の代打で城之内邦雄から左越同点2ラン本塁打を放って初本塁打を記録。 高野光: ルーキーの開幕投手は、1962年の巨人・城之内邦雄以来22年ぶりのことでドラフト制導入以後では初めてであった。 長南恒夫: 安房水産高校ではエースとして1957年夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、佐原一高の城之内邦雄に抑えられ敗退。 石毛博史: ドラフト会議前には読売ジャイアンツから打診があったが、結局指名はなく内定していた社会人野球の住友金属鹿島へ進むことを決意するも、城之内邦雄スカウトから接触があり、1988年オフにドラフト外で巨人に入団。 桑田武: 100本塁打:1963年6月28日、対読売ジャイアンツ12回戦(後楽園球場)、7回表に城之内邦雄から左越同点ソロ ※史上30人目 田原誠次: 8月9日にプロ初勝利を挙げると、翌日の登板で巨人の新人では城之内邦雄以来50年ぶりとなる2日連続勝利を手にした。 桑田武: 1000安打:1967年4月25日、対読売ジャイアンツ1回戦(川崎球場)、1回裏に城之内邦雄から中前適時打 ※史上63人目 山下律夫: 5月19日の巨人戦(後楽園)では中塚政幸が城之内邦雄から6号2ラン本塁打を放って援護し、初完封勝利を挙げた。 高橋栄一郎: 1960年の同大会では、同僚の城之内邦雄らとともにチームの準々決勝進出に貢献するが、松下電器の松浦三千男(鐘化カネカロンから補強)に抑えられ惜敗。 地井武男: プロ野球・元読売ジャイアンツ投手の城之内邦雄と親戚関係(地井の姉が城之内の兄の妻)にあり、かつて城之内邦雄邸に居候していたことがある。 森祇晶: 1965年には中村、城之内邦雄、宮田征典の3人が揃って20勝を挙げ、国鉄から移籍してきた金田正一が最優秀防御率を獲得するなど投手陣の目覚ましい活躍により優勝。 内田順三: 初打点:1970年9月6日、対読売ジャイアンツ24回戦(明治神宮野球場)、7回裏に城之内邦雄から投手ゴロの間に記録 川上哲治: この間、城之内邦雄や中村稔、宮田征典、渡辺秀武、黒江透修の台頭や、新人選手で堀内恒夫、土井正三、末次利光、高橋一三、高田繁、関本四十四、倉田誠らの若手が主力選手として支え、加えて、B級10年選手制度で金田正一を獲得したのを始めとして、トレードで関根潤三、田中久寿男、高倉照幸、森永勝也、柳田利夫、広野功、富田勝、高橋善正ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。 福嶋久晃: 初本塁打:1970年5月25日、対読売ジャイアンツ7回戦(川崎球場)、9回裏に大橋勲の代打で出場、城之内邦雄から左越同点2ラン |
城之内邦雄の情報まとめ
城之内 邦雄(じょうのうち くにお)さんの誕生日は1940年2月3日です。千葉出身の野球選手のようです。
卒業、引退、兄弟、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。城之内邦雄の現在の年齢は84歳のようです。
城之内邦雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - )は、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 小学校時代は陸上部に所属し、中学校入学と同時に野球を始めるが、中学時代は控え一塁手で3年春には野球部を退部。進学した佐原一高では入学時にバレーボール部へ入部したが、部員不足の野球部から勧誘を受けて同年6月に移る。入学当初は一塁手であったが、秋から肩の強さを見込まれて投手となる。最初はオーバースローで投げていたが、高校に野球を教えに来ていた明治大学の選手から勧められて2年生の6月頃からサイドスローに転向した。同年秋からエースになると一念発起し、毎朝10キロのランニング、ハンドグリッパーを握り続けながら登校などの努力を続ける。3年次の1957年にはエース、四番打者として夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、成田高に敗れ甲子園出場はならなかった。 1958年に高校を卒業し、佐原一高の先輩である北川芳男の誘いにより、日本麦酒に入社。最初の2年間は北川と高橋栄一郎の影に隠れて出番がなかったが、1960年の産別対抗で16回2/3を投げて19奪三振、自責点0と好投し頭角を現す。 1961年に高橋がプロ入りしたことから城之内はエースとなり、サン大会で38回を投げて防御率0.95、都市対抗でも勝ち星を挙げた。 同年のシーズンが終了すると、社会人№1の速球投手 として巨人と大洋を始め11球団から勧誘を受け、全球団の監督が城之内の実家に押し寄せたともされる。特に1960年から2年越しで日参するなど大洋から最も熱心に勧誘を受け、城之内も恩義を感じていたというが、結局同年11月11日に巨人へ入団。 1962年の春の宮崎キャンプでは投手陣の中で最も球速があり、城之内が投球練習を始めると、藤田元司・堀本律雄・中村稔ら主力投手が投げるのをやめてしまうほどであったという。オープン戦では7試合に登板して4勝0敗、投球回数33回を自責点1点に抑え、新人ながら開幕投手に抜擢される。開幕戦となる4月7日対阪神戦(後楽園)に初登板初先発し好投するも、1-2で惜しくも敗れた。なお、その後も新人の開幕投手は1984年のヤクルト・高野光まで22年間出現しなかった。城之内は春のキャンプから肩の調子が悪く、開幕から3連敗するなど5月下旬まで2勝5敗であったが、5月末から肩が復調すると1ヶ月で5勝を稼ぐなど 前半戦で8勝を重ね、後半戦は16勝と快調に飛ばし、24勝12敗、防御率2.21(リーグ8位)で新人王を獲得する。 1963年は17勝と伊藤芳明(19勝)に次ぐ勝ち星を挙げると、以降18勝、21勝、21勝と入団から5年で101勝を挙げる。入団から5年で100勝に到達した投手は両リーグ分裂後6人目で、城之内以降は現れていない。 1964年から1967年まで4年連続でチームで最多の勝星を稼いで、V9時代の初期におけるエースとして活躍し、エースのジョー(名字の『ジョー』と宍戸錠のニックネームにあやかる)の愛称で呼ばれた。しかしながら、1964年防御率2位、1965年・1966年勝利数2位と、惜しくもタイトルには恵まれなかった。1965年は9月11日の広島戦から同24日の阪神戦まで史上4人目となる4試合連続の完封勝利を達成した(全て9イニング、相手は他にサンケイ・大洋)。これはNPB全体でも現時点で最後の達成となっている。ちなみに4試合目には村山実からソロ本塁打を打っている(通算では3本塁打)。また、1966年の日本シリーズでは3試合に登板して2勝を挙げ最優秀投手賞に選ばれている。 1967年は開幕試合に先発して敗れると、以降1ヶ月の間勝ち星から見放されるが、7月から9月にかけて9勝1敗と好調で9月末には17勝目を完封で飾る。その後腰痛が再発して2試合連続でノックアウトされ、さらに10月8日の阪神戦で遠井吾郎の打球を受けて胸骨にひびが入って閉幕まで欠場し、勝ち星を伸ばすことができなかった。しかし、日本シリーズには間に合って2勝を挙げ、2年連続で最優秀投手賞を獲得した。 1968年も開幕から腰の調子が思わしくなく肩も痛めて球威が落ち、5月末にようやく3勝目をあげるも、6月に入ると早いイニングで打ち崩されるケースが続き、6月下旬に二軍落ちした。7月後半に一軍に復帰すると、8月末から9月末にかけて4試合連続完投勝利を含めて5連勝するが、10月に入ると連敗するなど好不調の波が激しいままシーズンを終える。年間では11勝7敗、防御率3.06と成績を落とすものの、7年連続で2桁勝利を記録した。またこの年の5月16日の大洋戦(後楽園球場)では16-0という大差でノーヒットノーランを達成している。 1969年になると腰痛が悪化して球威が落ちた上に、腰への負担を避けるために投球時に左足をアウトステップするようになって、シュートの曲がりが悪くなり、わずか4勝に終わる。この年の10月10日の中日戦(後楽園)では、先発して3-1とリードした5回にベンチの指示で金田正一にマウンドを譲り降板。金田はそのままリードを守って勝利投手となり通算400勝を達成した。 1970年は腰の状態が回復してシュートの切れが復活し、8月半ばまでに7勝を記録する。しかし、9月20日の対大洋戦で2回5失点と打たれて降板したのち、ベンチに残らず球場の風呂に入ってそのまま帰宅したことを首脳陣に咎められ、以降シーズン終了まで登板の機会が与えられなかった。 ある年には、監督の川上哲治からオールスターゲームに推薦すると打診があったが、当人は目立つことを好まなかったこともあって、オールスターゲームの期間中はいい休養になると考えていたことから理由の説明なしにこれを断ると、途端に川上から冷たい態度を取られ始めたという。トレードによる移籍を球団に申し入れたこともあったが、川上から「よそで投げられて活躍されたら困る」と言われてこれも叶わなかった。 1971年には腰痛が回復し球威も全盛期に近い状態まで戻っていた(本人談)が、春のベロビーチ(英語版)キャンプの参加メンバーから漏れ、シーズンに入ってもチームの若返り方針もあってごくたまの敗戦処理に甘んじる。8月26日の対中日戦では当て馬として六番・右翼手の先発メンバーに名を連ねるなどの屈辱も受けた(本人はこの事について「あの時は本当に頭にきた」と後日話している)。この時、城之内は監督の川上哲治に対して自分の存在価値を問うたが、「君の好きなようにしていいが、今辞めればエースのジョーとして名を残せるんだ」と、引退勧告に近い言葉が返ってきたという。このような中で城之内は「せめて、2,3試合先発させてもらえないか」とヘッドコーチの中尾碩志に直訴もしたが、なかなかチャンスは巡ってこなかった。同年9月23日の対阪神戦で巨人が優勝を決めると、翌日の同カードでの先発を中尾から突然言い渡されるが、城之内はこれを拒否してしまう。結局、シーズン終了後に巨人を戦力外となり、コーチのポストも準備されなかった。東映と西鉄の2球団から誘いを受けたともいうが、巨人の城之内で終わりたいという本人の希望もあり、12月3日に任意引退となった。 引退後は1972年から1973年まで文化放送「ジャイアンツナイター」解説者となる。ロッテの取材で東京スタジアムに行った際に、巨人時代の同僚であった監督の金田と遊び半分でキャッチボールをしたことをきっかけに、1973年12月3日にロッテで現役復帰することが発表される。1974年オープン戦では好投を見せたものの、シーズンに入ると通用せず5試合の登板に終わり、7月3日に現役を引退しコーチに就任することが発表された。金田によると、当時のパ・リーグは不人気であったために城之内の現役復帰はあくまで客寄せパフォーマンスの一環であったという。 二度目の引退後は1975年から1976年までロッテの二軍投手コーチ、1977年から1983年までスカウトを務め落合博満を担当した。1984年から2003年まで古巣の巨人でスカウト(肩書は編成部専任次長)を務め、清水隆行やドラフト外では石毛博史の獲得を進言した。 一旦打者に背を向け横に首を振りながらのサイドスローという豪快な投球フォーム(野茂英雄の「トルネード投法」の先祖ともいうべきスタイル)から投げ込む重い速球と曲がって落ちるシュートを武器とした。打者を見ていないようなフォームから繰り出される荒れ球は、非常に打ちにくかったという。一方で、守備や牽制は苦手としていた。 非常に無口で、あるときヤクルト監督の三原脩と対談したが、会話録に城之内の発言が全くなかった。スカウト時代は口説き文句は一切言わない物静かなスカウトらしくないスカウトで、その寡黙さにある種の信頼感さえあったという。 麻雀が非常に好きで、先発投手を務める日には完投すると宿舎に戻るのが遅くなるため、先にほかのメンバーで麻雀を始められないように、ユニフォームのポケットにセットの中から牌を1枚抜き取って入れた上で、マウンドに上がった。郷里の香取神宮に勝運の神の御利益を願って石灯籠を寄贈しているが、チームメイトからは「野球の神様と麻雀の神様が賽銭を山分けしているんだろう」との評判だった。あるとき、調子を落とした投手陣に対して麻雀禁止令が出たが、野手陣から「ジョーさんだけは外して欲しい。ジョーさんから麻雀を取り上げたら、元気をなくして野球にならない」との声が上がったという。 歌手の城之内早苗の大叔父。また俳優の地井武男は義理の兄弟(城之内の兄と地井の姉が夫婦)。 各年度の太字はリーグ最高 新人王 (1962年) 日本シリーズ最優秀投手賞:2回 (1966年、1967年) ノーヒットノーラン:1回 (1968年5月16日、対大洋ホエールズ戦、後楽園球場) ※史上39人目 オールスターゲーム出場:4回 (1963年、1965年 - 1967年) 15 (1962年 - 1971年) 12 (1974年) 86 (1975年 - 1976年) 土曜ワイド劇場「いのちある限り 燃えろ!熱球」(1977年、テレビ朝日) ^ 『巨人軍に葬られた男たち』94頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』173頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』174-175頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』178頁 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』104頁 ^ 『宇佐美徹也の記録 巨人軍65年』120頁 ^ 『巨人軍に葬られた男たち』99頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』180頁 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』106頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』195頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』188頁 ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1958-69年のプロ野球 [Part.6] 1963年編 巨人ON野球、本格始動! ベースボール・マガジン社.2023年.P103 ^ 『後楽園球場のサムライたち』227頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』228頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』231頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』236頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』567頁 ^ 『後楽園球場のサムライたち』239頁 ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.45 ^ 『後楽園球場のサムライたち』248頁 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』113頁 ^ “プロ野球名選手 心に響くひと言『巨人V9の功労者 城之内邦雄は川上監督に嫌われ“当て馬”に…「おかげで辞める踏ん切りがついた」』”. 日刊ゲンダイ (2023年7月10日). 2023年7月11日閲覧。 ^ 沢村で再び脚光「エースのジョー」巨人退団の真相は? ^ 『巨人軍に葬られた男たち』104頁 ^ 『巨人軍に葬られた男たち』105-106頁 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』250頁 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』251頁 ^ “【3月2日】1974年(昭49) 帰ってきた“エースのジョー”、893日ぶりのマウンド”. スポーツニッポン. オリジナルの2009年6月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090627191808/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_march/KFullNormal20080224227.html 2024年3月2日閲覧。 ^ 金田氏、乱闘はパを盛り上げる演出で「ワシは役者」だった ^ 巨人49年前の“破格の新人”城之内邦雄氏 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』102頁 ^ 『巨人軍の男たち』228頁 ^ 『巨人軍 陰のベストナイン』112頁 ^ 『巨人軍の男たち』231頁 ^ 『プロフェッショナル』302頁 ^ 『巨人軍の男たち』229頁 ^ 「ウチくる!?」2013年3月10日放送 澤宮優『後楽園球場のサムライたち 沢村栄治から城之内邦雄まで』現代書館、2006年 ISBN 978-4768469286 上前淳一郎『巨人軍 陰のベストナイン』角川文庫、1982年 織田淳太郎『巨人軍に葬られた男たち』新潮文庫、2003年 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 和田正樹『房総白球伝 野球王国ちばの100年』崙書房 1992年 落合博満『プロフェッショナル』ベースボール・マガジン社、1999年 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年 宇佐美徹也『宇佐美徹也の記録 巨人軍65年』説話社、2000年 千葉県出身の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 城之内邦雄 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 秋山登 1961 堀本律雄 1962 安藤元博 1963 高橋明 1964 J.スタンカ 1965 宮田征典 1966 城之内邦雄 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 高橋一三 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 村田兆治 1975 山田久志 1976 足立光宏 1977 足立光宏 1978 松岡弘 1979 山根和夫 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 佐藤孝夫 1953 権藤正利 1954 広岡達朗 1955 西村一孔 1956 秋山登 1957 藤田元司 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 城之内邦雄 1964 高橋重行 1966 堀内恒夫 1967 武上四郎 1968 高田繁 1969 田淵幸一 1970 谷沢健一 1971 関本四十四 1972 安田猛 1974 藤波行雄 1976 田尾安志 1977 斉藤明雄 1978 角三男 1979 藤沢公也 1980 岡田彰布 1981 原辰徳 1982 津田恒美 1983 槙原寛己 1984 小早川毅彦 1985 川端順 1986 長冨浩志 1987 荒井幸雄 1988 立浪和義 1989 笘篠賢治 1990 与田剛 1991 森田幸一 1992 久慈照嘉 1993 伊藤智仁 1994 藪恵市 1995 山内泰幸 1996 仁志敏久 1997 澤﨑俊和 1998 川上憲伸 1999 上原浩治 2000 金城龍彦 2001 赤星憲広 2002 石川雅規 2003 木佐貫洋 2004 川島亮 2005 青木宣親 2006 梵英心 2007 上園啓史 2008 山口鉄也 2009 松本哲也 2010 長野久義 2011 澤村拓一 2012 野村祐輔 2013 小川泰弘 2014 大瀬良大地 2015 山﨑康晃 2016 髙山俊 2017 京田陽太 2018 東克樹 2019 村上宗隆 2020 森下暢仁 2021 栗林良吏 2022 大勢 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 藤本英雄 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 大友工 1957 義原武敏 1958 藤田元司 1959 義原武敏 1960 鈴木隆 1961 中村稔 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 村山実 1965 金田正一 1966 城之内邦雄 1967 金田正一 1968 金田正一 1969 堀内恒夫 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 松本幸行 1975 外木場義郎 1976 堀内恒夫 1977 小林繁 1978 安田猛 1979 北別府学 1980 山根和夫 1981 江川卓 1982 小松辰雄 1983 江川卓 1984 山根和夫 1985 池田親興 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 槙原寛己 1991 佐々岡真司 1992 岡林洋一 1993 荒木大輔 1994 桑田真澄 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 石井一久 1998 野村弘樹 1999 野口茂樹 2000 工藤公康 2001 石井一久 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 井川慶 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 上原浩治 2009 D.ゴンザレス 2010 吉見一起 2011 チェン 2012 内海哲也 2013 内海哲也 2014 R.メッセンジャー 2015 石川雅規 2016 K.ジョンソン 2017 井納翔一 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 奥川恭伸 2022 小川泰弘 2023 村上頌樹 2024 A.ジャクソン 表 話 編 歴 1936夏 沢村栄治 1936秋 沢村栄治 1937春 沢村栄治 1937秋 沢村栄治 1938春 V.スタルヒン 1938秋 前川八郎 1939 川上哲治 1940 V.スタルヒン 1941 須田博 1942 広瀬習一 1943 須田博 1944 藤本英雄 1946 近藤貞雄 1947 川崎徳次 1948 川崎徳次 1949 多田文久三 1950 藤本英雄 1951 別所毅彦 1952 藤本英雄 1953 別所毅彦 1954 大友工 1955 別所毅彦 1956 別所毅彦 1957 大友工 1958 藤田元司 1959 伊藤芳明 1960 伊藤芳明 1961 中村稔 1962 城之内邦雄 1963 伊藤芳明 1964 高橋明 1965 金田正一 1966 金田正一 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 金田正一 1970 高橋一三 1971 渡辺秀武 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 高橋一三 1975 堀内恒夫 1976 堀内恒夫 1977 堀内恒夫 1978 堀内恒夫 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 西本聖 1982 江川卓 1983 西本聖 1984 江川卓 1985 西本聖 1986 江川卓 1987 西本聖 1988 桑田真澄 1989 桑田真澄 1990 斎藤雅樹 1991 槙原寛己 1992 槙原寛己 1993 斎藤雅樹 1994 斎藤雅樹 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 斎藤雅樹 1998 桑田真澄 1999 B.ガルベス 2000 上原浩治 2001 上原浩治 2002 上原浩治 2003 上原浩治 2004 上原浩治 2005 上原浩治 2006 上原浩治 2007 内海哲也 2008 高橋尚成 2009 S.グライシンガー 2010 内海哲也 2011 東野峻 2012 内海哲也 2013 宮國椋丞 2014 菅野智之 2015 菅野智之 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 菅野智之 2020 菅野智之 2021 菅野智之 2022 菅野智之 2023 T.ビーディ 2024 戸郷翔征 日本の野球選手 サッポロビール硬式野球部及びその前身チームの選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 野球解説者 落合博満 千葉県立佐原高等学校出身の人物 千葉県出身の人物 1940年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/22 11:10更新
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jounouchi kunio
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