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大林宣彦の情報 (おおばやしのぶひこ)
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【6月20日】今日誕生日の芸能人・有名人

大林宣彦の情報(おおばやしのぶひこ) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大林 宣彦さんについて調べます

■名前・氏名
大林 宣彦
(読み:おおばやし のぶひこ)
■職業
映画監督
■大林宣彦の誕生日・生年月日
1938年1月9日 (年齢82歳没)
寅年(とら年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
広島出身

(昭和13年)1938年生まれの人の年齢早見表

大林宣彦と同じ1938年生まれの有名人・芸能人

大林宣彦と同じ1月9日生まれの有名人・芸能人

大林宣彦と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


大林宣彦と関係のある人

大泉滉: 1984年、大林宣彦監督が日本テレビ『火曜サスペンス劇場』のために円谷プロで撮った『麗猫伝説』はビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』を下敷きにした幻想映画だが、元大監督、現在は隠棲する大女優の執事という、オリジナルではエリッヒ・フォン・シュトロハイムに相当する役を格調高く演じた。


さだやす圭: 『おかしな2人』で1985年度(第9回)講談社漫画賞(一般部門)を受賞し、1988年にさだやす圭と同じ広島出身の大林宣彦監督により『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の題名で実写映画化された。


上坂すみれ: 映画は"キョンシー映画"、大林宣彦監督の『HOUSE』などが好きであり、キョンシーのコスプレもしたことがある。


末光篤: 邦画では大林宣彦監督作品が好きである。


森泉岳土: 大林宣彦『シネマの玉手箱』刊行(ユニコ舎)


細山田隆人: 野のなななのか(2014年5月17日、大林宣彦監督) - 大野の青春時代 役


橋本信一: 審査員は大林宣彦監督や高畑勲監督など。


笹公人: 大林宣彦監督映画のファンで、大学入試に失敗して二浪したときに尾道市に傷心旅行に行った際に、たまたま大林本人と遭遇した。


柴山智加: 『はるか、ノスタルジィ』、『青春デンデケデケデケ』など大林宣彦作品に出演し、大林は「大林映画の象徴的存在」と述べる。


白石加代子: 花筐/HANAGATAMI(2017年、大林宣彦監督) - 山内の母


朱門みず穂: あした(1995年、大林宣彦監督) - 綿貫ルミ役


垂水藤太: 大林宣彦監督作品の美術監督として知られる薩谷和夫が近所に住んでおり親しくなった関係で、高校生の時に薩谷や数人の仲間とともに自主映画を製作。


石川浩司: その個性的なキャラクターで『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』『たけしの誰でもピカソ』などのTV番組出演、また2002年公開の映画『害虫』や2012年公開の大林宣彦監督映画『この空の花 -長岡花火物語』をはじめ、いくつかの映画・舞台に役者として出演した。


三留まゆみ: 『パパのウエスタン』(大林宣彦監督1980年)


玉袋筋太郎: ジャッキー・チェン、マッドマックス、劇場版機動戦士ガンダム、スター・ウォーズ・シリーズ、大林宣彦監督の尾道三部作など、雑食な映画愛を披露。


奈良部匠平: グリース(大林宣彦 演出)


石上三登志: 理由 (2004年、大林宣彦


今関あきよし: 学生時代の1975年頃から自主制作により8ミリ映画の製作を開始し、1979年に三留まゆみ主演の自主映画『ORANGING'79』がオフシアター・フィルムフェスティバル'79(のちのぴあフィルムフェスティバル)で大林宣彦の推薦により入選。


末谷真澄: 「水の旅人 侍KIDS」(1993年・監督:大林宣彦)


宮崎あおい: 映画デビューは大林宣彦監督作品『あの、夏の日 / とんでろ、じいちゃん』(1999年)で、その後、ピチレモンのモデル(ピチモ)として毎月レギュラーで登場して人気を得た。


南田洋子: 萩本欽一、自身の作品に連続起用していた大林宣彦監督、萬田久子が弔辞を読んだ。


石上三登志: 野ゆき山ゆき海べゆき (1986年、大林宣彦)  


片岡鶴太郎: 1988年、映画『異人たちとの夏』の監督・大林宣彦に江戸弁を気に入られ、主人公の父親役に起用されると評判を呼び、多くの映画賞を受賞し、活動の軸足を俳優に移した。


設楽幸嗣: 『彼女が結婚しない理由』 : 監督大林宣彦、製作東北新社・日本テレビ放送網、配給東北新社・ギャラクシーワン、1992年6月13日公開


澤本嘉光: 大林宣彦監督の『時をかける少女』と森田芳光監督の『家族ゲーム』と観て映像の業界に入ろうと思ったという。


岩井俊二: 映画で未来を変えようよ〜大林宣彦から4人の監督へのメッセージ(2020年7月5日放映、NHK BS1、出演)


宮崎尚志: 瞳の中の訪問者(監督:大林宣彦、1977年)音楽


石上三登志: 瞳の中の訪問者(ブラック・ジャック (実写版)) (1977年、大林宣彦) 


糸曽賢志: 2006年に大林宣彦のプロデュースをうけ「セイキロスさんとわたし」で初監督。


厚木拓郎: “厚木拓郎×細山田隆人×細田善彦、大林宣彦監督の遺作で衝撃体験”.


大林宣彦の情報まとめ

もしもしロボ

大林 宣彦(おおばやし のぶひこ)さんの誕生日は1938年1月9日です。広島出身の映画監督のようです。

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来歴、作風などについてまとめました。映画、卒業、結婚、現在、父親、テレビ、ドラマ、母親、趣味、事件、事故に関する情報もありますね。82歳で亡くなられているようです。

大林宣彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年(昭和13年)1月9日 - 2020年(令和2年)4月10日)は、日本の映画監督。従四位、旭日中綬章。倉敷芸術科学大学客員教授、長岡造形大学造形学部客員教授、尚美学園大学名誉教授、文化功労者。

広島県尾道市東土堂町生まれ。尾道市立土堂小学校、尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授。

妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「ハウス」の発案者である他、出演もしている)、その夫は漫画家の森泉岳土。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。

自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師 "。

来歴

生い立ち

父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。父方の祖父は日本で初めて睡眠療法を取り入れようとした人で、大林は子どもの頃、夢遊病を取り入れた心理療法を受けたことがあるという。父方の一族の男子は、歴代"大林〇彦"と、母方の一族の男子の名前は歴代"村上〇祥"と名前を付けられた。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった。

宣彦の生誕時に父は岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ。1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30~40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の従妹とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった。1~2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する山陽本線の蒸気機関車で、それはとてつもない恐怖体験だったという。戦前の尾道には外国船も寄港し、南蛮渡来の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は古今東西のガラクタで溢れていた。2歳でその蔵にあったブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳で35mmフィルムに手描きしてアニメーションを作った。大林は1977年『瞳の中の訪問者』撮影中に樋口尚文のインタビューに答え、影響を受けた監督は誰かの質問に対して「観た映画は全部栄養になっていますから、特に師匠のように尊敬している人は名前が挙がらないのですが、日本で誰か一人と言われたならマキノ雅弘さんになっちゃうでしょうね。もっと言えばエジソンが映画というオモチャを発明して僕の子供部屋に送り込んでくれたということでしょうか」などと述べている。映画監督は、映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった。この祖父をモデルに作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ映画が制作された。自身を投影している主人公の名前「馬場毬男」は、イタリアの撮影監督・マリオ・バーヴァをもじったもので、遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の主人公名でもある。

大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる。戦争で近所の親しかった人たちが次々と亡くなった。「幼少期に感じた死者の気配が映画づくりの原点。私が描くのは虚実のはざま。生きているのか死んでいるのか分からない人が登場する」と語る。敵国だったアメリカの映画が公開再開されるようになったのは戦後のことで、大林は物心つく頃が戦中に当たるため、戦中は大日本帝国の軍部指導によって作られた戦意高揚映画と時代劇しか上映されず、大林もアメリカ映画を観たのは戦後となる。戦後にそれまで上映されなかったアメリカ映画を含む海外の映画が、白黒、カラーも製作年も関係なく、溢れんばかりに日本の劇場で上映された。『HOUSE』をアメリカで紹介した人物の一人であるマーク・ウォルコフは「原子爆弾を食べてゴジラが生まれたみたいに、精しん年齢12歳に満たない子どもに、混ざるようにしていっぺんに大量の映画を与えてしまった占領政策の作品が大林を作っている」と論じた。「精しん年齢12歳」というのは、マッカーサーが日本人を表現した言葉だが、当時8歳だった大林は非常に納得したという。尾道は造船所に連合軍の捕虜がいたため空襲に遭わなかった。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、一週間を月月火水木金土土日日ペースで映画館に通い、当時の映画は二本立て、三本立てで週20-30本ペースで映画を観て、「どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す。当時の映画館はたいてい満席で座って観ることはできず、ほとんど立って観たという。尾道で唯一の洋画館だったセントラル劇場は、女郎屋街を抜けた場所にあり、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』などでも描かれている。終戦後に捕虜を叔父が手当てするため、国民学校に呼び出されたとき、一緒について行き、生まれて初めて白人を見た。『冒険ダン吉』も『のらくろ』の猛犬連隊も日本人は白く描かれ、のらくろがやっつけるしなじやちょうせんじが黄色人種に描かれていたため、それまで日本人だけが白人だと思い込んでいた。野蛮人と思い込んでいた白人の捕虜が、お礼にと貴重な落下傘の布やパイナップルの缶詰、チョコレートやチューインガムをくれた。ガムは噛んでは水で洗い、粗末な甘味料に浸して一年ぐらい噛んだという。アメリカ映画に強い影響を受けたのは、憧れのアメリカの白人がわんさか出てくるから。「僕らの世代こそが完全なGHQの申し子世代」と述べている。角川春樹と親しくなったきっかけは、角川「僕はアラン・ラッドの映画が好きでね」で、大林「おぬし、できるな」という会話から始まっているという。有名な『シェーン』が公開されたとき、大林の感想は「ラッドが何でこんな大作西部劇に出るんだ?」「これでもう西部劇は終わった。こんな埃のしない西部劇ってあるのか、これは東部西部劇だ」だったという。アメリカのティーチインは「あなたの戦争体験は?」から始まるという。実家の持ち家の一つに新藤兼人が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった。15歳のときに小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。

自主映画作家として

医者になることを宿命付けられていたが、真剣に医者を目指す同級生は、地元の広島医科大学か京大、阪大を目指していた。地元で実家の医者を継ぐという選択のリアリティは関西圏までしかなかった。大林は進路に迷いがあり、この時点で医者になることは虚構になり始めていた。1955年、父に与えられた8ミリカメラを手に上京し、慶應義塾大学医学部を受験する。しかし試験の途中で抜け出して映画を見に行き、「医者にはならない、映画の世界に行くんだ」と決意。尾道に戻り、父に「医者にならない、映画を作りたい」と言ったら、何と父はそれを認めてくれた。父親は岡山医科大学を首席に近い成績で卒業して、将来を嘱望された研究者で、戦争で研究者のキャリアを断念し、戦後復員後、妻の実家の病院を継ぎ、地元の医師として一生を終えた人だった。また母親も世が世なら、東京に行って女優か作家になりたいと考えていたモダンな人で、母親も賛成してくれた。1年浪人する間、東京中の名画座で映画を見まくる。「1960年代までは、日本で観ることのできる世界中の映画を全部観ている」と話している。ある日、自転車で雑木林に導かれ、いつのまにかどこかの敷地に侵入し、小高い丘の上に成城大学があり、学園というのが洒落ているなという理由で成城大を受験する。尾道には海と島と山はあっても陸地やそれに連なる雑木林はなく、雑木林なんてヨーロッパ映画でしか見たことはなく、東京は異国のようだったと話している。慶應の医学部を目指していたから成城は遊びで受かるだろうと思い、合格発表は見ていないという。映画作りを仕事にしようと決意し、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学した。映画学科がある大学は珍しかったが、学生が映画を作るわけではなく、理論を教えるだけ。この頃はまだ学生たちが映画を作るという時代ではなく、映研も日本大学しかまだなく、大変特殊な存在だった。当時ボードレールに憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという。大学時代は東宝撮影所の裏にあった早坂文雄の子息が経営するアパート新樹荘に住んだ。大林の隣が東陽一の部屋で、もう一つ隣の部屋に平田オリザの父が住んでいた。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中グランドピアノの前でシャンソンを弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた。その中の一年後輩の女学生がのちの妻で、雑木林で思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言い、そのまま手をつないで講堂を出て大林のアパートに行き、半同棲を始めた。当時はまだ「同棲」という言葉はなく、近所の人は兄妹が一緒に住んでいると思っていたという。両親は大学を卒業したら、東宝や東映に就職するのだろうと考えていたが、当時の大手映画会社は、エリートしか入れない時代で、東大か京大、早稲田ぐらいを卒業してないと入社試験も受からないと大林自身東京に来てから知った。そのため映画会社に就職して映画監督になるという選択はあまり現実的ではなく、ヌーヴェルヴァーグの影響を受け、これからは売れない作家が映画も撮る時代に来るぞ、と考え、8mmで個人映画を作ってアプレゲールになると意気込んだ。この頃、富士フイルムのようなフィルム会社がコンテストを始めたり、ようやく8ミリ関係の雑誌ジャーナリズムも刊行され始めた。16ミリでは松本俊夫や野田真吉ら、既にやっている人がいたため、自由な映画といったら、残るは8ミリしかなかった。在学中から8mmで作品を発表。1957年、文化祭のために福永武彦の詩集の映画化「青春・雲」発表。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」(1958年)のヒロイン役が妻である。当時はまだ自主製作映画という概念はなかったが、その先駆者として、早くから名前を知られた。1960年に大学を中退。中退後に約2年、神保町で雑誌編集の仕事をする。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の3人しか日本にいなかったという。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、高橋徳行同誌編集長は、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3〜5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた。経堂や祖師ヶ谷大蔵の商店街の短編を作ったことがあるという。当時のTVの台頭とコマーシャル(CM)には既に興味があった。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと画廊で映画を掛けたら反響が大きく、その後新宿アートシアター(ATG)や池袋人世坐など、大きな映画館で掛けるようになったため8ミリから16ミリに転換した。1963年に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。

1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、高林陽一、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、草月が海外の実験映画を上映したりした。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本のカルト映画の草分け『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。「今、個人映画は、ハリウッド映画をめざす」と話した。同作はロジェ・ヴァディム監督の1960年『血とバラ』のオマージュで、原題『Et mourir de plaisir』を大林は「死に至る病」と解釈していた。『EMOTION』は当時全国五分の三の大学で上映され、今日でも上映されることがある。本作を観てアングラ演劇から映画の道に移った若者も多かったという。安藤紘平は「僕は『EMOTION』に衝撃を受けて、榎本了壱、萩原朔美と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『ビックリハウス』という雑誌になりました。大林さんはいろんな人の人生をいっぱい変えているんでしょうけど、僕もまさに変えられた一人でした」などと述べている。いつしか個人映画の教祖的存在となる。但し「僕の作ったアンダーグラウンド映画は、少しもアンダーグラウンドではなく、まさに個人映画の『ザッツ・エンターテインメント』みたいなものだった」と述べている。原正孝(原將人)は麻布高校の文化祭で『いつか見たドラキュラ』を知り合いから借りられ、自身の作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』と二本立てで上映し、『いつか見たドラキュラ』を徹底的に研究し、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を大幅に直して、第1回フィルムアートフェスティバル東京に出品してグランプリを取り、監督デビューすることが出来たと話している。また1965年に初めてCMロケでアメリカに渡った際に、ロスとサンフランシスコで「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという。1970年の高林陽一初の35mm監督作品『すばらしい蒸気機関車』の音楽を担当し、公開当時のプレスシートに「音楽は前衛映画作家として著名な大林宣彦氏」と記載がある。

CMディレクターとして

1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「120秒フィルムフェスティバル」を企画。紀伊國屋ホールは8ミリには対応できず、16ミリでしか上映できないため、フィルムの値段が跳ね上がるから2分の16ミリ作品を作った。電通のプロデューサーは、この"2分"という触れこみに惹かれてこのイベントに参加し、ここで上映された2分バージョンの『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』を観て、大林をCMディレクターに誘った。まだ日本に横文字文化のない時代、コマーシャルは"広告"で、当時まだまだ宣伝はチンドン屋、CMは"おトイレタイム"と蔑視されていた時代。アンデパンダンで最初に名刺を差し出した電通の人は「電通という会社でコマーシャルを撮っている者です」と言った途端、さっと1メートルぐらい後ろに下がった。「どうしたんですか?」と聞いたら「先日、映画監督にそう言ったら『俺に物売りをやれというのか』と蹴とばされたんです」と言った。続く言葉は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、広告をやってみませんか」だった。日本はテーマ主義の国で、テーマのないCMのようなものは作家がやるべきじゃないという考えで、CMは恥ずかしい場所だった。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人で、飯村隆彦も薬のCMを1本だけやったが、すぐに撤退し、高林陽一も大林のCMの手伝いを少ししたが、「性に合わない」と結局CMには関わらなかった。当時は、電通のプロデューサーと、傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。当時の電通本社は、東京銀座8丁目土橋の東京高速道路の下にあった木造の貧相な二階建て。初めて遊びに行った日に、味の素の清涼飲料水のキャップを送ると景品が貰えるというCMを撮っていたが、あまりにヘタで「僕が撮ってあげるよ」と代わりに大林が撮ったCMが以降7年間放送された。それで「何でもいいから、遊びに来て下さい」という話になった。電通の小田桐昭プロデューサーの「僕は生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れるジャーナリズムにしてみせようと思っています」という言葉に感銘を受け、本格的にテレビコマーシャルの世界に踏み込む。まだ広告はアートでなかった時代で、クリエイターとは扱われず。電通と大林でスポンサーの所に行くと出入りの写真屋さんの扱い。スポンサーの企業に行っても表玄関からは入れず、裏口から入って「写真屋さん、ご苦労様」と言われ、仕事が終わると鮭の切身定食を御馳走になってまた裏口から帰っていたという。当時はその電通などの広告代理店がTVCMを独占する前夜で、CMディレクターを専門にやろうという人間はまだいなかった。こんな事では未来がないと考えた電通等が「CMに演出家を付けてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える」と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった。CM演出家のパイオニアとしては、杉山登志や松尾真吾らが挙げられるが、彼らがCM制作会社の社員だったことに対して、大林はどこの会社にも所属しないフリーの映像作家だった。1964年、セイコーのテレビコマーシャル(CM)を皮切りに、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる。電通の大林起用の狙いは、高額のギャラを大林に払い、高級外車に乗ってみせるようなスタア演出家を似て任じてもらい、CMディレクターを花形職業にすることで、CM界に優秀な人材を集め、業界全体の活性化を狙ったものだった。小田桐から「できればスポーツカーに乗って、隣のシートに金髪のモデルを乗っけて、『朝日ジャーナル』と『平凡パンチ』を座席に置いて、青山あたりを乗り回して欲しい」と言われた。何の業界でも当時は貧しさが美徳で、腕を買うといってもお金の話はタブー視されていたから、その話を聞いて「面白い業界だな」と感心した。ギャラの基準もまだなく、ギャラは最初の1本が4,000円、2作目が8,000円、3作目で1万5,000円、4作目が4万円と、ギャラは瞬く間に跳ね上がったというが、1965年ぐらいに1本50万円ぐらいになった後は、回りが追いつき以降はほとんど変わらなくなったという。また当時の電通はギャラを貰うために経理に半日並ばないと貰えず、半日並んでギャラを貰うなら、別の撮影をした方がいいと半分はギャラを貰っていないと話している。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりのフォーマットが全然なく、演出は全部任せてもらえた。高度経済成長期の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどん出来、自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサー付きの個人映画、映像実験室とも言え、非常に楽しいものだったという。CMのギャラを資金源に8ミリ作品を製作し続けた。CM業界で助監督を使うシステムを作ったのは大林。当然助監督にギャラは出ないため、大林のギャラで助監督やスタッフを養成した。阪本善尚は大林がCM業界に引っ張り込んだ人である。

高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け、TVCMという分野の礎を築き、「CM界の巨匠」の異名を執った。大林が学生の時には東宝撮影所は連日夜間撮影で空が赤くなっていたというが、60年代半ばからは映画斜陽で東宝撮影所の映画用セットやスタジオは空いていた。大林は毎日のように東宝撮影所でCMを撮ったという。大林の手がけたCMで最も有名なのが、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに丹頂が社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」で、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した。体臭を消すのがそれまでの化粧品の考え方で、特に化粧品の香りはヨーロッパ指向だったため、アメリカの匂いのする男の体臭を売るという画期的なCMでもあった。ブロンソンのキャスティングは大林である。当時の西村彦次丹頂社長にブロンソンの写真を見せたら「何だ、こりゃ」と言われた。ブロンソンはまだ映画通しか知らない役者で、西村社長から当然「アラン・ドロンにしてくれ」と言われた。「こういう男の顔が、男の体臭に似合うんだ」と説得しても「分かった。だけどもう少し美男子じゃダメか」となかなかOKが取れず、しつこく説得を繰り返し、西村社長が、若き大林に仕事を任せるに当たり、大林夫婦を食事に招待した折り、極自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物なら、我が社の広告を任せていい」とようやく決心したと言われ、西村から後で「自分もオヤジから引き継いだ会社で、会社は潰してもいいから、最後に一つだけ世間に良い仕事を残して潰れるならそれでいい。この作品は賭けですが、良い仕事をして下さい」と伝えられた。トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうしてインディアン役者の売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させた。ギャラは信じられないほど安かった。一世を風靡した「う~ん、マンダム」とつぶやく名ゼリフは大林の発案だという。このCMはホリプロと制作することになり、堀威夫とアメリカに行った。ホリプロとのCM制作のプロデューサーが笹井英男で、ホリプロとの付き合いはここから始まる。

大林恭子は「大林の手がけたCMは、セイコージュエル・ホワイトが最初。トヨタ自動車のコロナはロサンゼルスとオーストラリアで撮影した海外ロケCM第一号」などと述べている。他に、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「フォンテーヌ」のCMソングにはフランシス・レイを起用した。「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スター、「AGF・マキシムコーヒー」のカーク・ダグラスでは、ダグラスをセッシュ/アラン・ラッド(リンゴ箱)に乗せた。マンダム・フーズフーのデヴィッド・ニーヴン、キャサリン・ヘプバーン、アイススケートのジャネット・リン(カルピス)等の起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった。海外スターの起用、海外ロケ、映画のような特撮の導入等は、それまでの日本のCMにない画期的なものであった。当時はまだCMをアメリカで撮影するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という"アメリカ映画ごっこ"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという。ブロンソンの「マンダム」の前に1本だけ、有名ではない外国人俳優を使ったCMがあったが、外タレCMブームはブロンソンの「マンダム」からである。CM撮影での初の渡米は1966年、電通社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという。オイルショック前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年の内、10か月以上海外生活であった。あまりにも家にいないため、恭子夫人は近所の人たちから未亡人と思われていたという。

日本のCMでは、東陶機器(TOTO)のホーローバスのCMで高沢順子に言わせて流行語になった「お魚になったワ・タ・シ」は、コピーライターという職業が無い時代に大林が考えたコピーである。『さびしんぼう』を気に入られた黒澤明から、1989年CM演出を指名され、NEC「オフィスプロセッサ」「夢にわがままです」を手掛け、CM出演した黒澤に初めてサングラスを外させた。このCMの企画は中学3年のとき、大林の撮影現場を訪ねて来た際に電通入社を勧めた樋口尚文。これが縁で1990年、黒澤監督の『夢』のメイキングビデオ(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』)を大林が撮った。クライテリオンから発売されている。この他、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、勝新太郎の「大塚製薬ウメビタ内服液」、遠藤周作の「日立ヘアカーラ」、山村聰の「トヨタ・クラウン」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・「ピッコロ」、ワンサカ娘」、泉アキの「キリンレモン」、花王石鹸「ハイター」、長門裕之・南田洋子の「カルピス」、真野響子の「味の素ハイ・ミー」、「マックスファクターキャメイ石鹸」、10年間で製作したテレビCMは3000本を越え、国際CM賞も受賞。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた。さまざまの映像的実験を試み、東洋現像所(IMAGICA Lab.)は「また大林さんのCMで難しい注文が入ってきた!」と度々言っていたという。当時は勿論、大林は一般レベルでは全くの無名だったが、大林の作ったフィルムは、日本で一番多くの人に見られていたのである。アメリカでのCM撮影の際に、アンダーグラウンド映画のスタッフと親しくなり、『イージー・ライダー』の編集にも大林は関わっているという。2013年、小林亜星等と共に全日本シーエム放送連盟(ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り。

当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMを製作するに当たり、その商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている。また、自身も九州電力のCMに出演した事がある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。

手塚治虫は「幸運にも大林監督のディズニーランドのPR映画に出演させて貰い、真夜中から明け方にかけて、静まりかえったディズニーランドの中で人形の撮影をした。外来者禁制のディズニーランドの裏の様子を見ることができた。思いもかけず手品のタネを見れた」と話している。

大林が全国劇場公開されるような映画に関わったのは、盟友・高林陽一の『すばらしい蒸気機関車』(1970年)の音楽を担当したのが最初だが、閉鎖間際の大映京都撮影所に行ったら、スタジオに古いテープレコーダーとマイクが一本づつしかなくびっくり。高林が奮発して京都市交響楽団を70人雇って連れて来てくれたが、録音の人に「どうやって録るんですか?」と聞いたら「それぞれその都度マイクのところへ来てやって下さい」と言われた。真冬の2月なのに暖房はなく、火鉢があり、火箸を持っていた人がかつて溝口健二の録音を全部やっていたという。録音方法は映画の進行に合わせオーケストラが演奏する、昔の無声映画の劇伴のようなやり方で貴重な体験になったという。高林がその後1975年にATGの1,000万映画として、劇場用の35ミリで『本陣殺人事件』(大林は音楽として参加)を撮ったことは大きな刺激になった。まもなく東宝から「『ジョーズ』のような映画は撮れませんか?」と言われたのが『HOUSE』の制作スタートとなる。

商業映画に進出

1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。個人映画からCMを経て、劇場用映画に越境する。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、その"祖"と評価もされる。1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことを始めた。オーディションで選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて大磯ロングビーチでキャンペーンをやるなど、プロモーションに2年を要して、様々なイベントを仕掛け、その後の"アイドル映画"の方向性を作った。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。更にラジオドラマに続き、コミック化、ノベライズなど、大林が主導して「メディアミックス」を仕掛けていき、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって、ようやく本体の映画化が決まった。大林は『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡していたが、角川春樹もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される。

大林が商業映画に進出すると報じられたとき、多くのジャーナリズムも大林が本来、映画を志向していることを知らなかった。『宝島』1977年5月号には「個人映画とCMという、いわば映画の本流(というものがあるとしての話だが)からずいぶん外れたところで数多くの仕事をしてきた人が、いったい映画のことをどんな風に考えているのか興味を持って、東宝・砧撮影所へインタビューへ出かけた」と書かれている。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューという事例は画期的であった。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが、撮影所の助監督経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、塩漬けにされた。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林一人だった。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり、この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た。大森は「大林宣彦の名はパイオニアだった。それに続くように翌年、ただの大学生だった私もまた松竹で『オレンジロード急行』を撮る幸運を得た」と話している。市川は「芸大を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている。西河克己は「企業外から出たハシリは大林君ですね。森田芳光が二番手ですね。成功例ということであればですけど」と述べている。『HOUSE』という個人映画が賑々しく痛快に侵犯したことが、多くの自主映画作家を鼓舞し、次代のすぐれた映画作家を輩出させた。『HOUSE』はその震源地であった。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長(のち社長、会長)だった松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く、映画マニアからは酷く叩かれもした。『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている。

ぴあは1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、バスター・キートンや、ルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴ、ケン・ラッセル、ロマン・ポランスキー、小津安二郎、稲垣浩、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した。『ぴあ1977年11月号臨時増刊号』では、その46人の映画作家を紹介しているが、五十音順でもないのに冒頭に商業映画デビューしたばかりの大林を取り上げている。この「20代で出発った作家達」という企画が「ぴあフィルムフェスティバル」に発展するが、ぴあとしても大林のような映像作家がこのイベントから出て来て欲しいと願っていたものと考えられる。1979年には、同フェスティバルの前身「OFF THEATER FILM FESTIVAL '79」のプロデューサーを松田政男、寺山修司とともに務めた。

大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画テレビから生まれた才能の輩出によって支えられている。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる。大林は後続の映画制作志望者たちをエンパワーしつつ、1970年代後半からは角川映画と共鳴することで日本映画の形態を転換したシネアストと評価される。さらに1992年の『転校生』に始まる尾道三部作はさらなる転機をもたらし、以後の錚々たるフィルモグラフィーを重ねることになる。『HOUSE』で同年、ブルーリボン賞新人賞を受賞。『HOUSE』が一定の成功を収めたことから、大林のもとには、アイドルを使った映画製作の依頼が来るようになった。

『HOUSE』は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。

尾道三部作

1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集めた。1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れたといわれる。"尾道三部作"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である(さびしんぼう (映画)#エピソード)。

これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆け、また2022年今日のアニメ作品の聖地巡礼(アニメツーリズム)の先駆けとなったと評価されている。「映画のまち・尾道」を確立したのも大林だった。『転校生』の試写を見た尾道の関係者が「あんなに協力したのに、いい所を撮ってない」などと、最初は尾道の人たちの中にも「町の汚いところばかりを映して」とか「これじゃ観光客が来なくなる。上映をやめてくれないか」と言う人もいたが、映画を観て逆に観光客が来るようになった。田舎町の息の詰まった古臭さを呪う人たちの多かった時代に於いて、日本にまだ、こんなきれいな地方都市の佇まいが残っていたか、と映画を通して再認識させたという点での功績も大きい。『転校生』の成功は、大林の名前と尾道の名を映画史に刻んだ。出身地とは謂えども、これ程一人の映画作家が、長年に亘り一つの街に愛情を注ぎ、何本もの作品を世に送り続けている事例は世界でも他に例が無いといわれる。三つの映画を撮った原動力は「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」などと述べている。 『さびしんぼう』公開時のインタビューで「"いつか見た風景"が、テクニック上のテーマ」と、近年のインタビューでは「町の人が汚いと思う、昔ながらの変わらない尾道の風景が、外の人には懐かしく見えたんじゃないでしょうか」と話している。なお、大林作品で尾道ロケを行った作品は、新・尾道三部作とよばれる『ふたり』『あした』『あの、夏の日』など他にも多数存在するが、この三作は、比較的近い時期に製作されていること、剣持亘脚本であること、尾身としのりが主演または準主演であること、中高生を主人公にしたSFファンタジーであることなどの共通項も多く、三部作として語られることが多い。

尾道三部作は地方活性化を旨とした地方発映画の先駆けとされ、地域における映画製作の道筋を開いたと評価された。映画のおかげで田舎町が観光地化するという現象を目の当たりにした平成の大合併を控えた全国の新市町村は、映画を作れば町のPRも出来るし、ロケによって地方経済の活性化も期待でき、住民の帰属意識も高められると考え、以降、地方発の映画が次々作られる切っ掛けになった。本広克行がオール香川ロケした2006年の『UDON』は、「古里に恩返しするために讃岐三部作を撮りなさい」という大林のアドバイスがあったという。

1984年、目黒区駒場に映画館「アゴラ」(現・こまばアゴラ劇場)を建設。

アイドル映画

大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行い、「アイドル映画の第一人者」とも称される。特に1970年代〜1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される。2015年2月に、ももいろクローバーZ主演・本広克行監督の『幕が上がる』と新垣結衣主演・三木孝浩監督の『くちびるに歌を』が公開された際に、「アイドル映画」「アイドル&女優が輝く映画」などと特集が組まれたが、大林はその先駆者として各メディアでフィーチャーされた。本広は『幕が上がる』は「大林さんの映画を真似ているところが多い」と話している。『日経エンタテインメント!』2015年3月号の特集「アイドル&女優が輝く映画」では、その系譜の始まりに1981年の『ねらわれた学園』が据えられた。同作は、大作路線を続けた角川春樹が一転、若者向け「アイドル映画」を手掛けた第1弾で、1979年の『金田一耕助の冒険』で意気投合した角川と大林は「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から薬師丸ひろ子主演で本作を企画した。また角川から大林に「薬師丸ひろ子をアイドルにしてやってくれませんか」との依頼があり、本作で薬師丸はアイドルとしての地位を確立させた。このため『ねらわれた学園』は「アイドル映画」時代の開幕を告げる作品と評される。同作はSFのジャンルに入れられるが、アイドルが恐怖に巻き込まれるスリリングな展開と独特の陰のある映像は、その後の「アイドル・ホラー」に大きな影響を与えたとも評され、その嚆矢ともいわれる。1983年、角川から「尾道で原田知世の映画を撮って下さい」と託された筒井康隆原作のジュブナイル『時をかける少女』では、合成やコマ落としなどの映像テクニックを最大限に駆使して幻想的な作品世界を描出、のちに定着する"映像の魔術師"、"大林ワールド"といった代名詞はここから始まった。この時期に日本テレビ「火曜サスペンス劇場」向けに円谷プロで撮った「麗猫伝説」は、アングラ映画すれすれの映画詩ふうな作品であり、これを常識を破ってテレビ用に製作できたあたりに当時の大林ブランドの強さと絶好調の自信が示されている。1984年、原田知世主演で撮った『天国にいちばん近い島』は映画は酷評されたが、それまであまり知られていなかったニューカレドニアブームを起こした。1980年代の日本映画は、大林宣彦と相米慎二の時代とも評される。アイドルを度々脱がせることから"昭和の脱がせ屋"などと異名をとるが、「着せてないだけ」と答えている。女優を手加減なしに自身の追求する映像を撮ったこれらは「アイドル映画」の皮をかぶった「作家映画」と見る向きもある。2014年に『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』を著した中川右介は「盟友関係にあった角川春樹と大林宣彦の二人が、70年代後半から80年代にかけての日本映画界を牽引していたという図式が明確に把握できた。そこであの本では『角川春樹』を主人公とし、副主人公に『大林宣彦』を置いた」、「あの時代個人名で『〇〇映画』と呼ばれていた監督は『大林映画』だけだったのではないか」と述べている。

長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず作曲や演奏にも及び、監督デビューよりも2年早く高林陽一監督の『本陣殺人事件』で音楽監督をつとめ印象的なメロディを提供している(自作での音楽監督兼任はそれほど多くない)。出演作品はそれほど多くないが、発声のきちんとしたプロ級演技は『俗物図鑑』(内藤誠監督)などで垣間見ることができる。

1980年代 - 1990年代

「同じことは二度としない」と公言している通り、大林のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている。『瞳の中の訪問者』(1977年)は、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』最初の実写化であるが、『HOUSE』以上に趣味性を前面に押し出し、漫画そのものを実写で描こうとして、原作そのままのメイクで宍戸錠を登場させるなどで、「こんな人間がどこにいる!」と手塚を憤慨させたといわれる。「アイドル映画」などを挟みながら、一転して純文学に挑んだ福永武彦原作の『廃市』(1984年)は、大林自身「超ローバジェット映画」と表現している。寓話性を強調するため、台詞を棒読みさせたり、フラットな構図を採用したり、誇張したメーキャップを施したりするなどで、モノクロ版とカラー版の二種類を製作し同時に劇場公開した『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)、1988年の各映画賞を独占した大人のファンタジー『異人たちとの夏』、NHKと組んでNHK初のハイビジョンテレビドラマと劇場用映画を同時に撮影した「尾道新三部作」『ふたり』(1991年)、演出、撮影、録音の大胆な実験を試みた『北京的西瓜』(1989年)。本作は天安門事件の影響で中国ロケが中止になった抗議に意図的に37秒間の空白を挿入した。『北京的西瓜』で試みた実験をさらに推し進め、複数の16mmカメラを手持ちで回し、リハーサル無し、NG無し、メイクも照明も最低限で一気呵成に撮り上げたフィルムを異常なハイテンションで編集した青春映画の傑作『青春デンデケデケデケ』(1992年)、タブー視されていた水との合成にあえて挑み、全編の9割をハイビジョン合成するなど、当時の最先端技術を導入した『水の旅人 -侍KIDS-』(1993年)、吉永小百合に「あなたのシワが撮りたい」と口説いて、吉永がノーメイクに近いナチュラルメイクで挑んだ、型破りの"小百合映画"『女ざかり』(1994年)。本作は1時間56分の本編をスーパー16mmカメラを多用し、1000カットに及ぶ短いカット繋ぎで構成した。宮部みゆきの小説世界を100名以上の俳優全員にノーメークで演じさせ、テレビのワイドショーの手法を使って完璧に映像化した『理由』(2004年) など、映画界に新風を吹き込む野心作を連打した。

1993年に自身が初めて俳優として出演した月9ドラマ「あの日に帰りたい」では、主演の工藤静香と菊池桃子のフィルムの制作も行った。

2000年代以降

2000年代に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり、代わって、大分や長野、新潟、北海道芦別、佐賀県など、その町の伝統や歴史を題材にした映画を製作している。大林はこれを「ふるさと映画」と称しており、地域における映画製作の道筋を拓いたと評価される。

またこの頃から反戦平和を正面から口にするようになった。その要因としては、2003年4月から、成安造形大学と倉敷芸術科学大学の客員教授に就任し、学生たちの前で定期的に話すようになったこと、2000年代以降の安全保障論や改憲論の盛り上がりで黙ってられない状況になったものと見られている。2013年12月27日付の朝日新聞に「特定秘密保護法が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる。2010年代以降の4本は、反戦を明確に打ち出した作品になった。

独特の語り口でトークも上手く、自主映画作家時代からマスメディアにしばしば登場した。生放送では喋り過ぎて放送事故寸前まで時間が押すこともあったという。目黒シネマであった大林の特集上映で、大林が喋りすぎて終電がなくなり、お客が全員帰れなくなったというエピソードもある。各地の講演に招かれることも多く、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった。『幕が上がる』がさぬき映画祭で先行上映が行われた際に、楽屋でももいろクローバーZが大林節に魅了されていくのが横で聞いていた甥・平田オリザは妙におかしく「さすが、アイドル映画というジャンルを自ら切り拓いた人だけのことはあると、我が叔父ながら改めて感心した」と述べている。

2004年(平成16年)春の褒章に於いて紫綬褒章を受章。

2009年(平成21年)秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという。

2013年に手掛けたAKB48の長尺のミュージック・ビデオ「So long !」は物議を醸した。

2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞。

(2017年12月公開の映画『花筐/HANAGATAMI』のクランクインを控えた)2016年8月に肺癌が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。同年8月から10月にかけて佐賀県唐津市で行われた撮影と続く編集作業に並行して抗がん剤治療を継続。

2017年4月のスタッフ向け試写会において病状を公表。抗がん剤治療が奏効したことで病状が改善し、同年5月時点で「余命は未定」となったとしている。

2018年夏に、『あの、夏の日 とんでろ じいちゃん』以来約20年ぶりに尾道市をメインのロケ地として、戦争と広島の原爆をテーマとした映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を撮影、2019年10月28日に開幕する第32回東京国際映画祭「JapanNow部門」で組まれる大林監督特集で初上映された。本作で2018年度毎日芸術賞特別賞を受賞。

2019年3月24日、第33回高崎映画祭の授賞式(会場:高崎市の群馬音楽センター)に出席。監督を務めた『花筐/HANAGATAMI』が特別大賞を受賞し登壇。

2019年春公開を目指し全編熊本ロケでの映画化が決定していた『つばき、時跳び』は、体調不良を理由にクランクイン前の同年7月に辞退。監督補に指名していた熊本市出身の行定勲監督に引き継がれ、2021年に映画化される予定だった。

2019年7月27日、広島県広島市で開催された国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道〜大国の暴走を許さない」(朝日新聞社、広島市、広島平和文化センター主催)に登壇し東ちづると対談した。

2019年9月30日、広島国際映画祭2019「ヒロシマ平和映画賞」に『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が受賞したことが発表された。同年11月24日に同映画祭会場で『海辺の映画館―キネマの玉手箱』上映、大林監督トークショー、および、「ヒロシマ平和映画賞」授賞式が行われた。

2019年10月25日、東京国際映画祭が、永年の国内外を含めた映画界への貢献が目覚ましい方々へ贈る“特別功労賞”を、大林に授与することを発表、同年11月1日に同映画祭会場でワールドプレミア上映された『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の舞台あいさつ、Q&Aセッション、東京国際映画祭特別功労賞の贈呈式が行われた。11月4日の『花筐/HANAGATAMI』上映後の舞台あいさつは体調不良のため欠席。

2019年10月29日、同年度の文化功労者に選ばれ、母校である尾道市立土堂小学校が記念して校舎に垂れ幕と横断幕を掲げた。

2020年4月10日の封切りを予定していた『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、公開延期されることが3月31日に発表された。

4月10日19時23分、肺がんのため、東京都世田谷区の自宅で死去。82歳没。死没日をもって従四位叙位、旭日中綬章追贈。

2021年、第44回日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。第94回キネマ旬報ベスト・テンでは『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を対象として日本映画監督賞が贈られた。

商業映画デビュー以降、大林監督で企画されたが、映画化されなかった作品としては、デビュー作『HOUSE ハウス』がなかなか撮影に入れず、苛々していたとき、東映で千葉真一企画主演のアクション映画を大林に撮ってもらおうという企画が挙がっていた。当時、大林ともCMを作っていた長谷川安弘から東映の宣伝部にいた福永邦昭が大林を紹介され、アメリカ映画のような映像を撮っていた大林なら、千葉が考えるアクション映画が作れるのではないか、と新宿のホテルで、千葉と大林、福永、桂千穂の4人で2日間、千葉の構想を聞き、ホン作りをやったが、スケールが大き過ぎ、空中分解したという。他に1984年に松竹と韓振興行の合作で映画化が企画された『釜山港へ帰れ』や、天正遣欧少年使節の物語『少年きりしたん」などがある。

作風

対俳優

「俳優がプライドを持ってはいけないんです。邪魔なのね。むしろ、監督のよき素材になることにプライドを持ってほしい。これが映画スターということです。映画はかつては監督の個人芸術だった。総合芸術でみんなでやるけれども、監督の持っている個人の芸術として、全てが整うのが映画であって小津安二郎さんや黒澤明さんたちの時代まではそうでした。僕がその世代の最後になると思います。いい悪いは別として、若い監督さんの映画は本当に制度抜きで自由ですね。俳優さんもリアルというのでしょうか」「今の俳優はモデルのようにきれいで、アイドルのようにかわいい人ばかりで、映画の女優ではない」などと述べている。

2024/06/17 21:04更新

oobayashi nobuhiko


大林宣彦と同じ誕生日1月9日生まれ、同じ広島出身の人

柳谷 ユカ(やなぎや ゆか)
1950年1月9日生まれの有名人 広島出身

柳谷 ユカ(やなぎや ゆか、1950年1月9日 - )は、広島県出身の日本の女優。身長166 cm。体重52 kg。血液型はB型。バイ・ザ・ウェイ、エスプレイング所属。 松竹音…

増本 量(ますもと はかる)
1895年1月9日生まれの有名人 広島出身

増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日 - 1987年(昭和62年)8月12日)は、日本の金属物理学者。東北大学名誉教授。日本金属学会会長。広島県安芸郡矢賀村(現:広島市東区矢賀…

松坂 敬太郎(まつさか けいたろう)
1946年1月9日生まれの有名人 広島出身

1月9日生まれwiki情報なし(2024/06/18 22:37時点)

池口 十兵衛(いけぐち じゅうべえ)
1980年1月9日生まれの有名人 広島出身

主な出演作品 千の風になって(2003年) さくらん(2007年) アキレスと亀(2007年) イキガミ(2008年) シャカリキ!(2008年) 旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ(2009年) 余…

結城 治男(ゆうき はるお)
1963年1月9日生まれの有名人 広島出身

結城 治男(ゆうき はるお、1963年1月9日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、及びサッカー指導者。 広島工業高等学校から東京農業大学を経て湘南ベルマーレの前身であるフジタサッカークラブでプ…


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大林宣彦と近い名前の人

大林 素子(おおばやし もとこ)
1967年6月15日生まれの有名人 東京出身

大林 素子(おおばやし もとこ、1967年6月15日 - )は日本の元バレーボール選手、スポーツキャスター・タレント・女優・モデルである。東京都小平市出身。八王子実践高等学校卒業。ホリプロ所属。日本バ…

大林 雅美(おおばやし まさみ)
1947年5月30日生まれの有名人 出身

大林 雅美(おおばやし まさみ、1947年〈昭和22年〉5月30日 - )は、元タレント。本名は大林雅子。俳優上原謙の元後妻。次女の仁美凌は女優。 北海道で網元の三女として出生。家業の破綻により母…

大林 奈津子(おおばやし なつこ)
1975年3月9日生まれの有名人 東京出身

大林 奈津子(おおばやし なつこ、1975年3月9日 - )は、東京都出身のフリーアナウンサー。 成城大学文芸学部英文学科卒、青山学院大学大学院国際政治経済学科国際政治学専攻、修士。元セント・フォー…

大林 佳奈子(おおばやし かなこ)
1973年1月4日生まれの有名人 愛知出身

大林 佳奈子(おおばやし かなこ、1973年1月4日 - )は、日本の女性俳優、声優。愛知県出身。身長164cm。体重 62kg。特技 水泳。近畿大学文芸学部芸術学科演劇芸能専攻卒業。円演劇研究所(1…

大林 隆介(おおばやし りゅうすけ)
1946年3月13日生まれの有名人 福岡出身

大林 隆介(おおばやし りゅうすけ、1946年3月13日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーターである。81プロデュース所属。福岡県出身。本名:大林昌一(おおばやし しょういち)。一時期、大林 直樹(…

大林 洋平(おおばやし ようへい)
1976年7月29日生まれの有名人 東京出身

大林 洋平(おおばやし ようへい、1976年7月29日 - )は、日本の男性俳優、声優。以前は劇団昴、ミディアルタ、アミュレート、ディーカラーに所属していた。 特技はサッカー、革細工。 出演 …

大林 丈史(おおばやし たけし)
1942年1月24日生まれの有名人 岡山出身

大林 丈史(おおばやし たけし、1942年1月24日 - )は、日本の俳優。血液型A型。所属は、コスモプロジェクトから、のちプロダクション・タンク。 岡山県出身。岡山県立岡山朝日高等学校(江田五月…

大場 泰正(おおば やすまさ)
1972年11月7日生まれの有名人 東京出身

大場 泰正(おおば やすまさ、1972年11月7日 - )は、東京都出身の俳優。身長178cm。早稲田大学中退。所属事務所はUAM株式会社。 1993年、文学座研究所に入り、1998年、座員になる…

大林かおる(おおばやし かおる)
1955年10月30日生まれの有名人 京都出身

大林 かおる(おおばやし かおる、1955年10月30日 - )は、日本の漫画家。京都府出身。 1973年、『週刊少年ジャンプ』掲載の「トラがやってくる」でデビュー。1981年、「うわさの刑事ちゃ…

大林 健二(おおばやし けんじ)
1983年4月6日生まれの有名人 大阪出身

モンスターエンジンは、吉本興業に所属する西森洋一と大林健二からなる日本のお笑いコンビ。略称は「モンエン」だが、この略称にメンバーは納得していない。M-1グランプリ2008・2009ファイナリスト、キン…

大林 宏(おおばやし ひろし)
1947年6月17日生まれの有名人 東京出身

6月17日生まれwiki情報なし(2024/06/18 14:01時点)

大林 静子(おおばやし しずこ)
1924年7月24日生まれの有名人 愛媛出身

大林 梅子(おおばやし うめこ、1907年6月24日 - 1995年3月17日)は、日本の女優である。初期芸名は大林 静子(-しずこ)、出生名は大林 志づゑ(-しづえ)、結婚後の本名は鈴木 志づゑ(す…

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