山本文男の情報(やまもとふみお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山本 文男さんについて調べます
■名前・氏名 |
山本文男と関係のある人
井上弘昭: その時の球審が奇しくも元広島の山本文男で、「これを認めたら、自分は審判をやめなければいけない。なお、巨人びいきの審判が多かった中で山本文男は広島びいきの審判としても知られていた。 村上正邦: 組合長の山本文男(のちの添田町長、全国町村会会長)の引きで測量課の職員として、三崎炭鉱の正式社員となる。 小谷正勝: ストライクゾーンの境目を狙った1球で、長嶋はこの球を見送ったものの、球審の山本文男は「ボール」と宣告。 寺本勇: 同僚の岡田豊・斎田忠利・前川芳男・五十嵐洋一・村田康一・藤本典征・牧野伸と共に1970年代から1980年代にかけてのパ・リーグの名物審判として知られている(同時代のセ・リーグの名物審判には谷村友一・岡田功・丸山博・平光清・柏木敏夫・松橋慶季・大里晴信・福井宏・鈴木徹・山本文男・井上忠行・田中俊幸などがいる)。 吉村禎章: 30号目は、10月18日の対広島(後楽園球場)最終戦、4回裏の打席で、カウント2-2の際にスコアボードの表示(2-1)が球審山本文男の手元カウンター(2-2)と異なっていたことから、打者吉村、捕手の達川光男にカウント確認したところ捕手の達川よりスコアボードの表示が正しいとのアピールを受け、カウント2-1として白武佳久が次の球を投じてしまったためカウントが確定、プレーが続行され本来あり得ない「2ストライク4ボール」の状態から打ったものであり、この本塁打は後楽園球場のシーズン公式戦最後の本塁打でもあった。 白武佳久: 原因は、カウント2-2の時にスコアボードに1-2と表示され、球審山本文男が打者吉村、捕手達川光男に一旦確認したところ達川がスコアボード表示を支持、本来のボールカウントから1球少ない状態で再開した為である。 田中俊幸: このとき責任審判だった田中は、場内説明で「スワローズ」と言うべきところを「アトムズ」とアナウンスしてしまい、田中本人のみならず、川島廣守セ・リーグ会長、渋沢セ・リーグ事務局長、山本文男セ・リーグ審判部長にまで制裁金が課された。 |
山本文男の情報まとめ
山本 文男(やまもと ふみお)さんの誕生日は1937年9月20日です。広島出身の野球選手のようです。
引退、卒業、現在に関する情報もありますね。山本文男の現在の年齢は87歳のようです。
山本文男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山本 文男(やまもと ふみお、1937年9月20日 - )は、広島県広島市観音(現西区観音)出身のプロ野球選手、プロ野球審判員で、元セントラル・リーグ審判部長。 審判員袖番号は28(1988年初採用から1996年引退まで、2001年以降は牧田匡平がつけている)。 通称「師匠」「審判師匠」。 太平洋戦争時の疎開のため、広島市立観音中学校を17歳で卒業。広島県立広島商業高等学校へ進学する予定であったが、広島カープの入団テストに合格してプロ入り。中学生プロと話題になった。 1年目の1955年は、打撃投手を務めながら7試合に登板。2勝2敗、防御率2.74の成績を残す。8月7日の対国鉄戦(広島総合球場)では、国鉄の大エースであった金田正一と投げ合い9対8で勝利投手となっている。 その後、肩を痛め3年目に引退。球団職員となった。 1962年、セントラル・リーグ審判部に入局。6年目頃から一軍の球審を務め、以後1970年代から1990年代前半まで看板審判の一人として活躍。1990年にベテラン審判が一斉に引退したのに伴い、副部長の座を経ずして第3代審判部長に就任した。また、1990年からインサイドプロテクターを着用した。 通算試合出場数は3564試合(歴代3位)。このほか日本シリーズ13回(1973年・1975年・1976年・1978年~1980年・1982年・1983年・1985年~1988年・1990年)、オールスター6回(1970年、1971年、1975年、1978年、1982年、1986年。うち1978年、1986年第2戦で球審)の出場歴がある。 日本シリーズでは、1982年・1986年に第1戦、1979年・1983年に第2戦、1987年に第4戦、1976年・1980年に第5戦、1975年・1985年に第6戦、阪急・上田利治監督の執拗な抗議で1時間19分中断した1978年第7戦の球審をそれぞれ担当している。 広島県出身ということもあり、広島主催試合の球審を務めていたイメージが強かった。 引退後は関西所属の審判指導員として後輩の指導にあたった。 現在はマスターズリーグで審判をつとめるほか、少年野球教室の指導などで活動中。 特技はゴルフで、ハンデキャップ0に近い腕前を誇る。 完全試合が達成された試合で、球審を2回務めた。
1994年5月18日の巨人-広島戦(福岡ドーム)で、槙原寛己(巨人)が達成(2塁塁審で出場、球審は鷲谷亘) 1985年4月17日の阪神-巨人戦(阪神甲子園球場)で阪神のランディ・バース・掛布雅之・岡田彰布によるバックスクリーン3連発の際、球審を務めていた。 日本シリーズでは、優勝チームが初の日本一となる試合で球審を2回務めた。
1985年11月2日の第6戦(西武-阪神)(西武ライオンズ球場)、阪神が日本一 1987年10月19日の巨人-広島戦(後楽園球場)で、巨人の吉村禎章が「カウント2ストライク4ボールからホームラン」を記録した際に球審を務めていた。この際ホームランは、スコアボードの表示(2ストライク1ボール)が手元カウンター(2ストライク2ボール)と異なっていたことから、打者の吉村と捕手の達川光男にカウントを確認した。すると、捕手の達川より「スコアボードの表示が正しい」とのアピールを受け、カウント2-1として投手の白武佳久が次の球を投じてしまったためカウントが確定した。すなわち、守備側のアピールによって起こった珍事であった。ただ、この試合はペナントレース最終戦で既に巨人の優勝が決まっており、完全な「消化試合」だったため、マスコミでも大きく取り扱われず、上記の真相についてもあまり報道されなかった。ちなみに、このホームランは後楽園球場での公式戦最後の本塁打であり、吉村にとってもキャリア唯一のシーズン30本塁打達成となった。 1990年4月7日の巨人-ヤクルト戦開幕戦(東京ドーム)で、8回裏に篠塚利夫が内藤尚行から右翼ポール際に放った本塁打がファウルと疑われた(疑惑のホームラン)際、球審を務めていた。 1994年10月8日の中日-巨人戦(ナゴヤ球場)の同率首位決戦(10.8決戦)で、三塁塁審を務めた。 1996年 5月1日の中日-巨人戦(ナゴヤ球場)において、球審を務めた。 44 (1955年) 27 (1956年 - 1957年) ^ 入局から引退まで関西審判部の所属だったため、同所属としては初であり、2022年の時点では唯一の存在。 ^ “高校1年生でカネやんに投げ勝った審判 山本文男の歴史”. tokyo-sports.co.jp=2022-06-12. 2022年11月3日閲覧。 広島東洋カープの選手一覧 広島県出身の人物一覧 プロ野球審判員一覧 表 話 編 歴 1 島秀之助 2 富澤宏哉 3 山本文男 4 田中俊幸 5 小林毅二 6 井野修 VIAF 日本 日本の野球選手 広島県立広島商業高等学校出身の野球選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 日本のプロ野球審判員 広島市出身の人物 1937年生 存命人物 出典皆無な存命人物記事/2020年2月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/21 22:40更新
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