川田芳子の情報(かわだよしこ) 女優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
川田 芳子さんについて調べます
■名前・氏名 |
川田芳子と関係のある人
筑波雪子: 海の王者 監督清水宏、主演野寺正一、川田芳子 ※「お艶」役、サウンド版 筑波雪子: 赤坂心中 監督安田憲邦、主演諸口十九、川田芳子 筑波雪子: 寅吉懺悔 監督安田憲邦、原作伊藤青々園、主演諸口十九、川田芳子 筑波雪子: 蒲田の大幹部女優川田芳子と以前つきあっていたころから城戸に睨まれていた諸口は京都の他社へ加わった。 高尾光子: 『母』 : 監督野村芳亭、脚本石川白鳥、主演川田芳子・諸口十九 ヘンリー小谷: ^ 『かりそめの恋にさえ -女優・川田芳子の生涯』、61-62頁 日高真弓: 川田芳子 栗島すみ子: 岩田とはのちに『船頭小唄』などで共演し、諸口十九・川田芳子のコンビと並ぶ松竹のドル箱コンビとして活躍、人気を得た。 高尾光子: 『若者よ』 : 監督・脚本野村芳亭、原作石川白鳥、主演諸口十九・川田芳子 岩田祐吉: 以来、賀古監督の『酒中日記』、池田義信監督の『暮れ行く旅路』『乳姉妹』などの作品で栗島と共演し、川田芳子・諸口十九と並ぶ松竹蒲田のドル箱コンビとして人気を得た。1929年(昭和4年)1月8日、井上正夫、藤野秀夫、栗島、川田芳子、柳さく子とともに大幹部に昇格した。 ヘンリー小谷: 海のものとも山のものともわからぬ所内を指導、早速、まだステージの無い蒲田撮影所での松竹第1回作品、川田芳子主演の『島の女』を木村錦花と共同演出し、光線の扱いの鮮やかさとアメリカ仕込のカメラワークで新しい時代の扉を開いた。 筑波雪子: 恋愛行進曲 監督野村芳亭、主演川田芳子、岩田祐吉 高峰秀子: その日は、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションの日で、秀子は養父におされてオーディションの列の最後尾に並ばされて飛び入り参加することになったが、野村監督に思いがけなくも選び出され、ヒロインの川田芳子演じる母親の娘役で出演することとなった。 柳さく子: 同年7月の野村監督『女と海賊』では、川田芳子とともに主演の勝見庸太郎の相手役をつとめる。 井上正夫: その後も松竹で数本の映画に出演し、1929年(昭和4年)1月8日には藤野秀夫、岩田祐吉、栗島すみ子、川田芳子、柳さく子らと大幹部に昇格した。 高尾光子: 『月魄』 : 監督賀古残夢、原作菊池幽芳、脚本伊藤大輔、主演武田春郎・川田芳子 高尾光子: 『荊の冠』 : 監督佐々木恒次郎、原作佐藤紅緑、脚本吉田百助、主演岩田祐吉・川田芳子 柳さく子: 同じ1929年、松竹に新しく大幹部制が敷かれると、さく子は井上正夫、岩田祐吉、藤野秀夫、川田芳子、栗島すみ子とともに、大幹部に推された。 柳さく子: 当時栗島・川田芳子・五月信子の3人がトップ女優として君臨し、さく子はこの3人に次ぐ若手女優として、梅村蓉子・英百合子・東栄子とともに期待された。 高尾光子: 『幽芳集 月魄』 : 監督池田義臣、原作菊池幽芳、脚本野村芳亭、主演諸口十九・川田芳子 高尾光子: 『空の彼方へ』 : 監督蔦見丈夫、原作吉屋信子、脚本水島あやめ、主演川田芳子・柳さく子 |
川田芳子の情報まとめ
川田 芳子(かわだ よしこ)さんの誕生日は1895年10月17日です。新潟出身の女優のようです。
映画、退社、母親、引退に関する情報もありますね。1970年に亡くなられているようです。
川田芳子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日)は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。 1895年(明治28年)10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの師匠の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』(帝国劇場)で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。 松竹の新派などを経て、1920年(大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。同年、ヘンリー・小谷監督の『島の女』に主演、スター女優の第1号となった。当時の人気俳優諸口十九とコンビを組み共演作を次々と発表、この二人の人気は、栗島すみ子・岩田祐吉のコンビと並んで松竹蒲田のドル箱コンビだった。 モダンな華々しさが魅力の栗島とは対照的に、純日本的なしとやかさを魅力に、日本的でおとなしいものの芯はしっかりした女性像を演じて、人気を得、栗島、五月信子と並ぶ初期の松竹蒲田の看板女優として活躍した。賀古残夢監督の作品の常連だったが、賀古が松竹を退社した後は野村芳亭監督に重用され、当時のベストセラーの鶴見祐輔の原作を映画化した1929年(昭和4年)の野村監督の『母』では、万人の涙を誘った。また、『清水次郎長』などでは勝見庸太郎と共演。1923年(大正12年)、関東大震災により撮影所が下加茂に移るが、翌年蒲田に戻り、川田もそれに準じた。その後、諸口とのコンビで『赤坂心中』などに主演したほか、主に時代劇で活躍した。1929年には、栗島、岩田祐吉、藤野秀夫らと共に大幹部に昇進した。 1930年(昭和5年)以降は、母親役で活躍したが、1935年(昭和10年)に送別映画『母の愛』を最後に映画界を引退した。引退後は日本舞踊市山流の名取などを務め、新派の舞台に出演したり戦後に一時『鐘の鳴る丘』や『悲恋模様』などの映画に出演したこともあったが、その後は養女と二人でひっそりと暮らしていた。晩年はその養女にも先立たれ、最期は草加市のアパートで一人で迎えた。1970年(昭和45年)3月23日、心臓麻痺により死去。74歳没。遺体は翌日、アパートの大家によって発見された。 島の女(1920年) 断崖(1921年) 生さぬ仲(1921年) 金色夜叉(1922年) 海の極みまで(1922年) 白鳥の死(1922年) 女と海賊(1923年) 寛一と満枝(1923年) 女殺油地獄(1924年) 女難(1925年) 小幡小平次(1925年) 修羅八荒(1926年) 花井お梅(1926年) 魔道(1927年) 不滅の愛(1928年) 多情仏心(1929年) 母(1929年) 母の愛(1935年) 鐘の鳴る丘(1949年) 悲恋模様(1949年) 大竹啓子『七色の虹 - 舞台と映画の四十五年・女優・川田芳子物語』課外教室社、1958年 升本喜年『かりそめの恋にさえ - 女優・川田芳子の生涯』文藝春秋 1985年11月 帝国活動写真 松竹キネマ Yoshiko Kawada - IMDb(英語) 日本映画データベース 川田 芳子 ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ 日本 19世紀日本の女優 20世紀日本の女優 サイレント映画の俳優 戦前の松竹の俳優 藤間流 新潟市出身の人物 1895年生 1970年没 プロジェクト人物伝項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 09:18更新
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kawada yoshiko
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