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張学良の情報 (ちょうがくりょう)
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【6月27日】今日誕生日の芸能人・有名人

張学良の情報(ちょうがくりょう) 軍人、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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張 学良さんについて調べます

■名前・氏名
張 学良
(読み:ちょう がくりょう)
■職業
軍人、政治家
■張学良の誕生日・生年月日
1901年6月3日 (年齢100歳没)
丑年(うし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
不明

張学良と同じ1901年生まれの有名人・芸能人

張学良と同じ6月3日生まれの有名人・芸能人

張学良と同じ出身地の人


張学良と関係のある人

幣原喜重郎: 1931年(昭和6年)夏、広州国民政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。


内田康哉: 当時の満鉄は張学良政権との関係が悪化しており、外交官としての経歴を買われての就任であった。


汪兆銘: そのなかに汪兆銘のすがたもあったが、折しも、この年の5月より蔣介石率いる中央政府軍とのあいだで中原大戦と呼ばれる大規模な内戦が生じ、最終的に張学良の東北軍が中央政府側に立ったこともあって、北平の国民政府は戦局の不利を悟って下野を表明し、政権は瓦解した。


毛沢東: 5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蔣介石と手を結び、第二次国共合作を構築。


岡部平太: 1929年(昭和4年)張学良(張作霖の長男)と協力して日独支対抗陸上競技会を行う。


藤山雷太: 海外交流にも力を注ぎ、張作霖、張学良、蔣介石らとも親睦を深めたという。


愛新覚羅溥儀: その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領したが、張学良は蔣介石率いる国民政府の指示により、まとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。


蒋介石: そして12月には満州軍閥・張学良が蔣介石政府支持を表明(易幟)し、中国の再統一は成った。


石原莞爾: 昭和6年(1931年)満洲事変を起こし 、23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍で満洲を占領した。


愛新覚羅溥儀: しかし、東陵事件における蔣介石や張学良の反応に失望していた上、清朝の復辟を強く望んでいた溥儀は、これらの中華民国の有力者による反対意見を退け、関東軍の提案を受け入れることとなった。


床次竹二郎: 昭和10年(1935年)1月23日の衆議院本会議で、政友会の山口義一が、昭和3年(1928年)に満洲軍閥の張学良が50万元を前奉天領事赤塚正助、政友会代議士鶴岡和文に献金し、この金が床次に渡っていたと追及した。これは、昭和6年(1931年)に関東軍が起こした満洲事変で、関東軍が張作霖(学良の父で関東軍に暗殺された)の旧宅を捜索した際に、張学良の受領証を発見したことで明るみに出た。一方、張によると献金したことは事実で、齊世英(中国語: 齐世英)によると、昭和3年(1928年)6月ごろ、連絡人を担当した小村俊三郎は床次の意をうけ、新党の設立のため中国側の蔣介石、張学良らの資金援助を申し入れた。


汪兆銘: 汪兆銘の考え方は、抵抗の裏付けがあってはじめて交渉も有効にはたらくというものであり、その点から張学良の無抵抗主義に反対し、張が兵を挙げないならば彼への財政的援助も打ち切ると言明した。


愛新覚羅溥儀: 規模にも質にも勝る関東軍は張学良軍を圧倒し、すぐさま奉天や長春、営口などの近隣都市を占領した。


岡部平太: 1931年(昭和6年)満州事変勃発の際、馮庸(ひょうよう:張学良の義兄弟)を逃亡させた疑いで、関東軍に睨まれ逮捕される。


汪兆銘: 12月には、6月の張作霖爆殺事件によって日本への憤懣をつのらせていた満洲の張学良も蔣介石の陣営に加わり、これ以降、中国全体を代表する唯一の中央政府となった。


愛新覚羅溥儀: 満洲に展開する関東軍を含む日本陸軍は、これを「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定した(「柳条湖事件」)。


川島芳子: 1931年9月に関東軍の石原莞爾が日本政府の承認を得ないまま張学良軍を独断で攻撃した満洲事変を引き起こし、11月には清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が、関東軍の要請を受けて天津(溥儀は天津の日本租界に自ら逃げ込んでいた)から満洲へ脱出する。


愛新覚羅溥儀: その後張作霖の息子の張学良は蔣介石に降伏し、両者は相通じて関東軍に対し挑発行動を繰り返すこととなる。


愛新覚羅溥儀: この後、関東軍は爆破事件に対する報復として、本国政府のみならず日本陸軍の意向を無視して、満洲を根城にしていた張学良軍との間の戦い、いわゆる「満洲事変」を開始した。


汪兆銘: 事態の急変のなかで、いち早く犯人に駆け寄って犯人を蹴り倒したのは張学良だった(汪は、これに感謝し、のちに張にステッキを送っている)。


汪兆銘: 汪兆銘は以上のような考えから無抵抗政策を掲げる張学良に圧力をかけ、北平綏靖公署主任を辞めさせたが、このとき蔣介石は張に救いの手を差し伸べている。


蒋介石: 1936年12月、蔣介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月10日、蔣介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蔣介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。


汪兆銘: しかし、西安で張学良に連行されたのちすぐに釈放された蔣介石は、すでに連共抗日路線に鞍替えしていたのであった。


張学良の情報まとめ

もしもしロボ

張 学良(ちょう がくりょう)さんの誕生日は1901年6月3日です。

もしもしロボ

北洋政府、国民政府などについてまとめました。母親、結婚、父親、卒業、事件に関する情報もありますね。100歳で亡くなられているようです。

張学良のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

張 学良(ちょう がくりょう、チャン・シュエリャン、1901年6月3日〈光緒27年4月17日〉 - 2001年10月14日)は、中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男で、張学銘・張学思の兄である。字は漢卿。軍人時代の最終階級は国民革命軍一級上将。

1901年、張学良は当時満洲地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として台安県桑樹林子郷にて出生。母親(趙春桂)は不明な点が多く、張学良11歳の時に死去とされる。父・作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。16歳からは英会話も習得し、後に中国の軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となるがリットン調査団の一員であるドイツ人ハインリヒ・シュネーによると、「英語は少し話せるが、複雑な問題は交渉できなかったので必ず通訳を付けていた」という。14歳の時に最初の結婚をさせられ、15歳の時に第一子が誕生。

1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。当時の教官は郭松齢であった。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取った時、父親との関係で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングが出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。

20歳の時訪日したが、同年生まれで当時皇太子だった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後に述べている。

北洋政府

武官時代

在学中の1919年12月、父の義弟である張作相の抜擢で東三省巡閲使署衛隊旅営長となり、第2団長を経て1920年3月、19歳で東三省講武学堂を卒業し、同年6月、混成第3旅旅長に任ぜられた。年末には陸軍少将に昇格。郭松齢の混成第8旅と訓練および運営を共有するが、軍事知識に乏しいため両旅とも実質的な運営は郭が取り仕切っていた。また、郭の提言で東三省講武学堂の拡充に努め、将兵の中でも特に秀でた者の選抜育成のため、軍官教育班・軍官教導団および軍士教導隊を設置。西安事変の時には陸軍一級上将になっていた。これは蔣介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位である。

満洲の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年の第一次奉直戦争では、郭とともに奮戦。しかし、練度が不足していた奉天派は大敗。秦皇島にて孫烈臣とともに和平交渉代表として出席(直隷派代表は王承斌)。父張作霖が東三省陸軍整理処を創設すると、保安司令部参謀長に任ぜられる。のち孫烈臣が総監を辞し、後任に姜登選がなると副監。1924年の第二次奉直戦争でも呉佩孚の部隊を破るなどの活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。

なお1924年12月14日、天津を訪れた孫文と対面。

奉天軍閥

1928年6月4日、父・作霖が関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満洲を継承した。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降彼は生涯にわたって誕生日を一ヶ月繰り上げて祝った。 当時、蔣介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満洲への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して張の翻意を試みたが失敗した。ただし張は日本との決定的な対立を避け、日本を軟化させた。またこの年、総理大臣への野心を持っていた床次竹二郎を支援するため、前奉天領事赤塚正助、代議士鶴岡和文を通じて50万元を床次に献金している。

国民政府

中東鉄路

1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。 彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、中原大戦では9月18日に蔣介石への支持を表明(通電擁蔣)、山海関に出兵し河北省、ついで北平を制圧。勢力を伸張し蔣介石に次ぐ実力者と目されるようになった。

満洲事変

1931年に入ると満洲でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満洲への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。

満洲事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている。

日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった。この時期蔣介石は下野していたが、蔣の意向も同じであった。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満洲全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。

その後、アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。浅田次郎によれば、イタリアでの足跡は謎に包まれていたという。同行は正妻と3人の子、政治顧問、副官、通訳、ボディガードなどで趙一荻も同行し、ナビゲーターはムッソリーニの後継者とされたガレアッツォ・チャーノ公使とムッソリーニの長女エッダ・ムッソリーニの夫妻であり、エッダは張学良に夢中で恋人関係にもあったともされる。

関東軍の本庄繁は張学良と親交があった。事変後、奉天に残された張学良の財産を2両の貨車に積み、北京に逃れていた張のもとに送り届けた。しかし、張は「この荷物は受け取れません。本庄さんと私は親友でしたが、今では敵同士になってしまいました。こんな風にしてもらうのは、侮辱されているようなものです」と受け取りを断った。しかし、関東軍参謀だった片倉衷によると、張の送り返した荷物は関東軍の元にも戻らず、行方不明になったという。

抗日演説

張学良は以下のような抗日演説を行っていた[2]。

西安事件・コミンテルン

1934年、張学良はヨーロッパから帰国すると豫鄂皖三省剿匪副司令に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃した。当時、張学良は「中共は山賊にほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた。残ったわずかな連中が小山賊団となってあちこちに散らばっているだけの事だ。」と吐き捨てるように語っていたが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。翌1936年1月1日、紅軍の捕虜となっていた107師619団団長の高福源上校が洛川の第67軍本部に引き渡された。高福源は第67軍軍長の王以哲(中国語版)とともに張学良の元に行き、共産党が抗日民族統一戦線を提案している事を伝えた。これに同調した張学良は、2月21日と3月3日に中共中央連絡局局長李克農(中国語版)と、4月9日には周恩来と極秘に会見し、9月下旬、両軍は「抗日救国協定」を結び停戦することになった。この時、既に対蔣介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。

10月22日、蔣介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蔣介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蔣介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳誠・衛立煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蔣介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の蔣張会談の際も、蔣は張の提言を拒否する。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蔣介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。12月14日、西北剿匪総司令部を解消し、自ら「抗日聯軍西北軍事委員会」主任を名乗る。

共産党員は、これまで非常に長い間、蔣に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首は高額の賞金がかけられていた)になっていたが、西安事件の時は蔣介石の生殺与奪を握った。

しかし張学良は西安事件で蔣介石の日記を読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。しかし、蔣介石がここで本心を公言すれば、それは、中国が臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日の準備をしていると日本に教えるに等しく、その結果、日本の対中強硬派の本格的な中国侵略の開始を早める結果を招くのは明らかであるため、張学良にも教えられていなかった。

逮捕・軟禁

1936年12月23日にいったん和解が成立したが、2日後の12月25日に反逆罪により逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。西安事件は蔣介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。胡適は張にあてて電報を発している。胡適は、中国では全国的な指導者の出現が非常に困難である事、もし蔣介石に不幸があれば中国は20年あと戻りする事になるだろうという旨を述べたのち、こう言う。「まさに国難家仇を念い、懸崖で馬を勒すべし」。蔣介石を護送して南京へみずから来たうえで国民に謝罪せよ、張のこのたびの挙は“敵に抗する名目でその実自ら長城を破壊する”行いであり、張は“国家と民族の罪人”であると胡適は厳しい語気で張に警告している。しかし張は極刑もしくは国民党から永久除名にされず、12月31日、軍事委員会高等軍法会議(裁判長:李烈鈞、判事:鹿鍾麟、朱培徳)により懲役10年の刑を受けた。このように極刑にされなかったのは蔣介石の寛大さと張は述べている。しかし、同じく監禁された西北軍司令官の楊虎城将軍はのちに銃殺された。

1937年1月4日に特赦を受けたが、そのまま軟禁状態に置かれた。その後、日中戦争期間を通じて軟禁状態に置かれ続けた。 監視は憲兵や藍衣社系の諜報機関である軍事統計局(軍統)特務員によって行われた。裁判後は市内の孔祥熙公館に、次に奉化県雪竇山の「中国旅行社(中国語版)招待所」に軟禁された。しかし、招待所が10月に火事で焼失したため、段祺瑞の別荘として建てられた黄山の居士林と呼ばれる屋敷に移された。だが東北軍の一部が安徽省に駐留していたため、奪還を恐れた蔣介石の指示によりわずか2日で離れることとなり、南昌の宿で一泊したのち11月21日に萍郷の贛西飯店に移された。特務員や憲兵も客を装って両隣の部屋に居住する措置が取られたものの、流石に民間人の目につく恐れがあったため、29日に専員公署の近くにある武漢大学教授の肖君絳の邸宅で「絳園」と呼ばれる屋敷に移された。ここで1か月ほど過ごしたのち、1938年1月、湖南省郴州蘇仙嶺(中国語版)を経て3月に湘西沅陵の鳳凰山に移された。1939年11月下旬、日本軍が湖南省まで攻めてきたため、貴州省修文県陽明洞(中国語版)に移される。

戦後

1945年に第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾に逃れたが、この際に張も共に移送され、清泉温泉(日本名:井上温泉)などの場所で50年以上も軟禁され続けた。1955年には、蔣介石の妻・宋美齢の勧めにより、キリスト教の洗礼を受けている。

1975年に蔣介石が亡くなった際、張は「関懐之慇 情同骨肉、政見之争 宛若仇讎(至れり尽せりのお世話は肉親のようだが、政見の争いとなれば仇敵になる)」という、彼への畏敬の念を込めた弔文を送った。蔣の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。

軟禁解放後

1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた。1981年に台湾の記者とインタビューを行い、中国の植民地化を追求するために明帝国と清帝国の歴史を研究したことと、クリスチャンに改宗したことで回想録を書くことを断念したと述べている。

1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相については証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」とも主張している。

同時に青年期は阿片中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。

中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶している。その後、1991年に釈放され、アメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。

1994年の陸鏗(英語版、中国語版)のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言したが、仔細についてはやはり語ることはなかった。張と個人的な交流があった李登輝も、「西安事件の真相を最後まで一言も語らなかった。口の堅い男だったな」と回想している。北京政府は張を台湾工作に利用することを画策していたが、張は拘禁を解かれる条件であった中国大陸に行かない約束を守り通し、誘いを断り続けた。

そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。

2024/06/25 12:10更新

chou gakuryou


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張 琳(Zhang Lin)
1987年1月6日生まれの有名人 出身

張 琳(ちょう りん、生年不詳 - 建福元年(1122年))は、遼(契丹)の人物。 瀋州(中国語版)(現在の遼寧省瀋陽市)の出身で、幼少の頃より大志を抱いていたという。寿昌6年(1100年)に秘書…

張 栩 〈チョウ=ウ〉(Chang Hsu)
1980年1月20日生まれの有名人 出身

1月20日生まれwiki情報なし(2024/06/25 11:21時点)

張 帥(Zhang Shuai)
1989年1月21日生まれの有名人 出身

張 帥(ちょう すい、ジャン・シュアイ、ピン音表記:Zhāng Shuài, 1989年1月21日 - )は、中国・天津市出身の女子プロテニス選手。2019年全豪オープン女子ダブルスでサマンサ・ストー…

張 富士夫(ちょう ふじお)
1937年2月2日生まれの有名人 東京出身

張 富士夫(ちょう ふじお、1937年〈昭和12年〉2月2日 - )は、日本の実業家、元トヨタ自動車代表取締役社長、同社元名誉会長。 株式会社デンソー社外監査役、株式会社豊田自動織機社外取締役、東和…

張 正九(Chang Jung-Koo)
1963年2月4日生まれの有名人 出身

張 正九(チャン・ジョング、英語: Jung Koo Chang、1963年2月4日 - )は、大韓民国・釜山広域市出身の元プロボクサー。元WBC世界ライトフライ級王者。身長161cm。ニック…

チャン=ドンゴン 〈張 東健〉(Jang Dong-Gun)
1972年3月7日生まれの有名人 出身

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戸張 胤茂(とばり たねしげ)
1947年3月11日生まれの有名人 埼玉出身

戸張 胤茂(とばり たねしげ、1947年(昭和22年)3月11日 - )は、日本の政治家。元埼玉県吉川市長(4期)。 埼玉県北葛飾郡吉川町(現・吉川市)出身。埼玉県立杉戸農業高等学校卒。吉川町議会…

張本 邦雄(はりもと くにお)
1951年3月19日生まれの有名人 東京出身

張本 邦雄(はりもと くにお、1951年3月19日 - )は、日本の経営者、実業家。TOTO社長、会長を務めた。東京都出身。 1973年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に東陶機器(当時。現:TOT…

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張学良
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