植木枝盛の情報(うえきえもり) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
植木 枝盛さんについて調べます
■名前・氏名 |
植木枝盛と関係のある人
頭山満: これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。 エドマンド=バーク: ルソーを信奉する植木枝盛は、これに対して1882年、論文「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」により反論した。 津田仙: 植木枝盛の『高知新聞』共同発行人(明治14年)。 坂本金弥: 同新聞社の社長に山崎弥平、主筆に植木枝盛を招いた。 家永三郎: 当初の専攻は日本古代思想史であり、特に仏教思想史研究で成果をあげたが、次第に研究領域を広げ、後半生では反権力的姿勢を強め、その立場からの社会的発言をおこなったほか、植木枝盛・美濃部達吉・津田左右吉・田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。 片岡健吉: 明治7年(1874年)、板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設して初代社長となる。 家永三郎: また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市立自由民権資料館に寄贈され、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。 家永三郎: 特に1960年に刊行した『植木枝盛研究』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据えて、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。 |
植木枝盛の情報まとめ
植木 枝盛(うえき えもり)さんの誕生日は1857年2月14日です。高知出身の政治家のようです。
事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1892年に亡くなられているようです。
植木枝盛のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)植木 枝盛(うえき えもり、1857年2月14日〈安政4年1月20日〉 - 1892年〈明治25年〉1月23日)は、日本の思想家、政治家。自由民権運動家。 土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県高知市中須賀町)に生まれる。8歳から習字を学ぶ。藩校致道館に学び、明治6年(1873年)には土佐藩海南私塾の生徒として抜擢されるが、9月に退学し帰郷する。 明治六年政変(征韓論政変)に触発されて上京を決意し、傍らキリスト教関係書物『天道溯原』を読む。明治8年(1875年)、19歳で上京し慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い、明六社に参加し、福澤諭吉に師事して学ぶ。自ら修文会を組織して奥宮荘子会(奥宮慥斎)にも参加する。明治8年(1875年)から『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京日日新聞』などに投書を始め、明治9年(1876年)3月15日、投書『猿人君主』(『郵便報知』2月15日)のために、讒謗律による筆禍事件で5月13日まで2ヶ月入獄する。キリスト教に興味を持ち始め、耶蘇教会に通う。10月、『思想論』などを書く。
死後の再評価主張地方自治(地方分権、反中央集権、連邦制)徴兵制第二百七條、國家ノ兵權ハ皇帝ニ在リ。
第二百八條、國軍の大元帥は皇帝と定む。
第二百九條、國軍の将校は皇帝、之を撰任す。
第二百十條、常備兵(志願兵)は法則に従ひ皇帝より民衆中に募りて之に應するものを用ゆ。 — 植木枝盛『東洋大日本国国憲按』より
とし、
更に第79條で「皇帝は平常時において立法院の議を経ずして兵士を徴募することが出来る」と記し、連邦政府ではなく天皇の大権によって徴兵を行うことが可能であるとした。
第七十九條、皇帝は平時に在り、立法院の議を經ずして兵士を徴募するを得。 — 植木枝盛『東洋大日本国国憲按』より
世界政府(集団安全保障)女性参政権大アジア主義
国防・天皇の統帥権・緊急事態条項「第十一條、日本聯邦は日本各州に對し外國の侵寇を保禦するの責あり」「第二十一條、宣戦講和の権は聯邦にあり」「第二十六條、日本聯邦に常備軍を設置するを得」「第三十四條、日本各州は現に強敵を受けて大乱の生じたるが如き危急の時機に際しては聯邦に報じて救援を求ることを得、又た他州に向て應援を請ふことを得、各州右の次第を以て他州より應援を請はれし時、眞に其危急に迫るを知るときは赴援するを得、その費は聯邦に於て之を辨す」「第三十五條、日本各州は常備兵を設置するを得」「第三十六條、日本各州は護郷兵を設置するを得」「第七十八條、皇帝は兵馬の大権を握る宣戦講和の機を統ぶ。他國の獨立を認むると認めざるを決す。但し和戦の決したるときは直に立法院に報告せざる可からず」「第七十九條、皇帝は平時に在り立法院の議を経ずして兵士を徴募するを得」「第八十五條、皇帝は諸兵備を爲すを得」「第八十六條、皇帝は國政を施行するが爲めに必要なる命令を發する事を得」「第八十八條、皇帝は聯邦行政府に出頭して政を乗る」「第八十九條、皇帝は聯邦行政府の長たり。常に聯邦行政府の権を統ふ」「第九十條、皇帝は聯邦司法廳の長たり。其名を以て法権を行ふ。又法官を命ず」「第九十六條、日本國皇帝の位は今上天皇睦仁陛下に属す」「第百廿一條、聯邦立法院は聯邦の軍律を定むることを得」「第百廿三條、聯邦立法院は聯邦に関する兵制を議定することを得」「第百六十五條、日本聯邦行政権は日本皇帝に属す」「第百六十六條、日本聯邦の行政府は日本皇帝に於て統轄す」「第百七十一條、聯邦行政官は皇帝の命に従ふて其職務を取る」「第二百六條、國家の兵権は皇帝に在り」「第二百七條、國軍の大元帥は皇帝と定む」「第二百八條、國軍の将校は皇帝、之を撰任す」「第二百十四條、内外戰乱ある時に限り、其地に於ては一時、人身自由、住居自由、言論出版自由、集會結社自由等の權利を行ふ力を制し、取締の規則を立つることあるべし。其時機を終へは必す直に之を廢せさるを得す」「第二百十五條、戰乱の爲に已むを得ざることあれば、相當の償を爲して民人の私有を収用し、若くは之を滅盡し、若くは之を消費することあるべし。其最も急にして豫め本人に照會し、豫め償を爲す暇なきときは、後にて其償を爲すを得」「第二百十六條、戰乱あるの場合には、其時に限り已むを得さることのみ法律を置格することあるへし」 — (植木枝盛起草『東洋大日本国国憲案』より)
エピソード
明治12年(1879年)2月1日、天皇と一体化する夢を見た。同月10日に「我ハ気違ナリ」の文を書く。 『伝習録』に影響を受けて、新聞でキリスト教を痛烈に批判した。 後藤象二郎を「後藤伯ハ平民ノ伯ナリ」と絶賛する一方、大隈重信を「主義なき政治家はあらず」と痛烈に批判した。 明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』にはこう記されている「怒り上戸の随一人は誰ぞ 二十二番議員植木枝盛氏なり 氏は一言一語既に怒調を帯ぶるが上に何かに附けて直に腹を立て憤然として怒鳴り激然として拳を打振り以て他を嚇し去らんとするより」。また、こう心配されてもいる。「のべつに遣らかしては怒りの効能追々薄くも為らずや 氏が嚇然大怒せねばならぬ事今後続々出で来るべし 今少しく其鋭気を蓄へて可なり」。この二年後に胃潰瘍で死去している。 主な著書に『民権自由論』、『天賦人権弁』、『開明新論』、『東洋之婦女』、『一局議院論』、『植木枝盛日記』などがある。 また、前述の「猿人君主」をはじめ新聞紙上で発表した文章や、「立志社建白書」をはじめとした建白書を多数著す。さらに、自由民権の思想を字の読めない者へも浸透させるべく、「民権田舎歌」、「民権数え歌」という歌も作っている。 日記・書簡を含めたその多くは1945年(昭和20年)7月4日の高知大空襲で焼失しているが、『植木枝盛集』(岩波書店、全10巻、1990 - 1991年)に収録されている。 米原謙『植木枝盛―民権青年の自我表現』中公新書、1992年、ISBN 4121010868 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、81頁) 小畑隆資『植木枝盛の憲法構想―「東洋大日本国国憲案」考―』岡山大学大学院社会文化科学研究科『文化共生学研究』第6号(2008年) 髙岡功太郎『緊急事態条項と植木枝盛』一般社団法人板垣退助先生顕彰会(2018年) ^ 河野健二『福沢諭吉 生きつづける思想家』講談社現代新書、1967年4月。ASIN B000JA8BRK。 ^ 小畑隆資 (2008). “植木枝盛の憲法構想――「東洋大日本国国憲案」考――”. 文化共生学研究 (岡山大学大学院社会文化科学研究科) (6): 83. "植木枝盛(1857-1892)の「東洋大日本国国憲案」1(明治14年8月起草、以下「国憲案」)が当時起草された他の私擬憲法草案と比して大きく異なる特徴は、次の三点にある。(中略)ところで、枝盛の「国憲案」については、家永三郎氏の理解が今なお主流的見解であると言ってよい。(中略)家永氏の見解は次のとおりである。氏は、枝盛の「国憲案」を「現存するすべての憲法構想の内最も民主主義的な内容のもの」とされ、「この憲法の第一義的要素」として、先に第一の特徴として挙げた「自由権利」規定に着目して、そこに「無制約的」な「人権の保障」とその「担保」としての「人民の抵抗権と革命権」を看て取られている。" ^ 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、p.56 ^ 田村貞雄「民権百年の橋渡し――鈴木安蔵氏の私擬憲法研究の意義」『日本史を見なおす』青木書店、1986年(時代をくぐりぬけた憲法草案:戦時下の民権憲法研究 - ウェイバックマシン(2010年10月28日アーカイブ分)) ^ “県のシンボル | 高知県庁ホームページ”. www.pref.kochi.lg.jp. 2022年1月19日閲覧。 ^ 「東洋大日本国国憲案(日本国国憲案)」『植木枝盛集 第6巻 日本国国憲案ほか』岩波書店、1991年3月1日。 ^ 『緊急事態条項と植木枝盛』髙岡功太郎論述、一般社団法人板垣退助先生顕彰会(2018年) ^ 「戦ハ天ニ対シテ大罪アルコト雑ヘタリ 万国統一ノ会所ナカルベカラザルコト」『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』岩波書店、1990年5月28日、1-2頁。 ^ 「男女同権ハ海南ノ某一隅ヨリ始ル」『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』岩波書店、1990年5月28日、246-250頁。 ^ 『東洋大日本国国憲案』の第214條、第215條、第216條が、緊急事態条項に相当する。 ^ 岡田常三郎編『議場の奇談 : 国会傍聴』大日本書籍行商社、1890年、p.3 ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典. “植木枝盛とは”. コトバンク. 2022年1月19日閲覧。 ^ 明治~昭和,367日誕生日大事典, 新訂 政治家人名事典. “植木 枝盛とは”. コトバンク. 2022年1月19日閲覧。 明六社 頭山満 馬場辰猪
『植木 枝盛』 - コトバンク 植木 枝盛:作家別作品リスト - 青空文庫 【現代語訳】植木枝盛「猿人政府(猿人君主)」(1876(明治9)年) 【現代語訳】植木枝盛「自由は鮮血を以て買わざるべからざる論」(1876(明治9)年) 【現代語訳】植木枝盛「世に良政府なる者なきの説」(1877(明治10)年) 土佐の料亭文化と自由民権運動(地元料亭による解説と「民権かぞえ唄」実演映像)- 料亭 濱長 興亜会のアジア主義と植木枝盛のアジア主義 第2章 署名(1) | あの人の直筆 - 国立国会図書館 明治ひとけた年代における暗誦教育 - ウェイバックマシン(2015年1月13日アーカイブ分) FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research スイス歴史辞典 IdRef この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 植木枝盛 幕末土佐藩の人物 日本の思想家 戦前日本のアジア主義の人物 慶應義塾の塾生 自由民権運動の人物 19世紀日本のジャーナリスト 日本の男性ジャーナリスト 日本の死刑廃止論者 高知県議会議員 高知県選出の衆議院議員 (帝国議会) 明治時代の衆議院議員 高知県出身の人物 土佐国の人物 1857年生 1892年没 反キリスト主義 プロジェクト人物伝項目 2024/11/10 20:56更新
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