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横尾忠則の情報 (よこおただのり)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

横尾忠則の情報(よこおただのり) グラフィックデザイナー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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横尾 忠則さんについて調べます

■名前・氏名
横尾 忠則
(読み:よこお ただのり)
■職業
グラフィックデザイナー
■横尾忠則の誕生日・生年月日
1936年6月27日 (年齢87歳)
子年(ねずみ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

(昭和11年)1936年生まれの人の年齢早見表

横尾忠則と同じ1936年生まれの有名人・芸能人

横尾忠則と同じ6月27日生まれの有名人・芸能人

横尾忠則と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


横尾忠則と関係のある人

新沼謙治: ジャケット(デザイン、イラスト)はデビュー当時からの旧知の仲であった横尾忠則に依頼し快諾された。


灘本唯人: また無名時代の横尾忠則の才能に注目し、横尾をデザイナーとして神戸新聞社に推薦し入社させた。


蛭子能収: そこで初めてグラフィックデザインに出会い、横尾忠則、宇野亜喜良、粟津潔、亀倉雄策、佐伯俊男に大きな影響を受ける。


和田誠: 1964年に灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(70年解散)。


山川惣治: 1992年佐倉市宮ノ台のマンション 開かれた「山川惣治・高橋真琴チャリティー絵画展」初日に横尾忠則が来場し山川に作品を依頼。


伊東順二: 「アート・スウオッチ」(1987)プロダクト・プロデュース (横尾忠則


大沢健: サイケ歌舞伎「月食」(1994年、原作・脚本:橋本治、演出:宮本亜門、美術:横尾忠則


一柳慧: 横尾忠則を歌う


深沢七郎: 1971年、東京都墨田区東向島の東武曳舟駅の近くで今川焼屋「夢屋」を開く(包装紙は横尾忠則のデザインによる)。


大伴昌司: 表紙に横尾忠則を起用するなど、斬新な発想力で同誌の売上を飛躍的に伸ばした。


三宅一生: 横尾忠則は「1970年頃は、ファッションはヒッピーカルチャーなどの社会現象と手を結び、思想を持ち始めていた。


浜野安宏: TBSテレビ 「ヤング720」に横尾忠則、篠山紀信らと共にレギュラー出演。


柴田錬三郎: 墓のデザインは横尾忠則による。


土方巽: 大野一雄、大野慶人、石井満隆、笠井叡、玉野黄市らに加え、中西夏之、横尾忠則、加納光於など、時代の最先端をゆく前衛芸術家たちが参加した。


及川正通: その後主婦と生活社に4年間勤務後、1968年にフリーとなり横尾忠則と共同事務所「ジ・エンドスタジオ」を立ち上げ、天井桟敷のポスターなどを手がける。


森山大道: 1971年 横尾忠則の誘いにより、ニューヨークに1ヶ月滞在。


オノ・ヨーコ: 1974年8月、「ウッドストックを日本で」をマインドにしたワンステップフェスティバルに出演、横尾忠則作品のポスターのモデル・オノヨーコと虹がほとんどの駅にはりだされ新鮮な空間をつくった。


ますむらひろし: 横尾忠則、伊坂芳太良に憧れてイラストレーターを志し、1971年に上京しデザイン学校に通った。


魚返一真: 商業カメラマンとしての撮影は著名人のポートレートが多く、印象深く刺激を受けたのは横尾忠則、宮崎駿、ウィル・スミスなど各氏だった。


和田誠: アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二・柳原良平・真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則や手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。


磯崎憲一郎: 『アトリエ会議』(河出書房新社、2015年)保坂和志、横尾忠則との共著


美輪明宏: 銀巴里時代から数多くの作家(三島由紀夫、江戸川乱歩、川端康成、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、藤島泰輔、なかにし礼、大江健三郎等)や画家(東郷青児、中原淳一、横尾忠則等)、演劇人(十七代目中村勘三郎、十八代目中村勘三郎、杉村春子、初代水谷八重子、二代目水谷八重子、赤木圭一郎、田宮二郎、寺山修司、蜷川幸雄、五代目坂東玉三郎、渡辺えりなど)、作曲家(池辺晋一郎など)、歌手(フレディ・マーキュリー、吉井和哉等)と交流を深める。


伴田良輔: 『名画感応術』(横尾忠則、光文社文庫) 1997


遠藤賢司: ジャケット画は横尾忠則による。


草森紳一: 『江戸のデザイン』駸々堂出版、1972年、全国書誌番号:73021491 横尾忠則装丁


九條今日子: 1967年に寺山修司、横尾忠則らが「演劇実験室・天井桟敷」を創立し、九條は製作を担当。


大友克洋: しかし、高校生の時に流行った横尾忠則や伊坂芳太良といったイラストレーターの絵柄がすごく好きになり、自分もそういう画風でイラストのような感覚で漫画を描いてみたいと思うようになった。


篠山紀信: 『家』では、北海道から沖縄まで、日本列島約80カ所にのぼる「日本の家」の様々な様相が記録され、北海道、岩手県遠野市の古民家をはじめとし、赤坂の迎賓館、台東区上野の古銭湯、横尾忠則がかつて住んでいた家、高輪の郷ひろみ邸、新宿のアパート、北九州の筑豊炭鉱、 沖縄県竹富島、長崎県軍艦島の廃墟や、廃墟となった家などが収められた。


宇野亜喜良: 1964年、宇野、原田維夫、横尾忠則の3人でデザイン事務所「スタジオ・イルフィル」を結成(翌年、解散)。1965年日本デザインセンターを退社し、同世代を代表するイラストレーター、グラフィックデザイナーの横尾忠則、和田誠、山口はるみ、灘本唯人などと共に東京イラストレーターズ・クラブを設立する(70年解散)。


松岡正剛: この時期、編集活動を通じて、稲垣足穂、土方巽、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志、宇野亜喜良、横尾忠則らと親交を深める。


横尾忠則の情報まとめ

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横尾 忠則(よこお ただのり)さんの誕生日は1936年6月27日です。兵庫出身のグラフィックデザイナーのようです。

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経歴、幼少期などについてまとめました。テレビ、ドラマ、事件、現在、結婚、退社、解散、映画、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。横尾忠則の現在の年齢は87歳のようです。

横尾忠則のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は、日本の美術家、グラフィックデザイナー、版画家、作家。

実弟の成瀬政博は画家・イラストレーター。長女の横尾美美も美術家。日本芸術院会員。

兵庫県西脇市出身。20歳までを西脇で過ごす。幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。死の世界に憧れを抱く。

神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。三島由紀夫に出会い三島の「聖俗一体」的言動に触発される。1970年の三島の死をきっかけにその後の15年間をオカルティズムや神秘主義まで包括した精神世界に傾斜してゆくが、それらが大いなる錯覚だったと気づき「私」の探求の延長線上で絵画に出会う。精神世界と絵画は全く別の存在だと考えていたが、後にこの両者が自分すら知らない深いところで結びついていると感じるに至る。

向田邦子脚本によるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年・TBS)では、倉田という謎の多い人物を演じた。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。

2019年9月-12月にかけて、83歳の横尾は自らのキュレーションによる『自我自損』展を開催。「自我自損」は、エゴに固執すると損をするという意味の造語だが、ここで横尾は徹底した自己否定をキュレーションし、異なる作風の作品を一堂に集めて見せ「私は自作を説明することは好みません。従って見どころは見る側の問題で、私作者の問題ではありません」と発言。一貫したテーマである「自我からの開放」を表現。展示作品を選んだ基準はその日の「気分」であった。

多大な影響を受けた三島由紀夫をテーマとした作品のほか、 2018年に画材を持った美術館の職員が現場に30分遅刻し、「制作意欲を削がれた」として立腹。宿泊先へ引き揚げ、展覧会は延期になって話題になった"事件"を報じた朝日新聞の切り抜きをY字路前にかざして見せるカリカチュアライズされた作品なども見られた。

2000年以降は、幼少期を過ごした故郷・兵庫県西脇市のY字路をモチーフに多くの絵画を描く。描いたY字路作品は150点以上。

経歴

1936年 - 兵庫県多可郡西脇町(現在の西脇市)に成瀬光政とツヨの次男として生まれる。

1939年 - 2-3歳の頃に、呉服商であった叔父の横尾誠起と輝恵夫妻の養子に入り、かわいがられて育つ。幼いころから絵本の模写をしていた。

1941年 - 5歳にして「講談社の絵本」、石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写。画才を現す。

1942年 - 西脇町立幼稚園に入園。

1943年 - 西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)に入学。漫画を描くようになり『漫画少年』誌に投稿。

1945年 - 9歳。1月より神戸の空襲が開始され3月と6月の空襲は被害が甚大であった。西脇は空襲を免れたものの、西脇から神戸や明石の空が赤く染まるのが見えた。

1946年 - 母とともに大阪の鶴橋の闇市に米や織物を売りに行くが、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。

1948年 - 『漫画少年』に漫画を毎月投稿。

1949年 - 新制西脇中学に入学。

1950年 - 南洋一郎、鈴木御水の『バルーバの冒険』、山川惣治の『少年王者』や江戸川乱歩の少年ものなどに熱中。

1952年 - 16歳。兵庫県立西脇高等学校に入学。「郵便友の会」を作る。通信教育で挿絵を学び、油絵やポスター制作を開始する。高校学園祭のために、ポスターを初めてデザイン。エリザベス・テイラーにファンレターを送り返信があったことが地元紙で報じられる。朝鮮特需により西脇の繊維工業が活況。

1954年 - 18歳。武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展などに相次ぎ入賞。

1955年 - 武蔵野美術学校受験のために上京するが、前述の教師の助言もあり断念。西脇市織物祭のポスターが1等入選。郵便局員志望だったが、加古川の成文堂印刷所に入社。

1956年 - 神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社。

1957年 - 灘本唯人らのデザイングループ「NON」に参加。神戸新聞会館勤務だった谷泰江と結婚

1958年 - 22歳。第8回宣美展で奨励賞を受賞。会員に推挙される。

1959年 - 23歳。神戸新聞社を退社。大阪のナショナル宣伝研究社に入社。

1960年 - ナショナル宣伝研究社の東京の移転とともに上京。日本デザインセンターに入社。安保反対のデモの後でタクシーのドアで指をはさみ骨折。

1961年 - 25歳。京都労音のポスターを制作する。

1962年 - 26歳。大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。

1963年 - 27歳。東京ADC賞銅賞を受賞。

1964年 - 長女誕生。ハイレッド・センターのシェルター計画に参加。東京オリンピックのピクトグラム作成に関わる。宇野亜喜良、原田維夫と「スタジオ・イルフィル」結成(翌年、解散)。和田誠、篠山紀信らと東京オリンピック期間中にヨーロッパ旅行。灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、和田誠らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(70年解散)。

1965年 - 吉田画廊の個展にて三島由紀夫と出会う。後に共に仕事をする。

1967年 - 寺山修司の「天井棧敷」に参加。ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。

1969年 - 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリ受賞。

1970年 - 写真をはじめる。大阪万博でせんい館のパビリオンの建築デザインを担当[1]。ロンドンを旅行。足の動脈血栓で入院、左足切断の危機を東洋医学で免れる。これを機に1-2年間の休業宣言。11月25日、三島由紀夫が自決。その3日前に横尾は三島に電話をしたが、その日は楯の会のメンバーの5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話では様々な話をしたが最後に三島は、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる。

1972年 - ニューヨーク近代美術館で個展を開催。

1974年 - 篠山紀信とインド旅行。この後何度もインドを訪れるようになり精神世界に興味を深める。第5回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞受賞。

1981年 - 渋谷西武で大規模な個展。

1982年 - 南天子画廊でペインティングの近作をまとめた個展。横尾忠則の「画家宣言」ととらえられた。画家としての活動が活発になっていく。

1984年 - ベルギー国立20世紀バレエ団(英語版)(モーリス・ベジャール主宰)ミラノスカラ座公演「ディオニソス」の舞台美術を担当。

1987年 - 兵庫県文化賞を受賞し、兵庫県公館に作品が展示保存される。

1995年 - 毎日芸術賞受賞。

1997年 - ニューヨークADC賞金賞受賞。

2000年 - ニューヨークADC名誉の殿堂入り。

2001年 - 紫綬褒章受章。

2002年 - これまでで最大規模の個展「横尾忠則森羅万象」開催。多摩美術大学大学院教授に就任(2004年まで)。

2004年 - 紺綬褒章受章。故郷のそばを走るJR加古川線電化開業、それにあわせ、ラッピング電車のデザインをし、同線で運行開始される。

2004年 - この年から、多摩美術大学大学院客員教授(博士課程)に就任。

2006年 - 日本文化デザイン大賞受賞。

2008年 - 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。

2010年 - 神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。

2011年 - 旭日小綬章受章。

2012年

    常に時代と共振する斬新なグラフィックデザイン・絵画の制作により2011年度朝日賞受賞。

    11月3日、神戸市灘区に横尾忠則現代美術館開館。

    2013年

      6月27日、西脇市名誉市民。

      7月、豊島横尾館開館。

      2014年

        5月31日、愛猫「タマ」永眠。不眠など激しいペットロス症候群を経験。裏庭に「タマ霊園」を造る。死の3か月前の2月25日、タマが行方不明に。古書店キヌタ文庫主人の、横尾の隣家が捨て猫を保護しているとの情報で、3月2日に訪問したところタマを発見。そのわずか3か月後であった。

        1937年建造で昭和初期の面影を色濃く残し、2008年には兵庫県の景観形成重要建造物になった西脇市立西脇小学校の校舎が取り壊されるかも知れないという危機を知り、建替えに反対、保存改修による使用を強力に提案。ノスタルジーからではなく、市民の文化の高さを誇る象徴としての建造物が存在するということを自慢できる。市民一人ひとりが誇りを持っていただきたいと発言。教育の場の経済至上主義、物質主義に警鐘を鳴らした。同校舎は映画「火垂るの墓」「人間失格」のロケにも使われている。その結果、校舎3棟の保存が決まった。

        日本宣伝賞山名賞受賞。

        2015年 - 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。6月、西脇市商業連合会が、西脇市内在住者を対象とし、市内の主要な店舗で使用できる横尾のデザインによる「西脇Y字路お買い物券」を、3億円分発行。

        2016年 - 『言葉を離れる』で第32回講談社エッセイ賞受賞。

        2018年 - 9月から翌年3月、西脇市岡之山美術館で特別展・「横尾忠則 西脇幻想」展開催予定。メイン作品の制作日の8月29日に美術館職員が遅刻し制作できなかったため、9月18日に開催延期が発表された。2019年9月-12月にかけて開催された『自我自損』展(エゴに固執すると損をするという意味)では、この"事件"を報じた朝日新聞の切り抜きを、Ý字路前にかざして見せるカリカチュアライズした作品などを展示した。

        2019年 - 9月14日-12月22日、横尾忠則現代美術館にて、横尾自身のキュレーションによる個展である『自我自損』展を開催。横尾自身のキュレーションによる横尾の個展は公立美術館では初の試みであった。タイトルの「自我自損」は、エゴに固執すると損をする、という意味の造語で、横尾の絶えざる自己否定、一貫したテーマである「自我からの解放」を背景とする。

        2020年

          4月1日、 『タマ、帰っておいで』(講談社)刊行。「愛猫への鎮魂歌(レクイエム)」として描いた画集。愛猫「タマ」が亡くなったその日から、魂を鎮めるために描いたタマの絵が91点収められて、折々に綴ったタマに関する文章や日記が多数掲載されている。発売2週間で重版となり、画集というジャンルとしては異例の速い売れを記録した。

          10月1日、東京都名誉都民。

          2021年

            1月15日、愛知県美術館で企画展「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」が開催(4月11日まで)。同企画展は東海地方初の個展となる。1月20日から2月27日まで品川区東品川のYUKIO MIZUTANI GALLERYにおいて『TADANORI YOKOO SLIP OFF SLIP WITH MASK PORTRAIT』と題して東洲斎写楽の作品をモチーフにした油性浮世絵木版画の展覧会を開催、『摺れ摺れ草』シリーズ5点の作品を披露した。

            2022年

              2月26日、紺綬褒章飾版、木杯一組受章。

              2023年

                3月1日、日本芸術院会員に任命。

                11月、文化功労者。

                幼少期

                2-3歳ころに、成瀬家から呉服商をしていた横尾家へ養子に行く。父(養父)は店を構えていたわけではなく、自転車の荷台に着物や反物を積み、料亭などに売り歩いていた。小学校に上がる前まで横尾は父のこの営業によく同行した。『想い出と現実の一致』は、この際の記憶を作品にしたものである。横尾が幼少期を過ごした西脇は綿織物(播州織)を特産としていたため、織物や反物は身近な存在であった。横尾のデザインや絵画の原典のひとつには、播州織の影響が指摘される。

                小学2年生(西脇国民学校)の時、床掃除の指導が悪いとして担任の教師から級長を降ろされたり、授業中に窓から身を乗り出し飛行機を見たため、掃除道具入れに閉じ込められるなどする。

                母の背で意識した死

                2歳のある日、多可郡西脇町(現・西脇市)のはずれにあった実家の近くの橋(萩ヶ瀬橋)が台風による氾濫で流され仮設の橋が架けられた。小さな板が打ち付けられているばかりの浮き橋で、父が自転車を押しながら安全を確認しながら進む後を母に背負われた横尾は河原から不安な気持ちで見つめていた。母の背中の温もりを通し、両親の心がそのまま大きな愛になって伝わるのを感じる。しかし、同時に死の観念に襲われる。この親子の関係がいつまでも続くはずがないという感覚だった。横尾は両親が50代になってもらわれてきた養子であったため、横尾の眼には2人ともひどく年寄りに見えた。このため、両親と自分の関係が長く続かないのではという漠然とした恐れがあった。また、川の氾濫によって田畑が流され滅びるという自然のもたらしたカタストロフィー(この場合、大災害の意)の匂いの中で破滅的な終末の兆しを感じとった。これが記憶に残るこの世で最初に見た光景である。

                3、4歳の頃、「自分はどこから来た人間なのだろう」としきりに考えるようになる。年老いた両親は果たして本当の親なのだろうか、と考えるが怖くて聞けなかった。母は、この横尾の不安に感づいたのかある日、試すような言い方で「ターちゃんは、橋の下でひろってきたんやで」と横尾の耳元でささやいた。横尾の耳の中でその言葉は何度も繰り返され、やがて棲みつくようになる。時空を超えたはるか遠い昔の出来事のように思えたが、誰かに捨てられたことに対しての悲しさはなく、甘酸っぱいロマンティックな物語の主人公になったような感覚があった。横尾には捨てられた場所は分かっていた。洪水で流された橋のずっと上流の橋の下だった。その橋は洪水で流され、原型をとどめていなくても間違いなくそこだという感覚があった。その後、横尾は両親と渡った橋と捨てられた橋の夢を何度も見るが、橋はいつも途中で途切れており、そこから先は細くて薄い板が1枚延びているだけだった。ただ、その先は別の世界につながっているという感覚だけがあった。それが後々まで映像として横尾の脳裏に残った。

                死は終わりではない

                自分の故郷はもう一つ別のところにあって、懐かしい故郷からやってきて今ここにいるが、いつの日にか再びその故郷に戻るのではないかという漠然とした予感を抱くようになる。物思いにふけることが好きで、外に飛び出し流れ星を待つと、いつもそれはすぐにやってきた。流れ星は懐かしい故郷の記憶を運んでくるように思え、この予感は毎日のように繰り返され、記憶の中で強まっていく。母に家の近くの坂上の地蔵堂によく連れていかれたが、母は涎掛けを縫っては地蔵に掛けるのだった。横尾の記憶の中でその地蔵は自分自身になっていた。石になって動かない僕の遺骸に母は弔いの気持ちを込めて涎掛けを賭け続けるのだ。あるいは、僕は赤子で生命力にはあふれているが無力なので、ひたすら母は愛情を授けているのかもしれない、と横尾は感じていた。地蔵は生と死を兼ね備えると同時にはるか遠くの昔の世界につながっていく。

                ガタロウと白昼夢

                子供の頃、大阪の河内に住んでいた父は、横尾に沼でガタロウ(河童)に引き込まれて死にそうになった話をよくした。泳ぎがさして上手でない父はその沼を犬掻きで泳いでいたところ、いきなり強烈な勢いで足を引っ張られ水中に没した。もがきながら暗い水中で目を開けると緑色のガタロウがいた。横尾はその話しを何度も思い出すのだが、その沼がなぜか横尾自身が通っていた小学校の裏にある鬱蒼たる樹木に囲まれた小さな池になってしまう。父の話を思い出しながら変だなとふと顔を起こすと、父は横尾が捨てられた橋の下のごつごつした岩の上に座り、ガタロウの話をしている。そのうちに、父がいつの間にか実父に変っており、実父が釣りをしている風景が見える。横尾は、これは白昼夢なのだと気付いた。

                賽の河原と閻魔大王

                子供の頃、怖かった話に賽の河原の物語と閻魔大王がある。横尾はこれらの話を聞いて死後の世界の存在を信じるようになる。閻魔大王を本気で怖れ、そのためか20歳で結婚するまで童貞であった。ただし成人後は閻魔大王と眼も合わせられないようなことを多くしたため、ある程度の覚悟をし、その時の恐れを少しでも緩和するために、ときどき人生を振り返りつつ反省することとなったと著書に記している。

                亀との再会

                小川で捕った亀の腹に「タダノリ」と彫り、放流したが、その2-3年後に下戸田で奇跡的に再会。父親と喜び合う。

2024/06/12 09:42更新

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横尾 泰輔(よこお たいすけ)
1975年1月20日生まれの有名人 神奈川出身

横尾 泰輔(よこお たいすけ、1975年1月20日 - )は、元NHK職員で、元アナウンサー。 横浜市立相武山小学校、横浜市立港南中学校、神奈川県立清水ヶ丘高等学校を経て、早稲田大学第二文学部に進…

横尾 渉(よこお わたる)
【Kis-My-Ft2】
1986年5月16日生まれの有名人 神奈川出身

横尾 渉(よこお わたる、1986年5月16日 - )は、日本の歌手、タレント、俳優、俳人。男性アイドルグループ・Kis-My-Ft2およびその派生グループである舞祭組のメンバー。愛称は、ワッター、師…

横尾 まり(よこお まり)
1952年2月21日生まれの有名人 東京出身

横尾 まり(よこお まり、1952年2月21日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。東京都出身。シグマ・セブン所属。 劇団テアトル・エコーの養成所卒業後、外国映画の吹き替えやアニメ作品に多数出演…

横尾博之(よこお ひろゆき)
1966年11月13日生まれの有名人 大阪出身

横尾 博之 (よこお ひろゆき、1966年11月13日 - )は、日本の男性声優。ぷろだくしょんバオバブ所属。 大阪府出身。早稲田大学第一文学部卒業。学生時代は人形劇サークルに所属。以前はマウスプ…

横尾 三郎(よこお さぶろう)
1950年5月11日生まれの有名人 新潟出身

横尾 三郎(よこお さぶろう、1950年5月11日 - )は日本の男性俳優、声優。東京俳優生活協同組合所属。新潟県上越市出身。俳協演劇研究所の第2期卒業。身長171cm。体重64kg。 ロボット1…

ピョコタン(本名:横尾 和慶)
1977年11月18日生まれの有名人 東京出身

ピョコタン(本名:横尾 和慶、1977年11月18日 - )は日本の漫画家。男性。千葉県・市川市出身。千葉県立国府台高等学校卒業。血液型はO型(RH+)。身長は172cm(本人の希望により修正)。 …

横尾 和子(よこお かずこ)
1941年4月14日生まれの有名人 東京出身

横尾 和子(よこお かずこ、1941年4月14日 - )は、日本の厚生官僚。第26代社会保険庁長官、元最高裁判所判事(在任期間:2001年12月19日 - 2008年9月10日、日本で歴代2人目の女性…

横尾 千里(よこお ちさと)
1992年5月22日生まれの有名人 東京出身

横尾 千里(よこお ちさと、1992年5月22日 - )は、日本の女子ラグビーユニオン選手。東京フェニックスRCに所属する。早稲田大学ラグビー蹴球部女子部のヘッドコーチを務める。 東京都出身。 身…

横尾 竜(よこお しげみ)
1883年7月21日生まれの有名人 佐賀出身

7月21日生まれwiki情報なし(2024/06/13 01:06時点)

横尾 和伸(よこお かずのぶ)
1949年9月22日生まれの有名人 東京出身

横尾 和伸(よこお かずのぶ、1949年9月22日 - 1998年4月1日)は、日本の政治家、元参議院議員(1期)。 東京都出身。東京工業大学工学部卒。厚生省課長補佐、同政策課企画官などを経て、公…

横尾 茜(よこお あかね)
1978年10月26日生まれの有名人 山形出身

10月26日生まれwiki情報なし(2024/06/13 01:06時点)

横尾 初喜(よこお はつき)
1979年4月25日生まれの有名人 長崎出身

横尾 初喜(よこお はつき、1979年4月25日 - )は、日本の映像作家、映画監督。長崎県佐世保市出身。株式会社UNITED PRODUCTIONS所属。血液型AB型。妻は女優の遠藤久美子。 長…

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