永島達司の情報(ながしまたつじ) 芸能プロモーター、経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
永島 達司さんについて調べます
■名前・氏名 |
永島達司と関係のある人
林正之助: 「ビートルズを呼んだ男」であるキョードー東京の永島達司は、二周りほど年の離れた自分に対しても丁寧な態度で接してくる田岡と林の態度にも敬意を持ったが、自分たちと客の間の世代の感覚のズレを的確に認識し、その上で周囲に意見を求めるスマートな人物として後のインタビューでもこの二人を賞賛している。 ダド=マリノ: イチノセと密接な関係にあったと噂されるラルフ円福(442退役軍人会)は、大手ブッキングエージェントGACの極東代理人として永島達司とシド・バーンスタイン(Sid Bernstein)の橋渡しをしたとされる興行界で伝説的な人物である。 康芳夫: 同時代の先輩であるキョードー東京の永島達司のようにイベントを「事業」として永続させることはできなかった。 沢村一樹: 昭和〜時代からの遺言〜(2004年8月11日、TBS)「ビートルズを呼んだ男」- 永島達司 内野二朗: その後、ジョンソン基地で将校クラブのフロア・マネージャーをしていた永島達司が立ち上げた新々プロダクションから転職を誘われるも、すぐにはこれに応じず、北海道の米軍千歳基地に勤務してから東京に戻り、新々プロに経理担当者として入社した。 野地秩嘉: 『ヤァ!ヤァ!ヤァ!ビートルズがやって来た : 伝説の呼び屋・永島達司の生涯』(幻冬舎、1999年9月1日) ISBN 978-4877283278 ナンシー梅木: 進駐軍の将校クラブの演芸担当だった永島達司がアメリカの英語曲を歌える歌手として梅木の兄を雇った際に、妹のほうがうまいと聞き、ナンシー梅木の芸名でクラブに出演させるようになったのがきっかけと言われる。 堀義貴: (入社時の保証人は永島達司。 江利チエミ: 若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。 |
永島達司の情報まとめ
永島 達司(ながしま たつじ)さんの誕生日は1926年4月26日です。東京出身の芸能プロモーター、経営者のようです。
兄弟、姉妹、父親、卒業、結婚、映画、引退に関する情報もありますね。1999年に亡くなられているようです。
永島達司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)永島 達司(ながしま たつじ, 1926年4月26日 - 1999年5月2日)は、日本初のプロモーター。1953年に「新々プロダクション」を設立。1957年に社名を協同企画(現・キョードー東京)に変更。 戦後の海外アーチストの日本公演を手掛けた第一人者であり、ナット・キング・コール、ベンチャーズ、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、シュープリームズ、スティービー・ワンダー、レッド・ツェッペリン、アンディ・ウィリアムス、サイモンとガーファンクルをはじめ、ビートルズを日本に呼んだプロモーターとして知られる。海外ではタッツ・ナガシマの愛称で呼ばれた。 1926年4月26日、神奈川県保土ケ谷町(現・横浜市保土ケ谷区)に5人兄弟姉妹の次男として生まれる。三菱銀行勤務であった父・忠雄の転勤に伴い、2歳でニューヨークに移り住む。4歳でロンドンに移り、8歳の時に一時帰国したが、12歳の時に父親がニューヨーク支店長となり再びニューヨーク州ウエストチェスターに。当時、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、在来の日本人や日系移民への圧迫を強めていた時期であったが、アメリカ東部の住宅街では、日本人を差別することもなかった。永島は身長も高い方であったので、クラスメートにいじめられた記憶はないという。この少年時代に、ジャズやポピュラー音楽と出会い、夢中になる。15歳の時に帰国。 終戦後の1945年、永島が早稲田第一高等学院(旧制)3年生の時、路上で進駐軍のトラックに呼び止められ、ビールの醸造所に案内したのがきっかけで、ホテルの進駐軍将校用クラブで通訳を始め、その後GI向けの芸能担当となる。永島の流暢で美しい英語が米兵の間で評判になり、ジョンソン基地・将校クラブの支配人になる。この時期に、日本人ジャズシンガーのマネジメントを行っている。早稲田大学法学部卒業(基地でアルバイトをしていた時期に、理工学部から転学)。 1952年、永島はジョンソン基地の将校クラブを退職し、アメリカ人の知人2人と、進駐軍のクラブにミュージシャンを斡旋するSNプロダクションを始める。1957年には協同企画(現・キョードー東京)を設立。設立後、ナット・キング・コール、ビートルズ、エルトン・ジョンやマイケル・ジャクソンなど大物ミュージシャンを呼び、興行を成功させている。ニューラテンクォーターの開店に関わり、多くの世界的アーチストを出演させ、同店を伝説的ナイトクラブに育てた。 1962年には洋楽専門の著作権管理会社「大洋音楽」を設立し社長を兼任。業界の第一人者としての立場を確立した後も表舞台に出ることなくミュージシャンへの接待に徹している。ビジネスライクなプロモーターが多いなか、私生活面でも面倒見がよいことから海外ミュージシャンから高い評価を得た。永島は、仕事で知り合った外国人タレントに「タツの英語はエリザベス女王みたいだ」と言われるほどの完璧で上品な発音の英語を話す。身長も180cmを超える長身で、彫りの深い顔立ちで美男子であった。アメリカ人からは「ハンガリー系なのか」と質問される事もあったという。 生前「向こうの曲に日本語の歌詞をのせたものには昔、すごく違和感持ってたんですけど、ジャズ・ブームのころに日本語で歌った江利チエミや雪村いづみは売れたわけだし、ビートルズを日本風にアレンジしたGSも支持されましたよね。フォークだって吉田拓郎や、ロックではサザンオールスターズとか、オリジナルなものを日本ぽく、極端にいえば演歌っぽく仕立てたアーティストが日本では売れる。逆に言えば技術的な面では海外でもひけはとらないが、言葉が障害になってるということですね。僕も生きてる間に日本の音楽が世界的にはやるのを見てみたいですね」と話していた。 1995年、俳優の本木雅弘と内田也哉子夫妻の仲人を務めた。1998年6月8日、ロンドンでのセント・マーティン教会で行われたリンダ・マッカートニーを追悼するメモリアル・サービスには、日本人では永島だけが招待された。1999年5月2日、肺炎により73歳で死去。 父親の永島忠雄は東大法科卒業後、大正7年に三菱合資入社、三菱銀行の取締役まで務めたのち、昭和24年に三菱海運に移り、社長となった。妻は1953年3月28日に結婚した女優の藤田泰子。子にトムとジョージ。長男のトム永島(永島智之)もキョードー東京に務めた後、トライセラトップスらが所属するトリニティー・アーティストにて、音楽プロモーターをしている。 ^ 太平洋戦争開戦の4ヶ月前・1941年8月。 ^ ポール・マッカートニーの妻。 ^ ポール・マッカートニーは永島の妻に手紙を送っている。 ^ 泰子は映画界を引退。 ^ 野地 1999, p. 16. ^ Tatsuji "Tats" Nagashima Billboard 29 May 1999 ^ 集英社編「ビートルズはこうして日本へやって来た」『週刊明星・臨時増刊 ビートルズ来日記念デラックス号』集英社、1966年6月25日号(No.25)。p. 71-75. ^ “「会いたいとは書かなかった」ポール・マッカートニーに会った日本人ライターがFAXに書いたこと”. PRESIDENT Online (2022年1月16日). 2022年1月18日閲覧。 ^ 村田久夫・小島智 1999, pp. 17–20. ^ 野地 1999, p. 41-46. ^ The Untold Story Of How Star Started Oscar TrailThe Evening Independent - Jun 19, 1963 ^ 野地 1999, p. 46-48. ^ 野地 1999, p. 64. ^ 「ビートルズ来日完全レポート」『音楽専科 THE BEATLES CATALOG』音楽専科社、1976年4月増刊号。p. 23-37. ^ 石原裕次郎の最後の言葉、一晩3400万円のギャラだった歌手は? 「ニューラテンクォーター」元社長が明かす知られざる舞台裏デイリー新潮、2022年12月15日 ^ Talent Scene Has ChangedBillboard 19 Dec 1970(日本特集号) ^ 野地 1999, p. 31. ^ 野地 1999, p. 316-320. ^ 野地 1999, p. 309-314. ^ THE SUN, the United Kingdom: News International, 1998.june.9, pp. 1, 4-5. ^ 野地 1999, p. 323. ^ 平井岳哉「シニア経営者によるグループ企業間調整」 『経営史学』第28巻第4号1994284より「1959年における主な三菱系企業トップマネジメント層のキャリア」宇田川勝「戦後型企業集団の形成活動-三菱グループ・石黒俊夫/三井グループ・江戸英雄-」(日本の企業家活動シリーズ No.31)、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2002.10.16 ^ 野地 1999, p. 59-65. ^ LifelinesBillboard 29 May 1999 野地秩嘉『ヤァ!ヤァ!ヤァ!ビートルズがやって来た―伝説の呼び屋・永島達司の生涯』幻冬舎、1999年10月10日。ISBN 4-87728-327-7。 村田久夫・小島智編『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』シンコーミュージック、1999年10月14日。ISBN 4-401-613-40-6。 キョードー東京 内野二朗 ビートルズ ナンシー梅木 - 永島の知り合いの妹だったことから永島に見いだされ歌手となった ホリプロ - 副会長の堀一貴が大洋音楽出身 THE BEATLES を呼んだ男!永島達司 日本公演の舞台裏 「ビ-トルズを呼んだ男」伝説のプロモーター永島達司、その素顔とは?吉成伸幸、ミュージックカレンダー、2016年04月26日 日本の音楽プロモーター ビートルズの関連人物 早稲田大学出身の人物 早稲田大学高等学院・中学部出身の人物 神奈川県出身の人物 帰国子女 1926年生 1999年没
2024/11/10 03:00更新
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