沢村忠の情報(さわむらただし) 格闘家/キックボクシング 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
沢村 忠さんについて調べます
■名前・氏名 |
沢村忠と関係のある人
山崎照朝: だがNETは沢村忠の30連勝をストップしたルンピニーランカーのカンナンパイ・ソントーンを、対戦相手に用意していることに心引かれ、『1,2戦のみだけではだめですか? キックボクシングがどういうものか知りたいし、そのカンナンパイと戦ってみたいのですが…』と大山館長にお願いした」と吐露している。 添野義二: 4月15日にデビュー戦を行い、沢村忠の連勝記録をストップしたムエタイのカンナンパイ・ソントーンに惜敗したが、試合内容から「沢村より強い」と注目を集めた。 フランシスコ=フィリォ: その主人公沢村忠(ブラジル人には、サワムラという名字が「サヴァムー」と聞こえていたという)の活躍にフィリォは憧れ、強い男になりたいという思いが芽生えたという。 小林亜星: 『キックの鬼』オープニング「キックの鬼」/沢村忠、少年少女合唱団みずうみ、エンディング「キックのあけぼの」/沢村忠 山崎照朝: この頃の山崎は沢村忠より強いと評価され、ムエタイのトップランカーは「山崎と戦うのは嫌だ!」と尻込みして恐れるほどの存在だったため、プロモーターやNET関係者は山崎をキックボクシングへ戻そうと、今まで以上に積極的に説得し続けた。 山崎照朝: ところが、カンナンパイを1RKO勝利したことでワールドキックボクシングは、TBSの沢村忠、日本テレビの大沢昇に対抗すべくエースとして、山崎照朝に白羽の矢を立てたのである。 白羽玲子: キックボクシング選手として、真空飛び膝蹴りで一世風靡した沢村忠の娘として生まれる。 五木ひろし: 沢村忠 - 五木と共に野口プロモーション所属 佐山聡: しかし、小学校4年時にキックボクシングのテレビ番組で沢村忠を見たことで格闘技に興味を惹かれるようになる。 山崎照朝: 対戦相手には沢村忠を19回ダウンさせてKO勝ちしたムエタイのルンピニーフェザー級8位であるサマンソー・アディソンが選ばれた。 ライオン野口: 野口は嘉納健治による東京のボクシング選手大量引き抜きで移籍した1人であるというのが通説だが、長男の野口修の証言『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』によると、柔拳をやっていた縁で嘉納に勧誘されたという。 朝倉宏二: キックの鬼(沢村忠) 石川顕: キックボクシング選手の沢村忠の決め技「真空とびひざげり」の命名者。 石川顯: キックボクシング選手の沢村忠の決め技「真空とびひざげり」の命名者。 五木ひろし: マイクを左手で持ち、右手は拳を握り締め、腰をシェイクさせてリズムを採る独特の歌唱スタイルは、同じ野口プロモーションに所属していたキックボクサー・沢村忠の“ファイティング・スタイル”からヒントを得たもので、物真似をされるほどに五木の代名詞として定着してゆく。 |
沢村忠の情報まとめ
沢村 忠(さわむら ただし)さんの誕生日は1943年1月5日です。旧 満州出身の格闘家
キックボクシングのようです。
子役、テレビ、ドラマ、卒業、映画、退社、引退、結婚、離婚、事故、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2021年に亡くなられているようです。
沢村忠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)沢村 忠(さわむら ただし、1943年〈昭和18年〉1月5日 - 2021年〈令和3年〉3月26日)は、日本のキックボクサー。剛柔流空手道参段。満洲国出身。本名:白羽 秀樹(しらは ひでき)。娘はタレントの白羽玲子。半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた。 幼少より祖父から剛柔流空手道を習う。祖父からは中国武術も習っていた模様。幼少期には子役として「劇団そらまめ」という児童劇団に入っており、将来は役者を目指していた。実際に中学3年生のときには新東宝の新東宝スターレットに合格し、「城哲也」の芸名でテレビドラマ等へ出演していたが、新東宝の倒産に伴い芸能活動休止を余儀なくされる。 その後法政大学第一高等学校を卒業し、大映に入社。大映の研修の一環として日本大学芸術学部映画科に入学した。この頃は俳優の道を諦め脚本家を目指していたようで、在学中に執筆した脚本がテレビドラマで採用されたこともあるという。一方で、大学でも名門の日本大学芸術学部剛柔流空手部に入り、在学中には全日本学生空手道選手権で優勝。60戦無敗であった。野口修はその実力を評価し、キックボクシングに勧誘し、結局大学を卒業すると同時に大映を退社、野口ジムに入る。 1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネームを“沢村忠”として参戦。リングネームは、1964年(昭和39年)に空手道代表としてルンピニー・スタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した中村忠に由来する。野口はその強さにあやかり、「沢村忠」と命名した。大阪府立体育館で行われたデビュー戦は“空手vs.ムエタイ”と銘打たれた試合で、ラークレイ・シーハーマンを2RKO勝利した。6月にはリキパレスで、ムエタイのルンピニーフェザー級8位のサマンソー・アディソンと対戦したが、16度のダウン(19の報道もあり)を奪われ25ヶ所以上の打撲を負い、4RKO負けを喫した。 しかし、この敗北を機に特訓を積み、当時、YKKアワー キックボクシング中継の実況をしていた石川顕(当時:東京放送アナウンサー)が命名した真空飛び膝蹴りや飛び前蹴りを武器にKOを重ね、活躍。1973年には三冠を達成したプロ野球の王貞治(読売ジャイアンツ)を抑え、日本プロスポーツ大賞を獲得した。この当時は1969年(昭和44年)の「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)創刊号をはじめ、「週刊少年マガジン」(1968年47号)など幾つか一般雑誌の表紙を飾る人気だった。 1976年(昭和51年)7月2日に最終試合を行い、翌年の10月10日に引退式を行った。最終成績は、241戦232勝(228KO)5敗4分(一説には500戦以上戦歴があるともされている)であった。 藤本勲との雑誌での対談等で、一時期「引退後、後遺症により精神病院に隔離」「死亡した」という説が出回り、沢村の活躍を知る年輩者には噂話として広まっていたといい、本人も居酒屋に行った際たまたま隣の人からその話題になり、適当に相槌を打って聞いていたというエピソードがある。 梅宮辰夫と結婚・スピード離婚した銀座「姫」のホステス・大門節子と婚約した後、すぐに解消した。沢村は結婚する気がなく、マスメディアに大きく報道されたため、TBSテレビの部長に相談したら「美談になるからとにかく発表しちゃえ。発表すればスキャンダルにならずに済む」とアドバイスし、その通り、婚約発表後は2人の前途を祝福する記事で溢れたが、結局婚約解消している。引退後は、格闘技界との関係を全て断ち切り、自動車の修理販売業を営むかたわら、子供達に空手を教えていた。パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの常務取締役でもあった。 2021年3月26日、千葉県の病院で死去。78歳没。前年夏に血痰が出るなど体調が悪化し、肺がんが進行した状態で見つかったという。その後は療養中だった。 あまりにも試合が多く、短いインターバル期間では足の腫れがひかないこともあった。そんなときは「炊いた飯をタオルにくるんで足を温めることで無理矢理治していた」と『Sports Graphic Number』のインタビューで答えている。この他、熱湯を患部にかけて間に合わせたり、額の傷が治らないうちに試合を行う際には黒いストッキングを巻いて急場をしのいでいたと語っている。 キックの鬼が放映されていた頃、試合で真空飛びひざ蹴りをしたとき、あるファンから「手抜きするな!」と野次られたという逸話がある。「アニメの真空飛び膝蹴りは高く飛ぶが、実際はそこまで飛ばないため、そう思われたのであろう」と、のちに本人が懐かしのアニメソングの番組の中で語っている。 佐山聡は「格闘技を好きになったのは、小学生の時に沢村さんをテレビで観てから。最初にお会いできた時にはもうびっくりしちゃって・・・。その時にキックを教えてもらったんですが、理論がしっかりしていて驚いた。それまでいろんなキックボクシングジムでいろんなテクニックを教わり、なんでこうなるんだろう?という疑問が、沢村さんに教わり、全部解決した」と語っている。 沢村の試合の殆どはショーであったとされるが、当時の沢村を知るものの多くは沢村が実戦を志向しており実力も備わっていたと証言している。沢村の対戦相手はきちんとした現役の選手であり、当時の時代背景上シュートを仕掛けられるリスクもあったため、実力は備わっていなければならなかった。また、ショーを成立させるためにも実力は必要であった。 本人はまったく「アルコールを受け付けない体質」であるが、仲間の付き合いで居酒屋などには赴いた。この他他人の運転では乗り物酔いを起こしやすく、小学校時代バスで日光にいく遠足を、いろは坂が怖くて取りやめたことがあるという。 1970年代前半、日本に2台しかないシボレー・コルベットの所有者だった。しかし、もう一人の所有者大場政夫が同車運転中に事故死したため、沢村は手放した。 日本キックボクシング協会東洋ミドル級王座(防衛14) 日本キックボクシング協会東洋ライト級王座(防衛20) いかす街だぜ(1969年、歌手デビュー作) キックの鬼(1970年。アニメ「キックの鬼」主題歌。B面は同エンディングテーマ「キックのあけぼの」) いずれも監修である。 『キックボクシング入門 観戦の手引き』秋田書店<カラー版 ジュニア入門百科>、1969年 『闘技入門』産報<サンポウ・ダイナミックス>、1972年 ごろつき (1968年) - キックボクサー 任侠興亡史 組長と代貸 (1970年、東映) 極悪拳法 (1974年6月29日、東映)- 辰巳丑寅 帰ってきたウルトラマン 第27話「この一発で地獄へ行け!」(1971年、TBS) - 本人 変身忍者 嵐 第36話「耳をふさげ! 地獄の呼び声だ!!」(1972年、MBS) - 百地三太夫の弟子・沢村忠 ザ・ボディガード 第2話「よみがえる栄光の日々」(1974年、NET) - 一文字竜 闘え!ドラゴン 第21話「黒い殺しのライダー」(1974年、東京12チャンネル) - 木枯らし CRキックの鬼 - 2005年(平成17年) 『キックの鬼』 - 原作:梶原一騎、作画:中城けんたろうの漫画、およびそれを原作とするテレビアニメ 『キックの鬼 沢村忠物語かるた』梶原一騎、光明社、1970年発売 『キック魂』 - 原作:梶原一騎、作画:南波健二 『格闘王V』 - 原作:梶原一騎、作画:みね武 驚きももの木20世紀・キックの鬼 沢村忠の真実(1999年、朝日放送) - 放送当時の生活を紹介 また、水木しげるの漫画『コケカキイキイ』に登場する。 ポケットモンスターのキャラクターの一種であるサワムラーは、沢村の名を元にしてつけられた。 ^ 台本では山村忠。 ^ 時代劇作品であるにも関わらず、演者そのままの役名とボクシングウェアで出演。真空飛び膝蹴りを劇中で披露。 ^ ““真空飛び膝蹴り”「キックの鬼」沢村忠さん死去…78歳”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2021年4月1日). https://hochi.news/articles/20210331-OHT1T50334.html 2021年4月1日閲覧。 ^ “「キックの鬼」沢村忠さん死去 昭和のブーム立役者”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2021年4月1日). https://www.daily.co.jp/general/2021/04/01/0014203847.shtml 2023年3月31日閲覧。 ^ 「キックの鬼」こと沢村忠の原点は中国武術と芸能への憧れ - 日刊ゲンダイDIGITAL・2021年7月16日 ^ 大蔵貢社長の独裁で「新東宝」に歪み…“エログロ路線”も下降線をたどる - 日刊ゲンダイDIGITAL・2021年7月17日 ^ 俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈沢村忠の真空飛び膝蹴り〉 - リアルライブ・2015年6月19日 ^ 高田文夫は「授業へ出る足を止めていつも沢村先輩のキックを見ていた」と述懐 - 日刊ゲンダイDIGITAL・2021年8月18日 ^ 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、47頁。 ^ 「沢村忠×佐山聡」『ゴング格闘技7月号増刊-異種格闘対談-GONKAKU Remix CROSS TALK BATTLE Vol.1』 日本スポーツ出版社、2003年(平成15年)、188-191頁。 ^ 「極真の龍と呼ばれた男-山崎照朝伝(後編)」『フルコンタクトKARATE』 福昌堂、11月号、1995年(平成7年)、50頁。 ^ 『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)、141頁。 ^ 「【あの人は今こうしている】石川顕(TBSアナウンサーだった)」 ゲンダイネット、2008年(平成20年)8月5日。 ^ 『異種格闘対談 Vol.1』(『ゴング格闘技』7月号増刊ムック)日本スポーツ出版社、2003年、 ^ 『実話ナックルズ VOL.16』 2003年4月、 ^ 魔窟・銀座の「みかじめと愛欲」60年戦争(6)口説けないなら番組に出す ^ 竹中労「座談会 ナレ合い芸能記事の製造工程 どこを向いても"御用記者"だらけー第一線のコワモテ記者が、巧妙なカラクリを明かす」『噂』1971年12月号、噂発行所(梶山季之個人誌)、99–103頁。 ^ 「キックの鬼」沢村忠さんが死去 肺がんで入院 日刊スポーツ 2021年4月2日1時57分 (2021年4月4日閲覧) ^ “キックの鬼”沢村忠さんは引退後、9年間消息不明に…その間何をやっていたか【2021年墓碑銘】 - デイリー新潮 2021年12月18日 ^ 祝康成、2002年、 ^ 「キックボクシング生誕三十周年記念特別企画第二弾!! キックの帝王 沢村忠を読む。」『ゴング格闘技』No.45 1996年6月8日号、日本スポーツ出版社、 ^ 【追悼】“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか? 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する(1/5ページ) NumberWeb 2021/04/01 11:04 (2022年5月9日閲覧) ^ 【追悼】“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか? 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する(2/5ページ) NumberWeb 2021/04/01 11:04 (2022年5月9日閲覧) ^ 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する(3/5ページ) NumberWeb 2021/04/01 11:04 (2022年5月9日閲覧) ^ 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する(4/5ページ) NumberWeb 2021/04/01 11:04 (2022年5月9日閲覧) ^ 全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する(5/5ページ) NumberWeb 2021/04/01 11:04 (2022年5月9日閲覧) ^ ケーシィ、アーボ、カビゴン……あのポケモンの意外な名前の由来とは!?ニコニコニュース 2016年1月25日 岡本典久・下村敦夫『それゆけ!フルコン探偵団 - 格闘技探偵の事件簿』(『フルコンタクトKARATE』別冊)福昌堂、1997年 B00K73CI2I 祝康成 「沢村忠・道」『Sports Graphic Number』2000年1月号、文藝春秋、2000年、120-126頁、ISBN 4160081096 山崎浩子『引退―終わらない夢』エイ出版社、2000年 ISBN 978-4870993617 加部究『真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説』文春ネスコ、2001年 ISBN 978-4890361397 『Fight&Life』2010年4月号 フィットネススポーツ隔月刊版 ASIN:B0036YPE9O 男子キックボクサー一覧 日本のキックボクシング地域王者一覧 表 話 編 歴 1968 西城正三 1969 読売ジャイアンツ 1970 大鵬幸喜 1971 長嶋茂雄 1972 松本勝明 1973 沢村忠 1974 王貞治 1975 広島東洋カープ 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 ヤクルトスワローズ 1979 具志堅用高 1980 具志堅用高 1981 中野浩一 1982 落合博満 1983 広岡達朗 1984 衣笠祥雄 1985 ランディ・バース 1986 落合博満 1987 岡本綾子 1988 千代の富士貢 1989 千代の富士貢 1990 野茂英雄 1991 辰吉丈一郎 1992 貴花田光司 1993 三浦知良 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 尾崎将司 1997 中田英寿 1998 佐々木主浩 1999 松坂大輔 2000 松井秀喜 2001 イチロー 2002 FIFAワールドカップ日本代表 2003 松井秀喜 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 2007 浦和レッドダイヤモンズ 2008 石川遼 2009 石川遼 2010 白鵬翔 2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 2012 阿部慎之助 2013 田中将大 2014 錦織圭 2015 ラグビー日本代表 2016 大谷翔平 2017 福岡ソフトバンクホークス 2018 大谷翔平 2022 井上尚弥 2023 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 VIAF 日本 日本のキックボクサー 剛柔流 日本の引揚者 法政大学高等学校出身の人物 日本大学出身の人物 満洲国出身の人物 長春出身の人物 肺癌で亡くなった人物 新東宝の俳優 日本の男優 1943年生 2021年没 出典のページ番号が要望されている記事 無効な出典が含まれている記事/2021年 2024/11/09 20:54更新
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