田中耕太郎の情報(たなかこうたろう) 裁判官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
田中 耕太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
田中耕太郎と関係のある人
賀屋興宣: 一高の同級生には英法科では河上丈太郎、神川彦松、河合栄治郎(経済学者)、渋沢正雄、ほか独法科の田中耕太郎、永野護など。 長谷川才次: 例外的に、田中耕太郎の講義は長谷川の関心を惹いた。 高橋誠一郎: 1947年(昭和22年):(田中耕太郎に代わり)第一次吉田内閣で文部大臣。 鈴木竹雄: 田中耕太郎門下。 大倉喜七郎: 役員には他、副会長姉崎正治、和田英作、原忠道、田中耕太郎、団伊能、矢代幸雄などが就任し、イタリア学士院副院長のカルロ・フォルミキ教授(Carlo_Formichi)を交換教授として招聘したり「ファシストイタリア」と題する展覧会開催などの活動をした。 内村鑑三: 岩永裕吉、金井清、川西実三、黒崎幸吉、沢田廉三、膳桂之助、高木八尺、田中耕太郎、田島道治、塚本虎二、鶴見祐輔、前田多門、三谷隆正、森戸辰男、藤井武らがメンバーになった。 ヘイッキ=コバライネン: この年から田中耕太郎エンジニアの勧めでコバライネンがファーストドライバーとなり、SUPER GTに慣れている平手がセカンドドライバーとしてコバライネンのセッティングに合わせる方法を採った。 飯守泰次郎: 文部大臣、最高裁判所長官を歴任した田中耕太郎は伯父。 土方成美: これについて本人は、河合のみを辞職させることは言論の自由を標榜する大学としてはできないため、当時の経済学部長舞出長五郎と法学部長田中耕太郎が事情を知らない新総長の平賀に自分を追放するための情報を一方的に流して追放させた、としている。 谷川徹三: 戦後短期間、博物館次長に在任中に館長の安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎らと昭和天皇の話し相手をしたことをたびたび述べることで、象徴天皇制を擁護している。 下条康麿: 下条は同じ無所属で当選した河井彌八、松平恒雄、佐藤尚武、田中耕太郎、高橋龍太郎、山本有三らと語らって緑風会を結成する。 清沢洌: 1941年2月26日、情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳、等)。 志賀直哉: 敗戦が近づくと直哉は外務大臣(当時)の重光葵の意向を汲み、安倍能成、加瀬俊一、田中耕太郎、谷川徹三、富塚清、武者小路実篤、山本有三、和辻哲郎とともに「三年会」を結成する。 徳冨蘆花: 第二次大戦後、言論の自由が保障されてから田中耕太郎、森戸辰男が演説に言及した。 草場良八: 歴代最高裁長官人事について、吉田茂が田中耕太郎に固執し、佐藤栄作がリベラル派の田中二郎を排して、保守派の大物石田和外を登用した。 |
田中耕太郎の情報まとめ
田中 耕太郎(たなか こうたろう)さんの誕生日は1890年10月25日です。鹿児島出身の裁判官のようです。
現在、卒業、結婚、事件、家族に関する情報もありますね。1974年に亡くなられているようです。
田中耕太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者・法哲学者、裁判官。専門は商法。学位は法学博士。東京帝国大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲、正二位を追贈された。松本烝治に師事。弟子に山尾時三、伊沢孝平、西原寛一、鈴木竹雄、石井照久、矢沢惇など。 裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。 高等小学校2年次に岡山中学入学。次いで父の赴任に従って新潟中学を経て、1908年(明治41年)福岡県立中学修猷館卒業。修猷館の同期には、青山学院院長、古坂嵓城がおり、親友であった。第一高等学校と海軍兵学校の両方に合格し、父の勧めで第一高等学校へ進学。1911年(明治44年)第一高等学校独法科を卒業後、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)に進学。在学中の1914年(大正3年)には高等文官試験行政科に首席合格している。1915年(大正4年)、東大を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。同期には唐沢俊樹らがいた。 内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で、無教会主義キリスト教の内村鑑三に薫陶を受ける。 欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。1924年(大正13年)、商法講座の前任者であった松本烝治の娘峰子と結婚し、峰子の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)4月に岩下壮一を代父として、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマンより受洗している。田中はカトリックへの接近に伴って、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』をはじめとする豊かな成果が生み出された。1929年(昭和4年)、法学博士の学位を授与される。1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部長に就任する。 1941年(昭和16年)5月、帝国学士院(日本学士院の前身)会員に選定される。 1945年(昭和20年)10月には文部省学校教育局長に転ずる。1946年(昭和21年)2月21日、学校教育長として、全国教学課長会議で、教育勅語は自然法的真理であると演説した。同年5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。6月に貴族院議員に就任。 1947年(昭和22年)に参議院選挙に立候補し、第6位で当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。 1950年(昭和25年)に参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である。長官在任期間は3889日で歴代1位。就任した年に訪米。フォーダム大学から名誉法学博士、ジョージタウン大学から名誉学位を受けた。 1949年(昭和24年)に三淵前長官時代に発生していた最高裁判所誤判事件については、1950年(昭和25年)6月24日に担当4判事を1万円の過料を科すことで決着させた 1953年(昭和28年)1月には法曹会の機関誌「法曹時報」に寄稿し、法廷の秩序維持を指摘し「法廷秩序の破壊を目的にした傍聴人の入廷は禁ずる。裁判官やその家族を脅迫する電報などは公務執行妨害や強要罪で処罰する。被告の氏名、住所の黙秘は権利として認められない」など具体例をあげて裁判の威信保持、審理妨害の排除を強調した。 最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、松川事件の裁判について、広津和郎が月刊誌『中央公論』で展開していた裁判批判に対し、1955年(昭和30年)5月の裁判所の長の合同での「訴訟外裁判批判は雑音である」と述べた訓示や、同事件の最高裁の差戻し審判決の多数意見を「木を見て森を見ざるもの」であるとした少数意見などがある。最高裁判事に思想検事系列の池田克が起用されていたように、「治安維持の一翼」を積極的に担ってゆく方針の下、「公安事件」には厳しい判断を下していった。レッドパージ訴訟では最高裁大法廷の裁判長としてレッドパージを「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」と判決した。1952年の警察予備隊違憲訴訟では最高裁大法廷の裁判長として付随的違憲審査制を採ることを判決した。 砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下す(1959年(昭和34年)12月16日)が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世との“内密の話し合い”と称した、日米安全保障条約に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に、またマッカーサー大使には「伊達判決は全くの誤り」と述べ破棄を示唆した事が、2011年に機密解除になった公文書に記されている。 果ては上告審の日程や結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密指定解除となったアメリカ側公文書で2013年4月に明らかになった。当該文書によれば、田中はウィリアム・カーン・レオンハート(William Kahn Leonhart)駐日アメリカ首席公使に対し、 「判決はおそらく12月であろう。(最高裁の結審後の評議では)実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で(評議が)運ばれることを願っている」 と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。 田中は砂川事件上告審判決において、 「かりに(中略)それ(=駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」 との補足意見を述べている。 機密解除された米国公文書(田中長官砂川事件判決に関するもの)の具体的内容は以下である。 「内密の話し合いで、田中長官は、日本の手続きでは審理が始まったあと、判決に至るまでに少なくとも数ヶ月かかると語った」(1959.4.24) 「共通の友人宅での会話のなかで、田中耕太郎裁判長は、砂川事件の判決はおそらく12月であろうと考えていると語った。裁判長は、争点を事実問題ではなく、法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。彼の14人の同僚裁判官たちの多くは、それぞれの見解を長々と弁じたがる。裁判長は、結審後の評議は実質的な全員一致を生み出し、世論をゆさぶる素になる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した」(1959.8.3) 「田中裁判長は、時期はまだ決まっていないが、最高裁が来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと語った。裁判官のいく人かは、手続き上の観点から事件に接近しているが、他の裁判官たちは法律上の観点からみており、また他の裁判官たちは憲法上の観点から問題を考えていることを田中裁判長は示唆した」(1959.11.5) 1956年2月25日は最高裁裁判官会議で「公権力の行使や国家意思の形成に携わる公務員には日本国籍が必要」との内閣法制局の見解を準用して、外国人を司法修習生に採用しないことを決定して司法修習生の国籍条項を設置した(1977年3月に司法修習生の国籍条項は残したまま「相当と認めるものに限り、採用する」との方針を示し、2009年に国籍条項が撤廃された)。 長官在任中に上告事件が急激に増えて事件処理が遅れた1957年頃には、憲法問題のみを扱う最高裁と民事・刑事を扱う上告裁判所を設置する最高裁機構改革法案に意欲を見せていたが、同法案は廃案となった。 1961年(昭和36年)から1970年(昭和45年)にかけて、国際司法裁判所(ICJ)判事を務めた。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年(昭和41年)の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。ジャーナリストの末浪靖司は、砂川事件差し戻しについて、判決翌年の1960年(昭和35年)にアメリカ側にICJ判事選挙立候補を伝え、支持を取り付けている事から、アメリカの論功行賞狙いだったのだろうと見ている。1970年(昭和45年)2月9日、帰国。 1974年(昭和49年)、新宿区の聖母病院において死去。 聖公会からカトリックに改宗していた妻・峰子の影響を受けて、無教会主義キリスト教からカトリックに改宗している。以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱えた。なお、大学時代に「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋い焦がれたエピソードもある。 第二次世界大戦末期には、南原繁、高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。敗戦まで16年獄中にいた日本共産党幹部の志賀義雄が一高の同窓生であることもあって、食料や本などの差し入れを続け、戦時中は軍部にとって要注意人物とされた。しかし、最高裁判所長官就任後に、「田中長官、共産主義の仮面を痛撃『目的は憲法の否定』」と報じられるなど、戦前も戦後も、一貫して反共主義者であった。また、退官後に東京新聞へ寄稿した中で「独立を保障されている裁判所や裁判官は、政府や国会や与野党に気兼ねをする理由は全然ない」と述べた。東京新聞はコラム『筆洗』で、砂川事件大法廷判決の背景を引き「厚顔とはこのような人物をいう」と批判している。 1949年5月13日、参議院で優生保護法による人工妊娠中絶に経済的理由を追加する事に反対し、「一家が貧乏だから四人の子供を二人にしろ、人口八千万が多過ぎるから六千万にしろ、そういう考えこそ、これはフアツシヨ的、全体主義的の思想であります。国がそれを指導するに至つては言語道断だというふうに考えるのであります。外国にそういう事例があるとしても、外国ではこの弊害に懲りておる。日本だけがそういう陰惨な方法を用いなければならないということは国際的正義人道の精神に反する。それを外国で若し日本に押付けようとするものであるならば、我々は堂々と国際的法廷において、それを広く世界人道及び正義の観念から、我我は断乎として今後闘わなければならぬと思うのであります」と発言した。 1957年8月19日の、皇太子明仁親王と正田美智子との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。 父・田中秀夫 - 佐賀藩士・田中関太郎の長男。函館地方裁判所検事正 妻・峰子 - 松本蒸治の娘。峰子の母方の祖父は小泉信吉、母方叔父に小泉信三 妹・スミ - 朝鮮貯蓄銀行頭取・植野勲(東京帝大卒、元大蔵省)の妻。義兄(勲の姉の夫)に本多辰次郎。 弟・飯守重任 - 元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長。長沼ナイキ事件のいわゆる「平賀書簡問題」では札幌地裁所長(平賀健太を擁護)。嶋中事件の裁判では東京地裁刑事部判事。 専門は商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。商法学者として研究を始めた彼は、手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけたことで知られている。商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。実質的意義の商法について「商的色彩論」を提唱した。 最高裁判所長官としての田中は、日本国憲法で規定されている裁判官の自由裁量権を侵害する職権乱用措置を行ったと家永三郎に批判されている。 前述の「雑音訓示」で、「我々裁判官としては世間の雑音に耳をかさず」云々と、一般市民による裁判批判の必要性を否定したが、訴訟外批判に耳をかすかかさないかなどは、日本国憲法76条により、裁判官の良心の自由に属するものであり、最高裁判所が指示するものではない。 1952年1月の全国刑事裁判官会同における訓示中で、「訴訟指揮に任ずる裁判官は、審理の円滑な進行に努力すべきこと勿論でありますが、摩擦波瀾を回避せんとするの余り、消極的退えい的態度に終始するがごときは裁判の目的達成を不可能ならしめるばかりでなく、延いては裁判の権威の甚しい失墜を招来するのであります」と述べたが、これは刑事訴訟法294条による訴訟指揮権の行使に事前指示を与えていることであり、司法行政監督権の濫用である。 「個人的論文」において、共産主義諸国を「国際的ギャング」と罵り、「国際的ギャング」に対抗しアメリカ等の諸国との連繋を固くする政治的信念をもつことこそ、裁判官に不可欠の条件であり、「これに対し信念を欠き、又懐疑的な者は裁判官として適当であるとはいえ」ず、「安んじてその地位に止まり得ないわけである」と放言した。これは、最高裁の再任指名権を暗示して、下級裁判所の裁判官を威嚇したものであり、裁判官に対する悪質な圧迫である。 1958年、イタリア文化勲章受章。 1960年、西ドイツ大十字勲章受章。 1960年11月3日、文化勲章受章。 1964年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。 1970年4月29日、勲一等旭日桐花大綬章受章。 1974年3月1日、叙正二位。大勲位菊花大綬章(没後の3月2日に閣議決定したもの)。 『合名会社社員責任論』(有斐閣、1919年、復刻版1989年) 『法と宗教と社会生活』(改造社、1927年) 『商法研究』(岩波書店(全2巻)、1929年) 『世界法の理論』(岩波書店(全3巻)、1932-1934年、復刻版1973年) 『法と道徳』(春秋社、1947年) 『会社法概論』(岩波書店、1953年) 『法律学概論』(学生社、1953年、新版1968年ほか) 『法の支配と裁判』(有斐閣、1960年、復刻版1997年) 『教育基本法の理論』(有斐閣、1961年、新版1981年ほか) 『田中耕太郎著作集』(春秋社(全10巻)、1954-1966年)
『続世界法の理論』(有斐閣(上・下)、1972年) 「ソロヴィヨフの法哲学――とくに自然法と実定法の関係について」『法哲学四季報』第1号(1948年) 『学生の疑問に答える』(毎日新聞社、1956年) 『現代生活の論理』(春秋社、1957年) 『現代知性全集 30 田中耕太郎集』(日本書房、1959年) 『象牙の塔から』(春秋社、1962年) 『ラテン・アメリカ紀行』(岩波書店、1942年) 『南欧藝術紀行』(文藝春秋新社、1952年) 『カナダの土・アメリカの友』(朝日新聞社、1954年) 『ブラジルからメキシコへ』(春秋社、1958年) 『生きて来た道 伝記・田中耕太郎』世界の日本社、1950年。柳沢健の聞き書き
『私の履歴書 田中耕太郎』春秋社、1961年 『田中耕太郎 人と業績』鈴木竹雄 編、有斐閣、1977年 『田中耕太郎 闘う司法の確立者、世界法の探求者』牧原出、中公新書、2022年 ^ 日本国憲法施行後、皇族と内閣総理大臣経験者を除き、唯一の大勲位菊花大綬章受章者である。また、生前に勲一等旭日桐花大綬章と文化勲章を受章したのは、田中と横田喜三郎のみである。なお、栄典制度改革後は井深大が生前に文化勲章、没後に勲一等旭日桐花大綬章を受けている。 ^ 最高裁判所裁判官就任後に閣僚に就任した例は高辻正己が1973年(昭和48年)から1980年(昭和55年)まで最高裁判所裁判官に在任し、1988年に法務大臣に就任した例がある。 ^ 「田中最高裁長官にまた名誉学位」 ^ 例として、不法に入国した外国人であっても、国内に在留する限りは生命・自由・財産等は保障されなければならないことを挙げている。 ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員7頁 ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)146頁 ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名104頁 ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、345頁。ISBN 4-00-022512-X。 ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、351頁。ISBN 4-00-022512-X。 ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。 ^ 山本祐司 1997a, p. 155 ^ 野村二郎 2004, p. 26. ^ 『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月) P194、P201 ^ 『「米軍違憲」破棄へ米圧力 59年の砂川裁判 一審判決直後 解禁文書で判明 駐日大使 最高裁長官と密談』しんぶん赤旗 ^ 『砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談 破棄判決前に』毎日.jp 2008年4月30日 ^ 最高裁長官「一審は誤り」 砂川事件、米大使に破棄を示唆 共同通信2013年1月17日 ^ 砂川事件:米に公判日程漏らす 最高裁長官が上告審前(1/2) 毎日新聞2013年4月8日 ^ 最高裁昭和34年12月16日大法廷判決 ^ 『憲法判例百選II[第5版]』210事件有斐閣 ^ 山本祐司 1997b, p. 425. ^ 野村二郎 2004, p. 27. ^ 砂川事件 再審請求 元被告ら「公平な裁判侵害」 東京新聞2014年6月17日 ^ 九年の任期を終え帰国 田中耕太郎氏『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月10日朝刊 12版 14面 ^ 「筆洗」2013年4月10日付け ^ 第5回国会 参議院 本会議 第26号 昭和24年5月13日 ^ 田中秀夫『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月] ^ 植野勲『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月] ^ 『飯守重任』 - コトバンク ^ 『田中角栄を殺すために記す: 人類を啓蒙する手段として』奥崎健三、サン書店、1981、p217 ^ 家永三郎『裁判批判』、日本評論社、1959年11月、35-37ページ ^ 「裁判所時報」1952年1月1日所載の「新年の詞」 ^ 故田中耕太郎氏に大勲位菊花大綬章『朝日新聞』1974年3月3日朝刊、13版、19面 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403。 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126。 山本祐司『最高裁物語(上)』講談社+α文庫、1997a。ISBN 9784062561921。 山本祐司『最高裁物語(下)』講談社+α文庫、1997b。ISBN 9784062561938。 末永航『イタリア、旅する心―大正教養世代がみた都市と美術』青弓社、2005年。ISBN 9784787271969。 芝崎厚士 「田中耕太郎の国際文化論 『文化的帝国主義批判』の思想と行動」『国際関係論研究』第13号(1999年3月)。 最高裁判所 永野護 砂川事件 表 話 編 歴 細野長良1947 三淵忠彦1947-1950 田中耕太郎1950-1960 横田喜三郎1960-1966 横田正俊1966-1969 石田和外1969-1973 村上朝一1973-1976 藤林益三1976-1977 岡原昌男1977-1979 服部高顯1979-1982 寺田治郎1982-1985 矢口洪一1985-1990 草場良八1990-1995 三好達1995-1997 山口繁1997-2002 町田顯2002-2006 島田仁郎2006-2008 竹﨑博允2008-2014 寺田逸郎2014-2018 大谷直人2018-2022 戸倉三郎2022-2024 今崎幸彦2024- 大審院長 表 話 編 歴 田中耕太郎 山本勇造 堀越儀郎 梅原眞隆 若木勝藏 川村松助 堀末治 廃止 表 話 編 歴 田中耕太郎 笹森順造 飯島連次郎 加賀山之雄 岡三郎 秋山長造 湯山勇 竹中勝男 相馬助治 清澤俊英 平林剛 大矢正 北畠教真 中野文門 野本品吉 山下春江 二木謙吾 大谷藤之助 中村喜四郎 久保勘一 楠正俊 高橋文五郎 大松博文 永野鎮雄 世耕政隆 内藤誉三郎 山崎竜男 宮崎正雄 吉田実 望月邦夫 大島友治 降矢敬義 片山正英 堀内俊夫 長谷川信 真鍋賢二 扇千景 仲川幸男 田沢智治 杉山令肇 柳川覚治 下稲葉耕吉 大木浩 松浦功 石井道子 松浦孝治 小野清子 清水嘉与子 大島慶久 廃止 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 中田正朔 1887-1890 鹿島則文 1892-1898 冷泉為紀 1898-1903 桑原芳樹 1903-1910 木野戸勝隆 1910-1913 武田千代三郎 1913-1918 事務取扱 今井清彦 1918 松浦寅三郎 1918-1919 事務取扱 今井清彦 1919 上田万年 1919-1926 森田実 1926-1930 平田貫一 1930-1940 山田孝雄 1940-1944 山田孝雄 1940-1945 事務取扱 小松泰馬 1945 事務取扱 田中義男 1945-1946 事務取扱 田中耕太郎 1946 初代 平田貫一 1962-1966 第2代 高原美忠 1966-1973 事務取扱 久保田収 1973 第3代 佐藤通次 1973-1980 第4代 田中卓 1980-1988 第5代 谷省吾 1988-1994 第6代 西宮一民 1994-2000 第7代 大庭脩 2000-2002 第8代 伴五十嗣郎 2003-2011 第9代 清水潔 2011-2019 第10代 河野訓 2019- カテゴリ メディア 皇學館大学 学校法人 人物 表 話 編 歴 緒方健三郎 1949-1956 福田得志 1956-1968 町野碩夫 1968-1969 事務取扱/学長 中村末男 1969-1971/1971-1975 蟹江松雄 1975-1981 石神兼文 1981-1987 井形昭弘 1987-1993 早坂祥三 1993-1997 田中弘允 1997-2003 永田行博 2003-2007 吉田浩己 2007-2013 前田芳實 2013-2019 佐野輝 2019- 島津珍彦 1887-1891 川上彦次 1891-1893 島津珍彦 1893-1896 心得/校長 岩崎行親 1901-1902/1902-1912 小西重直 1912-1913 事務取扱 井上恒二 1913 事務取扱/校長 吉田賢龍 1913-1914/1914-1920 渡部董之介 1920-1925 由比質 1925-1930 事務取扱 井上恒二 1930 葉山万次郎 1930-1933 堀重里 1933-1937 岡田恒輔 1937-1943 浅野孝之 1943-1946 浅野孝之 1946-1947 緒方健三郎 1947-1950 玉利喜造 1909-1922 吉村清尚 1922-1935 草野岳男 1935-1936 小出満二 1936-1938 谷口熊之助 1938-1944 谷口熊之助 1944-1945 三浦虎六 1945-1952 事務取扱 田中耕太郎 1946 事務取扱/校長 山本清内 1946/1946-1951 事務取扱/校長 梶島二郎 1945/1945-1951 事務取扱 池田長吉 1943 校長/事務取扱/校長 高安慎一 1943-1944/1944-1945/1945-1948 事務取扱/校長 大平得三 1948-1949/1949-1951 事務取扱/校長 町野碩夫 1951/1951-1952 高安慎一 1947-1948 事務取扱/学長 大平得三 1948-1949/1949-1951 事務取扱/学長 町野碩夫 1951/1951-1955 縄田千郎 1955-1957 佐藤八郎 1957-1961 大平得三 1949-1952 事務取扱/学長 梶島二郎 1951/1951-1952 福田得志 1952-1956 事務取扱 縄田千郎 1956-1958 カテゴリ メディア 鹿児島大学 鹿児島大学 源流・前身諸機関 人物 表 話 編 歴 事務取扱/初代 上野直昭 1949/1949-1961 第2代 小塚新一郎 1961-1969 第3代 福井直俊 1969-1979 第4代 山本正男 1979-1985 第5代 藤本能道 1985-1989 第6代 平山郁夫 1989-1995 第7代 澄川喜一 1995-2001 第8代 平山郁夫 2001-2005 第9代 宮田亮平 2005-2016 第10代 澤和樹 2016-2022 第11代 日比野克彦 2022- 岡倉覚三 1886-1887 事務取扱 浜尾新 1887-1890 心得/校長 岡倉覚三 1890/1890-1898 高嶺秀夫 1898 心得/校長 久保田鼎 1898-1900/1900-1901 正木直彦 1901-1932 事務取扱 赤間信義 1932 和田英作 1932-1936 事務取扱 岡田三郎助 1936 芝田徹心 1936-1940 沢田源一 1940-1944 事務取扱 永井浩 1944 上野直昭 1944-1949 村田良策 1949-1952 御用掛/掛長/所長 伊沢修二 1879-1881/1881-1885/1885 青木保 1886 神津専三郎 1886-1887 伊沢修二 1888-1891 心得 神津専三郎 1891 村岡範為馳 1891-1893 上原六四郎 1893-1898 矢田部良吉 1898 渡辺龍聖 1898-1899 心得/校長 渡辺龍聖 1899/1899-1902 大島義脩 1902-1904 高嶺秀夫 1904-1907 湯原元一 1907-1917 茨木清次郎 1917-1918 村上直次郎 1918-1928 事務取扱 島崎赤太郎 1928 乗杉嘉寿 1928-1945 事務取扱 田中耕太郎 1945-1946 小宮豊隆 1946-1949 事務取扱 上野直昭 1949 加藤成之 1949-1952 カテゴリ メディア 東京芸術大学 東京芸術大学 人物 表 話 編 歴 星一↓ 柳川宗左衛門† 早川慎一 松本治一郎† 高橋龍太郎 田中耕太郎↓ 梅原真隆 佐々木良作 山本勇造 尾崎行輝 堀越儀郎 柏木庫治 伊藤保平 西園寺公一 岡部常 膳桂之助† 西田天香 赤松常子 岩間正男 徳川宗敬 和田博雄↓ 鈴木清一 広瀬与兵衛 宮城タマヨ 大野幸一 楠見義男 東浦庄治↓ 奥むめお 原虎一 高瀬荘太郎 木下辰雄 金子洋文 青山正一 高良とみ 河崎なつ 岡田宗司 木内キヤウ 大隈信幸↓ 慶松勝左衛門† 稲垣平太郎 水橋藤作 高田寛 兼岩伝一 中村正雄 鈴木直人↓ 荒井八郎↓ 岡村文四郎 鬼丸義斎 井上なつゑ 小泉秀吉 岡本愛祐 川上嘉 中山寿彦 中川以良 丹羽五郎 羽仁五郎 寺尾豊 下条康麿 河野正夫 佐々弘雄↓ 重宗雄三 宿谷栄一 市来乙彦 安部定 大西十寸男↓ 藤井新一 水久保甚作 鎌田逸郎 中野重治 安達良助 堀真琴 松野喜内 木村禧八郎 寺尾博 穂積真六郎 矢野酉雄 藤井丙午 飯田精太郎 小川友三↓ 小野光洋 塚本重蔵 松井道夫 吉松喬† 星野芳樹 北條秀一 三島通陽 小林勝馬 中西功↓ 来馬琢道 新谷寅三郎 松嶋喜作 内村清次 大山安 浅岡信夫 江熊哲翁 松村真一郎 伊東隆治 細川嘉六 小杉イ子 仲子隆 国井淳一↑ 山川良一 高木正夫 加藤正人 杉山昌作 岩沢忠恭 加藤シヅエ 泉山三六 荒木正三郎 大谷瑩潤 長島銀蔵 菊川孝夫 三浦辰雄 常岡一郎 野田卯一↓ 高橋道男 瀧井治三郎 岡田信次 一松定吉 野溝勝 内村清次 平井太郎 藤原道子 栗山良夫 溝口三郎 石川清一 愛知揆一↓ 上条愛一 小笠原二三男 松原一彦 小酒井義男 片柳真吉 宮本邦彦 重宗雄三 堀木鎌三 高田なほ子 羽仁五郎 松本昇↓ 大矢半次郎 石川栄一 矢嶋三義 小野義夫 小林政夫 鈴木文四郎↓ 白波瀬米吉 小林孝平 田中一 須藤五郎 木村禧八郎 細川嘉六† 森八三一 中山寿彦 小川久義 鈴木恭一↓ 椿繁夫 山花秀雄↓ 寺尾豊 加藤シヅエ 加藤正人 高田なほ子 中村正雄 下条康麿 藤原道子 竹中恒夫 柴田栄 重宗雄三 天坊裕彦 鈴木強 占部秀男 野溝勝 北村暢 田中一 杉山昌作 迫水久常 栗山良夫↓ 松村秀逸 泉山三六 大谷藤之助 岩沢忠恭 辻武寿 小笠原二三男 手島栄 平林剛 小野義夫↓ 勝俣稔 阿部竹松 塩見俊二 一松定吉 小酒井義男 大谷瑩潤 荒木正三郎 本多市郎↓ 矢嶋三義 石黒忠篤↓ 常岡一郎 岩間正男 横川正市 谷口弥三郎 大竹平八郎 小林孝平↓ 北条雋八 江藤智 森八三一 堀木鎌三 光村甚助 稲浦鹿蔵 内村清次 柴谷要 小西英雄† 上条愛一↑ 中上川アキ↓ 加藤シヅエ 長谷川仁 迫水久常 源田実 浅井亨 山崎斉 丸茂重貞 北条雋八 鈴木一弘 山下春江 大谷藤之助 渋谷邦彦 二宮文造 小林武 岩間正男 鈴木市蔵 稲浦鹿蔵 森八三一 野知浩之 天坊裕彦 小西英雄↓ 林塩 田中一 重宗雄三 辻武寿 野々山一三 中村順造 藤原道子 鬼木勝利 北村暢 高山恒雄 鈴木強 占部秀男 江藤智 日高広為 横川正市 小酒井義男 野溝勝 豊田雅孝 竹中恒夫 向井長年 手島栄↓ 中村正雄 川野三暁 大竹平八郎 柴谷要 森田たま 光村甚助 松村秀逸↓ 阿部竹松↑ 山高しげり↑ 石原慎太郎↓ 青島幸男 上田哲 今春聴 重宗雄三 長谷川仁 大松博文 三木忠雄 小林国司 二宮文造 田渕哲也 鈴木一弘 上林繁次郎 小笠原貞子 塩出啓典 岩間正男 永野鎮雄 峯山昭範 森八三一 沢田実 加藤シヅエ 小林武 内田善利 向井長年 山田勇 松本英一 藤原房雄 渡辺武 中村正雄↓ 上田稔 若林正武 玉置猛夫 迫水久常 源田実 鈴木強 大竹平八郎 長田裕二 和田静夫 藤原道子 田口長治郎 大谷藤之助 江藤智 亀井善彰 長屋茂 山下春江 田中一 安永英雄 阿具根登 高山恒雄 横川正市 北村暢 宮田輝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 山東昭子 斎藤栄三郎 丸茂重貞 小林国司 目黒今朝次郎 田渕哲也 三木忠雄 秦豊 糸山英太郎 鈴木一弘 峯山昭範 片山甚市 佐藤信二↓ 和田静夫 二宮文造 内田善利 山中郁子 案納勝 岡田広 江藤智 迫水久常↓ 阿具根登 藤原房雄 太田淳夫 長田裕二 松本英一 坂野重信 野田哲 向井長年↓ 大谷藤之助 内藤功 福間知之 源田実 立木洋 塩出啓典 柄谷道一 粕谷照美 安永英雄 上林繁次郎 神谷信之助 和田春生↓ 大鷹淑子 神田博↓ 下村泰 渡辺武 小巻敏雄 森下泰 岩間正男 上田稔 近藤忠孝 市川房枝 青島幸男 鳩山威一郎 宮田輝 中山千夏 山東昭子 大鷹淑子 岡部三郎 美濃部亮吉↓ 大河原太一郎 田渕哲也 田沢智治 斎藤栄三郎 村上正邦 長田裕二 岡田広 井上孝 関口恵造 板垣正 源田実 山中郁子 福間知之 丸茂重貞↓ 梶原清 目黒今朝次郎 鈴木一弘 松浦功 田中正巳 峯山昭範 坂野重信 片山甚市 大川清幸 野田哲 江藤智↓ 鈴木和美 二宮文造 阿具根登 太田淳夫 塩出啓典 藤原房雄↓ 鶴岡洋 松本英一 近藤忠孝 中野鉄造 柄谷道一 伊藤郁男 立木洋 粕谷照美 和田静夫↓ 秦豊↑ 宇垣一成↓ 加賀山之雄 横川信夫↓ 鹿島守之助 上林忠次 三浦義男↓ 松本治一郎 木島虎蔵 白井勇 高良とみ 重政庸徳 津島壽一 鮎川義介 横山フク 梶原茂嘉 八木幸吉 永岡光治 鶴見祐輔 青木一男 吉田萬次↓ 早川慎一 西岡ハル 豊田雅孝 雨森常夫 久保等 森田義衛 小沢久太郎 赤松常子 前田久吉 山口重彦 岡三郎 奥むめお 藤田進 土田國太郎 高橋衛 阿具根登 野本品吉 林了↓ 岸良一 苫米地義三 大和与一 高野一夫 高瀬荘太郎 中山寿彦↓ 榊原亨 宮城タマヨ 青山正一 大倉精一†↑ 関根久蔵†↑ 大谷贇雄†↑ 八木秀次†↑ 柏木庫治†↑ 楠見義男† 平林剛↑ 米田正文 鹿島守之助 辻政信 前田久吉 石田次男 金丸冨夫 奥むめお 重政庸徳 天埜良吉 大倉精一 石谷憲男 赤松常子 加賀山之雄 中尾辰義 小平芳平 野上元 木村禧八郎 鮎川義介↓ 原島宏治↓ 下村定 北畠教真 松本治一郎 植垣弥一郎 梶原茂嘉 上林忠次 牛田寛↓ 山本伊三郎 岡三郎 青木一男 鹿島俊雄 鶴園哲夫 大谷贇雄 鈴木恭一 横山フク 岡村文四郎 山本杉 阿具根登 高瀬荘太郎 永岡光治 高野一夫 久保等 野本品吉 田中清一 山口重彦 千葉千代世 須藤五郎 川上為治 基政七 豊瀬禎一 徳永正利 中村順造 向井長年 鹿島守之助 春日正一 玉置和郎 田中寿美子 須藤五郎 楠正俊 柏原ヤス 岡本悟 野上元 内藤誉三郎 山崎昇 小林章 多田省吾 木村美智男↓ 山田徹一 山内一郎 西村尚治 山本伊三郎 瓜生清↓ 大倉精一 小平芳平 矢追秀彦 青木一男 平泉渉 岡村文四郎↓ 重政庸徳 松本治一郎↓ 山本茂一郎 久保等 鹿島俊雄 鶴園哲夫 鈴木力 片山武夫 宮崎正義 徳永正利 原田立 大谷贇雄↓ 永岡光治 山本杉 黒柳明 千葉千代世 横山フク 北畠教真↓ 八田一朗 中尾辰義 内田芳郎 黒木利克 金丸冨夫 山高しげり 梶原茂嘉 米田正文 石本茂 田英夫 志村愛子 鈴木美枝子 町村金五 栗林卓司 柏原ヤス 山本茂一郎 山田徹一 梶木又三 矢追秀彦 玉置和郎 西村尚治 原田立 須藤五郎 春日正一 岡本悟 小平芳平 村上孝太郎↓ 多田省吾 内藤誉三郎 中尾辰義 加藤進 古賀雷四郎 野上元↓ 細川護熙 平泉渉↓ 田中寿美子 宮崎正義 塚田大願 中村利次 野々山一三 星野力 徳永正利 檜垣徳太郎 片山正英 鹿島俊雄 石本茂 伊部真↓ 山本伊三郎↓ 山崎昇 山内一郎 楠正俊 藤井恒男 柴田利右エ門↓ 今泉正二 水口宏三↓ 鈴木力 宮之原貞光 青木一男 松岡克由 黒住忠行↑ 野末陳平↑ 田英夫 江田五月 福島茂夫 玉置和郎 梶木又三 内藤誉三郎 楠正俊 町村金五 増岡康治 栗林卓司 柳沢錬造 古賀雷四郎 伊江朝雄 野末陳平 西村尚治 柏原ヤス 竹内潔 矢追秀彦 徳永正利 前島英三郎 中尾辰義 堀江正夫 松前達郎 中野明 片山正英 大森昭 小平芳平 扇千景 下田京子 大木正吾 多田省吾 渋谷邦彦 山田勇 和泉照雄 藤井恒男 高橋圭三 安西愛子 中村利次↓ 宮本顕治 宮崎正義 円山雅也 安恒良一 山崎昇 田中寿美子 藤井裕久 石本茂 宮之原貞光 佐藤三吾 市川正一 穐山篤 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research IdRef 日本の商法学者 日本の法哲学者 20世紀日本の法学者 国際司法裁判所の裁判官 日本の最高裁判所長官 全国区選出の参議院議員 昭和時代の参議院議員 貴族院勅選議員 昭和時代の貴族院議員 日本の文部科学大臣 昭和時代戦前の閣僚 東京大学の教員 日本の文部官僚 東京芸術大学学長 国立教育政策研究所の人物 日本の内務官僚 日本学士院会員 帝国学士院会員 文化放送の人物 東京大学出身の人物 福岡県立修猷館高等学校出身の人物 新潟県立新潟高等学校出身の人物 岡山県立岡山朝日高等学校出身の人物 日本のカトリック教会の信者 日本の反共主義者 私の履歴書の登場人物 法学博士取得者 文化勲章受章者 朝日賞受賞者 大勲位菊花大綬章受章者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 正二位受位者 鹿児島県出身の人物 1890年生 1974年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 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2024/11/21 10:40更新
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tanaka koutarou
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