芦田均の情報(あしだひとし) 外交官、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
芦田 均さんについて調べます
■名前・氏名 |
芦田均と関係のある人
有田喜一: 政治家となってからは芦田均と行動をともにしたが、保守合同により自由民主党が結成されると旧芦田派の一部とともに岸派に入り、岸派の分裂後は福田派に属した。 石山賢吉: 石山は、戦前から芦田均と二人で春秋会という勉強会を創立し、多くの経営者、政治家、学者、管理職、一般人が会員となって例会を発展させていた。 西尾末広: 翌年の芦田均内閣では副総理に就任するが、土建献金で証人喚問を受けた。 榊原英資: 父は榊原麗一芦田均内閣総理大臣秘書官。 小沢健二: なお、下河辺三史の妻は芦田均の長女なので、小澤家は下河辺家を通じて芦田家と姻戚関係に当たる。 石山賢吉: 戦後、1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で芦田均の民主党から推されて新潟県第1区から出馬し、衆議院議員に当選する。戦前から芦田均や中野正剛と親しかったことが影響しているかも知れないし、東洋経済の石橋堪山の影響があったのかもしれない。 鈴木茂三郎: 再武装を主張する当年六十余歳の芦田均氏が鉄砲を持ったり背嚢を背負うのではないのでございます。 幣原喜重郎: 中島弥団次によれば、この頃の幣原の再軍備に対する考えは芦田均と吉田茂の中間であったという。 降旗徳弥: 降旗は斎藤隆夫らと幣原を新総裁に推薦したが、犬養健、楢橋渡さらに青年将校と称された川崎秀二、中曽根康弘、桜内義雄らは芦田均を擁立し投票で芦田が民主党総裁に選出された。 栗栖赳夫: 同年日本社会党・民主党・国民協同党の三党連立片山内閣が発足するも、蔵相の矢野庄太郎が就任後半月で病気辞任し、民主党総裁の芦田均の要請により後任として蔵相に就任した。 菅原通済: 1947年の芦田均の民主党には資金援助を行い、1948年に起きた昭和電工事件では関与が疑われた。 幣原喜重郎: またマッカーサーとの会談で戦争放棄の明記に反対して「誰もfollowerとならない」と幣原が述べたという『芦田均日記』の記述は、憲法調査会に提出された内閣法制局次長だった入江俊郎の著書『憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』と相違しているため正確ではないとしている。 和辻哲郎: 同年、後藤末雄、大貫晶川、木村荘太、谷崎潤一郎、芦田均らとともに同人誌、第二次『新思潮』に参加、第一号に載せたのは戯曲「常盤」。 三木武夫: その後1948年(昭和23年)3月3日の第53回対日理事会の席で、ソ連代表のキスレンコ(ロシア語版)少将は芦田均、西尾末広らとともに三木を追放すべきと主張した。 幣原喜重郎: 閣議は紛糾し、2月21日にマッカーサーと幣原、芦田均・小林一三の会談が行われた。 荒木万寿夫: 芦田均の側近となる。 加藤勘十: 1948年(昭和23年)芦田均内閣では労働大臣として入閣、野溝勝と共に党内左派として入閣したため「現実左派」と呼ばれた。 鳩山一郎: 鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。 各務鎌吉: 妻は西野恵之助(帝国劇場創創立者メンバー・元専務・日本航空輸送社長)の三女で、長女は吉沢建治(元東京三菱銀行副会長、東京倶楽部理事長)に嫁し、建治の父は吉沢清次郎(元外務事務次官)で姉は芦田冨(元首相芦田均の次男)に嫁している。 菊池寛: 参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。 木村俊夫: 芦田均 渡辺銕蔵: その後芦田均らと反共・再軍備・憲法改正に力を注ぎ昭和27年(1952年)「軍備促進連盟」を結成し超党派の国民運動を開始した。 前尾繁三郎: 選挙区には演説の名手である民主党の前首相・芦田均がいた。 千葉三郎: 1932年(昭和7年)、政界を離れて 時事新報社重役に就任、芦田均、津田信吾、石山賢吉らと親交を持った。 谷垣専一: 退官後、農林中央金庫監事を務めたが、1960年に芦田均の地盤を引き継いで自由民主党公認で京都2区から第29回衆議院議員総選挙に出馬し当選、吉田茂の流れを汲む宏池会に所属した(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・伊藤宗一郎・久保田円次・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。 田中角栄: なお、総理経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。 三木武夫: 三木と同様の理由で芦田均、西尾末広も追放の不適用が決定されたと見られ、民政局に望ましくない人物と見なされた鳩山一郎、石橋湛山が追放されたこととともに、公職追放が政治的理由により決定された面があることを示している。 重光葵: 文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)9月、外務省に入省(第20回、芦田均・堀内謙介・桑島主計らと同期)、在ドイツ外交官補、在イギリス大使館三等書記官、アメリカポートランド領事、パリ講和会議日本全権団員、条約局第一課長、在中華民国公使館一等書記官、在ドイツ大使館参事官、上海総領事を経て、1930年(昭和5年)には駐華公使となる。 西田隆男: 政界入り当初は芦田均に近かった。 中尾栄一: 芦田均秘書などを経て、1967年、無所属で第31回衆議院議員総選挙に旧山梨全県区から出馬し初当選(当選同期に山下元利・増岡博之・加藤六月・塩川正十郎・河野洋平・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫など)。 |
芦田均の情報まとめ
芦田 均(あしだ ひとし)さんの誕生日は1887年11月15日です。京都出身の外交官、政治家のようです。
現在、卒業、事件、趣味、脱退、引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1959年に亡くなられているようです。
芦田均のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1959年〈昭和34年〉6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。 衆議院議員(11期)、厚生大臣(第13代)、外務大臣(第67・68代)、内閣総理大臣(第47代)を歴任した。 外交官を経て政界入り。立憲政友会に所属して外務省とのパイプ役を務めた。軍国主義が広まる議会においてリベラリストとして活動した。戦後は自由党の結成に関与した後、離党して民主党を結党し、副総理を経て芦田内閣を首班した。 芦田は1887年11月15日、京都府天田郡宮村(後に中六人部村を経て現在の福知山市)に生まれた。生家は豪農であった。社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナーであり、大学時代の同級生でもあった片山哲は、芦田の死後まもなく衆議院本会議で行った追悼演説で、芦田が政界に入るまでをこのように述べている。 芦田は東京帝国大学を卒業後、1912年に外務省に入り外交官となった。最初の勤務地ロシアではロシア革命に接し、1918年に赴任したフランスではパリ講和会議を目にしている。1925年には一等書記官として、日土間の国交樹立にともないトルコ・イスタンブールに開設された日本大使館へ赴任した。1928年10月から1929年11月にかけて初代駐トルコ大使である小幡酉吉の帰朝にともない臨時代理大使を務め、この間に参事官へと昇格した。トルコでの芦田は「海峡問題」(ボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の通航制度)やバルカン諸国などについて研究し、両海峡の通航制度史と当時の通航制度であったローザンヌ条約の問題点をまとめた学位請求論文「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」を執筆すると、母校である東京帝国大学に提出して1929年に法学博士を授与された。なお、この論文は翌年『君府海峡通航制度史論』として出版されている。1930年からは駐ベルギー大使館勤務となり、1932年に退官して帰国すると政界へ転身した。 芦田は戦前・戦中を通してリベラルな政治姿勢で知られており、斎藤隆夫の反軍演説の際には、牧野良三や宮脇長吉らとともに除名に反対票を投じた。政友会解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で当選した。議会の外では言論人としても活躍し、外交官時代の『君府海峡通航制度史論』のほか、政治家への転身後も執筆活動を続け時局や外交に関する著書を多く発表している。政界入り後の1933年から1939年にかけてジャパンタイムズの社長を務めたほか、ダイヤモンド社の石山賢吉などとも親交を持った。 1945年(昭和20年)10月1日、安部磯雄、賀川豊彦、有沢広巳、馬場恒吾らと自由懇話会を結成。 戦後まもなく、衆議院帝国憲法改正小委員会の憲法改正草案の審議において、「芦田修正」と呼ばれる修正が行われた。この修正は芦田の試案などが重要なたたき台となっており、芦田の意図なども含め、後の憲法論議における重要な論点となっている。 1948年3月、芦田内閣が発足した。芦田内閣においては戦後日本の基礎となる多くの法律が成立している。新憲法に基づく刑事訴訟法の全面改正や警察組織の抜本改革(旧警察法の制定)、国家行政組織法とそれに基づく中小企業庁・石炭庁・建設省・海上保安庁・水産庁・経済調査庁といった各行政庁の設置法、教育委員会法、日本学術会議法、警察官職務執行法、行政代執行法、地方財政法、検察審査会法、軽犯罪法、風営法などがそれである。しかし、芦田自身が総理大臣として対応したのはインフレ対策や労働攻勢への対処であった。GHQは中道の芦田政権に好意的で、これらの課題を後押ししたが、政権は脆弱な政権基盤と野党自由党からの攻撃に苦慮し続け、独自の政策を打ち出す余裕は乏しかった。芦田は当時、誰が担当しても連合国の政策に沿う以外はなかったと書いている。これは一面の真理ではあるが、吉田茂首相が同じく占領政策の枠内にありながら、マッカーサーや、しばしば米国政府とも直接渡り合って自らの政策実現に尽力したような指導力を持ち得なかったという事情も大きかった。 前任者の片山が社会党委員長でかつ熱心なクリスチャンでありながら、昭和天皇の護持に心を砕いたのに対し、芦田は「新憲法になって以後、余り陛下が内政外交に御立入りになる如き印象を与えることは、皇室のためにも、日本のためにも良いことではない」と、憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任まもなく芦田は、これ以降閣僚の内奏を取り止める旨を奏上した。芦田自身は外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、鈴木一侍従次長は「陛下は外交問題について御宸念遊ばしてゐる(中略)外務大臣が内奏に見えないのか(中略)見えるなら土曜日でもよろしい」と、当時外務事務次官だった岡崎勝男に伝え、芦田は「御上の思召」なら行くべきと判断し宮中参内した。 だが芦田内閣は約半年で、西尾献金問題と昭和電工事件で惨憺たる結末を迎えた。西尾献金問題では派生して政党創設問題が浮上して、芦田自身も証人喚問をされた。昭和電工事件で1948年10月に芦田内閣が総辞職し、芦田自身も収賄で起訴された。しかし、判決は「金をもらって昭和電工に対して便宜を図らせることを栗栖大蔵大臣に働きかけていた」ことは認定したが、「外務大臣の芦田には職務権限はない」として無罪だった。このことを受けて、1958年に刑法改正で斡旋収賄罪が設けられた。昭和電工事件で事情聴取された者は約2,000人、逮捕者64人(うち現職国会議員10人)。裁判の結果は有罪2名のみだった。 政治家としては、1955年の保守合同に参加、自由民主党の外交調査会長に就任。ハンガリー動乱の際にはソ連に批判的な立場から「日本ハンガリー救援会」を組織している。晩年の約10年は、史書を著す事に重点を置いた。『芦田日記』は占領期の歴史を当事者の立場で書く為の備忘録だった。1959年に『第二次世界大戦外交史』を病床で口述筆記により完成させた。同年6月20日、東京都港区白金の自宅にて死去。享年71。衆議院議員の在任中で、4日後の6月24日には衆議院本会議で片山哲により追悼演説が行われた。なお地盤は谷垣専一が引き継いだ。墓所は横浜市総持寺。 著書『革命前夜のロシア』は、会話文を駆使した、ほとんど小説の趣がある回想録で、日本の現役政治家の著作としてはきわめて異色である。鴨下信一は『忘れられた名文たち』(文藝春秋、1998)で2頁半もの引用の後「ああ、これはそっくりチェホフだ。日本にはこういう文章を書く政治家もいたのである」と評している。 1887年(明治20年):京都府天田郡宮村(現:福知山市宮)に生まれる。 1904年(明治37年):旧制兵庫県立柏原中学校(現:兵庫県立柏原高等学校)を卒業、旧制第一高等学校に入学。 1907年(明治40年):東京帝国大学法学部仏法科に入学。 1910年(明治43年)第二次『新思潮』にアナトール・フランスの短篇小説の翻訳を寄稿。これが原因で第二次『新思潮』は発売禁止処分を受け、終焉を迎える。 1912年(大正元年):東大を卒業し、外務省に入省。 1914年(大正3年):サンクトペテルブルクに赴任。1918年(大正7年)1月まで同地に滞在し、その間にロシア革命を目撃。 1932年(昭和7年):退官して立憲政友会公認で衆議院選挙に立候補し当選する。 1933年(昭和8年):ジャパンタイムズ社長就任(1939年辞任) 1939年(昭和14年):政友会の分裂に際し、久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に属する。 1941年(昭和16年):同交会の結成に参加。 1946年(昭和21年):自由党から出馬し当選。帝国憲法改正小委員会委員長に就任し、芦田修正条項を入れる。 1947年(昭和22年):自由党から一派を率いて離党し、日本進歩党と共に民主党を結党。党総裁に就任。片山哲内閣の外務大臣就任 1948年(昭和23年):3月10日に内閣総理大臣に就任するが、昭和電工事件により10月5日に総辞職、12月7日芦田自身も逮捕。以後、民主党野党派、国民民主党、改進党、日本民主党(最高委員)と保守傍流政党に属する。 1955年(昭和30年): 自由民主党結成に参加。 1957年(昭和32年):衆議院議員勤続25年の表彰を受ける。 1958年(昭和33年):昭和電工事件の無罪判決が確定。 1959年(昭和34年):71歳で死去。谷垣專一(谷垣禎一の父)が選挙地盤を引き継ぎ代議士となった。 2002年(平成14年)5月18日:福知山市の生家に資料を所蔵展示する芦田均記念館が開館。 1920年(大正9年)9月7日 - 勲五等双光旭日章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1959年(昭和34年)6月20日 - 勲一等旭日桐花大綬章、従二位(没後叙勲) 芦田はよく「私は丹波の百姓の息子で…」と言って吉田茂の貴族趣味・名門びいきに対抗していたが、芦田家は農家といっても豪農(綾部藩の大庄屋)であり、父・鹿之助も衆議院議員を務めた政治家でもあった。均は寿美夫人との間に2男2女をもうけたが、長女・美世(1919年生)(は日本鉱業(のちのジャパンエナジー)の社長を務めた下河辺建二の次男・下河辺三史に、次女・ルリ(1925年生)(は大蔵官僚の遠藤胖に嫁ぎ、サチ、チサ、三郎を儲けた。長男・治太郎(1922年生)は9歳で早世、次男・富(1924年生)(は海上自衛隊に入った、、なお娘にヤス子がいる。富の妻は芦田と同じ外交官仲間の吉沢清次郎の次女で、吉沢の長女は大蔵省財務官や東京銀行会長を務めた柏木雄介の兄・柏木一郎に嫁いだ。吉沢の義父は鐘紡元社長の武藤山治で、妻の姉は中上川彦次郎の息子に嫁いだ。義兄は同じく鐘紡社長を務めた武藤絲治(山治の次男)である。 吉沢の長女の嫁ぎ先である柏木一郎の弟・雄介の妻は大日本明治製糖創業家一族の相馬敏夫(敏夫の義父は相馬半治)の娘で、相馬のもう一人の娘(柏木雄介夫人の姉)は大日本麦酒社長や高橋ユニオンズのオーナーも務めた高橋龍太郎の甥に嫁いだ。龍太郎の長男は住友銀行副頭取からアサヒビール社長へ転出した高橋吉隆で、次男・高橋敏夫の娘(吉隆の姪)は元衆議院議長で大蔵官僚出身の伊吹文明に嫁いだ。吉隆の妻は山口財閥の創業家出身で、その係累をたどれば一万田尚登につながる。また、吉隆の四女(龍太郎の孫娘)は野村證券の創業者一族である野村文英に嫁いでおり、芦田家は吉沢家・柏木家・相馬家・高橋家を通して野村財閥の創業家と縁戚になった。柏木雄介の義弟である相馬克美の義父は元東邦ガス会長の青木清で(青木の義父は元日銀総裁の結城豊太郎)、青木の妻の姉は藤山雷太の長男・藤山愛一郎に嫁いでいる。愛一郎の長男・藤山覚一郎はヤマサ醤油の濱口家から夫人を迎えており、愛一郎の長女はサクラクレパスの創業家に嫁いだ。 また下河辺三史・美世夫妻の長男で、芦田の孫にあたる下河辺元春は国際政治学者の進藤榮一とともに『芦田均日記』(全7巻 岩波書店)の編纂にあたったことで知られている。下河辺元春の弟・下河辺晴三(三史・美世夫妻の三男)は音楽プロデューサーとなった、なお元春の弟で晴三の兄は史郎である。 『巴里会議後の欧洲外交』小西書店、1923年11月。 NCID BN15721544。全国書誌番号:43043792 全国書誌番号:60011044。 『列強の政戦』大阪毎日新聞社・東京日日新聞社、1924年9月。 NCID BA75522588。全国書誌番号:43043909。 『ロシア印象記』報知新聞社出版部、1924年10月。 NCID BN08754769。全国書誌番号:43047817。 『東宮及同妃両殿下御進講紀念小篇集』芦田均、1925年5月。 NCID BA47997179。全国書誌番号:43047575。 『高速度支那の旅』芦田均、1930年4月。 NCID BB1068219X。 『君府海峡通航制度史論』巌松堂書店、1930年5月。 NCID BN10210865。全国書誌番号:46084442 全国書誌番号:48006947。 『近代世界外交問題解説』タイムス出版社、1932年6月。 NCID BN1348233X。全国書誌番号:46079572 全国書誌番号:61000952。 『外交に関する質問』蘆田会、1933年。 NCID BA51697623。全国書誌番号:20092201。 『太平洋問題』春秋社〈世界経済問題講座 第5部〉、1933年。 NCID BN10837847。 『国際外交の知識』非凡閣〈万有知識文庫 8〉、1934年5月。 NCID BN1265508X。全国書誌番号:47026599。 『世界大戦より戦後の欧洲まで』明治図書〈最近世界外交史 中篇〉、1934年6月。 NCID BN04887669。全国書誌番号:46089500。 『米国参戦より聯盟脱退まで』明治図書〈最近世界外交史 後篇〉、1934年6月。 NCID BN04887669。全国書誌番号:47038175。 『最近の外交問題に就て』全国経済調査機関聯合会〈彙報別冊 第68号〉、1934年。 NCID BN12019001。全国書誌番号:47023724。 『極東に於ける露西亜の準備工作』全国経済調査機関聯合会〈彙報別冊 第71号〉、1934年。 NCID BN11990646。全国書誌番号:47023727。 『国策論叢 第2号』芦田均、1935年4月。全国書誌番号:44014031。 『新興日本の将来』日本青年館〈新興日本叢書 第1巻〉、1936年8月。 NCID BA45362030。全国書誌番号:46058282。 『東亜の現勢と外交国策』国政一新会〈国政一新論叢 第16輯〉、1936年11月。 NCID BA40809372。全国書誌番号:44019131。 『危機は欧洲か極東か』国政一新会〈国政一新論叢 第19輯〉、1937年6月。全国書誌番号:44007450。 『戦争はいつ始まるか』昭和書房、1937年8月。全国書誌番号:44022380。 『欧米を行脚して世界の情勢を語る』国政一新会〈国政一新論叢 第25輯〉、1938年5月。 NCID BB24185513。全国書誌番号:46053200。 『欧米見たまゝ』明治図書、1938年6月。 NCID BN05458985。全国書誌番号:20098719。 『東亜問題と国際関係』金光教典籍出版部〈時局叢書 第2輯〉、1939年10月。全国書誌番号:44032349。 『バルカン』岩波書店〈岩波新書 55〉、1939年12月。 NCID BN05839526。全国書誌番号:46045733 全国書誌番号:60008611。 『欧羅巴の危機と日本』全国経済調査機関聯合会〈彙報別冊 第120号〉、1939年。 NCID BN11951407。全国書誌番号:46060869。 『地中海に於ける英伊戦とバルカンの情勢』東洋経済新報社、1941年3月。全国書誌番号:44027324。 『第二次世界大戦前史』中央公論社、1942年4月。 NCID BN11786016。全国書誌番号:46005415。 『新憲法解釈』ダイヤモンド社、1946年11月。 NCID BN06995152。全国書誌番号:46009599。 『革命前夜のロシア』文藝春秋新社、1950年9月。 NCID BN08629144。全国書誌番号:55004646。 『憲法調査会の発足に際して』自主憲法期成議員同盟〈資料 17〉、1957年。 NCID BA78084669。 『憲法草案の出来るまで あわせて戦争拠棄の意味』東京だより社、1958年1月。 NCID BA53171027。 『革命前後のロシア』自由アジア社、1958年10月。 NCID BN05635388。全国書誌番号:58014292。 『第二次世界大戦外交史』(遺著)時事通信社、1959年10月。 NCID BN02845125。全国書誌番号:59008022。
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1905-1945』 第3巻(1926年~1936年)、柏書房、2012年3月。ISBN 9784760140671。 NCID BB08469837。全国書誌番号:22070280。 福永文夫・下河辺元春 編『芦田均日記 1905-1945』 第4巻(1937年~1945年)、柏書房、2012年3月。ISBN 9784760140688。 NCID BB08469837。全国書誌番号:22070283。 福永文夫・下河辺元春 編『芦田均日記 1905-1945』 第5巻(解題、主要人名録他)、柏書房、2012年3月。ISBN 9784760140695。 NCID BB08469837。全国書誌番号:22070287。 「墺太利滅亡史の考察」『史学』第19巻第4号、三田史学会、1941年3月、1-65頁、NAID 110007472208。 「最近の国際情勢」『建築雑誌』第675号、日本建築学会、1941年6月、418-425頁、NAID 110003778794。 「ロシアのテロリスト」『文藝春秋』第28巻第3号、文藝春秋新社、1950年3月、144-153頁、NAID 40003427669。 「ロシヤ皇后とラスプチン」『中央公論』第65巻第6号、中央公論社、1950年6月、144-155頁、NAID 40002401690。 「永世中立不可能論」『文藝春秋』第28巻第11号、文藝春秋新社、1950年7月、2-7頁、NAID 40003427307。 「W・チャーチルの教養」『新潮』第47巻第7号、新潮社、1950年7月、64-70頁、NAID 40001923320。 「自由と平和のための闘い」『文藝春秋』第29巻第4号、文藝春秋新社、1951年3月、32-38頁、NAID 40003427492。 「単独講和論の一盲点について――小野君への回答」『中央公論』第66巻第3号、中央公論社、1951年3月、87-89頁、NAID 40002402825。 「国際情勢とわが国の地位」『日労研資料』第115号、日本労働研究所、1951年3月、3-6頁、NAID 40002800472。 「日本は狙われている」『婦人公論』第37巻第4号、中央公論社、1951年4月、24-30頁、NAID 40003329579。 「再軍備は是か非か――自由と平和を衛る軍備」『世界週報』第32巻第28号、時事通信社、1951年10月、16-18頁、NAID 40002148687。 「安全保障と再軍備――米ソ戦の場合の日本」『東洋経済新報 別冊』第5号、東洋経済新報社、1951年10月、41-46頁、NAID 40002657626。 「能見物」『観世』第19巻第1号、檜書店、1952年1月、5-6頁、NAID 40000562028。 「自由と平和を衛る軍備は絶対に必要」『東邦経済』第13巻第2号、東邦経済社、1952年2月、23-24頁、NAID 40002636270。 「政府の不手際な行動――安保条約の行政協定に就て」『東邦経済』第13巻第4号、東邦経済社、1952年4月、14-15頁、NAID 40002636700。 「法学者はどう考えるか――戦争放棄と戦力」『世界』第77号、岩波書店、1952年5月、48-50頁、NAID 40002110577。 「自ら守らざる民は滅ぶ」『経済時代』第17巻第6号、経済時代社、1952年6月、16-23頁、NAID 40000872965。 「吉田は引退するか」『文藝春秋』第32巻第17号、文藝春秋新社、1954年11月、112-119頁、NAID 40003426429。 「トインビー博士の偉業」『日本歴史』第80号、吉川弘文館、1955年1月、2-4頁、NAID 40003063316。 「ソ連の対日要求は不当」『新政界』第2巻第1号、新政界社、1956年1月、NAID 40001908351。 「新憲法の生れるまで」『中央公論』第71巻第5号、中央公論社、1956年5月、40-47頁、NAID 40002388466。 「民主主義の新聞」『新聞研究』第62号、日本新聞協会、1956年9月、21-23頁、NAID 40001960538。 「日ソ交渉についての二つの発言-慎重論の立場から」『世界』第131号、岩波書店、1956年11月、65-70頁、NAID 40002093943。 「自由解放の精神――ソ連の東欧進入と衛星諸国」『経済時代』第21巻第12号、経済時代社、1956年12月、24-28頁、NAID 40000872738。 「日本はどっちを向いている」『経済往来』第9巻第10号、経済往来社、1957年10月、117-128頁、NAID 40000844163。 「ロシア・バレーの今昔」『文藝春秋』第35巻第11号、文藝春秋新社、1957年11月、NAID 40003426082。 「「新思潮」の前後」『文学界』第12巻第1号、文藝春秋、1958年1月、NAID 40003394176。 「核兵器時代の外交」『大陸問題』第7巻第3号、大陸問題研究所、1958年3月、10-29頁、NAID 40002299754。 「日米開戦まで(1)――近衛内閣と国交の調整」『世界週報』第40巻第14号、時事通信社、1959年4月、62-74頁、NAID 40002125506。 「日米開戦まで(2)――独ソ戦争」『世界週報』第40巻第15号、時事通信社、1959年4月、74-82頁、NAID 40002125511。 「日米開戦まで(3)――英米の対ソ援助」『世界週報』第40巻第16号、時事通信社、1959年4月、72-74頁、NAID 40002125518。 「日米開戦まで(4)――独ソ開戦と日本」『世界週報』第40巻第17号、時事通信社、1959年4月、76-83頁、NAID 40002125524。 「日米開戦まで(5)――大西洋会談後の日本」『世界週報』第40巻第18号、時事通信社、1959年5月、70-83頁、NAID 40002125533。 「日米開戦まで(6)――米、英、蘭の報復」『世界週報』第40巻第19号、時事通信社、1959年5月、78-83頁、NAID 40002125542。 「日米開戦まで(7)――近衛ついに身をひく」『世界週報』第40巻第20号、時事通信社、1959年5月、72-83頁、NAID 40002125543。 「日米開戦まで(8)――近衛より東条へ」『世界週報』第40巻第21号、時事通信社、1959年5月、78-83頁、NAID 40002125551。 「日米開戦まで(9)――対日戦備と最後協定案」『世界週報』第40巻第22号、時事通信社、1959年5月、76-83頁、NAID 40002125559。 「日米開戦まで(10)――一路破局へ」『世界週報』第40巻第23号、時事通信社、1959年6月、74-83頁、NAID 40002125497。 「日米開戦まで(11)完――日米開戦の幕、切って落さる」『世界週報』第40巻第24号、時事通信社、1959年6月、78-83頁、NAID 40002125568。 「帝国議会における両院委員長報告 議事速記録全文」『政教研究所紀要』第1号、国士舘大学政教研究所、1974年4月、207-256頁、NAID 120005959011。 「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」、東京帝国大学、1929年4月16日、NAID 500000486775。 宮野澄 『最後のリベラリスト 芦田均』 文藝春秋、1987年 上田美和 『自由主義は戦争を止められるのか 芦田均・清沢洌・石橋湛山』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2016年 矢嶋光 『芦田均と日本外交 連盟外交から日米同盟へ』 吉川弘文館、2019年 『日本独立』(2020年、演:伊武雅刀) 『日本の戦後』第7集 「退陣の朝 革新内閣の九ヶ月」(1977年、NHK特集のシリーズ番組群、演:伊藤雄之助) 『憲法はまだか』(1997年、NHK、演:佐藤慶) 『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』(2012年、NHK、演:篠井英介) 『アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜』(2020年、テレビ東京、演:久松信美) ^ 1925年当時、各国大使館の多くはオスマン帝国時代の首都イスタンブールから移転しておらず、日本も新首都アンカラではなくイスタンブールに大使館を開設した。松谷『イスタンブールを愛した人々』、pp.140-142. ^ ただし、フランスの短編小説『青髭と七人の妻』は1912年に『雄弁』に掲載された作品に過ぎないという記録もある。松田義男編 (2003年4月28日). “芦田均著作目録”. http://ymatsuda.kill.jp/. 2019年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月25日閲覧。 ^ 「経済交渉」から読み解く日米戦後史の真実 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 35頁。 ^ 衆議院会議録情報 第032回国会 本会議 第2号 ^ 松谷『イスタンブールを愛した人々』、p.130. ^ 国立国会図書館. “博士論文『国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位』”. 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京都府出身の人物一覧 終戦日記 - 友人の清沢洌が著名 第二次世界大戦を題材とした作品一覧 長谷川才次 - 時事通信社で論考を寄稿、著作が刊行されたのは、社長だった長谷川の意向による。 日本国憲法第9条
福知山市芦田均記念館 福知山市 施設案内 観光・文化施設 芦田均記念館 芦田均 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 国立国会図書館 憲政資料室 芦田均関係文書(寄託) 第3章 日記 | あの人の直筆 - 国立国会図書館 芦田均著作目録 - 改訂版(松田義男編) 『芦田均』 - コトバンク 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 木戸幸一 広瀬久忠 小原直 秋田清 吉田茂 安井英二 金光庸夫 小泉親彦 広瀬久忠 相川勝六 岡田忠彦 松村謙三 芦田均 河合良成 一松定吉 竹田儀一 林譲治 黒川武雄 橋本龍伍 吉武恵市 山縣勝見 草葉隆圓 鶴見祐輔 川崎秀二 小林英三 神田博 堀木鎌三 橋本龍伍 坂田道太 渡邊良夫 中山マサ 古井喜実 灘尾弘吉 西村英一 小林武治 神田博 鈴木善幸 坊秀男 園田直 斎藤昇 内田常雄 斎藤昇 塩見俊二 斎藤邦吉 福永健司 田中正巳 早川崇 渡辺美智雄 小沢辰男 橋本龍太郎 野呂恭一 斎藤邦吉 園田直 村山達雄 森下元晴 林義郎 渡部恒三 増岡博之 今井勇 斎藤十朗 藤本孝雄 小泉純一郎 戸井田三郎 津島雄二 下条進一郎 山下徳夫 丹羽雄哉 大内啓伍 井出正一 森井忠良 菅直人 小泉純一郎 宮下創平 丹羽雄哉 津島雄二 坂口力 米窪満亮 加藤勘十 増田甲子七 鈴木正文 保利茂 吉武恵市 戸塚九一郎 小坂善太郎 千葉三郎 西田隆男 倉石忠雄 松浦周太郎 石田博英 倉石忠雄 松野頼三 石田博英 福永健司 大橋武夫 石田博英 小平久雄 山手満男 早川崇 小川平二 原健三郎 野原正勝 原健三郎 塚原俊郎 田村元 加藤常太郎 長谷川峻 大久保武雄 長谷川峻 浦野幸男 石田博英 藤井勝志 栗原祐幸 藤波孝生 藤尾正行 初村滝一郎 大野明 坂本三十次 山口敏夫 林迶 平井卓志 中村太郎 丹羽兵助 堀内光雄 福島譲二 塚原俊平 小里貞利 近藤鉄雄 村上正邦 坂口力 鳩山邦夫 浜本万三 青木薪次 永井孝信 岡野裕 伊吹文明 甘利明 牧野隆守 吉川芳男 坂口力 坂口力 尾辻秀久 川崎二郎 柳澤伯夫 舛添要一 長妻昭 細川律夫 小宮山洋子 三井辨雄 田村憲久 塩崎恭久 加藤勝信 根本匠 加藤勝信 田村憲久 後藤茂之 加藤勝信 武見敬三 福岡資麿 2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。 表 話 編 歴 芦田均 太田典礼 中野武雄 大石ヨシエ 奥村竹三 芦田均 大石ヨシエ 前尾繁三郎 中野武雄 河田賢治 芦田均 柳田秀一 前尾繁三郎 大石ヨシエ 中野武雄 田中好 芦田均 前尾繁三郎 柳田秀一 大石ヨシエ 芦田均 前尾繁三郎 岡本隆一 川崎末五郎 柳田秀一 前尾繁三郎 柳田秀一 芦田均 岡本隆一 川崎末五郎 前尾繁三郎 柳田秀一 岡本隆一 谷垣専一 玉置一徳 前尾繁三郎 玉置一徳 岡本隆一 柳田秀一 谷垣専一 前尾繁三郎 谷垣専一 柳田秀一 玉置一徳 岡本隆一 寺前巌 前尾繁三郎 柳田秀一 西中清 谷垣専一 山田芳治 寺前巌 谷垣専一 前尾繁三郎 玉置一徳 寺前巌 西中清 前尾繁三郎 山田芳治↓ 玉置一徳↓ 谷垣専一↑ 玉置一弥↑ 寺前巌 玉置一弥 谷垣専一 西中清 山田芳治 前尾繁三郎↓ 谷垣専一↓ 玉置一弥 寺前巌 西中清 谷垣禎一↑ 野中広務↑ 野中広務 谷垣禎一 西中清 玉置一弥 山中末治 寺前巌 野中広務 谷垣禎一 西中清 玉置一弥 山中末治 野中広務 谷垣禎一 寺前巌 西中清 寺前巌 野中広務 山名靖英 谷垣禎一 豊田潤多郎 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research SNAC IdRef 芦田均 日本の内閣総理大臣 昭和時代戦前の閣僚 昭和時代戦後の閣僚 日本の外務大臣 日本の厚生大臣 京都府選出の衆議院議員 (帝国議会) 京都府選出の衆議院議員 改進党の衆議院議員 日本民主党の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 昭和時代戦前の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 戦前日本の外交官 証人喚問された人物 戦前のジャパンタイムズの人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 兵庫県立柏原高等学校出身の人物 京都府出身の人物 従二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲五等双光旭日章受章者 1887年生 1959年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/21 18:29更新
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ashida hitoshi
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