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苑田聡彦の情報 (そのだとしひこ)
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苑田 聡彦さんについて調べます

■名前・氏名
苑田 聡彦
(読み:そのだ としひこ)
■職業
野球選手
■苑田聡彦の誕生日・生年月日
1945年2月23日 (年齢80歳)
酉年(とり年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和20年)1945年生まれの人の年齢早見表

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苑田聡彦と関係のある人

高田繁: 高田が日本プロ野球で初めて外野手から内野手(一塁手を除く)に守備をコンバートされた選手と言われることもあるが、実際には丸山完二、苑田聡彦、上垣内誠等の例がある。


尾形佳紀: 広島スカウト統括部長の苑田聡彦はその人柄を買っており、尾形の引退後はスカウトに任命することを決めていたという。


武内久士: 契約にあたったスカウト部長の苑田聡彦は「1年目から中継ぎ、抑えでいける」と高い評価をし、武内も「分かっていても打たれないストレートを投げたい。


安仁屋宗八: 同期の苑田聡彦と一緒に白石勝巳監督の下へ挨拶に行くが、安仁屋は白石に「お前、ほんまに野球をやっとったんか」と言われてショックを受ける。


土生翔平: ドラフト会議前は4位以下の指名の場合は社会人野球のトヨタ自動車へ進む意向を示していたが、ドラフト会議後、苑田聡彦スカウト部長と尾形佳紀スカウトから指名あいさつを受け、プロ入りへ前向きな姿勢を見せた。


福井優也: 広島のスカウトとして福井の入団交渉を担当した苑田聡彦からは、「斎藤や大石に比べて闘争心を強く感じた」との印象を持たれている。


広岡達朗: さらに根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる。


坂倉将吾: 広島との入団交渉で仮契約を結んだ際には、交渉へ同席したスカウト統括部長の苑田聡彦に、「スカウト歴40年で坂倉のような高校生捕手を初めて見た」と言わしめた。


上垣内誠: ただ守備が得意なわけではなく苑田聡彦らに守備固めを任せ、外野手に回ることも多かった。


嶋重宣: 高校時代から天才的な打撃技術を評価されており、広島のスカウトを務める苑田聡彦は「(嶋は)構えに無理がなく、テイクバックが柔らかいから間ができる。


大和田明: 1967年は苑田聡彦の台頭により出番が減り、同年オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍。


上本崇司: 広島スカウト部長の苑田聡彦からは肩と足そしてスローイングの良さを評価されている。


中村奨成: 広島への入団交渉を担当したスカウト総括部長の苑田聡彦からは、「左方向にも右方向にも打てるので、捕手でも三塁手でも日本一の選手になれる」とも評価されている。


苑田聡彦の情報まとめ

もしもしロボ

苑田 聡彦(そのだ としひこ)さんの誕生日は1945年2月23日です。福岡出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。苑田聡彦の現在の年齢は80歳のようです。

苑田聡彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。

三池工高では原貢の指導を受ける。三池工高には一般入試不合格後、定時制で入学。その際に尽力してくれた原貢監督へのお礼にと、貢の長男原辰徳とよく遊んであげたという。九州一のスラッガーとして名を馳せ「中西二世」とも呼ばれ期待されていた。1962年秋季九州大会準決勝に進むが、小倉工に敗退。翌1963年夏の甲子園県予選は準々決勝で嘉穂東高に敗れる。

1964年にプロ入り。地元の西鉄ライオンズをはじめ9球団が獲得に乗り出したが、苑田が選んだのは一番条件の低かった広島カープだった。広島入団の決め手となったのは担当だった久野久夫スカウトの人柄であり、「久野さんの熱心さにひかれた。お金はどうでもよかった」と語っている。

173センチという小柄な体でプレーし、技術面では問題なかったが精神面で弱く、なかなか一軍では結果を残せなかった。4年目となる1967年はオープン戦で好調も、開幕時には二軍行きを命じられ悔しさを味わった。その悔しさが苑田を変え、2ヵ月後に一軍へ戻ると、6月に山本一義の負傷欠場で右翼手の定位置を掴み、チャンスメーカーとして起用される。この年は109試合に出場、うち98試合に先発し、規定打席には届かなかったが打率.266と自己最高の成績を残した。ようやく定位置も確保できると思われた1969年に山本浩二の入団で外野から内野へコンバートされる。当初は外野で山本と競い合いたい気持ちが強く、山本が入団してきた年の契約で内野コンバート前提の契約が盛り込まれていたので春のキャンプに入ってもなかなかサインをしなかった。当初は全く守備がものにならず、一時は内野転向が白紙になりかかるが(コーチの広岡達朗にすら「内野手のセンスはゼロですね。教えても絶対に上達しない。」と思われていたほどだった)、粘り強い指導を受けた結果、ある時から突然動きが良くなり内野手として使える目途が立つ。この苑田のコンバート成功は広岡にとって大きな経験となり、指導者として開眼する転機となったと述懐している1969年は開幕から二塁手、一番打者に抜擢されるが、やはり守備が負担となり打撃が低迷、シーズン中盤には故障もあって先発を外れた。同年10月には二塁手として先発に復帰するものの、翌1970年には国貞泰汎が移籍入団、出場機会が減少する。

しかし1972年には三塁手、二塁手としての出場機会が増え、45試合に先発出場。1973年からは上垣内誠と併用され、三塁手として起用される。翌1974年は打率.300の好記録を残した。1975年には衣笠祥雄が三塁手に回り行き場を失ったが、5月に大下剛史が負傷欠場し、代わりに二塁手、一番打者として10試合で40打数17安打と大当たりする。5月17日の大洋ホエールズ戦では先頭打者本塁打を放ち、チームを首位へと浮上させた。その後も三村敏之、シェーンの代役として出場し、スーパーサブとしてこの年の球団の初優勝に貢献し、自身も忘れられないシーズンとなった。阪急ブレーブスとの日本シリーズでも最終戦で代打として出場を果たしている。

1977年に現役引退し、スカウトとして球団に残り、東日本を中心に活動。スカウトとしてのスタートは球団から唐突に「東京でマンション一部屋探しとけ」の指令からだった。ほとんど知らなかった東日本での活動に当初はかなり苦労した。江藤智、金本知憲、嶋重宣、黒田博樹、大竹寛、永川勝浩、會澤翼、丸佳浩などを入団させた。2006年からスカウト部長に就任、その後スカウト統括部長に就任。2024年に統括部長を後進に譲り、スカウト部門顧問となった。2025年2月に80歳を迎えるのを機に野球界から引退

スカウトとしての座右の銘は「選手に惚れる」。これはと思う選手の試合や練習に、熱意をもって何度も通い詰め、選手としての可能性と人間性をしっかり確認して獲得する事を、スカウトの流儀としている。これは自身を見出した久野久夫のスカウトスタイルでもあり、苑田も大きな影響を受けた。黒田博樹はこの様な苑田の姿勢に感銘し、広島を逆指名したという。

選手適性だけではなく、スカウト適性の観察眼を持っている。発掘力は経験を積めば自然と備わるので、むしろ人柄や礼儀がスカウトの適性だとする。自身のかつての担当選手であり、2024年にスカウト統括部長を引き継いだ白武佳久も、白武の人間性を評価した苑田が球団に推薦し、現役引退後スカウトに就任した。その他松本奉文、鞘師智也、尾形佳紀らも苑田からスカウトとして見出された。

実弟に、三池工高が1965年夏の甲子園で初出場初優勝した時の外野手で、その後は法大、熊谷組でも活躍、1968年東京六大学野球春季ベストナインに選出された苑田邦夫がいる。

パンチ力ある打撃と堅実な守備が持ち味の内野手。入団当初は外野手であったが、1969年に内野手に転向した。

34 (1964年 - 1974年)

2 (1975年 - 1977年)

^ カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P83

^ 「育成カープの一望千里スカウト・苑田聡彦」東スポWEB、2021年5月30日。2024年5月30日閲覧。

^ “元カープ黒田博樹の担当スカウト苑田聡彦の哲学。名選手獲得の秘訣は“惚れる力”にあり。”. ATHLETE MAGAZINE (2020年11月2日). 2024年5月30日閲覧。

^ 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(14)、2010年8月15日

^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P20

^ “會澤翼、丸佳浩の獲得を後押しした、スカウトがカバンに忍ばせた“あるアイテム””. ATHLETE MAGAZINE (2020年11月27日). 2024年5月30日閲覧。

^ 引退→スカウト転身も「苦しかった」 悪すぎた球団内の仲…「ようこれでやってるな」」Full-Count、2024年5月24日。2024年5月24日閲覧。

^ “広島の名物スカウトが引退へ 黒田投手らを発掘した苑田聡彦さん”. 朝日新聞. (2024年11月26日). https://www.asahi.com/articles/ASSCT4368SCTPTQP006M.html 2024年11月26日閲覧。 

^ 「プロフェッショナル 仕事の流儀 バックナンバー 第345回」NHK、2017年12月25日。2024年5月29日閲覧。

^ 「『まさに一目惚れでしたね。』目立たない選手だった黒田博樹投手を発掘したベテランスカウト」ニッポン放送 NEWS ONLINE、2016年12月3日。2024年5月29日閲覧。

^ 「カープのスカウト統括部長・苑田聡彦が語る、スカウトの適性とは?」ATHLETE MAGAZINE、2020年12月1日。2024年5月29日閲覧。

^ “「人前でバットを振るな」。カープの担当スカウトが語る、“投手”嶋重宣への思い|carp|連載|広島アスリートマガジン”. 広島アスリートマガジン. 2021年7月18日閲覧。

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