葛西紀明の情報(かさいのりあき) ノルディックスキー/ジャンプ 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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葛西 紀明さんについて調べます
■名前・氏名 |
葛西紀明と関係のある人
岡部孝信: 団体ラージヒル 3位(栃本翔平、岡部孝信、伊東大貴、葛西紀明) 栃本翔平: 男子団体ラージヒル 3位(栃本翔平、岡部孝信、伊東大貴、葛西紀明) 岡部孝信: 団体ラージヒル 10位(岡部孝信、宮平秀治、東輝、葛西紀明) 岡部孝信: 団体ラージヒル 6位(伊東大貴、一戸剛、葛西紀明、岡部孝信) 竹内択: 団体 7位(伊東大貴、葛西紀明、竹内択、栃本翔平) 蒲池猛夫: 葛西紀明 - スキージャンプ選手。 石崎琴美: この大会において、葛西紀明の記録を破り、日本における冬季オリンピック最年長メダリストとなった。 落合モトキ: ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜(2021年6月18日、東宝) - 葛西紀明 役 島田弘久: ソチオリンピックでは、ノルディック複合・男子ノーマルヒルで渡部暁斗、スキージャンプ男子・個人ラージヒルで葛西紀明がそれぞれ銀メダルを獲得した瞬間を実況で伝えた。 ビルゲル=ルート: この銀メダル獲得時点での正確な年齢「36歳168日」は、その約66年後に開催された2014年ソチオリンピックに於けるジャンプ競技ラージヒル部門で日本の葛西紀明が「41歳254日」で銀メダルを獲得するまで、冬季五輪スキージャンプ競技に於けるメダル獲得世界最年長記録となっていた。 田畑真紀: ^ 2014年のソチオリンピックで葛西紀明が41歳で銀メダルを獲得し同記録が更新された。 竹内択: 2月28日 男子団体ラージヒル 4位 (小林潤志郎、伊東大貴、竹内択、葛西紀明) 湯本史寿: 団体ラージヒル 6位 (竹内択、湯本史寿、葛西紀明、伊東大貴) 船木和喜: 2位(船木和喜、東輝、宮平秀治、葛西紀明) トビー上原: レジェンド葛西紀明 神風ジャンパーの軌跡 ~W杯500戦出場記念特番〜 清水礼留飛: 竹内択、伊東大貴、葛西紀明と出場した団体では1番手を務め、1本目132.5m、2本目131.5mで、2本とも1番手グループ2位のポイントを記録し、団体では1998年の長野オリンピック以来16年ぶりのメダルとなる銅メダル獲得に貢献した。 高梨沙羅: 1月18日に蔵王で行われた第8戦で104mを飛び、転倒したものの優勝し、葛西紀明に並ぶ日本人最多勝利記録の16勝目をあげると、翌日の第9戦で17勝目を上げて日本人男女通じての歴代最多勝利記録保持者となった。 栃本翔平: 団体 7位(伊東大貴、葛西紀明、竹内択、栃本翔平) 秋元正博: 翌1988年-1989年シーズンをもって原田雅彦、葛西紀明らと入れ替わるように現役を退いた。 清水礼留飛: 団体ラージヒル 5位(清水礼留飛、葛西紀明、伊東大貴、竹内択) 尾崎準: 南出仁寛・葛西紀明のドラコンレジェンド#1~#8 湯本史寿: 団体ノーマルヒル 5位(湯本史寿、竹内択、葛西紀明、伊東大貴) 城島充: レジェンド 葛西紀明と下川ジャンプ少年団ものがたり、講談社、2014年 竹内択: 団体ラージヒル 6位 (竹内択、伊東大貴、葛西紀明、小林陵侑) 栃本翔平: 団体 5位(伊東大貴、竹内択、栃本翔平、葛西紀明) 船木和喜: 長野オリンピック直前の1月25日にオーベルストドルフ開催されたスキーフライング世界選手権(兼W杯)では4本のジャンプ全てで飛形点満点を獲得し、金メダルを獲得(日本人選手の金メダル獲得は1992年の葛西紀明以来2人目)。 クラウディア=ペヒシュタイン: ^ 2番目が1972年6月6日生まれの葛西紀明だった。 岡部孝信: 高校時代は後輩の東輝や葛西紀明の陰に隠れる存在で、北海道拓殖銀行入社後の1993年に日本代表入り。 竹内択: 3位(清水礼留飛、竹内択、伊東大貴、葛西紀明) 船木和喜: 2位(葛西紀明、宮平秀治、原田雅彦、船木和喜) |
葛西紀明の情報まとめ
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葛西 紀明(かさい のりあき)さんの誕生日は1972年6月6日です。北海道出身のノルディックスキー
ジャンプのようです。
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世界記録、人物・プレースタイルなどについてまとめました。現在、テレビ、兄弟、家族、結婚、ドラマ、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。葛西紀明の現在の年齢は52歳のようです。
葛西紀明のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)葛西 紀明(かさい のりあき、1972年6月6日 - )は、北海道上川郡下川町出身のスキージャンプ選手。東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)から地崎工業(現:岩田地崎建設)、マイカル(現:イオンリテール)を経て、現在は土屋ホームに選手兼任監督として所属。血液型はAB型。 16歳時の1988年より日本代表として国際大会に出場し、1992年アルベールビルオリンピックに19歳で初出場。以来、リレハンメル、長野、ソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバー、ソチ、平昌と史上最多計8回の冬季オリンピックに出場。2001年下川町町民栄誉賞受賞。2016年ホルメンコーレン・メダル受賞。2005年度日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーンのシンボルアスリート制度適用選手。 スキージャンプの選手としては異例ともいえる、約40年のキャリアを持ち、「スキー界のレジェンド」との異名をもつ。昭和時代から第一線で活躍し、昭和時代のW杯参戦・1980年代の世界選手権参戦ならびに、1992年アルベールビル五輪を知る最後の現役選手でもある。 2024年2月3日のスキージャンプTVh杯において、国内大会2年ぶりの優勝。全日本スキー連盟A級公認大会での50代勝利は異例とも言える快挙を成し遂げた。 札幌オリンピックが開催された1972年に下川町で生まれ、同郷の嶋宏大や岡部孝信らの後を追うように10歳でジャンプを始める。すぐに才能を発揮し雪印杯全日本ジャンプ大会ジュニアの部などで優勝を重ね、中学3年時には宮様スキー大会のテストジャンパーとして成年組と同じ助走距離で優勝した東昭広の飛距離を上回るなど逸材として注目を浴びた。 東海大四高校1年時の1988/89シーズン、11月に札幌で開催されたスキージャンプ・ワールドカップに16歳6ヶ月の当時史上最年少で初出場。1月には第28回STVカップ国際スキージャンプ競技大会で国際大会初優勝。さらに当時の中村圭彦ジャンプ部長による抜擢で、2月にラハティ( 高校2年生時の翌1989/90シーズンからワールドカップに本格参戦し、12月9日のレークプラシッド大会( 高校3年時の1990/91シーズンは最高18位でW杯ポイント(当時は15位まで)を獲得できなかった。 1991年(平成3年)に秋元正博らが所属する地崎工業(現:岩田地崎建設)に入社した。ちょうどこのシーズンはV字スタイルへの移行期に当たり、葛西も習得に手間取った。クラシカルスタイルで挑んだ1991/1992シーズン前半のW杯では札幌・大倉山大会で6位に入るなど前シーズンの不調から脱していたが、1月に日本ナショナルチーム全体の方針としてV字スタイルに転向、五輪初出場となった2月のアルベールビルオリンピック( 1992/1993シーズンは、年末年始のスキージャンプ週間では、第1戦オーベルストドルフ( このシーズンはV字スタイルを完全に習得し、前述のジャンプ週間を含むW杯3勝(準優勝1回、3位2回)をあげて総合3位となった活躍と、身体を平らにし、スキー板よりも前に放り出す深い前傾姿勢から、ジャンプの本場・欧州では「カミカゼ・カサイ」の異名を取る。 1993/1994シーズン、日本国内では大倉山ジャンプ競技場のバッケンレコードを大幅に更新するなど圧倒的な成績を残した。スキージャンプ週間では2度表彰台に立ち、総合4位。ワールドカップでも、1月9日のムーラウ大会( 1994/1995シーズン開幕前の11月24日にノルウェー合宿で転倒し鎖骨を骨折、1月に復帰して8日の雪印杯に出場したものの、直後の11日に再び転倒して同じ個所を痛め、結局このシーズンはワールドカップ、世界選手権には1試合も出場できず、葛西の代役として船木和喜がワールドカップにデビューしていきなり優勝、スターダムにのし上がった。 1995/1996シーズンは2シーズンぶりにワールドカップに復帰し、表彰台登壇は無かったがインスブルックで9位に入った。 1996/1997シーズン、1月26日に白馬ジャンプ競技場で開催されたラージヒルで2位に入り、3シーズンぶりの表彰台に登る。 1997/1998シーズンは11月29日のワールドカップリレハンメル大会で3位に入り、その後も1桁順位を続ける幸先の良いスタートを切ったが、12月30日にチームで興じていたサッカー中に原田雅彦にたまたま足を蹴られ、左足首捻挫を負う。長野オリンピックでは、2月11日の個人ノーマルヒルでは7位入賞を果たすも、2月15日の個人ラージヒルでは上記の怪我の影響もあって出場メンバーから外され、さらに翌16日に発表された団体メンバーからも外される。だが個人入賞ということもあって、直後のテレビ番組や式典では金メダルを獲得した団体メンバーとともに出演するなど悔しい思いをし、悔しさは今でも競技を続ける原動力の一つだと話している。その後、3月に行われたワールドカップでは22日のプラニツァ大会( 1998/1999シーズンはジャンプ週間で第3戦インスブルックでの優勝を含む3度表彰台に登り(残り1戦も4位)、フィンランドのヤンネ・アホネン、ドイツのマルティン・シュミットらと総合優勝を争い、1992/1993シーズン以来の総合2位入賞。ジャンプ週間を含むワールドカップでは6勝(準優勝1回、3位7回、1シーズン6勝は2018-19シーズンに小林陵侑が更新するまで日本勢男子最多)をあげて自己最高タイの総合3位に入った。1試合平均の獲得ポイントは55.28(合計1603点/29試合)で、これは現スコア方式の1993/1994シーズン以降では自己最高である。ラムサウ( 1999/2000シーズンは、シングルは複数回記録したものの、前シーズンから一転して個人表彰台は一度も無かった。 2000/2001シーズンは年末年始のスキージャンプ週間でガルミッシュ=パルテンキルヒェン大会での1勝を含む3戦連続表彰台に登るなど好調で、ワールドカップシーズン個人総合で4位に入った。 2001/2002シーズンは、10月に所属していたマイカルが廃部したため土屋ホームに移籍。ワールドカップでは五輪直前に開催された地元札幌大会で3位に入ったが、2月のソルトレークシティオリンピック( 2002/2003シーズンは1月までのワールドカップでは2度の9位が最高だったが、2月9日のヴィリンゲン大会( 2003/2004シーズンはワールドカップ序盤より度々シングルを記録し、1月25日の札幌大会でシーズン初表彰台となる2位。2月28日にパークシティ大会( 2005年、マッチ・ニッカネンらを指導したフィンランド人のカリ・ユリアンティラが、日本チームのヘッドコーチに就任。ユリアンティラの厳しい指導に対し、過去の実績のプライドから初めは強く反発したが、徐々にアドバイスを聞き入れるようになり、その結果助走スピードや飛距離が向上した。 2006年トリノオリンピック( 世界選手権では2007年札幌大会、2009年リベレツ大会( 2009年4月6日、所属する土屋ホームスキー部の監督に就任することとなり、日本スキー界としては異例となるプレーイング・マネージャーとなった。 2010年2月、6大会連続出場したバンクーバーオリンピック( 2010/2011シーズンは、開幕の団体戦で3位に入った。個人戦の最高成績は1月23日ザコパネ大会( 2012年11月15日、フィンランド航空は、葛西紀明選手兼監督および、葛西選手率いるTEAM TSUCHIYAを公式サポートした。2009年よりフィンエアーは公式サポートしており、今期で4シーズンとなる。2012/2013シーズンは、5試合で10位以内に入った。最高成績は3月22日と24日のプラニツァ大会スキーフライングでの4位。 2013/2014シーズン、12月15日のワールドカップ・ティティゼー・ノイシュタット大会( 2月のソチオリンピック( 五輪後最初に行われた2月26日のW杯ファルン大会( 2014年4月1日、1992年アルベールビルオリンピックから2014年ソチオリンピックまでの計7回の冬季五輪最多出場記録、2014年1月11日に41歳219日で達成したワールドカップ最年長優勝記録、同年2月17日に41歳256日で達成した冬季オリンピックスキージャンプ競技最年長メダリストの3つの記録がギネス世界記録に認定された。 2014/2015シーズン、11月22日のW杯シーズン開幕戦のクリンゲンタール大会( その後2月7日の第21戦ティティゼーノイシュタット大会( 2015-16シーズンは11月22日にクリンゲンタールでのW杯個人開幕戦で5位スタート。その後は調子が上がらなかったため今季は表彰台獲得は厳しいと感じていたが、12月19日の第6戦エンゲルベルク大会( FISスキーフライング世界選手権で5位入賞をしたのち、1月31日のW杯札幌大会から3戦連続の3位入賞を達成。3月4日のヴィスワ( 2016-17シーズンは、11月25日に行われたルカ( 2017-18シーズンは小林潤志郎、小林陵侑兄弟が台頭してきたが、全日本選手権ラージヒルで2人を破り優勝。W杯は12月10日のティティゼー・ノイシュタット大会で10位となりシーズン初のトップ10入り。ジャンプ週間は不振だったが、1月13日に開催されたバート・ミッテルンドルフ大会( 平昌オリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた。2月10日のノーマルヒルでは104.5m、99mで21位。17日のラージヒルは121mと伸び悩み、2回目に進めず33位だった。 W杯シーズン個人総合は26位で、日本勢では3番目だった。 2018-19シーズンもW杯メンバーに選出。12月16日の第7戦エンゲルベルク大会で30位に入り、今シーズン初めてW杯ポイントを獲得した。この試合以外は不調でポイント獲得できない試合が続いていたが、1月27日の第16戦札幌大会でシーズン自己最高の7位に入り、W杯史上最年長トップ10入り記録を更新した。しかし、葛西以外の日本勢が葛西を上回るW杯ポイントを獲得していたため、世界選手権の代表には選出されなかった。シーズン総合成績は37位。このシーズンは、葛西自らが土屋ホームにスカウトした教え子の小林陵侑が日本人男子初のスキージャンプW杯総合優勝を達成した。 2019-20シーズンはサマーグランプリ白馬大会でポイントを得られず、夏のコンチネンタルカップに初めて参戦した。W杯メンバーには開幕戦から選出され2019/20昭和、平成、令和での3元号でのW杯出場になるが、5試合連続でポイント獲得がならず、ジャンプ週間への出場を逃しコンチネンタルカップに回った。W杯札幌大会では1日目予選敗退、2日目36位で終わり、W杯本選は3試合出場にとどまり、ポイントを得ることができずシーズンを終了した。 2020-21シーズンは、コロナ禍でW杯メンバーの入れ替えが限定され、札幌で行われる予定であったコンチネンタルカップやW杯が中止となる中でポイントを獲得すべく、コンチネンタルカップエンゲルベルク大会に参戦したが、2日とも2回目に進めずポイントを獲得できなかった。W杯に1試合も出場できなかったのは故障により欠場した1994-95シーズン以来26シーズンぶり。国内戦では札幌オリンピック記念の3位タイが最高であった。 2021-22シーズンは、W杯遠征メンバーの選考を兼ねたシーズン序盤の国内戦で結果を残せず、メンバー入りを逃したことにより、北京オリンピックへの出場を逃し、オリンピック連続出場が途絶えることになったが、50代での現役続行と2026年五輪及び2030年五輪を目標とすることを宣言している。2022年1月、HTB杯で3位に入り、前シーズン以来10か月ぶりで今シーズン初めての表彰台登壇を果たした。同月の雪印メグミルク杯全日本ジャンプ大会で1回目2位から2回目に逆転し、2017年全日本選手権以来4シーズンぶりとなる優勝を果たした。北京オリンピックでは、フジテレビ系の放送にコメンテーターとして現地から出演。男子ノーマルヒルでは会場で観戦し、教え子の小林陵侑が金メダルを獲得したことに「目の前で、愛弟子がもう、金とれるなんて幸せですね。嬉しいです」と喜んだ。 2023-24シーズンは、2024年1月20日、21日の札幌・大倉山で行われたコンチネンタルカップに出場し、ポイントを獲得、2月16日から18日に行われる札幌・大倉山のワールドカップに出場する権利を得て、2019-20シーズン以来4季ぶりに代表選手に復帰した。2月17日の第19戦で30位に入り最年長ポイント獲得記録を更新しただけでなく、第23戦以降の代表遠征メンバー復帰も決めた。そのままシーズン終了まで代表遠征メンバーとしてワールドカップに出場し、3月3日のラハティ(28位)、3月17日のヴィケルスン(27位)、3月22日のプラニツァ(29位)でポイント獲得、2月3日のラハティ(5位)、3月23日のプラニツァ(4位)では団体戦にも出場した。シーズン終了後の4月17日にはワールドカップ最年長ポイント獲得記録と2016-17シーズンのワールドカップ最年長表彰台記録がギネス世界記録に新たに認定された。 世界記録太字はギネス世界記録に認定された記録。 ノルディックスキー世界選手権
オリンピックスキーフライング世界選手権
人物・プレースタイル両親と姉、妹のいる5人家族の長男。1997年に母を火災で亡くしており、母の命日とお盆、ワールドカップ遠征前は必ず墓参している。妹は1993年に難病の再生不良性貧血になり、一旦臍帯血治療で克服し、2003年に結婚したものの、2013年に再発、葛西は同シーズン中にも2度病院に駆けつけた。ソチオリンピック直前には妹からLINEで「絶対メダル取れるから何も心配せずに飛んで」と伝えられたという。「妹のために」は葛西の口癖で、冬季五輪で金メダルという目標も、当初は妹を勇気づけるのが目的だったという。また自身の心の支えとなった歌としてかぐや姫の「妹」を挙げていた。しかし治療の甲斐なく、妹は2015年5月には意識不明になり、2016年1月13日に意識が戻らぬまま帰らぬ人となった。葬儀は遠征中だった葛西の帰国を待って19日に行われ、翌20日にブログでファンに報告した。 ジャンプ時の空中姿勢は、身体をスキー板より前に出るほど深く前傾させる。そのダイナミック且つスリリングな独特のフォームはジャンプの本場・欧州で人気があり、ワールドカップ総合3位に入った1992/1993シーズン頃から「KAMIKAZE・KASAI(カミカゼ・カサイ)と呼ばれて、このネーミングは2014年に「レジェンド」に取って代わられるまで、長年葛西のキャッチコピーとして定着していた。その後もフォームの改良を続け、現在は手は体につけずに広げて、掌で風を受けて飛ぶムササビのようなスタイルになっている。 年齢が30代後半に達して以降も第一線で競技を続ける選手は、当時のスキージャンプ界では異例のことであり、この頃からヨーロッパで敬意をこめて「レジェンド」と呼ばれるようになった。2014年1月11日にワールドカップ史上最年長優勝を達成した際には、日本以外の多数の選手・コーチから、とりわけワールドカップ史上最多勝記録を持つグレゴア・シュリーレンツァウアーからは脱帽しての最敬礼での祝福を受けたほか、競技会場・オーストリアの地元紙は複数が1面トップでこれを報じ、ドイツ公共放送連盟(ARD)は、「『驚異』という言葉はこれからは『カサイ』にすべき」と賞賛した。翌シーズンの2014年11月28日に最年長優勝記録をさらに更新した際にはシュリーレンツァウアーは「エアーニッポン」と称賛した。 葛西がW杯個人戦通算500試合出場を達成した2016年3月17日のプラニツァ大会では500試合出場を記念し、金色のワシがあしらわれた「500番」のゼッケンが用意され、葛西がこれをつけて競技を行い、1回目のジャンプが終わった後、2万人の観客が会場アナウンスに合わせて日本語で「ありがとう」と祝福した。会場にはジャンプが盛んな欧州のメディアに加え、葛西だけのためにカナダのメディアも訪れ、葛西は競技直後に取材ゾーンで20数社の取材を受けた。オーストリアのクローネ紙は葛西の500試合出場達成に対し、「日本の奇跡のワシは、どうも永遠に若いままでいるようだ」と評した。 シーズン中のベスト体重は60kg程度(TEAM TSUCHIYAのプロフィールでは59kg、JOCのプロフィールでは62kgとなっている)。減量のために断食することもしばしば。ただ減量し過ぎるとスキージャンプ界のいわゆる「BMIルール」に引っかかり失格の恐れが出てくるため、一定の体重を維持することにも気を使うという。 2014年現在の所属である土屋ホームとはプロ契約ではなく、一般の社員として雇用されている。そのため、シーズンオフには一社員として同社のモデルハウスでのサイン会・握手会などの販促業務をこなしている。2014年2月にはソチ五輪銀メダルの功績により、同社住宅部長に昇進した。また同年6月には土屋ホームから、葛西プロデュースの戸建住宅「土屋LEGEND 葛西MODEL 2014」が発売された。 2014年2月まで独身であったが、ソチオリンピックで銀メダルを獲得した直後の2月22日に一般女性と結婚した。平昌オリンピックには家族同伴で挑みたいとしている。長期の海外遠征ともなると、独身生活で身につけた手料理を後輩に振る舞う。2018年には、約100坪の敷地に2階建ての自宅を新築し、フィンランド式サウナも備え付けた。 自身のブログでは絵文字を多用する。 B'zのファンである。また、女優・相武紗季のファンであると公言している。2009年に放映されたドラマ『ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜』を見てファンになった。スティーヴン・セガールのファンでもある。 2014年に第27回日本メガネベストドレッサー賞・スポーツ部門に選出された。また、同年にW杯最年長優勝とオリンピックメダル獲得を達成したことで「レジェンド」の異名が日本国内でも広まり、2014年新語・流行語大賞で「レジェンド」がトップテン入りした。 趣味はゴルフ、釣り、ワイン。好物は地元下川町にある喫茶店アポロのナポリタン、やない菓子舗の生クリームあんぱん。 2024/06/17 12:28更新
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kasai noriaki
葛西紀明と同じ誕生日6月6日生まれ、同じ北海道出身の人
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葛西紀明と近い名前の人
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