西園寺昭夫の情報(さいおんじあきお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
西園寺 昭夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
西園寺昭夫と関係のある人
東条文博: 1969年には5月に西園寺昭夫が故障で離脱した後を受け、遊撃手、一番打者の定位置を勝ち取る。 岩下光一: 東映は6回表無死に阪急先発の秋本祐作からスイッチした2番手の足立から岩下が左翼への本塁打で同点、西園寺昭夫の適時二塁打でまたまた逆転と慌ただしく、その裏から2番手の富永格郎へとスイッチし逃げ込みを図ったが、7回裏二死二塁から杉山光平の適時二塁打でまた追いつかれ、関口清治の適時二塁打で勝ち越された。 中村和臣: また、高校の1年後輩に山本哲也、2年後輩に西園寺昭夫がいた。 江藤愼一: 3年次の1955年には夏の甲子園県予選で、西園寺昭夫を擁する熊本工に敗れ、甲子園には出場できなかった。 辻恭彦: 6月4日の大洋戦(甲子園)では後にバッテリーを組む阪神キラーの高橋重行から生涯唯一のサヨナラ本塁打を放つが、この時はバットが折れ、西園寺昭夫のバットを借りて高橋の外のスライダーを打ったところ、まさかの本塁打となった。 浅野啓司: 初奪三振:同上、7回裏に西園寺昭夫から 村山実: 東映との日本シリーズでは第2戦で吉田勝豊に安打を打たれるまで8回一死まで一人の走者も出さずにあわや完全試合の快投、シリーズタイ記録となる6試合に登板して2勝(2敗)を挙げるなど大車輪の活躍をするが、第7戦で西園寺昭夫に決勝本塁打を浴びて敗退した。 高島正義: 1年目から西園寺昭夫の控え三塁手として起用され、6月からは西園寺の故障もあって26試合に先発出場。 山村幹弘: 添島の他、チームメートの西園寺昭夫、田中春雄(阪神)、酒井啓吾(大洋)がプロ入りしている。 大引啓次: なお日本ハムおよびその前身球団の背番号7を内野手登録の選手が使用するのは西園寺昭夫(1957年 - 1966年)以来で、47年ぶりである。 小山正明: あわてて村山がリリーフに出るが、12回表に西園寺昭夫に決勝本塁打を打たれて阪神は日本一を逃してしまった(小山本人は入浴の事実は否定している)。 江藤慎一: 3年次の1955年には夏の甲子園県予選で、西園寺昭夫を擁する熊本工に敗れ、甲子園には出場できなかった。 水原茂: 83勝52敗5分けの貯金31は球団史上最高、張本が首位打者、土橋が30勝、久保田が25勝、西園寺昭夫はリーグ最多の97得点、毒島章一もリーグ最多の11三塁打と投打が噛み合ってきた。 杉浦忠: ウチの西園寺昭夫さんは『当たる!』と尻もちをついた。 鈴木皖武: 1969年に西園寺昭夫との交換トレードで阪神タイガースへ移籍。 |
西園寺昭夫の情報まとめ
西園寺 昭夫(さいおんじ あきお)さんの誕生日は1937年10月31日です。熊本出身の野球選手のようです。
卒業、引退、家族、テレビに関する情報もありますね。2011年に亡くなられているようです。
西園寺昭夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 西園寺 昭夫(さいおんじ あきお、1937年10月31日 - 2011年10月3日 )は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(内野手)。 熊本工業高校では、2年生の時、中堅手として1954年の春の甲子園に出場。エース添島時人(巨人)を擁し準決勝まで勝ち進むが、この大会に優勝した飯田長姫高の光沢毅投手に0-6で完封された。同年夏は、捕手として夏の甲子園予選西九州大会決勝に進むが、長崎商に敗れる。添島の他、チームメートの田中春雄(阪神)、山村幹弘、酒井啓吾(大洋)がプロ入りしている。翌1955年にも夏の甲子園予選西九州大会決勝に進出するが、熊本高に延長11回サヨナラ負けを喫し、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は社会人野球の東洋レーヨンを経て、1957年に東映フライヤーズに入団。 1958年は開幕から三塁手に抜擢され、遊撃手も兼ねて67試合に先発出場。 1959年には引退した前川忠男の後継として遊撃手の定位置を獲得、5月末には三番打者に座る。同年は規定打席に到達し、打率.300(ベストテン6位)の好成績を記録した。 1960年から三塁手に回る。 1962年にはリードオフマンとして東映のパ・リーグ初制覇に貢献。阪神タイガースとの日本シリーズでも全7試合に先発出場。日本一を決めた第7戦では、延長12回に村山実から決勝本塁打を放っている。1959年と1961年にはオールスターに選出されるが、辞退した。 1966年オフに金銭トレードで阪神タイガースに移籍。ここでは主に外野手として起用される。 1968年オフには鈴木皖武との交換トレードでアトムズに移る。 1969年にはオープン戦から好調を維持し遊撃手のレギュラーを獲得するが、5月に故障離脱。 1970年オフに引退した。 引退後は一時、鷺宮製作所のコーチを務めた。 従妹は歌手・女優の水前寺清子。その関係で引退後、萩本欽一司会の「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ)に“水前寺清子チーム”の一員として出演している。 各年度の太字はリーグ最高 アトムズは、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更 初出場:1957年7月28日、対毎日オリオンズ13回戦(駒澤野球場)、7回裏に牧野伸の代打で出場 初安打:1957年7月28日、対毎日オリオンズ14回戦(駒澤野球場)、7回裏に飯尾為男の代打で出場、和田功から二塁打 初本塁打・初打点:1957年10月13日、対西鉄ライオンズ16回戦(平和台野球場)、9回表に鵜狩道夫から2ラン 初先発出場:1957年10月14日、対西鉄ライオンズ18回戦(平和台野球場)、1番・三塁手で先発出場 1000試合出場:1965年9月7日、対近鉄バファローズ21回戦(日生球場)、1番・三塁手で先発出場 ※史上103人目 100本塁打:1966年5月8日、対東京オリオンズ5回戦(東京スタジアム)、1回表に坂井勝二から左越先頭打者本塁打 ※史上44人目 1000本安打:1966年10月9日、対西鉄ライオンズ27回戦(後楽園球場)、3回裏に田中勉から中前安打 ※史上67人目 オールスターゲーム出場:2回 (1959年、1961年) 7 (1957年 - 1968年) 4 (1969年 - 1970年) ^ “OB NEWS Vol.52” (PDF). 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ) (2012年1月). 2015年7月5日閲覧。 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、235ページ 熊本県出身の人物一覧 熊本市出身の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 個人年度別成績 西園寺昭夫 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 熊本県立熊本工業高等学校出身の野球選手 東洋レーヨン硬式野球部の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 熊本市出身の人物 1937年生 2011年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/29 22:43更新
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