高橋竹山の情報(たかはしちくざん) 三味線奏者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
高橋 竹山さんについて調べます
■名前・氏名 |
高橋竹山と関係のある人
小室等: 高橋竹山 新藤兼人: 1974年引揚者から東北開拓農民となった者達を描いた『わが道』、1977年(昭和52年)津軽三味線の高橋竹山を題材とした『竹山ひとり旅』、広島原爆で死亡した桜隊を題材とした『さくら隊散る』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、樋口可南子が美しいヌードを披露した『北斎漫画』(1981年)。 林隆三: 竹山ひとり旅(1977年、近代映画協会)- 高橋竹山 役 棟方志功: NHKにて本人出演のドキュメンタリー『板画まんだら 棟方志功の世界』(音楽:高橋竹山・宇野誠一郎、ナレーター:籠野博嗣)が放映され、8月には大阪万博・日本民芸館のための板画壁画『大世界の柵・乾 - 神々より人類へ』が完成した。 大友寿郎: 高橋竹山生誕100年記念番組 ラジオドキュメンタリー 故郷(ふるさと)の空に(ラジオ。 栗塚旭: ドラマリーディング「高橋竹山 津軽三味線ひとり旅」(2008年、2010年) - 高橋竹山 島村佳江: 竹山ひとり旅(1977年、近代映画協会) - ユミ江(高橋竹山の妻) 倉光俊夫: 怪奇小説を数々ものす傍ら、高橋竹山を取り上げた『津軽三味線』も著している。 佐々木幹郎: 2011年 CD『糸魚川ジオパーク音頭』(唄・津軽三味線/二代目高橋竹山。 林隆三: 1977年、津軽三味線の名手である高橋竹山の若き日を描いた『竹山ひとり旅』に、新藤兼人監督に請われて主演。 |
高橋竹山の情報まとめ
高橋 竹山(たかはし ちくざん)さんの誕生日は1910年6月18日です。青森出身の三味線奏者のようです。
受章歴、『叩き三味線』と『弾き三味線』などについてまとめました。現在、結婚、引退、映画に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
高橋竹山のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)初代高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年6月18日 - 1998年2月5日)は津軽三味線の名人。本名高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。 青森県東津軽郡中平内村(現在の平内町)小湊生まれ。 3歳の時に麻疹をこじらせて半失明する。その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたという。 1933年3月2日に三味線引きの仕事で三陸海岸にある玉川の旅館に宿泊中、夜半過ぎに強い地震に遭った。これが昭和三陸地震と呼ばれる地震で宿泊していた宿は津波に襲われて全壊。高橋は地震が収まったあと宿から避難し津波の来る直前に命からがら宿の裏にある山へ避難することができた。 1938年、イタコをしていたナヨと結婚。 太平洋戦争の激化で三味線では生活を支えることが難しくなり、1944年、鍼灸師とマッサージ師の資格取得のため県立八戸盲唖学校に入学。一時芸の世界から身を引くが、1950年から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行。その際に雲竹より竹山の芸名を受ける。1954年から雲竹とともにラジオ青森(現在の青森放送)の民謡番組に出演した。 成田雲竹は高橋竹山に対して、伴奏のみならず他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲竹の作詞作曲した『りんご節』など、雲竹・竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘・制作し発表した。 1963年、キングレコードより史上初の津軽三味線独奏LPレコード『 津軽三味線 高橋竹山 』を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名声を得る。 1964年、雲竹の引退・隠居により雲竹・竹山のコンビを解消。 1971年、青森放送で竹山を取り上げたドキュメンタリー『寒撥』が放送。一般にその名を知られるきっかけとなる。番組は同年度の文化庁芸術祭で優秀賞に選出された。 1973年、小劇場渋谷ジァン・ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え津軽三味線ブームのさきがけとなった。 1975年、自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。 1977年、新藤兼人脚本・監督により映画『竹山ひとり旅』が製作され、モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。竹山役は林隆三が演じた。 1986年、アメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめる元となった。ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボルチモア、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。厳しい論評で知られるニューヨーク・タイムズは「まるで魂の探知器でもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辞を贈った。 1993年、妻ナヨ死去。 1998年2月5日、喉頭癌により平内町立中央病院にて死去。享年87。戒名「風雪院調絃竹山居士」。 晩年は衰えを自覚しながらも現役を退かなかったが、内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹与に二代目高橋竹山の名を譲った。他にも弟子はいたが、竹与だけが教授活動を一切せず演奏活動だけで生活していたことを認め、その行く先を心配してのことであった。 受章歴1961年、日本民謡協会より『技能章』 1971年、青森県文化賞 1974年、財団法人日本民謡協会より『名人位』 1975年、第9回吉川英治文化賞・第12回点字毎日文化賞 1982年、第3回松尾芸能賞 1983年、勲四等瑞宝章 1988年、伝統文化ポーラ特賞 1996年、平内町名誉町民 『叩き三味線』と『弾き三味線』竹山の芸風を表現する上でよく「竹山の三味線は弾き三味線だ」と言われる。これは竹山がマスコミに登場するようになった昭和40年代、同じ津軽三味線奏者として活動していた木田林松栄が得意とし、現在も主流である津軽三味線の奏法が撥で叩くように演奏するのに対してのものである。 しかし、これは少々誤解されている部分が否めない。ある日インタビューを受けた竹山はインタビュアーの「三味線(の奏法)は『叩く』ものですか?『弾く』ものですか?」という質問の意味を取り違えて「三味線は弾くものだ」と答えている。竹山にしてみれば、三味線の具体的な奏法について言及したつもりはなく、「太鼓は叩くもの」「尺八は吹くもの」というのと同じ類の質問だと思っていたためである。 これが間違って伝えられ、「竹山の三味線は『弾き三味線』である」と言われるようになった。 2024/06/12 04:41更新
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