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JIRO
JIRO(じろう)さんの誕生日は1972年10月17日です。北海道出身のミュージシャンのようです。
経歴などについてまとめました。卒業、趣味、家族、父親、テレビ、母親、解散、現在、結婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。現在の年齢は51歳のようです。
JIRO(ジロウ、1972年10月17日 - )は、日本のミュージシャンで、GLAY兼THE PREDATORSのベーシストとして知られる。本名、和山 義仁(わやま よしひと)。 北海道函館市出身。函館大谷高等学校卒業。身長169cm。既婚。 GLAYメンバーで唯一、芸名が本名に由来していない(TAKUROとHISASHIは下の名前(琢郎・尚)をそのまま、TERUは本名の「照彦(てるひこ)」の略称である)。由来は、GLAY加入前に所属していたバンド「ピエロ」のボーカリストに名前を聞かれ、とっさに「JIRO」と答えたため。本人も、何故自分が「JIRO」と言ったのかまったく分からないらしい。 その端正な顔立ちから、女性に非常に人気があり、芸能人でも武井咲や佐々木希がJIROのファンを公言している。メンバー曰く、実際にGLAYの中で一番モテるのはJIROで、TAKUROは女の子からJIROのことについての相談も多々あったという。加えて、優れたファッションセンスの持ち主で、衣服にあまりこだわらないTAKUROから相談されるほど。代官山でJIROとは気付かれずに「雑誌のオシャレ選手権に出ないか」とスカウトされたこともある。デビュー当初はローラーブレードを履いてスタジオ入りした事があり、事務所側から叱責された。 趣味はカメラとスノーボード。特にカメラは、空や風景などを撮るのが好きで、GLAYの会報内でコーナーも設けられている。このコーナーでは、ファンからの投稿も採用し、その時々の季節感やテーマにそっている。また、シングル「Precious」では、JIROが撮影した写真がCDのジャケットに用いられている。
インディーズ時代は「ハツリ屋」などのバイトをしていた。 揚げ物が苦手な模様で、1994年のツアーで回った名古屋で味噌カツを食べた所、のちに蕁麻疹や高熱が出たためそれ以降、揚げ物は一切口にしなくなったという。 イングランドプレミアリーグのリヴァプールのファン。2024年1月31日のチェルシー戦を現地アンフィールドにて観戦している。 ギターのように大きく腕を振って弾く、独特な奏法でベースを弾いている。ベースはギターと違い、和音ではなく単音を的確に弾く必要があるため、弾かない弦をミュートしている。セカンドシングルである『真夏の扉』では、プロデューサーであった土屋昌巳から、「ピックで(ベース)弾いてるの?駄目だよ、それじゃあ。」と言われたところ、JIROはその場でピックを外したと言う。土屋は「ピックと指とで弾けるようにしろ、という意味でのアドバイスだった」と語っている。影響を受けたベーシストに、元ガンズ・アンド・ローゼズのダフ・マッケイガンとZIGGYの戸城憲夫を挙げている。 レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レディオヘッド、ニルヴァーナ、チャットモンチーのファン。GLAYではTERUに次いでメインボーカルを担当することがあり、「SHUTTER SPEEDSのテーマ」「ストロベリーシェイク」「THE BIRTHDAY GIRL」などで自ら歌っている。なお、2005年からは、THE PREDATORSのベーシストとしても活躍。the pillowsのトリビュート・アルバムにも参加経験がある。また、GLAYでもTHE PREDATORSでも、稀に作曲をする。自身が作曲したGLAYの楽曲「SHUTTER SPEEDSのテーマ」は、特にライブでも盛り上がる楽曲となっている。 GLAYの副リーダー的存在、かつ、最年少メンバー。TAKUROと同じ幼稚園に通っており、小学校もTAKUROが転校するまでは一緒だった。HISASHIとは、なぜか2人きりになると気まずいムードになってしまうことが多いとのこと。ただ、決して仲が悪いわけではない。GLAYのメンバーを呼ぶ際は、TAKUROは「TAKUROくん」、HISASHIなら「トノくん」、TERUなら「テッコくん」と呼んでいる。また元メンバーのAKIRA(上島明)のことは「ウエシマくん」、NOBUMASA(大庭伸公)のことは「オバちゃん」と呼んでいた。 TAKUROから新曲を聴かされた際、TAKUROに対し「古いよ」と意見した事がある。TAKUROはこれまでにない自信作としてメンバーに新曲を聴かせたが、JIROだけが頭を抱えていた。TAKUROが歩み寄り「この歌は俺自身なんだよね」と言いかける寸前に「TAKUROくん、こういうのって古いんだよね」とJIROに言われ、TAKUROは「俺は古いのか〜」と気付かされたとのこと。このエピソードは、TAKURO自身が「音楽活動をしていて一番辛かったこと」として語っている。ただし、JIRO本人は「そんな事言ってないよ」と否定している。 経歴父、母、姉1人、妹2人の6人家族。父は頑固な職人でまさに"亭主関白"であった。子供の頃、JIROの家では父親の言う事は絶対に従わなければならず、口答えをすれば殴られ、テレビのチャンネル優先権も父親が握っていた。JIROは小さいながらも力があり、父親が仕事に出て行くのに付いて行こうとしたのを、とめようとした母親に抑えられ、肩を脱臼したこともある。 中学校でバスケットボール部に入部するが1年程で退部する。時間的に余裕があったJIROは音楽に興味を持ち、エレキギターをもっている友人にギターを借りる。しかし、母親に「そんな高価なものはすぐに返しなさい」と叱られ、渋々ギターは返した。だがこのことがJIROに「何が何でもギターを買う」という決心をもたせ、新聞配達のアルバイトで金を貯め、やがてギターを買った。その後、友人と「ネクストビート」というバンドを結成。さらに高校入学後には「セラヴィ」というバンドにギターとして加入した。高3の頃にベースに転向、「ピエロ」に加入した。理由は「ピエロに入れるならベースでもいい。」ということから。友人の持っているベースと自分の持っているギターを交換した。その後、1年早く上京していたGLAYが帰郷した際に対バンする。その打ち上げでTAKUROに東京へ行くことを薦められ、高校卒業後はピエロのメンバーと上京することになった。しかし上京したものの、「ピエロ」は解散。その後はいくつかのバンドを渡り歩くこととなった。そして1992年8月、TAKUROに誘われ、GLAYに加入。当初は「社交辞令程度の軽い気持ち」だったようだ。しかし、持ち前の積極的な行動力によりGLAYの人気は次第に上がっていた。 1994年5月、GLAYのベーシストとしてシングル「RAIN」でメジャーデビュー。デビュー時のJIROはバンド内で唯一短髪で髪も逆立てない普通の格好をしていたが、90年代後半は奇抜なヘアメイクと派手な衣装を着るようになる。特に1998年辺りの「アロエヘア」(当時出されたアルバム『pure soul』と掛けて“pure soulヘア”とも呼ばれる)はとても特徴的なものとなった。1999年2月、音楽雑誌『WHAT's IN?』で連載していたものをまとめた、初の単行本『キャラメルブックス』を発売。2000年のGLAY ARENA TOUR 2000 “HEAVY GAUGE”の頃、精神的に参っていた時期があった。ライブ中もずっと下を向くなどの行為が目立ち、ファンからも心配の声が上がった。TAKUROも「解散してもいいからJIROを休ませてあげたい」と発言するほどであったが、その時期を乗り越え現在に至る。その時期を支えてくれた、JIROが毎月連載していた音楽雑誌『WHAT's IN?』の編集者と同年12月に結婚。翌2001年7月には『キャラメルブックス』の続編、『キャラメルパビリオン』を発売した。 2004年
2005年
7月6日 - インディーズレーベルよりミニアルバム『Hunting!!!!』を発売。 7月19日 - 横浜BLITZでのフリーライブを皮切りに、『FM802 MEET THE WORLD BEAT 2005やRISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in Ezo』に出演した。 2006年
2008年
10月15日-セカンドミニアルバム『牙をみせろ』を発売。 SHOOT THE MOON TOURを開催。 2009年 2月4日『LIVE DVD-SHOOT THE MOON TOUR 2008.11.4 Zepp Zokyo』を発売 2024/05/16 06:25更新
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jirou
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