上川誠二の情報(かみかわせいじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


上川 誠二さんについて調べます
■名前・氏名 |
上川誠二と関係のある人
西村徳文: 5月27日の対西武ライオンズ戦で復帰したが、この間に水上善雄・上川誠二・森田芳彦が好調だったため、中堅手にコンバートされ、以後外野手が多くなるが盗塁王になり、打率も3割近くの成績を残した。 倉田邦房: チームメートに上川誠二がいた。 尾上旭: しかし打撃面で伸び悩み、宇野勝や上川誠二(同学年・同期入団=ドラフト外)の壁を越えられず、レギュラーには届かなかった。 桑田茂: 1986年12月、落合博満との世紀のトレードの一員として牛島和彦・上川誠二・平沼定晴と共にロッテオリオンズに移籍。 牛島和彦: 1987年、落合との4対1の交換トレードで上川誠二・平沼定晴・桑田茂と共にロッテへ移籍した。 山沖之彦: 決勝まで勝ち進み上川誠二のいた箕島高と対戦。箕島高には上川誠二、石井雅博らがいた。 落合博満: しかし、12月23日に牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との交換トレードで、中日へのトレードが決定した。 鈴木俊雄: 初安打・初打点:1991年6月23日、対近鉄バファローズ12回戦(石川県立野球場)、8回裏に上川誠二の代打で吉井理人から適時二塁打 平沼定晴: 1986年シーズンオフに落合博満との4対1の交換トレードで上川誠二・牛島和彦・桑田茂の3選手とともにロッテオリオンズへ移籍。 山口哲治: 春の第49回選抜高等学校野球大会では準決勝に進むが、上川誠二のいた箕島高校に完封負けを喫した。 清田育宏: 第5戦では中田賢一から2点適時打を放ち、岩下光一、原、上川誠二のもつ、日本シリーズでの新人打点記録の6打点に並んだ。 星野仙一: ロッテとの4対1トレードで上川誠二、桑田茂、牛島和彦、平沼定晴を放出し、落合博満を獲得するなど、大胆な補強を行い、ドラフト会議でも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末に1位で獲得し、以降は今中慎二、山崎武司、上原晃、音重鎮、大豊泰昭など主力級が3年間で入団する。 古谷盛人: 初打席:1985年8月21日 対読売ジャイアンツ17回戦(後楽園球場)8回表に上川誠二の代打、江川卓に三振 有藤通世: 就任直後に主砲の落合博満が中日ドラゴンズに移籍、さらに1987年オフにはレロン・リーも退団し、長距離打者を欠いたチームは急速に弱体化(有藤は落合とは確執があったために放出し、代わりに来た上川誠二を使うために二塁手だった西村徳文を三塁手にコンバート、前年からレギュラーとして台頭していた佐藤健一が控えにまわってしまい、共に中距離打者の入団2年目の古川慎一や高沢秀昭を4番打者にせざるを得なくなった)。 佐々木正行: 社会人三協精機では2年連続で都市対抗野球に出場するが休部となり、上川誠二と移籍した大昭和製紙では中心打者として活躍。 田野倉利男: しかし翌年に上川誠二が入団し、激しい定位置争いを繰り広げる。 水本啓史: 初出場:1985年6月28日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、9回表に上川誠二の代打で出場 石井雅博: 1年先輩に中日で活躍する二塁手の上川誠二がいた。 |
上川誠二の情報まとめ

上川 誠二(かみかわ せいじ)さんの誕生日は1960年3月27日です。和歌山出身の野球選手のようです。

卒業、引退、結婚、現在に関する情報もありますね。上川誠二の現在の年齢は65歳のようです。
上川誠二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 上川 誠二(かみかわ せいじ、1960年3月27日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。 和歌山県立箕島高等学校では1977年(昭和52年)、エース東裕司(三菱自動車水島)を擁し二塁手として第49回選抜高等学校野球大会に出場。準決勝で山口哲治のいた智弁学園を降し決勝に進出。東が中村高の山沖之彦との投げ合いを制し、7年ぶりの優勝を飾る。春夏連覇の期待もかかったが、夏は県予選決勝で田辺高の木下透に完封負け。同年が最後の開催となった奈良県勢との紀和大会にも進めなかった。1年下のチームメートに石井雅博がいた。 高校卒業後、三協精機に進み、1年目で都市対抗に出場するも、入社1年目にして不況により野球部が休部となる。映写機のネジ締め作業を3か月行った後、大昭和製紙へ移る。1980年、1981年(昭和56年)と都市対抗に連続して出場するが、同年の冬にまたもチームが休部となる。これを入団時にマスコミは「二度死んだ男」と言った。既に同年のドラフト会議も終わっており、阪急ブレーブスと中日ドラゴンズから入団の打診があり、ドラフト外で中日ドラゴンズに入団。 1982年(昭和57年)2月6日の守備練習中にイレギュラーボールが下顎に当たり、顎を亀裂骨折、前歯1本欠損、残る歯もほぼ折れる怪我をしてしまう。しかし、数日後には、顎にブリッジをかけ包帯で包み、歯が取れかけていたので針金で強く巻いた状態でキャンプに再合流し、その姿に近藤貞雄監督は驚き、闘志を買って、翌週には一軍昇格を果たす。1年目ながら二塁手として田野倉正樹と併用され、リーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズでは全試合に先発出場。伏兵と称され、第3戦で逆転本塁打、第6戦で同点適時打を放つなど活躍。敗退はしたが、21打数6安打6打点を記録し敢闘賞を受賞。 1983年(昭和58年)オフに監督就任した山内一弘から、ダウンスイングからレベルスイングへの改造指導を受け、ヒットゾーンを広げた。同年はレギュラー二塁手に定着し、初めて規定打席(36位、打率.249)にも達する。 1984年(昭和59年)は自己最高の打率.309(11位)を記録した。 1986年(昭和61年)は、2年連続リーグ5位と低迷するチームの中にあって、チーム最高打率となる.295を記録した。しかし、同年12月、妻が出産のために妻(後述)の実家がある東京に居たところ、オフに監督就任した星野仙一から「ロッテに行ってくれ。お前は向こうから指名されて行くのだから、しっかり頑張って来い」と電話があり、牛島和彦・平沼定晴・桑田茂と共に落合博満との4対1の交換トレードでロッテに移籍。 1989年(平成元年)には、自己最高の12本塁打43打点を記録。 1993年(平成5年)には、堀幸一が育ち、控えに回ることも多くなったことから、体力的にはまだ余裕があったが現役を引退する。 引退後はロッテの二軍コーチ(1994年 - 1995年)、中日の二軍コーチ(1996年 - 1999年)、東海ラジオ野球解説者(2000年 - 2004年)を経て、2005年(平成17年)から楽天コーチに就任し2007年(平成19年)まで務めた。 2008年(平成20年)からロッテコーチに就任。 2012年まで務めた。 2004年(平成16年)には国士舘大学男子ソフトボール部コーチとして全日本大学ソフトボール選手権優勝に貢献した。 私生活では中日ドラゴンズ在籍当時、1980年(昭和55年)に日本代表としてミス・ユニバース世界大会に出場した檜山久恵と結婚した。 ロッテのコーチを退任した現在は、知人の紹介でビル管理の会社に勤務している。 常にバットのグリップを一握り半余らせて握りコツコツと嫌らしく当てていくバッティングは、「ピラニア」と称された。肘を故障する前のルイス・サンチェのストレートをコンパクトなスイングで弾き返すなど、シュアなバッティングが光る巧打者だった。 三振の少ない選手でもあり、規定打席に到達したシーズンでも30三振を記録したことがなく、リーグの最少三振打者に複数回なっている。 各年度の太字はリーグ最高 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1982年) 初出場:1982年4月4日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、8回裏に田野倉正樹に代わり二塁手として出場 初安打:1982年4月14日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、7回表に土屋正勝の代打として出場、西井哲夫から単打 初先発出場:1982年4月21日、対読売ジャイアンツ4回戦(平和台球場)、8番・二塁手として先発出場 初打点:1982年5月7日、対読売ジャイアンツ6回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に江川卓からサヨナラ適時打 初本塁打:1982年6月8日、対広島東洋カープ8回戦(新大分球場)、3回表に津田恒美からソロ 1000試合出場:1990年10月2日、対福岡ダイエーホークス25回戦(川崎球場)、11回裏に福澤洋一の代打として出場 ※史上293人目 59 (1982年 - 1984年) 6 (1985年 - 1993年) 77 (1994年 - 1995年) 96 (1996年) 92 (1997年 - 1999年) 72 (2005年 - 2012年) ^ 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603 ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ “落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した!”. 新潮デイリー (2021年11月17日). 2022年8月17日閲覧。 和歌山県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 個人年度別成績 上川誠二 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 日本の野球選手 和歌山県立箕島高等学校出身の野球選手 三協精機硬式野球部の選手 大昭和製紙硬式野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 東北楽天ゴールデンイーグルス関連人物 日本の野球指導者 野球解説者 和歌山県出身のスポーツ選手 1960年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/04/10 09:28更新
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kamikawa seiji
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