上田萬年の情報(うえだかずとし) 国語学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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上田 萬年さんについて調べます
■名前・氏名 |
上田萬年と関係のある人
新村出: 在学中は上田萬年の指導を受けた。 沢柳政太郎: 同級には狩野亨吉、上田萬年、幸田露伴、尾崎紅葉などがいた。 芳賀矢一: 上田萬年に続く東京帝国大学国語国文学教授で、国学とドイツ文献学をあわせた日本国文学の基礎を作り、近代国文学の父と称された。 高野辰之: 東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学ぶ。 幸田露伴: 尾崎紅葉、上田萬年、狩野亨吉らと同級生であった。 福来友吉: 学長であった上田萬年から10月に呼ばれ「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受けたが、透視も念写も事実である旨主張して東京帝国大学を追放(公的には休職)され、1915年(大正4年)10月28日付の東京日日新聞や萬朝報でも報じられた。 菊池寛: 本来は一高の友人ら同じく東京帝国大学に進みたかったが、上田萬年の拒絶のため叶うことはなかった。 |
上田萬年の情報まとめ
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上田 萬年(うえだ かずとし)さんの誕生日は1867年2月11日です。東京出身の国語学者のようです。
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人物、逸話などについてまとめました。現在、卒業、趣味に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
上田萬年のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、神宮皇學館館長、貴族院議員。国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めたほか、文部省専門学務局長や臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。小説家円地文子の父。 1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保(現在の東京都新宿区)の尾張藩下屋敷で生まれる。 東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。その後、1888年(明治21年)帝国大学和文科(のちの東京帝国大学文科大学)卒業。在学中はバジル・ホール・チェンバレンに師事し、彼から博言学の講義を受けた。卒業後は大学院に進み、1890年(明治23年)国費でドイツに留学。ライプツィヒやベルリンで学び、東洋語学者のフォン・デル・ガーベレンツに出会い薫陶をうけた。またユンググラマティケル(青年文法学派)の中心人物、カール・ブルークマンやエドゥアルド・ジーフェルスの授業を聞いた。さらにサンスクリット語の講義も受けており、パリにも立ち寄っている。 1894年(明治27年)に帰国後、東京帝国大学文科大学博語学講座教授に就任。比較言語学、音声学などの新しい分野を講じ、多くの研究者を幅広い分野において育てた。さらに古文研究に偏向しがちであった当時の国語学に新風をふきこみ、明治以降の実践的日本語教育を行う際の仮名遣いへの争点を明らかにした。 1899年(明治32年)文学博士号取得。1908年(明治41年)帝国学士院会員。東京帝国大学文学部長等を経て、1919年(大正8年)から1926年(大正15年/昭和元年)まで神宮皇學館(現・皇學館大学)館長兼務、1926年(大正15年/昭和元年)から1932年(昭和7年)まで貴族院帝国学士院会員議員。1927年(昭和2年)東京帝国大学(東京大学)を定年退官し、1929年(昭和4年)まで國學院大學学長を務めた。 1937年(昭和12年)、直腸癌のため死去。墓所は谷中霊園にある。 人物明治期に日本語そのものが大きく動揺していた中で、国学の伝統を批判的に継承しつつ、西洋の言語学を積極的にとりいれ、標準語や仮名遣いの統一化に尽力した功績は大きい。 文部省著作の「尋常小学唱歌」の歌詞校閲担当者の一人であり、今日著名な高野辰之よりも権限が大きい立場での校閲者であった。東京(江戸)生まれでドイツ留学という点で、「尋常小学唱歌」作曲主任であった東京音楽学校の島崎赤太郎教授とは、標準語のアクセント重視という点で気脈を通じていたと考えられる。 上田萬年が行った言語研究の中での最大の功績は、1901年にドイツで行われた正書法を日本の言語政策に応用しようとした点である。旧仮名遣いの混乱を正すために、「言文一致」への移行が必要なことは明治維新以来から明らかだった。そこで上田は言語学会などを立ち上げながら、明治期にできる最新の方法で「言文一致」の表記を勘案した。長音記号の「−」の採用や『仮名遣教科書』(1903年発行)に見える新仮名遣いなどがこれである。この仮名遣いは、文部省内においても、初等教育での教科書にほとんど採用の予定であったが、岡田良平、森鷗外など旧仮名遣いの使用を主張する人々による運動の末、1907年に貴族院が発音式から歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を文部大臣に提出したほか、1908年の臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅する。 長田俊樹は、言語学外部からの言語学批判における言語学への理解不足と実証性の欠如を批判するなかで、「上田は「学者的政治家であり、また政治家的学者」であり、言語学研究には不熱心で、実質上ほとんど貢献はなかった」として、「言語学のアマチュア」と指摘している。 逸話上田の講義を聴講していた一人に鳥居龍蔵がおり、鳥居は言語学を学ぶ伊波普猷と出会い親交を深めた。1904年(明治37年)、鳥居は帰省する伊波に同行して沖縄で調査を行ったが、上田は沖縄での調査のための旅費を渡している。 上田は江戸文学を愛読する趣味人でもあり、歌舞伎や錦絵のほかに、洒落本や狂歌にも興じていた。 2024/06/26 01:42更新
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ueda kazutoshi
上田萬年と同じ誕生日2月11日生まれ、同じ東京出身の人
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