原嘉道弁護士の情報(はらよしみち) 弁護士 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
原 嘉道さんについて調べます
■名前・氏名 |
原嘉道と関係のある人
田中義一: 司法大臣:原嘉道 → 後に枢密院議長 木戸幸一: 他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸が東条英機が陸軍大臣のまま首相を兼任することを提案し、木戸の意見が「重臣会議」で承認された。 小原直: 田中義一内閣の原嘉道司法大臣の下で司法次官に抜擢され、以後、濱口・犬養・斎藤内閣の司法次官を務める。 田中義一: やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。 床次竹二郎: 大学の同期生に山之内一次、伊集院彦吉、原嘉道、一級下に後に床次の政治顧問を務めることとなる佐々木多門らがいる。 金子堅太郎: 葬儀は同月20日、築地本願寺で原嘉道(枢密院議長)が葬儀委員長となって行われた。 森戸辰男: 裁判では今村力三郎を主任弁護士に原嘉道、花井卓蔵、鵜沢総明、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、大審院まで争ったが上告は棄却され有罪が確定。 望月圭介: 当時法相だった原嘉道の証言によると、治安維持法に死刑を導入するという重大な法律改正を緊急勅令で行うことは憲政の破壊であるという囂々たる反対論が政党間にあったが、望月が「これをやるとお互いにやられるかも知れぬぞ」と言うと、原は「この為にやられるならよいじゃないか、日本の国体を破壊する者を適当に取り締まるという事は我々の任務である。 花井卓蔵: このため、実践的な刑事法学を深く修めた刑事弁護の第一人者とも、原嘉道と並ぶ在野法曹の雄とも称された。 望月圭介: 木内重四郎京都府知事汚職疑惑いわゆる豚箱事件において人権蹂躙があったとして、弁護士原嘉道は旧知の仲で司法大臣も兼務していた原敬のところに訴えに来た。原敬は理解を示すと、原嘉道は次は議員たちにも訴えようと与党多数派だった政友会に向かうと、望月が対応し便宜を図った。 |
原嘉道の情報まとめ
原 嘉道(はら よしみち)さんの誕生日は1867年3月23日です。長野出身の弁護士のようです。
現在、卒業、事件に関する情報もありますね。1944年に亡くなられているようです。
原嘉道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)原 嘉道(はら よしみち(かどう) 1867年3月23日(慶応3年2月18日) - 1944年(昭和19年)8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。男爵、法学博士。帝国弁護士会名誉会員。第9代中央大学学長。 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。幼名は亀太郎。父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。同期生に柴田家門(第3次桂太郎内閣文部大臣)、石井菊次郎(第2次大隈重信内閣外務大臣)らがいる。帝国大学在学時には代言人(弁護士)志望であったが、開業資金が無いので農商務省に入省する。農商務省では農商務大臣の陸奥宗光と大臣秘書官だった原敬に出会い、目を掛けられた。農商務省参事官、鉱山監督局の東京、大阪両鉱山監督署長とスピード出世するが、1893年(明治26年)に農商務省を退官している。 第2次伊藤内閣の外務大臣に転じていた陸奥は、原の退官を惜しみ、書簡で埼玉県書記官へ赴任させると原を慰留している。 1920年(大正9年)原敬内閣で陪審法諮問委員に選出される。元来、官僚生活の原点において原敬との関係や原内閣で法制局長官を務めていた横田千之助が原を大審院判事に推挽したことなどにより、立憲政友会と関係を築くことになった。1923年(大正12年)には、司法界の巨頭であり、観念右翼として知られていた平沼騏一郎の主催する国本社に参加、理事に就任する。 1927年(昭和2年)田中義一内閣の司法大臣として入閣する。法相としては、1928年(昭和3年)治安維持法に基づき日本共産党の一斉検挙、すなわち三・一五事件を実施した他、翌1929年(昭和4年)4月16日にも300名余の共産党員を検挙している。また、1928年思想検事を設置、治安維持法を改正し国体変革に対しては最高刑を死刑とする修正条項を追加した。 1931年(昭和6年)枢密顧問官となる。1938年(昭和13年)枢密院副議長。1939年(昭和14年)第1次近衛文麿内閣が総辞職し、枢密院議長平沼騏一郎に大命降下となり、後任の枢密院議長には近衛が就任した。1940年(昭和15年)6月近衛が新体制運動のため、枢府を退くと、原は後任として枢密院議長に就任した。同年9月日独伊三国軍事同盟締結について枢密院で審議された際、三国同盟参加に反対、外務大臣の松岡洋右を批判している。1941年(昭和16年)6月独ソ戦が勃発すると7月2日の御前会議において松岡外相とともに対ソ開戦を主張した。9月6日の御前会議では、軍部の作成した帝国国策遂行要領を審議し、原は「外交交渉が主であるのか、戦争準備完整が主であるのか、伺いたい」「この要綱案では戦争が主で、外交が従のように見えるが本当は逆ではないのか」と発言した。昭和天皇は、原の発言を受けて、明治天皇の和歌「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」を詠み「私は故明治大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めている」と発言した。原は内大臣木戸幸一と通じて岡田啓介、米内光政ら重臣たちと連絡を取り戦争回避に努力したが、その努力も虚しく12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。 戦時下にあって東条内閣の権力集中により、枢密院はその権能を喪失した。 1944年(昭和19年)、枢密院議長在職中に胆嚢炎に罹り東京都麹町の自宅で静養に入るが、同年8月7日に死去。享年78歳。葬儀、告別式は築地本願寺で行われた。 死に際し勅使が派遣され、特旨をもって華族に列せられ、男爵位が追贈された。戦後、華族制度は廃止されるが、原は日本最後の華族となった。墓所は多磨霊園。 1891年(明治24年)12月11日 - 従七位 1892年(明治25年)4月18日 - 正七位 1927年(昭和2年)
12月15日 - 従三位 1933年(昭和8年)6月15日 - 正三位 1938年(昭和13年)7月1日 - 従二位 1943年(昭和18年)7月15日 - 正二位 1919年(大正8年)9月29日 - 金杯一個 1927年(昭和2年)4月16日 - 勲三等瑞宝章 1928年(昭和3年)
4月21日 - 金杯一組 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章 1934年(昭和9年)4月29日 - 金杯一組 1935年(昭和10年)6月11日 - 勲一等瑞宝章 1938年(昭和13年)9月14日 - 旭日大綬章 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1942年(昭和17年)5月5日 - 銀杯一組 1944年(昭和19年)8月7日 - 旭日桐花大綬章・男爵 1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国大満洲国建国功労章 1938年(昭和13年)7月9日 - 満州帝国勲一位柱国章 1941年(昭和16年)12月9日 - 満州帝国:建国神廟創建記念章 講演録『我が弁護士制度の進展と帝国弁護士会の設立』(1-6)、『正義』(巻11-12)。帝国弁護士会(1935-1936)。NCID AN00327857 『弁護士生活の回顧』法律新報社、1935 大空社より復刻 父・原耕作 - 須坂藩士 妻・光(1876年生) - 元鶴舞藩士で若松県令の岡村義昌の娘。兄に岡村輝彦 長女・富美子(1896年生) - 三菱銀行取締役・林田敏義の妻。学習院女学部卒。娘婿に木戸孝彦(木戸幸一二男)。 二女・明子(1897年生) - 大野龍太の妻。 長男・寛(1911年生) - 東大理学部教授・日本植物学会会長。学習院、東京帝国大学理学部卒。岳父に片山正夫 森戸辰男 大内兵衛 重臣会議 原嘉道の墓 ^ 枢密院議長・民事裁判の大御所、死去(昭和19年8月8日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p698 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 「原嘉道」 アジア歴史資料センター Ref.A06051181800 ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 原嘉道『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月] ^ 原嘉道 『人事興信録』14版下 ^ 林田敏義『人事興信録』14版下 表 話 編 歴 江藤新平 大木喬任 田中不二麿 大木喬任 山田顕義 山田顕義 田中不二麿 河野敏鎌 山縣有朋 芳川顕正 清浦奎吾 曾禰荒助 大東義徹 清浦奎吾 金子堅太郎 清浦奎吾 波多野敬直 松田正久 千家尊福 岡部長職 松田正久 松室致 松田正久 奥田義人 尾崎行雄 松室致 原敬 大木遠吉 岡野敬次郎 田健治郎 平沼騏一郎 鈴木喜三郎 横田千之助 小川平吉 江木翼 原嘉道 渡邊千冬 鈴木喜三郎 川村竹治 小山松吉 小原直 林頼三郎 塩野季彦 宮城長五郎 木村尚達 風見章 柳川平助 近衛文麿 岩村通世 松阪広政 岩田宙造 木村篤太郎 鈴木義男 表 話 編 歴 増島六一郎 1885-1889 増島六一郎 1889-1891 菊池武夫 1891-1903 菊池武夫 1903-1905 菊池武夫 1905-1912 奥田義人 1912-1913 岡村輝彦 1913-1914 奥田義人 1914-1917 岡野敬次郎 1917-1920 岡野敬次郎 1920-1923 事務取扱 馬場愿治 1923-1924 岡野敬次郎 1924-1925 事務取扱/学長 馬場愿治 1925-1926/1926-1930 原嘉道 1930-1938 林頼三郎 1938-1947 事務取扱 吉田久 1947 事務取扱 三橋市太郎 1947 事務取扱 吉田久 1947-1948 加藤正治 1948-1952 事務取扱 森清 1952 林頼三郎 1952-1958 柴田甲四郎 1958 片山金章 1958-1961 升本喜兵衛 1961-1962 事務取扱 森清 1962 升本喜兵衛 1962-1967 井上達雄 1967-1968 事務取扱 守屋善輝 1968 事務取扱 川口弘 1968 戸田修三 1968-1969 事務取扱 金子文六 1969 事務取扱 桑田三郎 1969 原田鋼 1969 事務取扱/学長 嶋崎昌 1969/1969-1972 戸田修三 1972-1981 川口弘 1981-1984 川添利幸 1984-1990 高木友之助 1990-1993 外間寛 1993-1999 鈴木康司 1999-2002 角田邦重 2002-2005 永井和之 2005-2011 福原紀彦 2011-2014 酒井正三郎 2014-2018 福原紀彦 2018-2021 河合久 2021- カテゴリ メディア 中央大学 学校法人 総長 人物 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 昭和時代戦前の閣僚 日本の司法大臣 日本の商工官僚 日本の弁護士 日本の男爵 日本の枢密顧問官 中央大学学長 北進論の人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 幕末須坂藩の人物 1867年生 1944年没 2024/11/23 10:37更新
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hara yoshimichi
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