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原田真二の情報 (はらだしんじ)
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【5月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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原田 真二さんについて調べます

■名前・氏名
原田 真二
(はらだ しんじ)
■職業
ミュージシャン
■原田真二の誕生日・生年月日
1958年12月5日 (年齢65歳)
戌年(いぬ)、射手座(いて)
■出身地・都道府県
広島出身

原田真二と同じ年に生まれた芸能人(1958年生まれ)

原田真二と同じ誕生日の人(12月5日)

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原田真二

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原田 真二(はらだ しんじ)さんの誕生日は1958年12月5日です。広島出身のミュージシャンのようです。

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経歴、人物などについてまとめました。テレビ、映画、卒業、ドラマ、現在、退社、解散に関する情報もありますね。去年の情報もありました。現在の年齢は65歳のようです。

原田 真二(はらだ しんじ、1958年12月5日 - )は、日本のシンガーソングライター。広島市榎町(現:中区榎町)出身。

ボーカル、作詞、作曲、編曲、プロデュース。楽器はギター、ピアノ、キーボードを主要に扱うが、ベース、パーカッション、マリンバ、ブルース・ハープ、ドラム、琴、和太鼓なども演奏。ミックス、プログラミング、AI共作もこなす、マルチプレイヤー、マルチミュージシャンである。所属事務所はエアーフィールド(個人事務所)。血液型はAB。2011年(平成22年度)広島市より広島市民賞。ひろしま平和文化大使委属。

経歴

ザ・モンキーズのテレビショーや、エルビス・プレスリーの宇宙中継ライブ(『アロハ・フロム・ハワイ』)などで観て、「ライブが人を感動させるんだ」と幼いながら感動した。中学生で洋楽ロックの虜になり、エルトン・ジョンやウイングスなどのロック、スティービー・ワンダーなどのソウル系、ジョン・ウィリアムズ、ヘンリー・マンシーニなどの映画音楽などをジャンルレスに聴いた。中学に入ると同郷の吉田拓郎がブレイクし、広島の中学生・高校生たちはわれもわれもとフォーク熱に憑りつかれ、フォークギターを持っていなければ「オクレテル!」という状況になった。原田も中学から兄のギターを借りて、自身でもギターを始め、吉田拓郎をコピーする。当時の広島は拓郎の影響が強く、ロックをやっている人は周りにほとんどいなかったという。またヤマハ広島店でギターとピアノを習い、アイドル雑誌の付録に付いていた天地真理などの歌謡曲の歌本でギターを弾いたり、譜面がある物は探して、アレンジを確認したりし、早くからプロのアーティストを目指した。中学3年のとき、拓郎の影響を受けた自作曲を初めて作る。広島市立舟入高校進学後、友人とビートルズから"ビ"を抜いたビールスなる名前のロックバンドを結成した。当時のあだ名は"広島のエルトン・ジョン"。同校2年在学中の秋に『月刊明星』の広告で見た憧れの拓郎たちが作ったフォーライフ・レコード新人オーディションに、締め切りまで1ヵ月もなかったことから、修学旅行を休んで、その間にヤマハと自宅で制作した3曲を録音して応募、吉田拓郎に見出され3,000曲の中から選ばれた。受験勉強もろくにやらず、高校卒業まで自身でサヨナラコンサートの企画を立て運営に奔走した。また広島市内の女子高を回り、校門から出て来た女生徒にチケットを売りまくった。その甲斐あって1977年3月31日に広島青少年センターで開催したビールスのサヨナラコンサートは入場料300円で、300人の若い女の子を集めた。2日後の1977年4月2日、多くの仲間たちの激励に送られ、広島駅から新幹線で上京した、青山学院大学経済学部第二部経済学科入学。18歳だった同年10月25日に、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした。

フォーライフに送った応募テープは、アマチュアでは考えもしない一人で8重録音(多重録音)をしていたといわれ、ピアノの他、ギター、シンセサイザーもこなし編曲も自分でやったといわれる。セカンド・アルバムをセルフ・プロデュースしたように、最初から音楽的すごさ・才能のずば抜けた"早熟の天才"であった。デビューアルバムに参加した鈴木茂が、「ほとんどやることはなかったよ」と言ったという。原田真二バンドと佐野元春のバンド、ハートランドをドラマーとして掛け持ちした古田たかしは、ブレイク前の佐野を「すごいんだよ、マインドが真二とそっくりなんだ」と評した。

「てぃーんず ぶるーす」発売後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース。「3ヶ月連続レコードリリース」という前代未聞の形でデビューを飾ると、3曲が同時にオリコンベスト15入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成した。「3ヶ月連続レコードリリース」は、当時の所属事務所アミューズの社長大里洋吉のアイデアによるものだが、どの曲も捨てがたく1曲にデビュー曲を絞れなかったという事情もあった。「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」、そして翌年に発売された「タイム・トラベル」は『三部作』と呼ばれる。更にファーストアルバム「Feel Happy」(1978年2月発売)も、オリコン史上初の初登場第1位を獲得した(4週連続1位)。10代でのファーストアルバム、オリコン1位獲得は、男性シンガーソングライターでは未だ原田のみ(2018年8月現在)。

「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした。原田はそれまでの先輩たちとは違う、感性や音楽的バックグラウンドを持つシンガーソングライター、ポップス・クリエイターの新世代であった。原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している。ポップスとロックの間を自在に行き来するサウンド・センス、加えて洗練された響きを持つコード進行の多用など、ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライターに通じる本格的なポップス感覚は、それまでのフォークを基調にした"私小説的"な、日本のシンガーソングライターのイメージを覆した。近年のシティポップの特集ではスルーされることが多い原田であるが、シティポップの特集としては早い段階だった『昭和40年男』2014年2月号の「オレたちシティポップ世代」という特集では「てぃーんず ぶるーす」を「洋楽テイストのメロディで80年代シティポップの伏線となった」と論じられている。元祖ピアノロック"等と今日いわれるように、男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと、その特徴あるカーリーヘアーと少女マンガの世界から飛び出したような愛らしいルックス、ハスキーボイスが、当時、隆盛を極めたテレビの歌番組などで最大限に発揮され、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受け、ロック・アイドル的人気を博した。あのジャニーズ事務所でさえ存続の危機が伝えられるほど低迷したアイドル不在の時代に突如出現した原田たち、そのすさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した。既存の枠に捉われない原田の登場は、変化する時代の象徴に映り、原田は"時代のアイコン"になった。

当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが、『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた。『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演、第5回(1978年2月16日)放送では、番組初の2曲同時ランクイン(6位「キャンディ」、10位「シャドー・ボクサー)、以降も毎回のように出演し、少し早くデビューしたChar、同時期にデビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家と呼ばれ、初めて頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった。ロック・ミュージシャンがテレビに出演すること自体が裏切り行為だった時代で、ロックはそれまで商売にはならないものと考えられていた。ロック・ファンが圧倒的にマイノリティだった70年代初頭の日々を記憶していた古くからのロック・ファンにとっては、ロックバンドらしき風体の連中がゴールデンタイムの歌謡番組に出演しているだけでも奇妙な違和感を覚えた。原田は「拓郎さんたちのやり方はもう古い。やっぱりテレビに出て、よりたくさんの人に自分の音楽を聴いてもらった方がいい」、「音楽的なつっぱりは、勿論必要だと思うけど、それ以外は意味がない。この時代にテレビに出ないなんて感覚的にズレていると思う」、「アイドル歌手って、作られた芸能界の人って想像するよね。ボク、嫌いなのよ。人に与えられた曲しか歌えないのはマズいよね。これだけ日本人の中に歌謡曲が入り込んでいる以上は、ボクがテレビに出て少しづつでもロックを送り込むしかないよ。ロックを思い切り出来るようにするんは、テレビに出なきゃならないわけ」、「シンガーソングライターにはマイナー志向が多いけど、一人ぐらいメージャーが居てもいいんじゃないのかな。ステージ活動があくまでメインだからメージャーの僕はテレビ出演には抵抗がないよ。多くの人に自分の音楽を理解してもらいたい」などとも話すが、デビュー45周年となった2023年のインタビューでは「メディアを活用し、アイドル的な売れ方をしたことは自分の意には反していたのですが…」「アイドル的な売り方のおかげで世間に認知され、こうして45年突っ走ってこれたことは事実。あれは、必要なことだったのでしょうね」とも述べている。

また『月刊明星』、『月刊平凡』、『セブンティーン』などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にも頻繁に登場。当時アイドルの最大のステータスともいえた『月刊明星』(1978年3月号)の表紙や『TVガイド』の表紙をニューミュージック系、ロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど、極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した。日本のロックをメジャーシーンに浮上させる重要な切っ掛けを作り、一時代を築いたのが原田だった。『週刊読売』は1978年2月26日号で「郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹などの路線とは、ひと味違った新しいタイプのアイドルが現れた。原田真二という19歳の大学生。ケーキのような甘いマスクで、歌は地味ながら、ソフトなバタ臭さが特徴。これを称してソフト&メローのティーンズ版というそうだ。昨年の暮れ、『てぃーんず ぶるーす』『キャンディ 』『シャドー・ボクサー』とたて続けに三枚ものシングル盤を出して、華々しくデビューし、いずれもヒット曲となった。近来稀なシンデレラボーイである(中略)アメリカでもピーター・フランプトンをはじめとした中性的なイメージのさわやか男性歌手がもてはやされているとか。これが最近の傾向というから、原田真二クンもきっとはやるだろう」などと評した(原文ママ)。原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった。ここに至り、ロックと歌謡曲の間の境界線はさらに曖昧化し、原田真二や世良公則と沢田研二や西城秀樹との差異は肉眼では測定不能なまでに接近した。「ロック御三家」によって日本のロック・シーンが活況を呈し、ロック御三家以上にテレビを中心とした用意周到なメディア戦略で打って出たサザンオールスターズ、それまで地味な活動を続けていたゴダイゴ、甲斐バンド、柳ジョージ&レイニーウッドなどが「ロック御三家」に続いた。この内、ロック御三家とサザンオールスターズ以外は、メジャーになった切っ掛けは、ロックが商売になると判断した企業やテレビドラマ映画などとのタイアップによるもの。またロックミュージシャンだけではなく、ニューミュージック寄りのイメージが持たれていた渡辺真知子、八神純子、中原理恵なども、原田に続いて積極的にテレビ出演した。彼らがそれぞれにヒット曲を飛ばしたことにより、テレビをメインにした"新戦略"は"大きな価値"のある戦略として認識されるに至った。ロック御三家以前にもキャロルとダウン・タウン・ブギウギ・バンドがテレビにも出て、商業的な成功を収めてはいたが、回りが続かず、シーン全体に大きなムーブメントを興すには至らなかった。「日本でロックはメジャーになれない」という極論を言う音楽評論家もいたほど。結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである。ロック御三家は、"日本語のロック"黎明期のスピリッツを失わせたと当時主張する者もいたが、ロックと歌謡曲を融合させたロック御三家こそ、「商売としてのロック」「J-POPの原点」という論調もある。「ロック御三家」が開拓したローティーン向けロック・アイドルの系譜は今日まで絶えたことはない。ロックアーティストがテレビと本格的に向き合う"尖兵"となった原田の登場は、後に続いた多くのJ-POP系シンガーソングライターに大きな影響を与えており、その功績は図り知れない。

『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられる等、アイドル性が強調されたが、マスコミや業界の間では"生意気"で通っていた。自身でも「テレビの現場でのコミュニケーションは、間違いなく生意気だったでしょうね(笑)」と話すまだ10代という若さ、かわいいルックスと相反する明確な主張ゆえに衝突を生んだ。バラエティー番組での番組プロデューサーとのトラブル(当時のバラエティー番組は今と違い、歌のコーナーがあった)。(後述)に始まり、まだ"アーティスト志向"という括りがなかった芸能界において、洋楽的志向の裏返しから脱アイドルを望み「アイドルじゃなくてアーティストです」と主張したりした。「芸能界の体制には巻き込まれたくない」、「歌謡曲って独特のニオイがあるでしょう。最高にイヤ」、「ジェット機で全米ツアーしたい」発言等、原田自身「『OUR SONG and all of you』に映る僕は生意気すぎて、今の僕にはまともに見れないと話すが、これだけでは済まない。中でも物議を醸したのが年末の賞レースを辞退した際の発言。原田は1978年の早い段階で、日本レコード大賞や日本歌謡大賞等、同年の年末の賞レースの新人賞の大本命との下馬評が高かったが、春先の段階で早々に辞退を表明し、しかも「新人賞は欲しくない!欲しい奴にやってくれ」と発言してしまった。実際は「年末の歌謡界の行事は歌謡界の中での出来事だから、カヨウカイで仕事をしてるって気持ちがボクにはないから。ほかに欲しがっている人たちが大勢いるなら、ボクの分をその人たちに上げたらいいと思っています」という発言だったのだが、当時のマスメディアはより刺激的に見出しを書く傾向があり、先のような問題発言が大きくフィーチャーされた。当時の賞レースは、対象の歌手に最優秀賞を取らせるべく所属事務所やレコード会社の関係者が血眼の争いをやっていた時代で、民放テレビにも盛んに出演する原田のこの発言が面白いはずもなかった。「洋楽の世界のような音楽界にデビューしたつもりでいたのが、そこは厳しい日本の芸能界だった」と当時を振り返っている。

ソロとしてデビューはしたが、元々ロックバンド志向であった。デビューコンサートは1978年1月16日に広島郵便貯金ホールでの凱旋コンサートだった。通常、ファースト・コンサートは、関係者へのお披露目の意味合いから、東京か大阪の大きな会場を選ぶのが一般的だったが、先述のアマチュア時代の最後に広島で開催したサヨナラコンサートで、多くの人にお世話になった感謝から、広島の人たちにお礼がしたい、と故郷での開催を選んだ。動員2500人、立ち見350人で会場が埋まる。プロとしての初コンサートではプライドから、コンサートの構成にも関わり、全曲オリジナル曲で通した。クライマックスでは興奮したファンが制止を振り切り、ステージに殺到し、激励に駆け付けた吉田拓郎も「スゲエなあ…」と絶句した。この日のバックバンドのメンバーは、ギターが元愛奴の青山徹、ベースはこの後RCサクセションに参加するゴンタ2号(岡雅夫)、ドラムスに古田たかしと元Charバンドのロバート・ブリル、キーボードに山田秀俊とスペクトラムに参加する吉田俊之と一流のセッションマンが結集され、これが自身のバンド・原田真二&クライシスに発展している。

1978年4月1日、岡山県倉敷市民会館からスタートした初の全国ツアー「Feel Happy Concert」では、自身は芸能界的アイドルではなく、発言で問題を起こした"アーティスト"であり、ロックミュージシャンであることを証明しなければならないという必要があった。当初4ヵ所の予定が追加を重ね、結局9ヵ所で開かれたこのツアーでは、ハードなロックンロールあり、軽快なポップスあり、ギター一本の弾き語りありと多彩な音楽性を打ち出した。1978年7月24日、デビュー1年目(9ヶ月)、10代ソロ歌手、では史上初の日本武道館公演を行う。この公演を皮切りに9月15日の大阪府立体育会館まで全国六都市12ヶ所で行ったアリーナツアーも、井上陽水がやって以来のもの。まだコンサート用のアリーナは無い時代で、5000〜6000人規模の全国の体育館を廻った。多忙な毎日を縫って最新のサウンドシステムを探しにアメリカと日本を何度も往復し、ドゥービー・ブラザーズが使っていた爆音を奏でる「A-1VIPシステム」というスピーカーを自身で見つけるなど、当時世界最高のPAシステムをアメリカとイギリスから導入した。これらを操らなければならないという事情から音楽最優先のスタッフを結集した。武道館公演を伝えた当時の文献に「ポップスというよりも、もうこれはロックそのもの。ツイン・ドラムス(2台のドラムを使う)を使用…。このコンサートのために、1週間つま恋で合宿し『ステージでは、ステージなりに新しいものを作り上げたい』と、全ての曲を新しくアレンジし直した」などと書かれている。お客はほぼ100%女子中高生であった。この年の武道館ライブを中心としたステージ・ドキュメント映画「OUR SONG and all of you」も製作されている。監督はドキュメンタリー映画「キャロル」で名をあげた龍村仁である。翌1979年の武道館では、数曲、サックスプレイヤーの手を借りた以外は、原田のバンド5人だけで全ての音を出した。ギター1本弾き語りの松山千春を除くと、当時の武道館コンサートでは、最も小さい編成でやり遂げ、バンド総体としてのハイレベルのパフォーマンスも高い評価を受けた。 同年、4枚目のシングル「タイムトラベル」で『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場。

当時の音楽番組は基本的に生放送・生演奏が多く、出演歌手は番組専属のオーケストラのバック演奏で歌っていたが、生番組で自らのバンドを率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出法に対してもめることが多かった。例えば、NHKホールなどの公開番組で、演奏に必要なモニタースピーカーが十分に用意されていなかったり、短時間の間にバンドを入れ替えセッティングするのは難しかった。新人が意見するということ自体がタブーだった時代、ちょっとでも意見をいうと「生意気なやつだ」となり一悶着、そういう時代であったという。メインのスタジオと別にセットを組む、別スタジオからの中継は原田らの登場から始まったもの。こうした改善も含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしたといえる。原田は「『ザ・ベストテン』あたりから、テレビ局の音に対する気遣いがめちゃくちゃよくなりました」、『ミュージックフェア』は昔から良かった」等と話している。

人物

また中学の時、高校受験を突破するという名目で通った、プラスの方向へ潜在意識を動かすことにより、人間の潜在能力を引き出すメンタルトレーニングのセミナー「考え方教室」で、心の大切さ、人間の可能性について学び、人にはもっとやれることがあるんじゃないかという考えが芽生える。これらの学びがその後の原田の音楽的テーマの基盤となっている。関連して、精神世界関連について広く探求していたこともあり、コスモポリタン、救世主、潜在意識、ヒーリング、プラス思考といった、当時としては聞き慣れない難解な用語を混ぜて音楽を語ったり、その哲学的側面も芸能界において異質とみなされる部分もあった。ちなみに、デビュー当時の座右の銘は、ジョセフ・マーフィーの「人生に奇跡をおこす」。近年では「Where there is a will, there is a way!」(意志のある所に、道は開ける)と言っている。

デビュー時の所属事務所アミューズは、現在はサザンオールスターズ(桑田佳祐)の貢献により大手となっているが、当初は渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉(現アミューズ会長)が渡辺プロダクション退社直後に原田を紹介され、原田のために設立した弱小個人事務所であった。青山学院大学入学後の1977年5月に大里とともに約1ヵ月渡米した。アルバム(LP)中心のアーティストのためのプロダクションを経営したいと考えていた大里のところに、原田に最初に接触したバーニングプロダクションとフォーライフが原田のプロモーション・マネジメントを持ちかけた。「マスメディアを使うにもバーニングでは原田との接点がない、フォーライフではマスメディアとの接点がないということで、ぼくが間に立つことになった」と大里は説明している。バーニング社長の周防郁雄は、原田が「自分のための会社を作って欲しい」と言ったことから、バーニングとは別の会社を作ることを決め、面識のあった大里に紹介し、大里と周防で資金を折半してアミューズを設立したと話している。

デビュー間も無くの人気沸騰で、毎日がアイドル雑誌の取材やテレビ出演など息つく暇なく多忙な日々に追われた。また、事務所社長の大里がキャンディーズの元マネージャーだった事から、改めて渡辺プロダクションに契約プロデューサーとして出向しその解散コンサートにかかりっきりとなったため、原田の活動を十分にケアーすることができなかった。この芸能界のリズムに巻かれ進んでいたのでは、アーティストとしての創作活動など無理なように思え、先々の不安が重なったことが事務所移籍を決断した大きな理由だった。結局、アミューズは半年で退社し、RCサクセションが所属していたりぼんへ移籍。入れ替えに入社したのがサザンオールスターズで、大里は「原田が辞めていなかったら、サザンオールスターズを売り出す余裕はなかった」と話している。

またそのかわいいルックスとあえてピアノを弾いて歌うイメージ戦略、松本隆の繊細な詞の世界も、デビュー時の人気に一躍買ったわけだが、その一方で“ひ弱で軟弱なアイドル”的なイメージで見られる事も多く、原田自身は、一貫した音楽で伝えたいテーマを持っていたことから、脱アイドルを望み、意識的にロックテイストとメッセージ性の強いハードな方向へと進んでいく。

そして、初めて作詞も手がけた6枚目のシングル「OUR SONG」は、どうしても強力なメッセージを込めたロックバラードに仕上げたかったという。9枚目のシングル「MARCH」でも「自分だけの道を、自分の形で、自分以外のために」とこれからの方向性を示唆した。この曲を最後に、より自分らしい活動を求め21歳で独立。原田自身はこのデビュー時を振り返って、この時代、楽曲達があったからこそ、これから頑張らなきゃいけない時期まで今の自分が生かされてきたと語っている他、主にライブで発言された)。

3万人とも言われたファンクラブ会員がいたこととは裏腹に、“アイドル”という括りにされることから“自分がやりたい音楽”がうまくできず、デビュー3年目でマネージャーだけ連れて、セルフ・プロダクション(個人事務所)「クライシス・マネージメント」(現:エアーフィールド)を興し、独自の活動へ入る。「普通は人気が確立されてから独立を考えますが、そういう状況じゃなく独立したので、たちまちイメージしていたものが打ち砕かれて大変な状況になった。今思えば無謀。でも、だからこそ経験できたこと、学べたことがいっぱいあった。ほとんどのアーティストは売れるまでに下積み時代があるのですが、僕にはそれがなかった。必要だからこそ通ってきた道なんだろうなあと今思う」と語っている。

その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表しており、現在までにリリースされたアルバム・シングルは70枚以上になる。1980年代からはソングライターとしても活躍し、吉川晃司や松田聖子とのコラボレーションでは、オリコンベストテンヒットも出している。その他のアーティストにも200曲以上の楽曲を提供。またCM・TV番組テーマ曲・ミュージカル音楽など多方面で活躍。複数の小学校の校歌も手がけている。2001年から2004年まで松田聖子のライブパートナー、プロデューサーとして活躍。これは少女期にファンクラブに入るなど原田ファンだった聖子からの申し入れであった。二人の息子も音楽の道を志しているという。

1981年12月25日、中野サンプラザでのクリスマスコンサートのステージ上から、米国への音楽留学による充電(約1年に及ぶ)を発表。英語圏での活動を夢とした原田は、向こうのマーケットの視察、自分のオリジナルなスタイルの確立、曲を書き貯める、歌詞の勉強、をその理由に挙げた。アメリカでは、本場のショーアップされたエンターテイメントとしての音楽を再確認するとともに「逆に日本にいて見えなかった日本のよさ」を強く感じ、日本人としての個性を取り入れたオリジナルなスタイルを確立すべく、洋楽的発想に和を融合させた音楽を模索。帰国後は日本の伝統楽器等を取り入れたジャパネスクな新境地の音楽スタイルも見せ、またダンサブルな方向、ショーアップされたステージへと移行していった他、多所で発言)。

1983年12月、翌年のニューアルバム発売に先駆け「Modern Vision」と題したアクトを取り入れたコンサートを渋谷公会堂で開催。舞台セット/ライティング/エキストラ/パントマイム/ブレイクダンス等を駆使しオープニングアクト(演劇風演出)等を取り入れ、アルバムと平行したメッセージをライヴでも発信。このショーアップされたステージはアクト・ライヴと題され、1990年代初頭までの彼のコンサートスタイルの一つとなる。

1985年10月には新たに「Friday Night Club」というイベントを企画し、金曜日の夜に定期的にライヴを行った。飲食できるスペースも確保しつつ、スタンディング・ライヴで盛り上がる空間の演出と演奏。当時の日本ではまだクラブ感覚でライヴを楽しめる場所がなかった時代に、欧米風システムを持ち込んだ。バンドメンバーもオーディションにより一新。原田自身も大胆に化粧を施し、オリエンタルなコスチュームでビジュアルにも拘った。その後のTRFやZOOのメンバーもこのイベントに参加している。

デビューアルバムのタイトルが「Feel Happy」だったように、デビューから音楽のテーマが「LOVE & PEACE、HAPPINESS」。広島出身であるという事も重なり、当時から一貫して「純粋に音楽の持つ力を信じていて、音楽を通してメッセージを発信し平和に貢献したい」「世界の一人一人が同じ意識を持てば、世の中は平和に近づけるはず」と語っている。「広島で育ち、平和を希求する歌を作り続ける」という根幹がぶれることはなかった。

近年ではなおいっそうその意識が高くなり、2000年から、自然環境・心の環境問題(やさしさの復活)をテーマにしたチャリティーイベント「鎮守の杜コンサート」を定期的に開催。明治神宮、伊勢神宮、厳島神社などの代表的神社から大中小、全国の神社をその会場としている。2005年より主に鎮守の杜コンサート他、原田のチャリテーイベントをサポートする趣旨のNPO法人「ジェントル・アース(Gentle Earth)」を設立。「鎮守の杜コンサート」他、Global Harmony「Peace Charity Concert」、「希望の音・夢のはじまり」、「Universal Peace Day(ニューヨーク)」、「Singing Angel Project(SAP)」他、大小様々なチャリティー&平和イベントに携わる。今後も求められるなら、国内外問わず、あらゆる場所に出向き演奏したいと語る。

2024/05/13 20:56更新

harada shinji


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(はらだ かずお)
1932年6月7日 東京

原田 一夫(はらだ かずお、1932年6月7日 - 1998年12月19日)は、日本の男性声優。東京府(現・東京都)出身。 1954年、劇団化粧座入団。1958年、東京タレントクラブの設立に参加。…

原田 晃
(はらだ あきら)
1976年1月31日 愛知

原田 晃(はらだ あきら、1976年1月31日 - )は、日本の男性声優。以前までオフィス薫に所属していたが、現在はプロダクション・エースに所属。 趣味・特技は映画鑑賞、ツーリング。方言は三河弁。…

原田 泰造
(はらだ たいぞう)
1970年3月24日 東京

原田 泰造(はらだ たいぞう、1970年〈昭和45年〉3月24日 - )は、日本のお笑いタレント、俳優。お笑いトリオ・ネプチューンのボケ担当。愛称はタイゾー、泰ちゃん。広島県広島市出身。ワタナベエンタ…

原田奈津美
(はらだ なつみ)
1992年3月10日 神奈川

原田奈津美(はらだ なつみ、1992年3月10日 - )は、日本のタレント、ファッションモデル、実業家である。 神奈川県生まれで、福吉真璃奈、筧美和子らを輩出した2013年度のワンライフモデルオー…

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原田真二
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