吉田精一の情報 (よしだせいいち) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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吉田精一と関係のある人
エドワード=サイデンステッカー: 1950年に退官すると、5年間東京大学に籍を置いて吉田精一のもとで日本文学を勉強した。 河竹登志夫: 同学である東大の吉田精一博士からも同調、支持を受けた」と、その理由を明らかにした。 武田勝彦: 『芥川文学 海外の評価』(吉田精一・鶴田欣也、早稲田大学出版部) 1972 芥川比呂志: 芥川龍之介 (吉田精一と共著、明治書院〈写真作家伝叢書〉 1967年) 安川定男: 『近代文学』(吉田精一、村松定孝共編、東出版) 1966 佐藤春夫: 島田謹二・吉田精一解説 武田勝彦: 『比較文学』(吉田精一・佐渡谷重信、潮文社) 1972 堀口大学: 堀口大學詩集 新潮文庫 1952、吉田精一編 徳田秋声: 吉田精一は、「『黴』以後『爛』に前後し、『あらくれ』に至る時期の短篇は、彼の短篇作家としての技倆のますます冴えて来たことを語つてゐる」と述べている。 幸徳秋水: 絲屋寿雄『幸徳秋水研究』増訂版(吉田精一監修『近代作家研究叢書』53)、日本図書センター、1987年(昭和62年)10月。 中島敦: 秋には氷上英廣、吉田精一、釘本久春らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)を創刊するが、敦はこの同人誌に一度も執筆せず、翌1月『校友会雑誌』の方に「D市七月叙景(一)」を発表した。 |
吉田精一
吉田 精一(よしだ せいいち)さんの誕生日は1908年11月12日です。東京出身の国文学者のようです。
受賞・栄典、研究内容・業績などについてまとめました。卒業に関する情報もありますね。
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1960年)。東京大学教授を経て、大妻女子大学名誉教授。近代文学専攻。1979年勲二等瑞宝章受章。 1908年(明治41年) - 東京市本所区横網町に生まれる 1926年(大正15年) - 東京府立第三中学校卒業 1929年(昭和 4年) - 第一高等学校文科丙類卒業 1932年(昭和 7年) - 東京帝国大学文学部国文科卒業 1934年(昭和 9年) - 二松學舍専門学校教授 1940年(昭和15年) - 拓殖大学教授 1948年(昭和23年) - 日本近代文学会を本間久雄らと創立、理事となる 1950年(昭和25年) - 中央大学教授 1953年(昭和28年) - 東京教育大学文学部教授 1956年(昭和31年) - 国語審議会委員 1960年(昭和35年) - 東京大学より文学博士の学位を授与される 1964年(昭和39年) - ミシガン大学客員教授 1967年(昭和42年) - 東京大学文学部教授、東京教育大学教授兼任 1969年(昭和44年) - 東京大学を定年退官、埼玉大学教養学部教授 1971年(昭和46年) - 埼玉大学教養学部長 1974年(昭和49年) - 大妻女子大学教授 1976年(昭和51年) - 同文学部長 1983年(昭和58年) - 日本学士院会員 1984年(昭和59年) - 大妻女子大学名誉教授 1984年(昭和59年) - 逝去、叙正四位。墓所は青山霊園(1ロ15-8) 受賞・栄典1955年(昭和30年) - 毎日出版文化賞(『現代文学論大系』) 1956年(昭和31年) - 芸術選奨文部大臣賞(『自然主義の研究』『現代文学論体系』) 1959年(昭和34年) - 日本芸術院賞(『自然主義の研究』) 1979年(昭和54年) - 勲二等瑞宝章 研究内容・業績1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。また1983年(昭和58年)近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となった。 文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立したが、芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東大教授だった時期が短く、名誉教授ではない。 著作集25巻があるが、多作な学者を軽視する日本的伝統もあり、その研究の価値が十全に認められているとは言えない。 2024/05/23 21:30更新
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yoshida seiichi
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