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徳田秋声の情報 (とくだしゅうせい)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

徳田秋声の情報(とくだしゅうせい) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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徳田 秋声さんについて調べます

■名前・氏名
徳田 秋声
(読み:とくだ しゅうせい)
■職業
作家
■徳田秋声の誕生日・生年月日
1872年2月1日
申年(さる年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
石川出身

徳田秋声と同じ1872年生まれの有名人・芸能人

徳田秋声と同じ2月1日生まれの有名人・芸能人

徳田秋声と同じ出身地石川県生まれの有名人・芸能人


徳田秋声と関係のある人

渡辺拓海: 文豪とアルケミスト(徳田秋声


津田信: 1947年に帰国後、小島政二郎に師事し、徳田秋声の作品を研究。


宇野浩二: 近松秋江の病気療養費を調達するために徳田秋声・正宗白鳥・上司小剣らと『近松秋江傑作選集』を編集した。


新藤兼人: 爛(ただれ)(1962年3月14日公開、増村保造監督、大映)※原作:徳田秋声


石川達三: 志賀直哉・宇野浩二・徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという。


鈴木三重吉: ^ 運動の当初の賛同者には泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森鷗外、森田草平の他数十名、1年後には小川未明、谷崎潤一郎、久米正雄、久保田万太郎、有島武郎、秋田雨雀、西條八十、佐藤春夫、菊池寛、三木露風、山田耕筰、成田為三、近衛秀麿らも加わっている。


赤澤遼太郎: 舞台「文豪とアルケミスト 捻クレ者ノ独唱(アリア)」(2022年2月3日 - 13日、シアター1010 / 2月18日 - 20日、森ノ宮ピロティホール) - 主演・徳田秋声


島田清次郎: この舟木芳江事件の顛末を、徳田秋声は『解嘲』[2]として発表した(1925年)。


新藤兼人: 縮図(1953年)原作:徳田秋声 - キネマ旬報ベストテン10位


坂口安吾: 徳田秋声を批判したこの随筆が縁で、尾崎士郎と知り合う。


生田長江: 『最近の小説家』(夏目漱石・森鷗外・田山花袋・島崎藤村・泉鏡花・徳田秋声・真山青果)、春陽堂 現代文芸叢書8(1912年)→ 講談社 日本現代文学全集46(1980年)に収録


吉屋信子: 1919年、初の長編『地の果まで』が大阪毎日新聞で一等に選ばれた(撰者は幸田露伴・徳田秋声・内田魯庵)。


円地文子: 10月『女人芸術』に一幕劇「晩春騒夜」を発表し、徳田秋声の賞賛を得る。


杉浦茂: その後、1936年には本郷区本郷森川町にある徳田秋声の経営する不二ハウスへ移った。


葛西善蔵: 弔辞は徳田秋声、谷崎精二が務め、文壇では「葛西善蔵遺児養育資金」が集められ、志賀直哉、佐藤春夫、室生犀星といった面々が協力した。


川端康成: 1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。


武田麟太郎: 1943年(昭和18年)には、武田が「文学の神」と崇めていた徳田秋声が亡くなっていた。


正宗白鳥: 1935年(昭和10年)、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。


田山花袋: 5月12日には重体となり、徳田秋声、近松秋江、前田晁、白石実三、中村星湖、中村白葉らが駆けつけるも翌5月13日、東京府代々幡町の自宅で死去した。


野溝七生子: 島崎藤村・田山花袋・徳田秋声の選で『山梔』が「福岡日日新聞」懸賞小説特選となり、同紙に連載。


佐々木孝丸: この間、硯友社の文学者を始め、島崎藤村・田山花袋・徳田秋声・正宗白鳥・国木田独歩らの本を濫読し、同人たちと神戸文学会を結成して回覧雑誌を発行していた。


舟橋聖一: このほかにも、今日出海らと「蝙蝠座」を、小林秀雄や井伏鱒二らと「新興芸術派クラブ」を、飯塚友一郎らと「演劇学会」を結成して盛んに文芸活動に身を投じる一方、『あらくれ会』同人になり徳田秋声の門下生となっている。


川端康成: 康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、ドストエフスキー、チェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった。


新藤兼人: 甘い秘密(1971年8月25日公開、吉村公三郎監督、近代映画協会・松竹)※原作:徳田秋声


宇野浩二: 徳田秋声の還暦祝賀会に出席した。


尾崎紅葉: 泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。


葛西善蔵: 友人の紹介で徳田秋声に師事、坪内逍遙に学ぶため聴講生として早稲田大学英文科の講義を受講、相馬泰三や広津和郎たちと知り合い、同人雑誌「奇蹟」のメンバーとして迎えられ(雑誌名の「奇蹟」は、広津や舟木重雄と井の頭公園に行った際に無口だった葛西が突然扇子を持って踊り出したのを舟木が奇蹟だと感じたことから命名された)、1912年、「奇蹟」創刊号に葛西歌棄名義で『哀しき父』を発表。


岩野泡鳴: 正宗白鳥は泡鳴を評して「子供に対してほとんど愛情らしいものを感じないのは、日本の作家のうち類例を絶している」と述べ、徳田秋声も子供を不幸な運命にしている例として、島村抱月、島崎藤村、田山花袋とともに泡鳴の名を挙げている。


藤澤清造: 安野に紹介された徳田秋声の縁で三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤める。


増村保造: 爛(1962年、大映東京)原作:徳田秋声、脚本:新藤兼人


徳田秋声の情報まとめ

もしもしロボ

徳田 秋声(とくだ しゅうせい)さんの誕生日は1872年2月1日です。石川出身の作家のようです。

もしもしロボ

親族、評価などについてまとめました。現在、結婚、映画、事件、兄弟に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

徳田秋声のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

徳田 秋声(とくだ しゅうせい、旧字体:德田 秋聲、1872年2月1日(明治4年12月23日) - 1943年(昭和18年)11月18日)は、日本の小説家。本名は末雄(すえお)。日本の近代文学を代表する作家の一人である。帝国芸術院会員。

石川県金沢市生まれ。尾崎紅葉門下であったが、現実社会に目を向け『新世帯』『足迹』『黴』『爛』『あらくれ』などを発表。自然主義的技法の完成者であり、静かに現実を見つめ、それを飾り気なく書き込んでいく作風で、島崎藤村、田山花袋と並ぶ大家となった。その後自然主義の衰退と共に行き詰まったが、『仮装人物』などで心境小説に新境地を開拓して復活。絶賛を受けた。その後『縮図』に取り掛かるも、戦時下に権力の干渉に遭って挫折し絶筆となった。

1872年2月1日(明治4年12月23日)現在の金沢市横山町に加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子(3男)として誕生(翌年の誕生日が暦の変更のため来なかったこともあり、生涯誕生日は12月23日、年齢は数え歳で通した)。自伝小説『光を追うて』によれば、雲平は秋声が3番目の妻タケの胎内にあるうちから「産まれ落ちたら知り合ひの農家へくれる約束」をしていたが、生まれた顔を見て思いとどまったという。明治維新後、秩禄公債で苦しい生計を立てていた没落士族の末子として「宿命的に影の薄い生をこの世に享け」た子供であり、4歳で生家を引き払って後は居を転々とし、また病弱であったため小学校へも学齢に1年遅れで入学しなければならなかった。随筆『思い出るまゝ』には、「私は幼い時分から孤独であつた。憂鬱の虫が体中に巣くつてゐた」と記されている。

小学生時代(現在の金沢市立馬場小学校)、一学年下に泉鏡花がいたが、この時点では顔見知り程度であった。1888年(明治21年)第四高等中学校に入学。このころから読書熱が高まり、翌年上級生から小説家になる事を勧められ志す。学科では、英語と漢文が特に他に抜きん出ていた。

1891年(明治24年)、父が死去したため、第四高等学校を中途退学。翌1892年(明治25年)、友人の桐生悠々と上京し尾崎紅葉の門を叩くが、玄関番の泉鏡花に不在を告げられて辞去。郵送した原稿は、「柿も青いうちは鴉も突き不申候(まうさずさふらふ)」と書かれた返書を添えて返送された。悠々が復学のため帰郷したのちは、大阪の長兄を頼るなど各地を転々とし、郡役所の雇員、新聞記者、英語教師などをしながら半放浪的生活を送った。「秋聲(秋声)」の筆名は、自由党機関誌「北陸自由新聞」の編集をしていた頃の1893年(明治26年)10月12日付けの私記「秋聲録」から使い始めた。

1895年(明治28年)、博文館の編集部に職を得、当時博文館に出入りしていた泉鏡花の勧めで紅葉の門下に入る。1896年(明治29年)、被差別部落出身の父娘に取材した『薮かうじ』を「文芸倶楽部」から発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。以来、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と称され、1900年(明治33年)「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となる。しかし、硯友社の戯作者的な傾向に沿わない地味で質実な作風であったため、4人の内ではもっとも影の薄い存在であった。

1902年(明治35年)7月ごろ、手伝いに来ていた女性の娘である小沢はまと恋愛関係になり、事実上の結婚生活が始まった(入籍は2年後)。1903年(明治36年)には、長男一穂が誕生する。同年尾崎紅葉が死去すると、硯友社もにわかに衰退をきたし、日露戦争後には文学の新気運として自然主義文学が擡頭するなかで、秋声の文学的資質が、新文学の写実的な傾向と相俟って本領を発揮してゆくこととなる。なお、1906年(明治39年)4月末頃、秋声の一家は本郷森川町の住居に転居し、ここが生涯の住処となった。

1908年(明治41年)、以前住まいしていた小石川表町の近所の酒屋をモデルにした中編『新世帯(あらじょたい)』を「国民新聞」10月16日-12月6日に連載し、自然主義への具体的な作風転換の第一作となる。また、1908年(明治41年)刊の短編集『秋聲集』に所収の『発奮』『小軋轢』『犠牲』『絶望』『裏の家』『二老婆』、1909年(明治42年)の短編集『出産』に収められた『北国産』『四十女』『日向ぼっこ』『晩酌』『大祭日』『リボン』及び表題作などの諸作によって短編作家としての実力を示し、自然主義の一角に地歩を占める。野口冨士男が「倒叙」と呼び、松本徹が「錯綜する時間」と評した、時間の巻き戻しの頻繁な秋声独特の文章はこのころから見られるようになる。

1910年(明治43年)には、妻はまをモデルに、信州の田舎から上京した娘がさまざまの成り行きを経て婚家を飛び出すまでをえがいた『足迹(そくせき)』を「讀賣新聞」7月30日-11月18日に連載。1911年(明治44年)には、結婚に至るまでの経過とその後の無気力な生活に材を得た私小説『黴(かび)』を、夏目漱石の推挽により「東京朝日新聞」8月1日-11月3日に連載する。この「二作は秋聲の生涯における傑作であつたのにもかかわらず、その執筆当時においてはさしたる反響をよびおこすに至らなかつた」が、翌1912年(明治45年)1月に『黴』が新潮社より単行本化されると、「早稲田文学」「新潮」誌等が盛んに書評や特集で取り上げ世評が高まり、秋声は初めてといっていいほどの文壇的成功をおさめる。それを追う形で『足迹』も1912年4月の単行本化と共に評価され、この2長編によって、島崎藤村、田山花袋らとともに、自然主義文学の担い手として確固たる地位を築いた。

短編に於いても、『老婆』『娶(よめ)』『指環』(1909年/明治42年)、『死後』『二人』『山の手』『新店』(1910年/明治43年)、『ある夜』『丸薬』『出京』『下宿屋』(1911年/明治44年)、『わき道』『軀(むくろ)』『媾曳(あひびき)』『涙』(1912年/明治45年)など優れた作品を次々と発表し、その冷静な観察とリアリズムは、常凡な庶民の日常を「冷笑もせねばさしたる感激もなく世相の一端を切りとつて、ぢつと腰を据ゑて見」ることによって裸形の真実を示している。生田長江は評論「徳田秋声の小説」において、秋声の自然主義を作者の「本来の性格に深い根差(ねざし)を置いてゐる」として、「生れたる自然派」と評した。

自然主義文学運動が終熄し大正時代に入ってからも、『国民新聞』1913年(大正2年)3月21日-6月5日連載、7月刊の中編『爛(ただれ)』において身請けされた一遊女の愛慾の生活を、1915年(大正4年)の長編『あらくれ』では本能のままに男から男へと渡り歩く勝気な女の半生をえがき、自然主義的作風の絶頂を示した。こうした、市井に生きる庶民の姿を、女性の生き方に焦点をあてて描くいわゆる「流転小説」によって、女性を描くことに長けた作家という評価も生まれた。川端康成は、「秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる」と述べている。

一方、1908年(明治41年)の『診察』以来、数多くの私小説の短編を発表しているが、明治40年代から大正年間にかけての短編小説では、客観小説のほうに優れた作品が多いとされる。大正初期の主な短編作品には、『馴染の家』『別室』『衝突』(1912年/大正元年)、『痛み』『足袋の底』『絶縁』(1913年/大正2年)、『わなゝき』『都の女』『密会』(1914年/大正3年)、『女』(1915年/大正4年)などがある。吉田精一は、「『黴』以後『爛』に前後し、『あらくれ』に至る時期の短篇は、彼の短篇作家としての技倆のますます冴えて来たことを語つてゐる」と述べている。なかでも、娼妓に相手にされずその仕返しをする老人をえがいた大正2年の『足袋の底』は、「一つの句でも、真実の命の無い、もしくは意義の籠らぬものが無いとも云へるほど、無駄のない技巧を持」つ完成度を示すものとして第一に指折られる。

その後も、『奔流』(1915年 - 1916年/大正5年)、『何処(いづこ)まで』(1920年/大正9年)など「流転小説」の系譜につながる長編小説や『彼女と少年』(1917年/大正6年)、『或売笑婦の話』『蒼白い月』(ともに大正9年)、『復讐』(1921年/大正10年)などの好短編を執筆し、大正9年11月には文壇における多年の功績により田山花袋・徳田秋声誕生五十年記念祝賀会が催された。しかしその一方で、1917年(大正6年)以降多くの通俗小説を書き散らすようになっており、純文学の分野ではやや弛緩した心境小説が目立ち、文学的には中だるみの時期に入ったとも言われる。

もっともこの時期の仕事量を見ると、例えば1921年(大正10年)には長編小説の連載を同時に4本も抱え、一つを終えると間を置かず次の連載依頼が来るといった具合であり、また大正中期から昭和初年にかけて量産した通俗小説のなかには、映画化・劇化されたものも少なからずあり、当時勃興期を迎えた大衆小説の流行作家・人気作家という側面が近年重要視されつつある。

こうした濫作のなかにあっても、大正末期には客観小説の『お品とお島の立場』(1923年、大正12年)『車掌夫婦の死』(1924年/大正13年)、私小説の『花が咲く』『風呂桶』(ともに1924年/大正13年)などの優れた短編を発表し、特に最後の2篇について「主観の窓展くと云ひたいやうな仄明りが射し始めた」と広津和郎が評したような円熟の境地を示している。

1926年(大正15年)1月2日、妻はまが脳溢血で急死する。その2年前の1924年(大正13年)から秋声に手紙を出して以降時折出入りしていた山田順子は、訃音を聞きつけ秋田県から急ぎ上京し、秋声の愛人として徳田家に入り込みジャーナリズムを賑わしたのみか、秋声は『元の枝へ』などの「順子もの」と呼ばれる短編群で、その情痴のありさまを逐次的に書き続け、世間の好奇の目を集めた。「しかし、派手な話題がつづき、痴態がさらされ、しかも順子への秋声の不当な買いかぶりを眼前にすると、しだいに興ざめし、非難の声も高まっていった」。秋声は当初は歳が離れすぎているため結婚は考えていないと表明していたが、順子が家出をするようになると逆上して脳貧血まで起こすほどとなり、正式結婚まで考えたが、順子は、自らの痔の手術をした医師や、慶大の学生(秋声の長男一穂の友人)らと浮き名を流すなど曲折の末に、勝本清一郎と恋愛に陥り、1927年(昭和2年)秋声との正式結婚の直前に勝本の許へ奔った。その後一時期縒りを戻すが、同年の大晦日、順子は秋声宅から追い出され、翌1928年(昭和3年)1月2日、藤間静枝の仲介により関係に一応の終止符が打たれた。但し、以後もしばらく断続的に関係は続いた。

それ以後しばらく作家活動は低迷し、プロレタリア文学やモダニズム文学の隆盛も相俟って、1930年(昭和5年)からは殆ど作品発表の場すらない状態が続き、ダンスを習い、ホールに出入りするようになる。 また、この年の5月には危篤状態に陥った田山花袋を見舞い、見送った。 1931年(昭和6年)夏には、小石川白山の芸者小林政子(『縮図』のモデル)を識る。秋声は後年、この低迷期を「芸術の方面でも影が薄くなつてゐた」が「立直しの工作は容易ではなかつた」「彼は彼自身のぼろぼろになつた自然主義から建直さなければならなかつた」と振り返っている。こうした境遇の秋声を励ますため、1932年(昭和7年)5月には室生犀星、中村武羅夫、井伏鱒二、舟橋聖一、尾崎士郎、阿部知二、榊山潤、楢崎勤らが「秋声会」を結成し、同年7月に秋声会機関誌「あらくれ」を創刊、同年秋には島崎藤村の提唱で「徳田秋声後援会」が組織され色紙短冊の義捐を行うなど、手厚い後援が行われた。

満洲事変(1931年/昭和6年)後、官憲の弾圧などもありプロレタリア文学運動は退潮し、1933年(昭和8年)には「行動」「文藝」「文學界」等の文芸誌が創刊されるなど、文芸復興の声が高まった。こうした機運の後押しもあり、昭和8年、身辺の人たちの死をえがいた『町の踊り場』『和解』『死に親しむ』の3つの短編を発表する。川端康成が文芸時評で『町の踊り場』を「自ら悟りのありがたさが感じられる」「努力よりも怠惰の妙味であらう」「ゆゑ知らず頭の下がる」と賞賛するなど、これらの作品が好評で迎えられたことで、秋声は文学的復活を果たし、以後の充実した創作活動へと結実して行くことになる。

なお『和解』は、秋声宅の敷地内に建築したばかりのフジハウスというアパートで鏡花の実弟の泉斜汀(1880年 - 1933年)が病死したことがきっかけで、かつて長編『黴』の中の尾崎紅葉に関する表現を巡り疎遠になっていた鏡花との間に一応の和解が成立したことを書いた作品である。

その後も、『金庫小話』『一つの好み』『一茎の花』(以上1934年/昭和9年)、『彼女達の身のうへ』『チビの魂』『勲章』(以上1935年/昭和10年)など、晩年の実りを示す好短編を立て続けに発表する。昭和10年には、島崎藤村・正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立に参加した。1936年(昭和11年)4月、頸動脈中層炎で倒れ一時は生死を危ぶまれるが、7月には健康を回復して執筆を再開。同年、短編集『勲章』が第2回文芸懇話会賞を受賞。

1935年7月から1938年(昭和13年)8月まで「経済往来」に断続的に連載し完結した長編『仮装人物』は、「順子もの」の集大成であり、後期の代表作とされる(第1回菊池寛賞受賞)。1937年(昭和12年)には短編『のらもの』『戦時風景』を発表、同年6月、帝国芸術院会員になる。1938年(昭和13年)1月 - 12月には、自伝的長編『光を追うて』を「婦人之友」に連載する。1941年(昭和16年)1月発表の『喰はれた芸術』が最後の短編小説となった。

1941年(昭和16年)6月、50年にわたる秋声文学の集大成ともいうべき最後の長編『縮図』を「都新聞」に連載。しかし芸者の世界を描いていたために、 情報局から時局柄好ましくないとして発禁処分を受け、 80回で作品を中絶、その後も続きが書かれることなく、未完に終った。1942年(昭和17年)、日本文学報国会小説部会長に就任。

1943年(昭和18年)11月18日、太平洋戦争の敗色が濃くなるなか、肋膜癌により本郷区森川町(現・文京区本郷)の自宅で死去。戒名は徳本院文章秋声居士。

親族

父・徳田雲平(1818-1891)

母・タケ(1841-1916) - 父の四番目の妻。『感傷的の事』(「人間」1921年1月)で母との最後の日々を描く。

妻・はま(1881-1926) - 1902年7月より、実質的な夫婦関係。1904年3月入籍。

長男・一穂(1903-1981) - 作家。内縁の妻・柘植そよは日本橋中州の待合「新布袋」の女主人で、秋声を通じて知り合った。一穂がそよを殴打した話をもとに秋声は『浪の音』(「文芸春秋」1929年5月)を執筆。1937年12月、楢崎勤の紹介で、池尻政子と婚姻。

長女・瑞子(1905-1916) - 疫痢にて死去。瑞子の死を『犠牲者』(「中央公論」1916年9月)に描く。

次男・襄二(1908-1974) - 1941年10月、松橋リウと婚姻。

次女・喜代(1911-2006) - 仏英和高等女学校卒。1936年2月26日、作家の寺崎浩と結婚。二・二六事件当日の挙式であった。

三男・三作(1913-1931) - カリエスにて死去。

四男・雅彦(1915-2002) - 青山学院英文科卒。文藝春秋社編集者。「文學界」編集長(1940年)、「別冊文藝春秋」編集長(1948年-1952年)、のち常務取締役、専務取締役、取締相談役などを歴任。ペンクラブ会員。「絵画について造詣が深く、(中略)安井曾太郎、杉山寧、高山辰雄と続いた文藝春秋表紙絵の伝統は徳田によって築かれた」

三女・百子(1918-2003) - 戸籍上は「百々子」。白百合高等女学校卒。1943年5月、猪口氏と婚姻。

兄弟・佐藤しづ(1843-1901)、徳田直松(1855-1921)、正田順太郎(1859-1936)、太田きん(1863-1932)、依田かをり(1867-1940)、家門フデ(1879-1942)

親戚・岡栄一郎(1890-1966) - 劇作家。秋声の長兄直松の妻・小川八重の親戚筋にあたる。小笹正人(1884-1967) - 映画プロデューサー、実業家。はまの遠縁にあたる。

評価

夏目漱石は『あらくれ』について、「何処をつかまへても嘘らしくない」「徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思はせられる」と前置きした上で、「現実其儘を書いて居るが、其裏にフィロソフィがない」と評した。

小林秀雄は『仮装人物』について、「この奇妙なる恋愛小説の急所といふ様な部分を、批評家根性を出して見附けようとしてもなかなか見附からない。あらゆる処で、ひようたん鯰である」と評した。

川端康成は、1947年(昭和22年)11月、卯辰山上の秋声文学碑除幕式前夜に金沢市で行われた記念講演会で「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と述べた。また晩年の1967年(昭和42年)には、「日本の小説は西鶴から鷗外、漱石に飛んだとするよりも、西鶴から秋声に飛んだとする方が、私にはいいやうに思ふ見方である。鷗外、漱石などは未熟の時代の未発達の作家ではなかつたか」と記した。

2024/06/16 08:09更新

tokuda syuusei


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1952年2月24日生まれの有名人 神奈川出身

徳田 章(とくだ あきら、1952年〈昭和27年〉2月24日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 1970年(昭和45年)、神奈川県立茅ケ崎北陵高等学校卒業。日本大学法学部を経て1975年(昭和…

徳田 いずみ(とくだ いずみ)
1982年9月26日生まれの有名人 東京出身

徳田 いずみ(とくだ いずみ、1982年9月26日 - )は、東京都出身の女性ファッションモデル。ナウファッションエージェンシー→イデア(2009年4月より)所属。 高校時代は介護福祉士を目指して…

徳田 尚美(とくだ なおみ)
1957年5月1日生まれの有名人 福岡出身

徳田 尚美(とくだ なおみ、1957年5月1日 - )は、福岡県出身の女優。身長は161cm、バスト80cm、ウェスト63cm、ヒップ84cm、靴のサイズは23.5cm、血液型はO型である。特技は書道…

徳田 虎雄(とくだ とらお)
1938年2月17日生まれの有名人 鹿児島出身

徳田 虎雄(とくだ とらお、1938年〈昭和13年〉2月17日 - )は、日本の医師、政治家。鹿児島県徳之島町名誉町民。鹿児島県天城町名誉町民。 医療法人徳洲会理事長、衆議院議員(4期)、沖縄開発政…

徳田 雄一郎(とくだ ゆういちろう)
1981年3月9日生まれの有名人 千葉出身

3月9日生まれwiki情報なし(2024/06/16 11:25時点)

徳田 毅(とくだ たけし)
1971年5月30日生まれの有名人 鹿児島出身

德田 毅(とくだ たけし、1971年〈昭和46年〉5月30日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(3期)。医療法人徳洲会理事。国土交通大臣政務官兼復興大臣政務官(第2次安倍内閣)、自由連合代表などを…

徳田 球一(とくだ きゅういち)
1894年9月12日生まれの有名人 沖縄出身

徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月12日 - 1953年〈昭和28年〉10月14日)は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法…

徳田 八十吉 〈3代目〉(とくだ やそきち)
1933年9月14日生まれの有名人 石川出身

9月14日生まれwiki情報なし(2024/06/16 11:26時点)

徳田 敦子(とくだ あつこ)
1955年9月15日生まれの有名人 大阪出身

徳田 敦子(とくだ あつこ、1955年〈昭和30年〉9月15日 - )は、大阪府出身のバドミントン選手。本名:津谷 敦子。 四條畷学園中学校・高等学校卒業、四條畷学園短期大学卒業。卒業後はサントリ…

徳田 敏夫(とくだ としお)
1925年9月18日生まれの有名人 兵庫出身

9月18日生まれwiki情報なし(2024/06/16 09:32時点)

徳田 與吉郎(とくだ よきちろう)
1906年11月5日生まれの有名人 石川出身

徳田 與吉郎(与吉郎、とくだ よきちろう、1906年(明治39年)11月15日 - 1995年(平成7年)11月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県金沢市長。 石川県石川郡比楽島…

徳田ザウルス(とくだ ざうるす)
1958年12月1日生まれの有名人 神奈川出身

徳田 ザウルス(とくだ ザウルス、本名: 徳田 肇(とくだ はじめ)、1958年12月1日 - 2006年3月23日)は、日本の漫画家、3DCGイラストレーター。神奈川県横浜市出身。J-Mac理事。 …

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徳田秋声
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