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石川達三の情報 (いしかわたつぞう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

石川達三の情報(いしかわたつぞう) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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石川 達三さんについて調べます

■名前・氏名
石川 達三
(読み:いしかわ たつぞう)
■職業
作家
■石川達三の誕生日・生年月日
1905年7月2日
巳年(へび年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
秋田出身

石川達三と同じ1905年生まれの有名人・芸能人

石川達三と同じ7月2日生まれの有名人・芸能人

石川達三と同じ出身地秋田県生まれの有名人・芸能人


石川達三と関係のある人

佐々木茂索: ^ 第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日


丹羽文雄: また、やはりシングル・プレイヤーであった石川達三の二人が、「文壇ではずば抜けている」と言われた。


太宰治: 8月10日 - 第1回芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まる。


佐藤義美: 一年後輩の石川達三、新庄嘉章、金子みすゞ、島田忠らと同人雑誌『曼珠沙華』を創刊。


芹沢光治良: ただ、日本ペンクラブ会長時代の1970年に伊藤整と石川達三を候補者に推薦したことが確認されている。


古井由吉: ことに古井は「朦朧派」(石川達三)や「退屈の美学」(後年の江藤淳による批判)との揶揄も受けたが、他方で秋山駿や柄谷行人らには擁護された。


新藤兼人: 傷だらけの山河(1964年4月4日公開、山本薩夫監督、大映)※原作:石川達三 - キネマ旬報ベストテン7位


早瀬圭一: 石川達三『七人の敵が居た』も担当した。


湯山勇: 1958年に鳩山一郎に教育委員任命制について質問したことは石川達三『人間の壁』で取り上げられている。


田村泰次郎: 同会には、藤山愛一郎や石川達三もいた。


佐藤春夫: 芥川賞創設初年度の芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まり、太宰治のデビュー作『逆行』は次席となった。


太宰治: 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。


澤村春子: 『蒼氓』 : 監督熊谷久虎、原作石川達三、日活多摩川撮影所、1937年


高田博厚: 1962年(昭和37年)理事の石川達三、池島信平の推薦により日本ペンクラブ会員になる。


山本薩夫: 1969年に長編記録映画『ベトナム』を製作した後は、日本の大陸への進出の歴史を描いた『戦争と人間』三部作を監督し、金融界の内幕を暴いた『華麗なる一族』を始めとする一連の山崎豊子作品や、構造汚職を摘発した石川達三原作の『金環蝕』、自衛隊のクーデターを描く『皇帝のいない八月』などの社会作を連続して監督した。


八木保太郎: 人間の壁 1959年 監督山本薩夫、原作石川達三、撮影前田実、主演香川京子、宇野重吉


立原友香: 趣味:読書 石川達三・三島由紀夫のファン。


原田泰夫: 1971年(昭和46年)には、14期ぶりに48歳でA級に復帰して、石川達三の同名小説に準え「四十八歳の抵抗」といわれ話題になった(自分から「四十八歳の抵抗」と述べたという説もあり)。


今井正: 陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』などと作品が続くが、いずれも成功作とはいえなかった。


藤本真澄: 1940年助監督となるが、関連会社の南旺映画に出向して撮った1941年の『結婚の生態』(原作石川達三、監督今井正、主演原節子)を初プロデュースして製作に転じた。


林房雄: 日中戦争(日支事変・支那事変)への作家の従軍に参加(このほか、吉川英治、吉屋信子、尾崎士郎、岸田国士、石川達三らが従軍)


中城ふみ子: ふみ子は新墾の主催者である小田観螢に頼むのが筋なのだけどと言いながら、本当は石川達三か井上靖に頼みたいと漏らしたと伝えられている。石川達三も井上靖も全くつてはない。


鍋島直紹: 財政再建計画に基づく教職員の削減を巡り、佐賀県教職員組合との激しい抗争劇(佐教組事件)が展開され、のちに石川達三の小説『人間の壁』の題材となった。


木村威夫: 『自分の穴の中で』(1955年、内田吐夢監督、八木保太郎脚本、石川達三原作、芥川也寸志音楽)


木村威夫: 『神阪四郎の犯罪』(1956年、久松静児監督、高岩肇脚本、石川達三原作、姫田真佐久撮影、伊福部昭音楽)


京都伸夫: 惹かれるのは石川達三著『洒落た関係』の女医小柳春子。


嶋中雄作: 石川達三の『生きてゐる兵隊』の掲載が刑事事件として有罪となり、谷崎の連載『細雪』を2回で中断されるなど、軍部から弾圧を受け、1944年7月、解散命令を受けた。


安岡章太郎: 石川達三は「感覚だけの作品」「それ以上のものが私には解らない」「私はちっとも新しいとは思わない」などと反対した。


嶋中雄作: 石川達三が書いた「風にそよぐ葦」の主人公の出版社社長は嶋中をモデルにしている。


佐分利信: やがて俳優の傍ら監督業に進出し、1950年(昭和25年)に石川達三原作の『女性対男性』を監督第1作として発表、続けて『執行猶予』『あゝ青春』『風雪二十年』『慟哭』を監督する。


石川達三の情報まとめ

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石川 達三(いしかわ たつぞう)さんの誕生日は1905年7月2日です。秋田出身の作家のようです。

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作風、逸話などについてまとめました。結婚、兄弟、再婚、卒業、家族、事件、病気、趣味に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

石川達三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。

秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)。父祐助は南部藩祐筆を務めた儀平の四男で秋田県立横手中学校の英語科教員、母ウンは仙北郡角館町の素封家栗原氏の出身だった。父方の伯父に石川伍一がいる。

父の転勤や転職に伴って、2歳の時(1908年)秋田市楢山本新町上丁35番地に、7歳の時(1912年)東京府荏原郡大井町(現東京都品川区)に、同年9月岡山県上房郡高梁町(現高梁市)に移った。1914年、9歳で母を亡くし、東京の叔父石川六郎の家に預けられたが、1915年に父が再婚し、後妻せいに育てられる。小学校を首席で卒業し、東京府立一中を受験したが不合格で、高等小学校に1年通学し、1919年父が教頭をしていた岡山県立高梁中学校に入学。3年の時、父の転任に伴い、岡山市私立関西中学校4年に編入し卒業、第六高等学校を受験するも不合格。1年間の受験生活の間に、島崎藤村、ゾラ、アナトール・フランスなどの作品を読む。1925年、上京し早稲田大学第二高等学院に入学、級友間の同人誌『薔薇盗人』に小説を書いたり、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に応募したり、『山陽新報』に持ち込んだりする。1926年には『山陽新報』に「寂しかったイエスの死」が掲載され、これが活字になった最初の作品となった。この頃経済的に行き詰り、学業を断念してフィリピンか満洲に縁故を頼って渡ろうとしていたところ、同年『大阪朝日新聞』に「幸福」(原題「幸不幸」)が当選し200円の賞金が入ったので、1927年早稲田大学文学部英文科に進むも、学資が続かず1年で中退。国民時論社に就職し、電気業界誌『国民時論』の編集に携わる。生活上の基盤を得て、いよいよ小説家になる志を高め、各社に創作を持ち込むも上手くいかなかった。

1930年3月、政府補助単独移民として移民船でブラジルに渡航。これは、移民取扱会社南洋興業に兄の友人が勤めていた縁によるもので、本来は夫婦や家族持ちでなければ渡航できないところ特別に許可を得た。渡航に際して石川は、旅費の足しを得るために、帰国後「体験記」のようなものを書く約束で国民持論社を一旦退職した形をとり退職金600円を手にした。米良功所有のサント・アントニオ農場に約1か月、のち「上地旅館」に止宿、日本人農場に滞在し、8月に帰国。国民時論社に復職。1931年6月『新早稲田文学』の同人となり、幾つかの短篇を発表した。その後、国民時論社を再度退職し、嘱託として働く。

1935年4月、ブラジルの農場での体験を元に、移民を余儀なくされた人々の惨めさを描いた「蒼氓」を同人誌『星座』創刊号に発表。これが素材の新しさとリアリズムの本流をゆく堅実な手法とで選考委員に認められ、8月第1回芥川龍之介賞に当選。新聞には「無名作家」と報じられた。 10月には改造社より『蒼氓』が刊行された。次いで、水道用貯水池建設のために湖底に沈む小河内村を取材し、1937年9月「日蔭の村」を『新潮』に発表(10月新潮社刊)。「調べた芸術」として文壇に話題を呼び、ルポルタージュ的手法を用いた一種の社会小説として評価された。この間の1936年11月には梶原代志子と結婚し、翌年8月には長女希衣子が誕生している。1937年12月、中央公論の特派員として、日中戦争の戦場中支方面に出発。南京事件から数週間後の南京に翌年1月まで滞在し、他に上海周辺を歩いた。この時の見聞をもとにして、『中央公論』1938年3月号に「生きてゐる兵隊」を発表。しかし、同号は新聞紙法41条違反容疑で即日発禁処分となり、石川は起訴され、禁錮4か月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。戦前の日本文学史に残る筆禍事件となった。その挫折感から家庭内部に主題を限定、恋愛と結婚の理想を求めた『結婚の生態』(1938年)がベストセラーとなり、『智慧の青草』(1939年11月新潮社刊)『転落の詩集』(1940年同社刊)『三代の矜持』(1940年三笠書房刊)など、女性ものと名付けられる一系列を拓いて、人気作家の座を確実なものとした。『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』連載の『母系家族』以降は新聞小説に進出。1942年5月に、南洋諸島を旅行し、東南アジアを取材、『赤虫島日誌』(1943年5月)などを発表。同年12月、太平洋戦争が開戦すると間もなく海軍報道班員として徴用され、サイゴンに派遣された。なお、1939年7月には次女希和子が、1943年9月には長男旺が誕生しており、1944年9月には父祐助が死去。同年1月には東京都世田谷区奥沢町に新築移転し、本籍を毛馬内から移した。

戦後も新聞小説を中心に活躍。極めて幅のある社会感覚を盛り込み、時代風潮を鋭敏に反映させた作品で、獅子文六、石坂洋次郎らと共に全盛期の新聞小説の筆頭に挙げられる人気を博し、またその作風と時に新奇な手法を用いることで異端児とも目された。戦中からの女性ものは、風俗小説と結びつき、失業軍人を中心に世相を諷刺した「望みなきに非ず」は、1947年7月『読売新聞』に連載されて評判を呼んだ。以後も、女の幸せを追及した『幸福の限界』(1948年中京新聞他連載)、美しい夫婦愛を描く『泥にまみれて』(1949年新潮社刊)、新旧世代の悲喜劇『青色革命』(1952-53年毎日新聞連載)、現代人の絶望と破滅を描いた『悪の愉しさ』(1953年読売新聞連載)、エゴイストたちの醜さを描いた『自分の穴の中で』(1954-55年朝日新聞連載)、中年男の浮気を扱った『四十八歳の抵抗』(1956年読売新聞連載)、現代人の充実した生を追求した『充たされた生活』(1961年新潮社刊)、結婚の意義を扱った『僕たちの失敗』(1961年読売新聞連載)、愛情のあり方を描いた『稚くて愛を知らず』(1964年中央公論社刊)、エゴイズムの悲劇を描いた『青春の蹉跌』(1968年毎日新聞連載)など、社会における個人の生活、愛、結婚、生き方などテーマにした話題作を次々と発表。長きに渡って人気を保ち、『望みなきに非ず』『風にそよぐ葦』『四十八歳の抵抗』『青春の蹉跌』など書名の幾つかはそのまま流行語にもなった。

他方で、「調べた芸術」の手法を駆使して社会小説の大作にも取り組み、その本領を発揮。やや通俗的な嫌いはあるが、社会的正義感とヒューマニズムに立脚した作品は、記録的手法と相まって多くの読者を獲得、大きな反響を呼んだ。特に、横浜事件を材に戦中戦後の自由主義者の受難を描いた『風にそよぐ葦』(1949-51年毎日新聞連載)や、佐教組事件を材に政治と教育の確執を描いて大ベストセラーとなった『人間の壁』(1957-59年朝日新聞連載)などは社会小説の名作として高く評価され、著者の代表作となった。資本家の横暴を描いた『傷だらけの山河』(1964年新潮社刊)や、九頭竜川ダム汚職事件を材に政界の腐敗を告発した『金環蝕』(1966年同社刊)も話題を呼んだ。これらの成果により、1969年菊池寛賞を受賞。毎日新聞社が毎年実施する読書世論調査では、戦後から1970年代末まで「好きな著者」の上位常連であった。

他にも純文学系統の裁判物『神坂四郎の犯罪』(1949年新潮社刊)や、冒険的な作品『最後の共和国』(1952年中央公論社刊)などがあり、ここにも石川ならではの資質と社会性が鮮やかに表出されている。また、『私ひとりの私』(1965年文藝春秋新社刊)は60年の生涯を振り返って、母への愛情や無責任な父への批判、功利的な叔父夫婦の姿などを通して、自己の幼少期を回想した作品だが、同時にそこには石川固有の人生観が示されており、その与えた感動によって文藝春秋読者賞を受けた。『約束された世界』(1967年新潮社刊)や、それを深化させた『解放された世界』(1971年同社刊)『その最後の世界』(1974年同社刊)などは、石川文学の新しい展開として話題を呼んだ。

昭和30年代頃からは、社会的活動が活発となり、日本文芸家協会理事長(1952年-56年)、A・A作家会議東京大会団長(1961年)、日本文芸著作権保護同盟会長、日本ペンクラブ第7代会長(1975年-77年)などの要職を歴任。大衆の支持を背景に社会的発言も増え、その内容はしばしば論壇・文壇に論議をもたらした。1956年アジア連帯文化使節団団長として世界各国を歴訪した後には、資本主義社会の過剰な「自由」を批判。翌年には川崎長太郎や谷崎潤一郎らの作品を猥褻だとして行き過ぎた言論の自由を非難した。1975年の日本ペンクラブ会長就任時には、「言論の自由には絶対に譲れぬ自由と、譲歩できる自由の二種類あり、ポルノなどは後者に属する」という「二つの自由」発言が波紋を呼び、五木寛之理事ら改革派の若手会員からは抗議を受けた。特に野坂昭如理事とは白熱の論争をして一歩も譲らず、ペンクラブは翌年まで混乱が続いた。結局、役員会の裁断で石川は事実上の撤回を迫られ、混乱は一旦収拾したが、石川は会長再任を辞退。だが後任が決まらず、突如ペンクラブを退会し会長を退いた。奥野健男は「晩年は社会良識を代表するという立場が逆にガンコとも受け取られたようだ」と石川を評している。

1983年頃から心臓を悪くするなど晩年は病気がちであった。1985年1月21日、持病の胃潰瘍が悪化して吐血し東京共済病院に搬送され、その後肺炎を併発。31日死去した。墓は九品仏浄真寺にある。

作風

英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。そして中野は石川が大正期に自由主義者として自己を形成し、軍国主義への抵抗を秘めていたとも考えている。

石川は多読をせず、先輩作家に師事して、その推薦によって文壇に出るという道を採らなかった。志賀直哉・宇野浩二・徳田秋声のような私小説には最初からはっきり異質感をもったという。多少とも影響を受けた作家として、アナトール・フランスとエミール・ゾラをあげている。松本清張と山崎豊子が対談の中で論じているようなストーリー構成力の豊富さという点は、この二人の外国作家に学んだとも考えられる。日本で系譜のようなものを求めるとすれば、菊池寛・山本有三・島木健作のようないわゆる社会派作家に近い。

戦後になって評論家の岩上順一から問題作『生きている兵隊』について「反戦文学ではなく、侵略戦争の本質をおおい隠している」と批判され、石川は「日華事変の本質は理解できなかった」と認めた上で、戦場における戦争のみ小説に再現しようとしただけで、「どこの戦場にも侵略戦争の本質などはころがっていなかった」と居直っている。

逸話

野間文芸賞や菊池寛賞など幾つかの文学賞の選考委員を務め、芥川賞は戦後第1回目から就任したが、1971年上半期第65回(受賞作なし)に際して「候補作八篇のうち五篇までは、何を書こうとしているのか、何が言いたいのか、少しもはっきりしない。」「小説がノイローゼによって書かれるような傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつれて、もはや私が芥川賞の選に当るべき時期は過ぎたと思った。」「年齢的にはずれがあるけれど、せめて私にも解らせる程度の小説を書かなくては、一般読者にまともに理解されるはずはない」などと述べて選考委員を辞任。新人世代の創作を問題視した。この若い人たちの作品がわからなくなったという発言は話題となり、論議をもたらした。

趣味はゴルフ。丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。

「竹林会」という日曜画家クラブのリーダーであり、風景画などを描いた。

石川にとって題名は「作品全体の性格を象徴するもの」であり、題名が決まらないと小説が書き始められないという癖をもっていた。

戦後の1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙に東京2区で、日本民党(にほんたみのとう)公認候補として立候補するが、立候補者133名のうち、定数12名の22位にあたる24,101票で落選。

婦人参政権不要論を唱えたこともあり、長谷川町子の『いじわるばあさん』でネタとして取り上げられた。主人公・いじわるばあさんが執筆活動を妨害するが、達三ではなく、間違えて松本清張の執筆を妨害するというオチであった。

昭和20年10月2日付の毎日新聞に、「闇黒時代は去れり」という文章を投稿し、「日本人に対し極度の不信と憎悪を感ず」「今の日本人の根性を叩き直すためにマッカーサー将軍よ一日も長く日本に君臨せられんことを請う」と書いた。当時これを読んだ山田風太郎は、その態度の豹変ぶりと議論の浅薄を憤慨し、日記に残している。

明治38年生まれが交流する「三八会」に参加していた。メンバーは石川の他に、伊藤整、中山正善、稲生平八(森永重役)、入江相政、玉川一郎、木村義雄、高木健夫、志村喬、福田久雄、福田蘭堂、藤原釜足、馬淵威雄、成瀬正勝、鹿島孝二ら。

1970年のノーベル文学賞選定過程で、石川が候補の一人として推薦されていたことが2021年に明らかになった。なお、同年では伊藤整もリストアップされていた。推薦者はいずれも芹沢光治良(当時日本ペンクラブ会長)である。

2024/06/17 03:24更新

ishikawa tatsuzou


石川達三と同じ誕生日7月2日生まれ、同じ秋田出身の人

高橋 功一(たかはし こういち)
1971年7月2日生まれの有名人 秋田出身

7月2日生まれwiki情報なし(2024/06/11 11:19時点)


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