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埴谷雄高の情報 (はにやゆたか)
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【6月16日】今日誕生日の芸能人・有名人

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埴谷 雄高さんについて調べます

■名前・氏名
埴谷 雄高
(読み:はにや ゆたか)
■職業
評論家
■埴谷雄高の誕生日・生年月日
1909年12月19日
酉年(とり年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
旧 台湾出身

埴谷雄高と同じ1909年生まれの有名人・芸能人

埴谷雄高と同じ12月19日生まれの有名人・芸能人

埴谷雄高と同じ出身地旧 台湾生まれの有名人・芸能人


埴谷雄高と関係のある人

山室静: 1982年に自宅から失火、蔵書5000冊、原稿2000枚などが焼失し、一時は北欧神話研究から断念しようとするが、埴谷雄高や本多秋五らが中心になって「山室夫妻を励ます会」主催するなど、周囲の励ましを受けて復帰する。


江藤淳: 1977年、『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で「武田(泰淳)さんの物心両面の継続投資」が「埴谷雄高さんをいままでサーヴァイヴさせ」たと発言して埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した。


寒川光太郎: 高円寺で経営していた古書店を家人に委ねて創作活動を続け(その古書店には埴谷雄高が通っていた)、同人誌「創作」創刊号に発表した『密猟者』で、1940年に芥川賞を受賞。


矢川澄子: 矢川が出奔するにあたっては、埴谷雄高の唆しがあったらしいと高橋は記している。


小川国夫: 5. (第3信)未知のビィジョン 埴谷雄高


小川国夫: 19. 対話を終えて 埴谷雄高


樋口覚: 『近代日本語表出論 天皇の「人間宣言」から埴谷雄高の「死」まで』(1997年8月、五柳書院)


吉本隆明: 『意識革命宇宙 埴谷雄高対談吉本隆明』埴谷雄高と 河出書房新社 1975.10


瀧口修造: (略)「虚」に向かって、と言ったが、埴谷雄高のドストエフスキー的な「虚」ではなく、ゲルマン的な「虚」でもなく、やはりラテン的な「虚」であり、わたしはつめたい富山の日本海の流れをも想起するのである」と書いている。


樋口覚: 『生老病死』(埴谷雄高対談、1994年12月、三輪書店)


坂口安吾: 飲みに行くこともままならなかった戦争中には、平野謙、荒正人、檀一雄、埴谷雄高らと大井広介邸に集まり、犯人あてのゲームに興じていたが、推理に一番熱心であったが一番当らなかったという。


小川国夫: 3. (第2信)夢想と想像力 埴谷雄高


佐々木基一: 東大卒業後文部省社会教育局、日伊協会に勤務の傍ら、戦前は『現代文学』同人、戦後、荒、埴谷雄高、小田切秀雄、本多秋五、平野謙、山室静と『近代文学』を創刊。


立石伯: 『極限の夢に憑かれたものの究極 ドストエフスキイと埴谷雄高の夢と小説について』深夜叢書社、2004年。


荒正人: 戦後、埴谷雄高・平野謙・佐々木基一・本多秋五・山室静らと『近代文学』を創刊。


小川国夫: 1. (第1信)永生と永死 埴谷雄高


小川国夫: 13. (第7信)非在とのっぺらぼう 埴谷雄高


三島由紀夫: 同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。


小川国夫: 15. (第8信)出現の未出現と私 埴谷雄高


吉本隆明: 有名なところでは、戦後最大の文学論争とさえ形容される花田清輝との論争、また、盟友だった作家で評論家の埴谷雄高などとの1980年代の論争では激烈な言葉の応酬が続いた。


谷山豊: 愛読書は、アントン・チェーホフの作品や『死靈』(埴谷雄高)。


高取英: 『標的者 薔薇、屈辱、自同律』埴谷雄高作、高取英脚色、松田政男構成(深夜叢書社、1998年)


吉本隆明: 『民主主義の神話 安保闘争の思想的総括』谷川雁、埴谷雄高、森本和夫、梅本克己、黒田寛一と 現代思潮社 1960


梶井基次郎: 梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鷗外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。


柘植光彦: 主な研究対象は、埴谷雄高、安部公房、福永武彦、三島由紀夫、島尾敏雄、吉行淳之介、井上光晴、三枝和子、大江健三郎、筒井康隆、井上ひさし、村上春樹、よしもとばなな、小川洋子など多数。


佐村河内守: 「埴谷雄高の『死霊』とかは結構音楽にしています。


岡本太郎: 1948年(昭和23年) 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。


安部公房: この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った。


小川国夫: 17. (第9信)無出現者の永劫夢 埴谷雄高


島尾敏雄: ちなみに相馬郡小高町を故郷に持つ作家には埴谷雄高(本名・般若豊)がおり、のちに同郷の奇遇を埴谷と驚き合うことになる。


埴谷雄高の情報まとめ

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埴谷 雄高(はにや ゆたか)さんの誕生日は1909年12月19日です。旧 台湾出身の評論家のようです。

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経歴、評価などについてまとめました。卒業、事件に関する情報もありますね。

埴谷雄高のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年(明治42年)12月19日 - 1997年(平成9年)2月19日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名は般若 豊(はんにゃ ゆたか)。

共産党に入党し、検挙された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』(1946年~未完)、『虚空』(1960年)などがある。

台湾の新竹に生まれる。子供の頃から身体が弱く、常に死を身近に感じていたという。子供心に台湾において「支配者としての日本人」を強く意識し、罪悪感を覚えていた。

青年期に思想家マックス・シュティルナーの主著『唯一者とその所有』の影響を受け、個人主義的アナキズムに強いシンパシーを抱きつつ、ウラジーミル・レーニンの著作『国家と革命』に述べられた国家の消滅に一縷の望みを託し、マルクス主義に接近、日本共産党に入党し、もっぱら地下活動(農民団体「全農全会派」のオルグ活動)に従事し、思想犯取り締まりのため、1932年に逮捕された。検挙後、埴谷は未決囚として豊多摩刑務所に収監され、形式的な転向によって釈放された。

獄中ではカント、ドストエフスキーから圧倒的な影響を受けたという(ロシア文学については早くから影響を受け思索を強めていたものの、この時期を経てドストエフスキーを第一に挙げるようになり、実際に多くのドストエフスキー論を著している)。出獄後は経済雑誌の編集に携わり、敗戦を迎えた。元マルクス主義者、主義からの転向者と呼ばれることが多いが、シュティルナーの「創造的虚無」を自己の思考の根底に据えることは、終生変わることがなかった。

代表作は、存在の秘密や大宇宙について語りつくさんとし、第一章が『近代文学』創刊号(昭和20年12月30日付)に掲載された大長篇小説『死靈(しれい)』。全12章予定で未完作となったが幾度かの空白を挟み書き続け、死の直前まで第9章までを書き継いだ。ほぼ全編を、物語でなく観念的議論によって進行する世界文学史においても未曾有の形而上学的思弁小説であり、この一作で比類ない評価を受けた。他に埴谷自身が決定的な影響を受けたドストエフスキー論が著名。

埴谷の没した日には、有志によって「アンドロメダ忌」という記念会が催されている。

経歴

1909年(明治42年)12月19日(戸籍上は1910年(明治43年)1月1日)、台湾の新竹に生まれる。本籍は福島県相馬郡小高町 (現・南相馬市 )。父三郎の実家・般若家は代々奥州相馬氏に仕え、磐城国相馬中村藩士(剣道指南役)として明治維新を迎えた。三郎は税務官吏として台湾に渡り、後台湾精糖株式会社に勤務した。母方の曽祖父は薩摩藩の陽明学者の伊東猛右衛門。父の転勤に伴い、幼少期を屏東で過ごす。

1923年(大正12年)、東京に引っ越す。

1927年(昭和2年)3月、目白中学卒業。浦和高等学校 (旧制)の受験に失敗。

1928年(昭和3年)、日本大学予科に編入学。

1930年(昭和5年)、日本大学を退学。

1931年(昭和6年)、日本共産党に入党。5月、逮捕を逃れて地下生活に入る。

1932年(昭和7年)3月、小石川原町の同志宅を訪ねたところ、張り込みの警官に逮捕される。50日余りを警視庁富坂署の留置場で過ごした後、5月に不敬罪および治安維持法違反によって起訴され、五・一五事件の日に豊多摩刑務所の拘置区へ移管され、未決囚として過ごす。独房でカントの『純粋理性批判』を読み、終生影響される。

1933年(昭和8年)、結核により病監へ移される。2月、「天皇制を認めるならマルクス主義を奉じてもよい」と検察から説得され、転向の上申書を提出し、11月、懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けて出所。上申書の内容は宇宙論であり、「太陽系の中で地球は最初に滅亡する。天皇制はそれ以前に滅亡するが、かなり長く続く」といったものだった(『無限の相のもとに』p.195)。

1941年(昭和16年)12月9日、予防拘禁法により特高に拘引され、年末まで豊多摩刑務所の予防拘禁所に拘留される。

1942年(昭和17年)、『ダニューブ』を翻訳。

1943年(昭和18年)、『偉大なる憤怒の書』を翻訳。

1946年(昭和21年)、山室静・平野謙・本多秋五・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄とともに雑誌『近代文学』を創刊。畢生の大作『死靈』を連載開始。

1950年(昭和25年)、『不合理ゆえに吾信ず』を刊行。この年腸結核を患い、4年間の療養生活を送る。

1962年(昭和37年)、松田政男、山口健二、川仁宏らがを企画した自立学校において、谷川雁、吉本隆明、黒田寛一らとともに講師をつとめた。

1970年(昭和45年)、『闇のなかの黒い馬』を刊行。同作で、第6回谷崎潤一郎賞を受賞。

1971年(昭和46年)、『埴谷雄高作品集』を刊行。

1975年(昭和50年)、26年ぶりに『死靈』の第五章を発表。

1976年(昭和51年)、『死靈』全五章で日本文学大賞を受賞。

1981年(昭和56年)、『死靈』の第六章を発表。

1984年(昭和59年)、『死靈』の第七章を発表。

1986年(昭和61年)、『死靈』の第八章を発表。

1990年(平成2年)、これまでの業績により、藤村記念歴程賞を受賞。

1995年(平成7年)、『死靈』の第九章を発表。

1997年(平成9年)2月19日、脳梗塞のため吉祥寺の自宅で逝去。青山墓地(1イ4-6甲)に葬られる。埴谷雄高忌は「アンドロメダ忌」と称されている。

1998年(平成10年) 『埴谷雄高全集』刊行開始(‐2001年)。

評価

立石伯、柘植光彦、白川正芳、川西政明、鹿島徹らの作家研究がある。

埴谷を尊敬する著名な支持者に、北杜夫、鶴見俊輔、立花隆がいた。立花は著書で、60年安保世代の大学生にとって埴谷は神様のような存在だったと述懐しており、そのため初対面時には非常に緊張したとのことである。鶴見は埴谷の没後に作家論を著した。

埴谷は、新人作家の発見や紹介推薦に優れた力を発揮したことで知られる。無名時代の安部公房の才能を、石川淳とともに見出して文壇に推したのは埴谷である。それ以外にも、高橋和巳、辻邦生、倉橋由美子、北杜夫、加賀乙彦などの新人作家の才能を発見して育成している。

一般的には批評や創作自体の評価よりも(そもそも創作自体が非常に寡作であるが)「『死靈』の作者」との認識が強く、また実際に『死靈』自体の評価は非常に高いのだが、それ以外は今日あまり顧みられていないのが現状である。しかし往時は新左翼系の読者までも多く抱え、独自の視点から(例えば鶴見俊輔は埴谷を「国家の形と見あう一定の型」からはずれている、と評した)の提言に対する評価は高かった。

三島由紀夫は「埴谷雄高氏は戦後の日本の夜を完全に支配した」と、埴谷の文学に賛辞をおくっている。

蓮實重彦は、「学生運動ほか」をめぐる座談で、埴谷について結局のところ人間関係しか残らない程度の作業しかしておらず、「なにが偉いのかまったくわからない」と埴谷を断じた。なおこの座談の参加者であった上野昻志・スガ秀実もおおむね蓮實の批判に同意している。これに対して立花隆は、埴谷に対する評価のヒドさを批判するとともに、蓮實が鶴見俊輔をバカ扱いしていることも、同時に批判した。

江藤淳は、埴谷の「死霊」を、「読んでいてところどころ眠くなる作品」として、埴谷の存在を「昭和10年代左翼の延長」としてとらえるべきだ、と否定的見解を示している。

柄谷行人は、埴谷の思考の徹底性を認めつつも、全体的には埴谷の存在に批判的な論考を多く記している。

全共闘から右派リバタリアンに転向した笠井潔は、埴谷についてカントの影響を受けたと自称しているが実際は埴谷は獄中で徹底したヘーゲル主義者に転じたと考えられるとしている。埴谷の思考スタイルは、20世紀的現実の制約を受けていないぶん、「マルクス主義よりさらに危険なもの」であると笠井はいう。 

吉本隆明は、埴谷の文学作品と政治理論の双方を非常に高く評価し、「死霊」第五章を、「死というものを瞬間的にでなく、段階的・思索的にとらえた日本近代文学史上はじめての作品」とし、またその政治理論についても「革命家は行動を起こさなければいけないという観念論ではなく、未来のビジョンを示せばよいということを示したコペルニクス的回転である」とした。しかし、吉本・埴谷の両者は、1980年代に関係が断絶してしまう。吉本は、大江健三郎・中野孝次・晩年の埴谷雄高など左翼はずっと「戦争はダメ」「自分たちは平和主義者」と主張してきたが、それは「戦争自体がダメ」という観点とはまるで違い、そのことでいえば大江・中野・埴谷は全て落第と評価している。大江・中野・埴谷がやった反核運動で主張したことは、アメリカの核はダメだが、ソ連の核はオーケーだという考え方だという。大江・中野・埴谷は「戦争はダメ」「平和を守れ」と主張するが、戦争になれば、それまでの主張は忘れて、戦争を革命の絶好の好機と考え方を変えるに決まっている、と評している。しかし、埴谷の死後の『群像』の追悼特集で、吉本は埴谷を、日本史上稀有の文学者であり思想家であったと追悼している。

池田晶子は埴谷の作品の哲学的センスを哲学専門家の立場から大きく認めている。

2024/06/07 21:13更新

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